Neetel Inside ニートノベル
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恋セヨ苦労人
第壱話「シュレディンガーの猫」

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皆さんは、カナダの心理学者による「吊り橋理論」という都合の良い学説を知っているだろうか。吊り橋という命の危機にさらされた場所で、興奮した脳が恋の興奮と勘違いしてしまうという内容だ。もっと掘り下げて例を言えば、パニック映画の最後に生き残った男女やスキー場でのゲレンデマジック、修学旅行でのカップル誕生などなど、一時の感情を恋愛にこじつけた馬鹿者共の末路はなんだ。破局ではないか!私は、そんな惨めで不毛な恋愛は止めろと常日頃から説いてきたはずなのに、断固たる意思が今まさに砕けそうなのであった。

電気も付けず、私は落ち着きのない足取りで部屋中くまなく歩き回っていた。幼少の頃から考え事をすると歩き回る癖が未だに抜けないのである。時には、カーテンから漏れる月光に誘われて月を見上げてみたり、隣から聞こえてくる隣人さんの鼻歌リサイタルを聞いたり、机の下に忍ばせている桃色雑誌を広げてはニヤリと笑ってみたりと、完全に落ち着きを無くした私は、大の字になって布団の上へ寝そべった。ふざけたお遊び部には「敵」しか居ないと腹を立てていたはずなのに、今は新入生歓迎会の晩に出会った後輩の女の子とにゃんにゃんする妄想ばかりが膨らむのである。吊り橋理論であるなら、そうであって欲しい。一時の感情に流されてしまったのなら反省しよう。だから、どうかこの息苦しさから解放して欲しいのだ。


あれから数日後、私は部室に足を運んだ。勘違いしてもらわないように言っておくが、決して後輩の女の子に会いたいとか、名前を知りたいとか、卑猥な気持ちで来たわけではないという事だ。私は躊躇いもなく写真同窓会部員の名簿をペらぺらと捲り彼女を探した。しかし、苗字も名前も知らないというのに、名簿を見たって見つかる訳もなく、結局分からないまま授業を受けに講義室へと向かった。とんだ無駄足だったと心の中で呟いた。

退屈な授業を終え、少しでも彼女に会えるよう、名前を聞けるよう、そして会話が出来るようにと、自分の中で口実を作っては校舎内をグルグル回っていた。私は、華奢で素朴な化粧っけのない可憐なあの子と親しくなって青春三昧な日々を送ろうと、マショマロのようにフワフワした淡い期待を抱きながら無意味な捜索を続けたが、見つかる気配も臭いもしない。神様のイタズラという迷信深き都市伝説に祈ってみては、ただ単に虚しい自分に気付かれされるばかりであった。少しでも気を紛らわすために必死で「これは試練だ」と心の中で呟いた。

世間は案外狭いものだと誰かが言っていたが全くの嘘っぱちである。校舎は思っていたより広く、長細い廊下が城のように連なっており、初めて来たら百発百中で迷う事だろう。私は腕を組みながら、歩調が速くなっていくのを感じた。その姿はさながら競歩のよう。それから数十分、足が痺れてくればくるほど莫迦莫迦しく思い、自動販売機コーナーのベンチに腰をかけた。もう帰ろうと考えていた最中、私にもついに運が回ってきたのだ。なんと、彼女のか細い声が隣から聞こえてきたのである。

「あ、副部長さんじゃないですか」

人間の反応速度とは思えないほどのスピードで、振り向いた。そこには華奢で素朴な化粧っけのない可憐な後輩が立っているではないか。私は興奮しすぎてヘリウムを吸ったようなヘッポコ声で言った。

「大学には慣れましたか?」
「それが全くなのですよ」

彼女は私の隣に腰をかけてふっと笑った。その笑顔に私は思わず呼吸をするのを忘れてしまい、慌てて深呼吸をしながら、ありとあらゆる感情を沈め悟った。彼女の笑顔はあの有名なモナリザの微笑を超える程の神々しさと初々しさを兼ね備えた至宝なのだと。私はロボットのよなギクギクした手つきで財布を取り出しながら、「先輩の嗜みとして何か奢ってあげましょう」と言うと、嬉しそうにお汁粉を注文した。

「私、お汁粉大好きなんです。副部長さんはお好きですか?」
「そりゃあもちろんです。一年中お汁粉を飲み続けても平気なぐらい好きですよ」
「それはなんということでしょう!副部長さんもオシラーでしたか!」
「ええ、実はおし―・・・おしらーとは何です?」

彼女曰く、オシラーとはお汁粉が大好きすぎて生きるのが辛くなった人の為の可愛らしい愛称だと言う。マヨラーやケチャラーに通じる新しい味覚革命の新境地がオシラー。ちょっと喉が渇いたときはお汁粉を飲み、スポーツで疲れ切った体に糖分を与えるのにもお汁粉を飲む、またお風呂上がりの一杯にもお汁粉が大活躍するのだと彼女は熱弁をした。話の内容はともかく女の子が必死に喋っている姿は魅力的であると、ひしひし感じたのであった。こうして私は、彼女とお汁粉友達になった。

彼女はこの後バイトがあると言ったので、お汁粉講義はお開きとなった。
私は至福の余韻に浸りながら、自動販売機でお汁粉を買い一気に飲み干してみた。私は険しい顔をして呟く。

「とんでもない試練だ」

       

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