Neetel Inside 文芸新都
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箱庭から見える空
第1話『友達がいない男と友達が欲しい女』

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 生徒の声で賑わう学校。その廊下を歩き、瀬戸和樹は顔をしかめていた。その笑い声の無意味さ、取り留めの無さに腹を立てているのだ。
事実、彼はその笑い声や話し声に静寂という隙間を塗り潰す、さながらペンキ程度の存在意義しか認識してはいない。どうせその会話の八割は翌日になれば忘れる程度の物なのだから、最初からしなければいいではないかと思っていた。しかし、その主義を主張する気などない。彼の中にある常識的な部分が、それを止めていた。自分と違う物を叩くほど子供でもないつもりだし、思ったことを全て口に出さない程度の常識を、彼が持ち合わせているから。
瀬戸和樹は、人間というものに対して、好意的な感情を抱くことができなかったし、しようとしたこともなかった。生きてきた二十六年間、誰かに心を許した経験はほぼ皆無に等しかった。もしかしたら、親にさえ心を許したことはなかったかもしれない。
そんな彼は、何をどう間違えたのか、高校で現代文を教える教師になった。それは犯罪者が警官になるような、間違いを含んだ職業選択だ。和樹自身、教師という仕事は好きではない。
生徒を相手に授業をする。半数以上は真面目に聞かない。それを毎日繰り返す内、自分が壁に向かって話しかけている様な、ばからしい気分にさえなってくる。
壁に話しかけることに疲れると、和樹は屋上へ登り、そこでタバコを吸った。生徒の声が遠くに聞こえ、学校の中だというのに、学校から隔離されている。そんな矛盾を孕んだ空間と、高く見える青空が好きだった。
この日も壁に向かって文学の話をすることに疲れ、和樹は屋上へと足を向けた。薄暗い階段を登り、ギシギシと切ない音を鳴らす金属の扉を開くと、目前にいっぱいの青空が広がった。高いフェンスに囲まれ、雲がゆったりと流れるそれを観察していると、屋上の端にあるベンチに座る女子生徒の姿が見えた。
茶髪のボブカットに、顔は大人しそうな性格を表し、表情がうっすらと暗い。顔の造形は悪くない。制服である白いYシャツ、胸元には赤いリボン。その上に、学校指定の紺セーターを着ている。スカートもセーターとほとんど同色であり、膝の上に弁当を乗せ、それを食べていた。
彼女を見て、和樹はまず小さく舌打ちした。生徒から離れたくてここにいるというのに、どういう訳だ。ここは生徒立ち入り禁止だろう。
彼女の前に立ち、見下ろして「クラスと名前は」と威圧するように言った。
女子生徒はバツの悪そうな顔をして、呟く様に「二年B組。星谷巴です……」
「屋上は生徒立ち入り禁止だったはずだが」
「すいません……。カギ、開いてたから、つい」
俺が開けた、とは言わなかった。本来教師も屋上は立ち入り禁止なのだが、和樹はカギを職員室から持ち出し、開けっ放しにしているのだ。
「なぜここで弁当を食っている。教室で食えばいいだろ」
「や、その……」
女子生徒――巴は、恥ずかしそうに俯き、自身の膝を見つめる。
「……ちょっと、教室に居辛くて」
「なぜだ」
「ここまで言ったら、察してくださいよ……」
「わからん。教室に戻れ――とまでは言わんが、理由は話せ」
和樹はポケットからタバコを取り出す。ラッキーストライク。ソフトケースを振り、それを咥えて火を点けた。巴は和樹の吐き出した紫煙が空に溶けるのを待ってから、ぽつりと、水道から滴り落ちる水滴の如く、申し訳なさそうに言った。
「私、友達がいなくって……」
なんだそんなことか。口には出さなかったが、和樹は若干拍子抜けしてしまう。だが、それと同時に面倒臭い生徒に話しかけたな、と後悔を感じた。
別に和樹は『いじめを無くしたい』だとか、『生徒の悩みを解決したい』などの理想があって教師をしている訳ではない。
「友達なんかいなくっても、学校生活を送ることに支障はないだろ」
