第3話『同じ人種』

 ちっ。と火花でも散るような和樹の舌打ちが廊下に響く。和樹の脳裏には、先ほどの華奈子が強く残っていた。背中を強く叩かれた様な、不快感を伴う残され方だ。なんだあれは。なぜヤツは、俺に興味を持つ。考えても答えは出ないし、進むのは足だけだった。
 答えの代わりにたどり着いたのは保健室。和樹はそのドアを開け、足を踏み入れる。デスクに座り、書類相手に仕事をしていた白衣の女性が、和樹を見た。後ろ手にドアを閉め、歩み寄ってくる和樹に「あら、瀬戸先生」と足を組み替える。
 彼女は神城要(かみしろかなめ)。ここ光源学園の保険医であり、和樹の同僚。ほとんど唯一喋る女性で、男性教諭に人気だと、和樹も耳にしたことはあった。
 確かに神城要は、和樹と同じ二十六歳でありながら、未だ少女のような肌つやと活力を持ち、大人の女として魅力的な、豊満でメラハリの効いた陶磁器の様な体を持っている。髪留めで後頭部に結った黒髪は輝きに富んだ柔らかな物だし、顔だって気品に溢れた物腰を表すかのように美しい。性格も気さくだ。
 和樹がそんな彼女と話す様になったのは、今と同じように、和樹が保健室でサボっていたことがキッカケだ。毎日の様に通い、最初の内は話さなかったが、ある日要が『毎日来てますけど、お仕事はいいんですか』と尋ねた。和樹はそれに、ベッドの上でうっとうしそうに顔をしかめて『俺はサボられて困る様な仕事なんか、回されていない』と言って寝転がった。それが最初の会話だったと、和樹は記憶している。
「授業はどうしたの?」丸椅子を引き、そこに座る和樹を見て、彼女は心配そうに尋ねた。
「今日はもう終わりだ」
 和樹は煙草を取り出し、火を点けた。紫煙が舞い上がるのをじっと見ていると、煙の向こう側で要も煙草を取り出しているのが見えた。ピアニッシモだ。
「それで、サボりに来たのね」
 要は咥えた細長い煙草に、百円ライターで火を点けた。それを見ながら、和樹はふと気になったことがあるのを思い出した。
「なぁ。あんたは、生徒から人気ある方か?」
「……は?」
 首を傾げながら、自身の座る椅子を回して体を翻し、背後に有ったガラス窓をスライドさせる。
「何よ突然」
「別に。ちょっと気になっただけだ」
「ついにあんたも、生徒に媚びる気になったかぁ」
「冗談言うなよ」
 深い溜め息を吐き、肺の中の紫煙をまるごと出す。
「生徒は授業だけやってりゃいいんだよ。人気取りなんて馬鹿らしい」
 和樹は、生徒からの人気を取る為に前髪の位置に腐心し、心にもない事を大きな声で叫ぶ男性教諭の顔を思い出していた。和樹から見れば、なぜ人気取りに必死なのか、酷く馬鹿らしかった。多くの人間に好感を抱かれることこそ、自分の人間としての価値を高めるのだと、根拠もないのに信じているのだ。
 それだけに傾倒するから、彼には人としての中身に欠けていると、和樹は思う。人に愛されるため、個性を削ってしまった音楽の様な物だ。
「あははっ! 相変わらず媚びないねえ。――そういうの、嫌いじゃないけどさ」
 要が煙草を灰皿で押し消すのを見て、和樹も自身の携帯灰皿に煙草を押し込む。立ち上がり、ベッドに足を向けると、要が思い出した様に「あぁ。瀬戸先生、右側使っている生徒がいるんで」そう言って、天井にぶら下げられたカーテンレールからなびく、白いカーテンで隠されたベッドを指差す。和樹は了解の意を込めて手を上げた。
 ベッドの上に寝転がって、軋むスプリングと固いクッションに身を任せ、天井を眺める。その瞬間、隣のベッドを覆い隠していたカーテンが開いて、中から一人の女生徒が出てきた。
 メガネをした彼女は、鋭い目つきで和樹を睨んでいる。制服をキチンと着こなし、痩せているが胸は一般的な女生徒よりも豊満な部類に入るだろう。黒髪を腰まで落とし、校則に従事してか、化粧もリップクリーム程度。
 彼女は結城塔子。生徒会長であり、和樹を特に嫌っている。
 ベッドから降りた塔子は、腰に手を当てて寝ている和樹を見下ろす。
「先生」怒りで熱のこもってはいるが、抑揚のない声。「なぜここで寝ているんです? 仕事はどうしたんですか」
 和樹は塔子から目を逸らしたまま「授業なら終わった」と、言い訳がましいことを言った。
「教師の仕事はそれだけではないでしょう? 授業の予習や内容の整理。やるべきことは山積みのはずですが」
「あー……起きたらやる」
 もはや自棄になっているような力無い声。和樹の耳には、くすくすと声量を抑えて笑う、要の声が聞こえてきた。そして、塔子の舌打ちだ。
「先生にする態度じゃないねえ。剣呑剣呑」
 そして要は、「女は怒る度、美貌が削られるのよ」と付け足す。塔子を宥めるつもりで言ったのだろうが、彼女は和樹を指差し、「これは先生がする態度なんですか?」そう言って、一層眉を釣り上げる。
「まあいいじゃない。これでも、一応は必要最低限働いてるんだから」
「神城先生。『精神的に向上心の無い物はばかだ』……ですよ」
 それだけ言うと、塔子は最後に和樹を睨み付けてから、保健室を出て行った。力強く扉を閉めたものだから、大きな音がして、しばらく音がかき消されたが、要が立ち上がったことによって椅子の軋む音が帰ってくる。そして足音がして、和樹が寝るベッドの横にあった丸椅子に、要が腰を下ろした。
「なに、さっきの? 『精神的なんたら』って」
「夏目漱石、『こころ』の一文だ。現文教師に対する皮肉だろう。――それより、神城さん。塔子がいるなら言ってくれ」
「仕方ないじゃない。プライベートなことなんだから」
 なんだよそりゃ、と言ってシーツにくるまる。要は何も言わず、一拍間を置いてから、「それより、怒ってないわけ?」と和樹の顔を覗き込む。突然のことで、何のことかわからず、何も言えずにいると、要は「さっきのあれ。怒ってないの。完全にナメられてるけど」と付け足し、そこで初めて皮肉を言われたことについてか、とわかった。
「どうでもい……」
 あくび混じりに返事をして、和樹は目を閉じた。そんな和樹を見ながら、要はまるで子供の無邪気さを見守る母親の様な、母性溢れる顔で微笑んだ。
「――たしかに。これじゃ『ばか』だわね」


