第2話『真ん中の子』

 瀬戸和樹は無愛想だ。故に、彼が他人と交わることは珍しい。表情は変化せず、口から出る言葉は酷く乾燥しており、喋ればものの数分で、彼が他人に興味を持ち合わせていないことがはたと解る。
 そんな変わり者であっても、彼に好感を抱く物好きも極稀にいる。それは例えば、男子生徒と男性教諭に人気の保険医であるとか、クラスの中心人物である女子生徒とか。何故だか知らないが、自分とは対極の人間に好かれる傾向があると、和樹自身は推測している。
 授業も一通り終わって、廊下を歩いていると、和樹の元に二人の女生徒が走ってくる。
「あぁもう。あの先生、チャイム鳴っても授業するんだもん。焼きそばパン、まだあるかなぁ」
 そんなポニーテールの生徒に対し、ショートカットの生徒が「さぁ。怪しいんじゃね?」
 そんな、高校生にとって死活問題の一つといえる食料についての心配をする女子生徒達が、和樹を発見し、苦い顔をする。和樹には見慣れたその顔は、誰でも一様に抜き打ちテストを宣告されたような不安感が滲み出ていた。
「こ、こんにちは」二人は頭を下げることもせず、無駄に存在感を放つ和樹に露骨な嫌悪感を見せていた。そして、いそいそと和樹の横を走り抜け、購買へ急ぐのかと思いきや、和樹の少し後ろを歩いていた男性教諭を見つけ、ちょっとした幸福を喜ぶ様な声で「田中先生、こんにちは」と挨拶をし、そのまま談笑へと移る。
 それを一瞥して、和樹はその場から離れた。
 この様に、和樹は生徒からの人気はほとんどゼロである。すれ違った生徒は嫌々挨拶し、同僚の教師も腫れ物を扱う様な扱いを面倒に感じたのか、もはや話しかけてくることもしない。
 職員室で自身のデスクに座り、タバコを吹かしながら自宅の如くくつろぎ小説を読んでいても、同僚の教師達は何も言わない。
 多少の話し声や紙が擦れる音だけが聞こえるその職員室に、突然「先生ーっ!」と元気のいい声が聞こえた。この世に不幸や悩みなどない、と自信を持って答えてきそうなほどに生命力に満ち溢れた声。その主に心辺りがある和樹は、他の教師達と同様に職員室の入口を見た。そこに立っていたのは、金髪をツインテールにした小柄な女生徒だった。大きな丸い瞳に、口角はつり上がるのがクセらしく、自然な笑顔を見せている。彼女の名前は真中華奈子(まなかはなこ)。和樹が現文を担当するクラスの中心人物でありながら、何故か人気のない和樹にまとわりつく唯一の女生徒。
 彼女はまっすぐ和樹の元に歩いてくると、抱えていたプリントの束をデスクに置いた。
「はい、ウチのクラスの現文プリント」
「ああ、悪いな」
 華奈子から視線を外し、読んでいた小説に意識を戻す。帰るものかと思いきや、華奈子は隣のデスクから椅子を引き、そこに腰を下ろした。さも、そのデスクは自分の物である、と言うかの様に。
「……なんだ? もう帰っていいぞ」
 華奈子は和樹の顔を覗き込み、首を傾げながら「いいじゃん。どうせ暇でしょ?」
「暇じゃない。忙しい」
「小説読んでるクセに」彼女はニヤニヤしながら、簡単な問題でも解くかの様に言った。「小説って、暇な時以外に読まないでしょ」
 和樹は遠くへ飛ばすような溜め息を吐いて、咥えていたタバコを灰皿へ押し付ける。彼女の言うことも、もっともだ。和樹は空白を埋めることを目的に、小説を読んでいる。人と喋るよりも、小説はいろいろなことを教えてくれるし、刺激的だ。
「なに読んでんの先生?」
 さらに和樹へ近づき、和樹の小説を覗き込む。それを華奈子の顔から遠ざける。まさかそこまで露骨に嫌がられるとは思わなかったのか、華奈子は目を見開いて驚いた。本を覗き込まれるのが、彼は豚肉と同じ位嫌いなのだ。しかし、本のタイトルを言わないことには、彼女の気が済まないだろう。
「夏目漱石。『こころ』」
 著者名とタイトルを聞いても彼女はピンとこないらしく、「夏目漱石とはどこの誰だろう」とでも考えているのか、眉間にシワを寄せて首を捻っている。
「授業でやっただろう。夏目漱石が、乃木大将の殉職に影響されて書き残した作品だと。当時の小説は時代が時代だからな。今の様に小説は娯楽としてでなく、メッセージ性に富んだ問題提起の手段として――」
