第5話『花開く』

 孤独と退屈と焦燥と。
 すべてがごった煮になったような鮮やかな夕日。普段なら数秒ほど眺めて、綺麗だなと誰にでもない社交辞令を心の中で言ってすぐに忘れる。そんな夕日。
 しかし、その日の華奈子は、夕日に背を向け、ただ悄然と帰路歩いていた。
 頭にリピートする、悲痛な巴の声。まるで許しを乞うような声。
 悪いのは果たしてどっちだろう。本当に巴が謝る場面だったのだろうか。
 自己嫌悪の色が水に落ちた塗料の様に、じわじわと華奈子の心を侵食していく。
 きっと私が悪い。なぜこうも人間を拒絶してしまうのだろう。
 こんな人間じゃなかったはずなのに。こんなに汚くなかったはずなのに。
「……どうしてかなあ」
 ぽつりと呟いた。
 きっとこれも、誰かに聞かれたら、たまらない自己嫌悪に襲われるのに。
 それでも誰かに見つけてほしいかのように呟く自分が、たまらなく嫌いだった。
 一人でも生きていけるよう、強くなるつもりだったのに。
 まさしく、瀬戸和樹の様に。誰にも必要とされず、誰をも必要とせず。
 そんな生き方をしたかったの。
 華奈子はそう考えながら、瀬戸和樹に甘えてしまった。そして拒絶され、八つ当たりで巴を傷つけた。
「本当……自己嫌悪」
 俯いて、自身の旨に手を当てる。
 そこにある、黒くて丸い、鉄の様に固くなった心を確認するかのように。
 心とはスポンジの様な物だ。周りの環境から何かを吸って、硬くも柔らかくもなる。華奈子の心は、何かよくないモノを吸って、黒く硬く誰に対しても心を開けなくなっている。しかしその中には人を欲しがるまだ柔らかな部分があって。
 そういう部分が、彼女の心のバランスを微妙に崩していた。
 ふと、自分の影に刺さる人影を見つける。反対側から歩いて来た人だろう。顔を上げると、そこには古風な黒セーラーに、黒いロングの綺麗な髪を靡かせる少女がいた。美麗な顔立ちは少女の様なあどけなさと、人の警戒心を紐解く様な素朴さを感じさせられる。
 その少女は、ぽかんと口を開き、華奈子を見ていた。
「……なんですか?」
 面倒だなあ、と感じながらも、不快感を顕にする。
「――華奈子ちゃん? 華奈子ちゃんでしょ!?」
 その少女は、華奈子の肩を掴み、嬉しそうに詰め寄ってきた。
 その勢いに圧倒され何も言えないでいると、突然頭の歯車ががちっと噛み合う。
「燕……ちゃん?」
 その少女――麻生燕は、華奈子の人生に一番の影響を与えた、あのいじめられていた少女だった。
 あの頃に比べて、随分変わった。華が出たというか、表情も明るい。
 頷いた彼女は華奈子を抱きしめる。
「久しぶり!」
 そして、突き放すような勢いで華奈子から離れ、肩を掴んだまま笑顔を華奈子に見せる。小学校の頃とは違い、彼女からはハキハキとしたエネルギーが感じられた。
「うわぁ……小学校以来かなぁ」
「そ、そうだね。――って言うか、なんか、変わったね」
 すると燕は、懐かしむように笑う。
「うん。……あの頃とは、ちょっと違うよ。――ねえ華奈子ちゃん。今時間ある?」
「あるけど……」
「ちょっとどこかでお茶しようよ。話したいこともあるし」
 断りたいが、そうも行かない。相手は燕。華奈子に取っては、負い目がある少女だ。渋々頷いた華奈子に、燕は「じゃあ、駅前のマック行こう」と歩き出した。


   ■



 光源町駅前。
 放課後を謳歌する学生達で賑わいを見せる中、華奈子と燕はマックに入り、それぞれハンバーガーのセットを注文し、二階の一番奥にある席を陣取った。
「……燕ちゃん、その制服、晴嵐学園だよね」
 世間話のつもりで、華奈子は燕の制服について言及した。私立晴嵐学園は、歴史あるミッション系の女子校だ。この街では一種のブランドとして有名になっている。
「うん。ちょっと頑張って、受験したの」
 ポテトを口に放り込んで、咀嚼。そして燕は、照れくさそうに微笑む。
「ねえ華奈子ちゃん。覚えてる? 小学校の時、私がイジメられてたの」
 その瞬間、空気がピンと張り詰めた。
 華奈子は、ゆっくりと、その張り詰めた空気を壊さない様に、慎重に頷く。
「あの時さ、みんな私のこと無視してるのに、華奈子ちゃんだけ変わらずに話しかけてくれたんだよ。覚えてる?」
 覚えている。むしろ、華奈子の人生で一番印象深い出来事だ。
「なんでいじめられてたのかもわかんなくて、何度も学校休もうと思ったんだけど、華奈子ちゃんだけは変わらないでいてくれたから。私はこうしてなんとかやっていけてるんだ」
 その言葉からは、感謝の意が汲み取れた。
 べったりとした違和感が華奈子の胸にこびりつく。その言葉は、間違っている。
「……私のこと、恨んでないの?」
 華奈子の言葉は、燕に届いていないらしく、彼女は首を傾げて、「えー、と。なんで?」
「なんで、って……。だって私は、燕ちゃんを助けられなかったし……」
「恨んでないよ。感謝してるくらいだもん」