  ■


 それからしばらくして、六限の終了を告げるチャイムが鳴り、学生達に活気が戻った。そのままホームルームなのだが、一度溢れた活気を落ち着かせるのは意外に大変な物で、二年B組はいつも生徒達が少し騒いでる中、ホームルームが進行していく。終わりに近くなってくると、それに比例して段々と静かになってくるのだ。
 星谷巴は、真ん中より少し後ろ程度の席に座って、することがないので担任の話に耳を傾けていた。しかし、特別な行事が近い時以外はほとんど同じようなことしか言わない為、やはり途中で飽きてしまいクラスを見渡すことにする。どこで失敗して、馴染めなかったのかなぁと悩みながら、巴は担任の目を盗んで楽しそうに会話する、前後に並んだ女生徒の二人組を見つけた。放課後へ遊びにでも行くのだろうか、時折『カラオケ』や『お金』などと言ったキーワードが聞こえてくる。
 楽しそーですねぇ……。と内心で呟く。担任が、「日直、号令」と声をかけた為。そこでホームルームは終了し、放課後となった。
 まばらに人が残る教室内。ある者はグループになって話し始め、またある者は出された課題に手をつけ始める。予定のない巴は、机の横にかけられていたスクールバックを取ろうと、腰を曲げ、目の前に真中華奈子が立った。
「巴ちゃん」
「へっ」
 まさか自分に話しかけてくるとは思わなかったので、巴は目を丸くして人懐っこい笑みを見せている華奈子をまじまじと見つめた。
「ちょっと用事あるんだけど、いい?」
「え、や、その……」
 口が上手く回らない上、顔が赤くなる巴。何を緊張しているんだろう、同い年だというのに。そう疑問に感じても、すぐには直らず、何も言葉にできない。
「すぐ済むからさ。ちょっと屋上行こ? 聞かれたくない話なの」
 やっとの思いで頷き、華奈子に連れられ、巴は屋上へ登ることになった。昼休みは和樹とベンチに座ったが、放課後の今はクラスの中心人物である、華奈子と座っている。人生とはわからない物だ。大袈裟にそんなことを考え、隣に座って手持ち無沙汰に足をばたつかせる華奈子を横目で窺い、彼女の言葉を待った。
「……巴ちゃんさぁ。さっき、瀬戸先生とここで話してたよね?」
「え、まぁ。はい」
 用事ってそのことなのか、と訝しげに華奈子の顔を横目で窺う。
「瀬戸先生と、何を話してたの?」
「なに……って。ちょっと悩み相談を」
「……あのオートマが? そんなバカなことないよ。私には素っ気ないのに」
 ペンギンが空を飛んだ、とでも言われた様な。小馬鹿にした風に鼻で笑う華奈子。そのリアクションが酷く納得できない巴は、何か言い返そうと華奈子の顔を見た。
「……っ」
 思わず息を飲んで、その顔を凝視してしまう。
 華奈子の顔からは笑みが消え、無表情になっていた。いつもの活力も、元気もなくなっている。代わりに置かれたのは、冬の井戸の様に冷たく、底が見えない別人だった。
「先生は、人間の醜さを知ってる」
「えっ……」
「先生も。人間と深く関わるのはバカらしいって、知ってるんだよ。心って薄っぺらいの、知ってた?」
 華奈子と目が合った。ここまで光を無くせるのか、と思うほどに濁っていて、見ていると不安に駆られ、この場所から逃げ出したくなった。
「私は先生と同じ人種。人間なんて、大嫌い」
「でも、真中さんにはたくさん……」
「友達はいるよ。でもね、信用はしてない。――だけど、先生だけは違う」
「違う、って……何がですか」
「先生は、私が生まれて初めて出会った、私と同じ人なの。――その先生が、今更他人に施しをするわけない」
 それだけ言って、華奈子は立ち上がった。そして、巴を見下ろし、睨んだ。
「巴ちゃん。私、あなたみたいな『友達最高』思考は大嫌い」
 ドアに向かって歩いていき、ゆっくり屋上から出て行く華奈子を見て、巴は何も言えなかった。そして、彼女がいなくなり、その余韻が消えかけた所で、「大嫌い……」と、呟くのが精一杯だった。



 屋上から出た華奈子は、前髪を掻き上げ、階段を降りて行く。
「……本音言っちゃうなんて。自己嫌悪」
 教室へ戻ったら、できるだけ早く帰ろう。華奈子はまた、笑顔の仮面をつけて、生徒達の喧騒が未だ鳴り止まない学校へと降りて行った。