「私、現文寝てるからわからないって事がわかった」
 もうたくさんだ、と腕を振り話を遮る華奈子。だからというわけではないが、和樹は多少眉を眉間に寄せる。
「……なるほど。なら、成績は一にしておく」
「そんな! 私と先生の仲じゃない。足す四くらいしてよー」
「評価マックスじゃねえか」
 立ち上がり、和樹は『こころ』を自身のデスクの本棚に戻す。
「あれ、先生どこ行くの?」
 和樹は、華奈子に背を向けたまま「屋上だ」と言ってから、昨日の女生徒――星谷巴を思い出す。約束したから、というわけではないし、居ても居なくても構いはしないが。それでも、彼に他人が介入するということはまず少ない。思い出すのは当然の事。
「生徒立ち入り禁止なのに。先生特権ですかぁ?」
 わざとらしく語尾を伸ばす喋り方に、多少の不快感を感じたのか、和樹は「ふん」と鼻を鳴らし、職員室から出ようとする。
 だがふと思い出したことがあり、踵を返して華奈子にこう尋ねた。
「お前、友達多かったな」
 昨日の巴の話から、ふと気になって訊いてみた。社交辞令のような、叶わなくても構わない疑問ではあるが。星谷巴がなにより欲しがっている友達をたくさん有している彼女なら、そんなことは毎朝起きてから歯を磨く程度には常識のはずだ。
「んー。そうかな? 比べたことないから、微妙だけどさ」
「友達って、どうしたらできるんだ?」
 自分で言っていて、間抜けな疑問だと思う。
 訝しげな顔で和樹を見る華奈子を見て、和樹はそのことを実感していた。そして華奈子は、ぱっと表情を笑顔に切り替え、「やっぱり、自分から話しかけてみることかな?」と言った。
「なるほどね」
 確かに、和樹は自分から他人に話しかけたことはあまりなかった。
 もちろん、自分に友人がいないのはそれだけが理由ではないだろうが。
 そして和樹は、華奈子に何も言わず職員室を出た。


  ■


 廊下を歩き、屋上までの無機質な階段を登っていく。先生達が織り成す喧騒から徐々に解放されていき、自身の足音のみが耳に響く。それはまるで、楽園への階段を登るようなものだ。
 和樹はこの、階段を登っている時間が嫌いではない。
 磨り硝子から太陽光が漏れる鉄製の扉を押して、屋上へと足を踏み入れた。生温い風が和樹の肌を撫でる。どこか春の匂いと、穏やかさを感じさせる。ベンチに目を向けると、そこに座っていた巴も和樹に気づき、歩み寄ってくる彼に「先生」と声をかける。隣に座り、タバコを取り出す和樹に、「来てくれたんですね」と嬉しそうに言った。
 タバコに火を点けながら、和樹は「別に」と言って空を見上げる。緩やかに揺られる雲を見ながら、「俺はここが好きなだけだ」
「屋上、好きなんですか?」
 一瞬俯いて、考えると。和樹は視線を空に固定したまま、「空が好きなんだ」と呟く。
「屋上から見る空は、何より美しい」
 和樹はとにかく、空が好きだった。雲が太陽に照らされた真珠をまぶしたような優しい輝きや、どこへ向かうかわからないような気ままさ。そして突き抜ける様な青は見ていて飽きないし。星空は、時によって磨き、洗練された宝石の集まりだ。その美しさは、夜が明けるまで見ていたいほどだ。
 そこまでは語らなかったが、巴は必要最低限の言葉だけで頷いた。
「あぁ。わからなくはないですねぇ」
 しばらくの間、二人で空を見上げていると、巴は「先生って、学生時代どんな感じでした?」
 自身の学生時代を思い出しながら、「今と大してかわらん。屋上に出てぼうっとしていた」と答えた。
 友人もいなかった学生時代の和樹は、屋上に出ては風の音をBGMにしながら、お気に入りの文庫本を読んだり、雲を観察したりしていた。
「じゃあ、二人組作ってーは、どうやって回避してました?」
「どこのクラスにも馴染めないヤツはいるもんだからな。そいつとっ捕まえてた」
「先生リア充だ……」
 リア充ってなんだ? と訊こうか迷ったが、結局しないことにした。
「そもそも、私と先生の友達がいない理由って違うんですよね……」
「ほう。どういう具合に」