 その瞬間、華奈子の頭が真っ赤に染まる。何がそうさせたのかわからない。しかし、気づけばテーブルを叩いて、立ち上がってしまった。
「でもッ!!」
 ここで感情を爆発させるべきじゃないのはわかる。それでも、口から溢れる言葉が止まらない。
「どうして何も出来なかった私のことを、そんな風に思えるの!?」
 そのまま、思いの丈を思い切りぶつけてやろうと思ったその時。
「と、とりあえず、座って華奈子ちゃん。みんな見てるから……」
 その言葉はまるで差し水のように、沸騰した華奈子の頭を冷ます。周りに座る人達に頭を下げてから、椅子に座る。
「……私は、燕ちゃんが虐められてるの知ってたのに、それを止めることができなかったんだよ? それでも、恨んでないの?」
「うーん……」燕は、ストローに口をつけ、カップの中の液体を吸い込む。「たしかに、昔は助けてとか思ったけど。いじめを止めるのって、たぶんムリだから」
「ムリって……」
 諦めを含んだような声に、華奈子は戸惑う。明るくなった燕から初めて感じる負の空気。
「でも、もっとできることが……」
 そんな戸惑いの中、やっと口にした言葉を、燕はゆっくりと首を振ることで否定する。そして、にっこりと微笑んだ。
「私は、華奈子ちゃんに感謝してる。本当はみんなから無視されてもおかしくなかったのに、華奈子ちゃんだけは、虐められてるって知っても変わらなかった。……それに」燕は、困った様に笑って、頬を掻く。「無駄になんとかされようとしても、実は結構迷惑だったりするんだよ? その後でもっと酷くなるかもしれないし」
 その様が、いまさらになって在々と想像できた。確かに、イジメは止まるということを知らない。飽きるということはあっても、誰かが言って止まるモノではないのだ。
「だからね。華奈子ちゃんがしてくれたみたいに、黙って味方でいてくれるっていうのが、すごく心強かった。そのおかげで、負けずに学校に行けたから」
 突然、華奈子は顔が熱くなって、気づけば目からは、涙が溢れていた。
 自分の中にある汚れた物が、許された様な。自分がしてきた事が悪くないのだと認めてもらえたような。そんな気持ちになった。
 泣いてしまった華奈子を心配したのか、「華奈子ちゃん、大丈夫……? これ、つかって」と、ハンカチを差し出す。それを受け取り、涙を拭く。
「ごめん」
 そう言ってハンカチを返す。
「……燕ちゃん、そんな風に思ってくれてたんだ」
「え、うん……。あの時からずっと、ありがとうって言いたかったんだけど。なんとなく言えなくて」
「……私、燕ちゃんに嫌われてるんだと思ってた」
 意外そうに目を見開いてから、彼女はそんな華奈子の不安を笑い飛ばす様に、笑顔を見せる。
「ええ!? 華奈子ちゃんは私の大事な友達だよ? 嫌ってないよー」
 もしかしたら――。
「ね。今度遊びに行こうよ。華奈子ちゃんと遊んでみたかったの」
「うん。そうだね。めいっぱい遊ぼう」
 私は自分で思うほど汚くないのかもしれない。
 華奈子は少しだけ、そう思った。
 燕と一緒にマックから出て、店員の挨拶を背に受け、華奈子は憑き物が落ちたような笑顔をする。

「ありがとね」


  ■


 翌日。
 巴は、暗い顔を周りに見せないよう、俯きながら登校していた。華奈子の怒った顔が頭から離れず、足も重くなる。学校に行けば華奈子と会ってしまうし、本当は行きたくないのだが、学校には行かなくてはならない。
「ういっす、巴ちゃん」
 いきなり肩を叩かれ、驚いた巴が振り返ると、そこには華奈子が立っていた。昨日とは違う、普通の笑顔。昨日の今日で、どうしたのだろう。もう怒っていないのだろうか。訳のわからない巴は、慌てながら隣に立つ華奈子を見つめる。
「なに間抜けな顔してるのさ。急がないと遅刻だよ」
「え、だって、昨日……」
「うん。今日巴ちゃんに会ったら謝らなきゃって、思ってたんだ。――昨日はごめんね」
 軽く頭を下げる華奈子に申し訳なさを感じた巴は、手を前に出し、その謝罪を掻き消そうとするかのように振る。
「そんな! 悪いのはこっちなのに……盗み聞きしちゃって……」
「もういいんだ。それは。――昨日全部片付いたから」
「へ? 片付いた、って……」
「いいから行こう!」
 巴の手を掴むと、華奈子は突然走りだす。小さく声を漏らす巴に振り返った華奈子は「だからさ、巴ちゃん。今日から友達としてよろしく!」
 その言葉は、巴の心に染み渡る。友達という響きにうれしさを感じ、彼女は精一杯の気持ちを、一言に込める。
「はいっ! よろしくお願いします!!」


 そんな二人を後ろから、瀬戸和樹が眺めていた。通勤途中の彼は、目の前で友達として互いを再認識する二人を見て、少しだけ驚いてしまった。
「あいつら、なんか仲良くなってんな……」
 しかし、まあ。よかったな。
 柄にもなくそんなことを思い、彼は少しだけ微笑んだ。