巴は突然顔を上げ、和樹の顔を見た。その表情は、怒りを含んでいた。
「先生はわかってません。二人組み作って、と言われた時の絶望感……」
「そんな大袈裟なことかよ」
紫煙を肺にたっぷりと吸い込んで、吐き出す。
「大袈裟じゃないですよ……。先生は経験ないですか? どこで失敗したのか、自分の知らない内に、周りでグループが固定化されているんですから。私の入る隙間なんて、すでにないんです」
友達グループと田舎の村は似ている。よそ者は認めず、異端者を排除する。和樹は学生時代の自分を思い出し、そんなことを考えた。彼女と和樹の違いは、そこに入ろうとしなかったことだ。
「だから今さら、周りに馴染めなくて……。今までは半ば意地で教室にいたんですけど、ついに逃げてきちゃいました」
「それで屋上か。俺も似たようなもんだがな」
和樹も、職員室にいるのがあまり好きではない。どこの世界でも不真面目な者は歓迎されないらしく、和樹に対して好意的な教師はいない。それ自体は平気だが、歓迎されない場所にいるよりは、誰もいない場所――とりわけ屋上が好きだからこそ。和樹はこの場所にいる。
「だが、別に友達がいないことは大したことないだろ。大人になってまで付き合うなんてやつは稀だしな」
そう言って、和樹は巴の隣に腰を下ろす。
「でも、今寂しいんですよ!」拳を握り、和樹に向かって身を乗り出す巴。「本当は私だって、友達と一緒に楽しくお弁当食べたりしたいんですよ!!」その口調はまるで、選挙演説のようだった。
「どうしたら私に友達ができますか?」
紫煙を吸い込み、吐き出す。喉がチリチリと焼きつくような、心地のいい感覚に浸りながら、和樹は「知るか」と冷たく言い放った。
「俺は友達なんていないからな」
「……先生、今いくつですか?」
「二十六だが」
「『今』いないってだけですよね?」
「いや? 誇張なしに、生まれてこの方いたことがない」
すると、巴が顎に手を当てて何かを考え始めた。そして、和樹を箸で差し、「先生、エリートぼっちだ!」と珍獣でも見るような目で言う。それにイラっと来たのか、和樹は巴を睨み、「はっ倒すぞ」とより一層声を低くして言った。
「す、すいません。つい……」
さすがにその迫力に怯んだらしく、巴は苦笑いを浮かべながら頭を下げた。失礼なことを言うヤツだな、と頭を掻き、和樹は携帯灰皿をズボンのポケットから取り出し、灰をそこに落とす。しばらく二人とも黙っていたが、巴が口を開いた。
「でも、先生。友達が欲しいと思ったことないんですか?」
「いなくても平気だからな。この歳になると、人間関係なんぞ面倒くさい」
「老衰寸前、みたいなこといいますね」乾いた笑みを浮かべる巴。よくわからん、と和樹は首を傾げる。
「歳を取れば誰だってそうなる。いまの友人や恋人なんて、お遊びみたいなモンだからな。人の心は、まるで季節みたいに変わりやすいんだ」
関心した様に頷き、特に感慨もなさそうに、巴は「ふーん」と空を見た。そしてもう一言。「なんか、先生みたいですね」
その言葉をどう受け取った物か迷いながら、和樹は「……伊達に教員免許は持っていない」とだけ返す。
そして、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。巴は弁当を仕舞い、立ち上がり和樹の前に立つ。
「また明日も来ていいですか?」
和樹は、空を見上げながら、至極どうでもよさそうに「好きにしろ」と力のない声で言った。
「ここは俺の場所じゃない」
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げた巴は、そのま体を翻し屋上から出て行った。それを見送り、和樹はぼうっと空を見上げる。星谷巴、という名前が頭の中に反響し、和樹は煙草を灰皿で押し消す。

これが、不良教師である瀬戸和樹と。一人ぼっちの生徒、星谷巴の出会いだった。

       

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