Neetel Inside 文芸新都
表紙

脳髄モダニズム
「春だし」

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 吉野桜の花弁ひとひら。はらり、はらり、と、風に舞っている
 彼女の幸せを願ったことはホントウ。ただ僕は、ここでお別れにしよう。
 ああ、何かもが、春のせいでした。

 ○

「うん、春だし」彼女はいつもそう笑う。実に痛々しい笑顔だった。
 卒業式を目前に控え、例年よりも少し早い春が訪れている、と昨晩のニュースで初めて知った。
 彼女を誘ってやろうと携帯を手に取ったはいいものの、いったいどんな言葉で、どういう風に連れ出そうかを考えているうちに時間は刻々と過ぎゆき、気付いた時には夜中の1時を回ろうとしていた。
 とにかくコールを送ってみて、話し中であればそれはそれでいいと思った。彼女の「決意」に口を挟む権利も義理も僕にはない。ただ、何かしてやりたいとは常日頃から、24時間、ずっと頭の中にある。
 しかし、残念ながら、彼女は1コールで電話に出た。ガラスを通したような、濁った声で「はい」と呼びかけに答えた。何やってんだと思いながら、ホッとしている自分がいた。
「まだ起きてんの?」
「うん、いつもこれくらい」
「夜のうちに寝とかへんと、いきなりリズムは作れへんで」
「それ、こっちのセリフ。私は院やもん」
 彼女の吐息が近い。鼻をすする仕草が耳元で感じ取れるほどだった。布団に潜りながら、話しているのかな。
「僕はね、夜寝なくても大丈夫な体なんだよ」
「講義中寝てるもんね」
「あれ実は寝てないんだわ。ずっと講義内容を反芻してる。ほら、スピードラーニングと同じ原理で」
「アホなこと言ってんと。入社式でいきなり遅刻はシャレにならへんよ」
 彼女の声色が少しだけ明るくなったような気がした。深夜の研ぎ澄まされた静寂に、彼女の小さな声はやはり心地のいいものだと思った。でも、やっぱり、悔しいことにね。
「で、何? そんなこと言うために電話してきたん?」
「いや……」
 なんて言おうか、と一瞬考えたが、今更へんに恰好をつける必要もないだろう。
「桜でも見に行こうか、久々に」
 そして、彼女の返事を待たずして付け加える。
「春だし」

 ○

 1回生の新歓で僕は彼女と初めて出会った。
 数多くのクラブサークルが毎日のようにタダ酒を振る舞う期間だけあって参加人数も毎回多く、既に何度目か顔を合わせたようなやつもちらほらと出てくる頃であるが、彼らのほとんどはタダ酒を好きなだけ喰らってまた闇に姿をくらませる。
 広大な宴会場一面を貸し切って、誰が誰だかわからないまま酒を酌み交わし次の日には顔も覚えちゃいなかった。
 常に話題の中心は中央の酒の席に慣れた連中と、その先輩方であって、中央にでんと鎮座する部長氏が茹蛸のようになって早々に輪から放り出され、ただの金づるとして確保されている様は見ているだけで面白かった。
 そんな中、隅っこで物騒な顔をしてグラスを傾けていたのが彼女だった。
「何飲んでるん?」と勢いで話しかけてみたものの、彼女は「マンゴージュース」とだけ言ってそれ以上の会話を求めなかった。視線も合わせようとしない。
「ここのサークルは楽しそうだな」そう言うと、彼女は「あんまり好きじゃないんですよ」と言った。
「なんか集団に入ると孤独を感じてしまうんですよね。だからあまり飲み会とか行かない」
 じゃあ、なんでここにいるんだ、と僕が言う前に彼女が応える。
「大学デビュー失敗したわぁ」