「先生はただ友達がいらないってだけ。私の場合、コミュ力不足なんですよ。他人と話せないんです」
 言ってから、自己嫌悪が胸に溜まってきたのか、それを吐き出すように溜め息を吐く。
「他人と話せないって……俺は?」
「先生と生徒は違いますよ。コミュニティーの外にいる立場ですから。先生とのコミュニケーションは練習みたいな物ですから。外で失敗しても大丈夫ですけど、中で嫌われたら最悪なんです」
「嫌われない様にはできないのか」
「それができたら苦労しませんよっ」巴はわざとらしく頬を膨らませた。そして表情を不安そうな物に変え、ポツリと雨が降り出す様なテンポで口を開いた。
「人と話すって、地雷原を歩くような物じゃありません? どこで嫌われるか、私にはわかりません」
「なるほど。意外に洒落たことを言うな」
 煙草を大きく吸い込み、紫煙を遠くまで飛ばす様に、大きく息を吐いてからそう言った。そして、その煙草を携帯灰皿に落とす。
「そういえば。俺が担当しているクラスで中心的なポジションにいるヤツから聞いたんだがな。友達は自分から話しかけないと、できないそうだ」
「……それ、もしかして真中華奈子さん?」
 なぜ知っているのか、意外に思った和樹は思わず巴の顔へ視線を向けた。
「よくわかったな」
 和樹の言葉を聞いて、彼女は勢いよく立ち上がった。表情は眉を釣り上げており、まるで怒る為には立たなくてはいけないという予定調和をこなしているようだ。そして自身を指差し、「そりゃわかりますよ! 私、真中さんと同じクラス!」
「そうだったのか?」
 ということは、俺と授業で会ってるな。和樹は授業風景を思い出し、そこから巴を抽出しようてするが、失敗した。変わりに出てきたのは、巴以外に唯一顔と名前が一致する華奈子だった。
「ひどい! 私が号令した日もあったのに!」
「あぁ。はいはい。すいませんでしたっと」
 悪びれもせず、もう一本煙草を吸い始める和樹。そんな彼を見ながら、巴は諦めているのか呆れているのか、その二つが混じった様な表情で和樹を見る。
「なんだよ」
 少しだけ怒気を含ませるも、巴がそれに気づいた様子はない。
「先生。生徒に興味ないって本当なんですね」
「あぁ? なんだそりゃ。詳しく話せ」
「や、先生って授業、一人でドンドン先に進めるから、オートマって言われてるんですよ」
「……オートマ?」
「オートマチックの略です」
 和樹は、へえと感心の声を上げた。自分にあだ名がついているのを知らなかった和樹は、酷く新鮮な気持ちになる。今まで何気なく使ってきた物の名前を知らされた時のような気分だ。
「友達がいないクセに、どうしてそんなことを知ってる?」
 巴は拳をぐっと握り締め「寝た振り聞き耳これ最強!」と叫ぶ。しかし、また自己嫌悪が出たのか、溜め息を吐いて追い出す。
「しかしオートマねえ。……高校生のセンスもバカにできんな」
 独り言の様に呟いて、和樹はまた煙草を吸う。その瞬間、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。巴は立ち上がり、和樹に笑顔を見せて屋上から出て行った。それからしばらく、巴の足取りを思い出しながら煙草を吸い、ふと保健室にでも行こうと思いつき、屋上から出た。
 軋む灰色の扉を開き、薄暗い階段へ戻ると、踊場に腰を下ろした真中華奈子が、段下に広がる仄かな闇を見下ろしていた。
「……何をしてる? もう授業始まるぞ」
 和樹に笑顔を見せ、段下を指差した華奈子は「ねえ先生。さっきの、星谷巴ちゃんだよねえ?」とあどけない少女の様に言ったが、和樹には表情の裏に透けてみえる冷たさの様な物を感じとった。
「あぁ、そうだが」
「生徒に興味を持たない先生が、どういう風の吹き回し?」
 頭を掻きながら華奈子の横を通り抜けると、段下の踊場まで降り、和樹は華奈子を一瞥すると「余計な興味は持つな」そう言って、立ち去ろうとする。
 しかし、和樹を追いかけるように、階段の中ほどまで降りてきた華奈子は、そこから和樹の立つ踊場まで飛び降りてきた。

「余計かどうかは、私が決めるよ」