Neetel Inside 文芸新都
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脳髄モダニズム
「うすべにいろは」

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 塔子は駆け入った書店で漫画を探していた。
 普段は決して入る事のない、活字が毛虫の次に嫌いな塔子にとっての本屋は、毛虫群がる梨の木の次に嫌いな、それほどの嫌悪に塔子は挑戦した。
 四日前、弟が入院した。
 学校の窓から弟がゆっくりと落ちていくのが、塔子には見えた。一年の校舎は三年の校舎の真向かいにあり、その下には桜の並木道になっている。
 薄紅色の花弁を揺らしながら、昨日まで一緒にテレビを見ていた弟が落ちていった。すぐに向かいから笑い声が起きて、窓がピシャリと閉まった。
 塔子は、それから先は覚えていない。
 ただただ、いつも青痣(あおあざ)を隠す弟の、申し訳なさそうな顔だけが浮かんだ。

 ○

 ベッドでは弟が寝ていた。
 真っ白なテーブルの上に、真っ赤な林檎籠が一つと、学校で配られたプリントが一枚置かれている。担任が一度来て、それからこの部屋には誰も訪ねてこない。いつもドアを開けるのは私で、それが一日の最初で最後となる。
「飲み物でも、買ってこようか?」塔子は窓の外を眺めながら弟に訪ねた。弟は「ううん」と言った後、「お姉ちゃん、いい加減学校行きなよ」と呟いた。
 抜けるような青の向こうに、ダイエーの立体駐車場が見える。
 オレンジ色したバルーンがふわふわと雲に隠れながら、穏やかな風に揺れていた。
「あ、今日……15日だよね。漫画、売店にあるかな」
 弟は、そう言って携帯電話を見た。見るフリをしていた。塔子には見えていた。電源の落ちた、ひび割れた携帯ディスプレイが。
「学校行ってくる」塔子はスクールバッグを勢い良く背負い、病室を飛び出した。
 そうして、学校とは真逆の方向に駆けていった。

 ○

 まことに残念ながら、塔子は漫画にも疎かった。
 紙の媒体、それ自体が塔子には縁遠いものであった。
 書店の壁四方を覆い尽くす棚に並べられた、色とりどりの背表紙はどれも弟の指す「漫画」であり、弟の知らぬ「漫画」でもあり得る可能性があった。
 むう、と口先を尖らせ、塔子は両手を挙げてしまいたい思いに駆られた。
「漫画、どれよ、漫画って」
 売り場を注意深く見ても、漫画は漫画でしかなかった。たまたま手に取った漫画は、何やら機械の馬に乗った少年が高々とピースサインを掲げ、その横で異様に眼の大きな少女が祈りを捧げる、何とも不可解な漫画であった。
 塔子はその一冊を両腕に抱え、もう一冊を手に取った。今度は「本日発売」とポップが揺れる、新刊のコーナーにある漫画だった。
 ここで塔子は思い出す。
「あ、今日発売って」
 塔子は目の色を変えて、さっきまで抱えていた本を、その山積みになった書籍の山に隠した。
 それから、じっくりと、丁寧に、その未知なる山を選別し始める。
 漫画を手に取り、表紙を観察し、包装されたビニールの隙間から中身を確認して、紙の匂いに嗅覚をやられながらも、それでも塔子はひとつひとつ、漫画を吟味した。
「なんとなく、こんなタイトルだったかも」
「あ、これ、読んでたかも」
「これ、今人気あるんだ」
「これも」
「もしかすると、これだったり」
 塔子の選別は、実に大胆であり、それを選別というには程遠く、気付いた時には端から端まで一冊ずつ手に取って、塔子の両手はいつの間にか漫画で埋まっていた。
 中には「瞬間!金融実録!」や「漫画で見る哲学史」など、中学1年生が読むには理解を要する、漫画であり漫画でないものもあったが、塔子にすればそれも漫画だった。弟の「もしも」な可能性を、塔子は尊重した。
 その中からの選別は塔子にとって至難の業であり、今にも崩れ落ちそうな書籍の塔と、華奢な自分の細い腕の根競べに耐えながら、ない頭を存分に奮った。
 レジの前では、数冊まとめ買いをした小太りなシャツの男がもの珍しそうに塔子を見ていた。幸い、平日の昼間であったため、塔子の醜状は最低限に留められた。それが塔子にとって、唯一の救いになったのかもしれない。
 結局、塔子は手に持っていた漫画を全部買った。会計はほぼ、塔子の全財産に近かった。
 塔子はまた走る。本屋に長居できた勇気ある自分に。コツコツ貯めてきた小遣いが一瞬で水の泡になった衝撃に。両手にかかる書籍の重厚な体重に。そして、この中に弟の言う「漫画」があるという希望的観測も込めて。
 塔子は走ったのです。

 ○

 結論を言えば、その中に弟の言う「漫画」はなかった。
 弟は売店で買ってきた月刊誌を片手に、ヨーグルを飲みながら窓際でうとうとしていた。
 額を汗で濡らし、長い髪を唇に張り付けながら、凄まじい量の漫画を「拾ってきた」塔子を見て、弟は大笑いした。
 ぴかぴかの、すべて新刊である単行本を「拾ってくる」お姉ちゃんが、馬鹿馬鹿しく、ひどく滑稽であり、やっぱり優しかったのだ。
 塔子はそれから何も言わず、林檎を剥いて、それを自分ですべて食べた。弟が欲しいと言っても、塔子はひとりで食べた。
 弟は漫画を一冊手に取り、言った。
「この8巻。読みたかったんだ」
 塔子はじっと、外に浮かぶバルーンを見つめている。
「この4巻も。てか、4巻出てたんだ。何年ぶりかな」
 遠くの方で、チャイムの音が聞こえる。
「お姉ちゃん、僕が退院したら、この漫画読んでみるといいよ。面白いんだ。僕が、1巻から揃えてあげるからさ」
 弟の、心底申し訳なさそうな、そのくしゃくしゃな笑顔を見て、塔子はようやく、ふっと口角を上げた。

       

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