Neetel Inside 文芸新都
表紙

脳髄モダニズム
「Memento mori」

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 二噺目にして結論を出そう。学生時代に与えられるモラトリアムこそ、この世で最も美しい宝であると。
 今にして思えば、私は非常に恵まれた環境にいたと思う。
 選挙の日になれば必ず電話をかけてきてくれる心優しい友人もいたし、クラスメイトの誰もが天然記念物を観察するような感覚でソフトな付き合いを貫いてくれた。
 それよりも、朝日が昇れば起床し、日が暮れれば就寝するという、ごく当たり前の日常を送る事できる、それがどれほどに幸せか。「ご飯が美味しく食べられる」なんて、もはやそのようなレベルの話ではない。今日、ちゃんと正しく生きたか。本日のテーマはここにある。

 ○

 生活そのものが瓦解し、人格がみるみるねじ曲がっていったのは間違いなく大学時代が原因であると断言できる。
 恐らく、あの環境では誰と出会っていても最悪な出会いにしかなれず、右を見れば食堂に飯を食いに来るだけの大学五年生がおり、左を見れば映画監督になると言ってレンタルビデオ屋に勤め始め、それっきり行方が不明となった三十代の紳士もいれば、北に怠惰、南に怠惰、怠惰が積み重なって地場が腐敗し、後戻りができない奈落の底で更に怠けようとする者もいた。
 と、ここまでテンプレートな暗黒期を思わせぶりつつ書いてみたが、実際は私の周りの話であって、直接的な関係性はない。私は授業にも出ていたし、単位も取っていた。表面上の学生生活に足を取られたのではなく、もっとこう、遠い場所で戦っていたと思われる。
 私は疎水沿いの学生住宅に住んでいた。錆びた鉄階段を上がるといきなりドアに当たるという摩訶不思議な構造を持つその物件で一年を過ごした。狭くもなく、広くもなく、壁はウエハースのように薄いが類人はおらず、下に住む中国人と大家、そして上階の私である。
 大家は齢不明のアルミニウムに似た爺さん一人であり、遠い国よりはるばる来日した中国人にこれでもかと世話を焼き、中国人もまんざらではない様子で、挙句二人が主催する意図不明の鍋パーティに何故か私も参加するという経緯が全く説明できない絆も生まれていた。
 大家は私が出ていく寸前まで私を中国人であると思い込んでおり、「日本語をどこで習った?」と毎回聞いてきた。本当に優しいお爺さんで、大変世話になったが、正直軽くボケていたのではなかろうかとここでようやく胸中を明かす。
 中国人も中国人で、堂々胸を張って来日したにも関わらず日本語をほとんど話せない状態でいた。幸い英語を使えるので、伝えたい事は理解できるが、日本語独特の細かい表現はスケッチブックに絵を描くか、あとはジェスチャーであった。中国人がジェスチャーをし、私がジェスチャーで解読を試み、爺さんが「あんたは日本語上手やの。どこで習ったんや?」と言う。素晴らしき国家間交流である。
 夏が過ぎたころ、私は土産物屋と小学校の学科指導員(よく理科とかで知らない兄ちゃん姉ちゃんがいつの間にか紛れ込んでいたアレ)のアルバイトを始め、時給の良さに現を抜かし、大学そっちのけでアルバイトに打ち込んだ。小遣いが入れば使わずにはいられないシンドロームの末期患者である私は餓死寸前である学友達の自室に無理やり押しかけ無理やり酒を飲ませた。だいたい朝まで呑む事が多く、へろへろになって帰るころには登校しようとする中国人とすれ違った。中国人は「オーウ」とオーバーなリアクションで額を叩き、「ジャペニスはホントウにアホな民族ネ!」と言わんばかりの冗談交じりな笑顔を見せた。中国人の表情には嫌味ひとつなく、実に清々しい気持ちにさせた。
 テストが近くなると急に大学へ通い始めるのが正しき大学生であると新約大学聖書の第六十章に記載されているが、私もまたその正しき大学生の一人であった。鉛のようになった腰をなんとか上げ、この世の終わりを感じさせる様相をした死者たちに紛れて授業に出た。
 仕方なく勉強を始め、何日かが過ぎたころ。
 それは、雨の日だった。
 中国人が私の部屋を訪ねてきた。何事かと思いドアを開けると、伊勢丹の紙袋を持って傘も差さずに立っていた。
 母国へ帰るという。
 いきなりの帰国宣言を受け、私は様々な思案を走らせる。ビザ切れ、偽造パス、密入国、麻薬組織、本土侵略――。
「お父さんが死にまして」
 私は思わず「え?」と声が出た。
 それから中国人はうまく日本語にできないためか、やはりジェスチャーを交えて私に何かを伝えようとした。しかし、すぐに諦め、小さなお辞儀と伊勢丹の紙袋だけを残して、それ以来、二度と会うことはなかった。

 ○

 春になって私の退去が決まった。
 目の前を流れる疎水脇のベンチに大家の爺さんと腰かけ、三色団子を食べた。頭上には桜が咲き乱れており、その隙間から青が覗いている。
「まぁ、しかし、あっちの国は大変だわな」爺さんが唐突に切り出した。
「せっかく勉強しに来たのに、残された家族を養うために国へ帰らなきゃならんのだもん。こっちの国じゃ、ちょっと考えられないわな。働く条件も条件だが、生きていく条件も、なぁ」
 なんとも言えなかった。雨の中、中国人が私に見せた表情、それがどんな意味を含んでいたのか。いいや、それよりも以前に帰ることは決まっていたのかもしれない。
 中国人が過ごした大学生活の時間と、私が過ごした時間を思い返してみると、なんだが居た堪れない気持ちになった。
 私は昨日、正しく生きることができたか。
 私は明日、正しく生きていられるか。
 私は今日、正しく生きることができるか。
 再度自問してみるが、やはりわからないままだ。
「難しいですよねぇ」
 私はそう言って立ち上がった。今年もまた、同じように桜が咲いていた。
 ちなみに、この話は昨晩思いついた短編である。

       

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