 ○

 結局ラストオーダーを4度聞きに来た店員に半ば強制的に追い出されるような形で我々は店を出て、続々とカラオケ店に流れる集団の中、僕はそそくさと輪を抜けた先の駐輪場で彼女と出くわした。
「あ」と思うと同時に彼女も「あ」と声をだし、互いにぎこちない会釈をして無言のまま自転車の鍵を開けた。
「じゃあ、僕こっちなんで」と言うと、彼女も「こっちなんで」と僕の後を自転車を押してついてくる。会話も何もないまま、ただ帰り道が同じというだけの縁で同じ帰路につくことになった。
 出町柳駅から下鴨本通りを抜けていく道中、学生マンションが立ち並ぶ界隈の路地にいつ彼女が曲がっていくのかだけが気になったが、彼女は一向に道を折れようとしない。僕が途中で折れてやってもよかったが、もし彼女がここを曲がったところのマンションだったらどうしようと無為な考えばかりを巡らせた。
「あの、今更だけど何かクラブ入ってるんですかね」
「いま探してるところです」
「あ、そりゃそうか、コンパ出てますもんね」
「そうですね」
「あ、えっと、家この辺なんですかね」
「川端少し行って……ホームセンターのあるところらへんですね」
「そうですか」
 適当な質問に適当な回答で繋ぐ間の長さがここまで重いものだとは。
「あ、えーと。てか、飲み会嫌いなのになんで出てたの?」
「友達作ろうと思って」
「ああ、あー。なるほど。別にサークルとか興味ないの?」
「あるけど。てか質問ばっかやん」そう言って、彼女はようやく笑った。物騒な顔でも、やっぱり笑うと可愛いんだな、と思った。
 川端通りを歩いていくと、高野川と賀茂川が交差する三角州に突き当たる。ここから二つの川は鴨川となって、南へと流れていく。
 鴨川沿いの並木には一面の桜が咲き乱れており、オレンジ色の街灯が温かく花びらを染めていた。
「吉野桜、初めて見たかも」彼女は言う。
「詳しいの?」
「いや、木札に書いてあるし」
「あ、ほんとだ」
「綺麗」
 後ろをついてきていた彼女は立ち止まり、少し湿った春の夜風に吹かれながら木々を見上げていた。僕も桜を見ながら少し道を戻り、ここでようやく彼女と僕は並んで桜を見た。
「咲いてますなぁ」僕が言うと、彼女はアハハともう一度笑ってこう言った。
「春だもん」

 ○

 出町柳駅で僕は彼女を待った。
 待ち合わせ時間になり、一斉に特急の乗客が駅の出口を上がってくる。その中に僕は彼女の姿を探す。
 また、この世の終わりみたいな顔をして登場したらどうしよう、と思ったが、あらかじめ用意した冗談と、どうでもいい話でいくらか彼女の気を持ってやる覚悟もしてきてはいる。
 いつでも、どの角度からでもかかってきやがれ。
 と、思っていたが、彼女は出てこなかった。さらに十五分後、次の乗客が出口にぞろぞろと出てくるも彼女の姿はない。
 直後、彼女からメールが来た。
「カレが会ってくれるって。ちゃんと話してくる。ごめんね、あとで行くから。ごめんね」
 僕は、少し考えてから返信をした。
「いいよ、行ってこい。俺は学校寄ってから帰るし。がんばれ」と。
 ああ、アホだなあ。と思った。僕は本当にアホだ。
 少しだけ期待してしまった僕は、本当に、アホだ。

 ○

 僕は彼女のことをよく知っているし、彼女も僕をよく知ってくれているのだろう。
 初めてのバイトの相談を互いにして、レポートの過去問を互いにかき集めたり、腹が減れば彼女のマンションへ白米を要求しに行ったりもした。学祭で酒をたらふく飲んで、大文字山に登って互いの将来がどうなるかを割と真剣に語り合ったこともあった。
 僕と彼女は結局同じサークルに入って、それからいろいろなところへも出かけた。嵐山の紅葉は絵に描いたように美しかったし、雪の銀閣寺も、夏の保津川も、夜の岡崎公園も、雨の動物園も。どの場面にも彼女がいたような気がする。
 彼女に好きな人ができた時も、彼女に彼氏ができた時も。彼女が、彼氏の住む上桂へ引っ越した時も。あれもこれも、日々の終わりなどあるとは知らずに、僕の気持ちさえも知らずに。

 ○

 学校寄ってから帰る、は失敗だった。卒業を間近に控えた学生が学校に寄る理由などひとつもない。
 どれひとつ、この街に残る思い出を拾いながら出発の準備でもしようか、と思った。
 心のどこかで、彼女を欲する気持ちはあったが、やはり心のどこかで、僕は彼女の幸せを願っていたのかもしれない。

 ○

 学校周辺を一通り周り、下鴨本通りを抜けて川端通りに出る。
 河川の合流地点を過ぎて少し歩いていくと、吉野桜の並木が見えてきた。
 あの夜、彼女が見上げた桜はまだ七分咲きまでも行かぬほど小さな蕾をつけていたが、あの夜と同じような、暖かな風が僕の頬を撫でてくれた。
「春だし」彼女はいつもそうやって笑う。その言葉とは反対に、痛々しい笑顔を見せられちゃこっちだってたまったもんじゃない。
 はやく、その彼氏とどうにかなってしまえばいい、そしてもう二度と、その痛々しい顔を僕に見せてくれるな。こっちの気持ちも少しは考えろバカが。本当に、バカが。
 そうやって自分に言い聞かせ、しばらくがんばってみようとしたが、今日くらいは春のせいにして、何もかも春のせいにしてしまおうと、泣いた。
 明日、僕は京都を発つ。
 彼女はこの街に残ったのだろう。それからのことは、僕も知らない。

 ○

 吉野桜の花弁ひとひら。はらり、はらり、と、風に舞っている
 彼女の幸せを願ったことはホントウ。ただ僕は、ここでお別れにしよう。
 ああ、何かもが、春のせいでした。

       

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