Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 ○

 次の日からは、元通りの15分前登校に戻った。
 いつものように早起きして2人分の朝食と自分の弁当をつくり、いつものように今日こそはと急な坂道をさいごまで自転車で駆け上ろうとして、途中で諦めて押してのぼった。
 押見たちとなんでもない会話をしていると、周りはなんにも変わっていないんだなと気付かされる。変わっていくものといえば、季節くらいなものだ。
 きっと俺の生活のリズムが少し崩れたのは、他人のことばかり考えていたからだろう。
 どうも俺はそういうことには向いていない。自分のことでいっぱいというわけではないが、いくら考えたところで、その人の立場になれるわけではないのだから、意味のないことのように思えてしまう。
 俺は文芸部室でのあの頼みを、心のなかで断った。
 新谷に面と向かってそれを言えないのは、申し訳ない気持ちだけではなく、口にしてしまえば嘘になってしまうような気がしたからかもしれない。
 逃げているんだろうか、俺は。それでも、お人好しだ。
 その日の教室はいつもに比べて、少しだけ静かだった。
 天原が鈴村に話しかけなくなったからか、ふたりが別れたことをあちこちでこそこそと噂しているからか。
 天原と鈴村が別れたという事実は、あっという間に校内に広まった。
 それもそのはずだ。昨日の放課後、鈴村が堂々と別れを告げるのを、帰り支度をしていた何人ものクラスメートが聞いていたのだから。
「ほらな、俺の言ったとおりだ」
 昼休み。押見が自信満々の表情でそう言った。
「なにがだ」
「なにがって、俺言っただろ。鈴村と天原はすぐ別れるって」
「そうだっけ」
 あまりよく思い出せない。いつか言ってたような、というかいろんなやつがそんなことを言っていたような気がする。押見もそのうちのひとりだったというわけか。
「だいたいあんな関係が長続きするわけないんだよ。タイミングも微妙だしさ、すべてダメダメだね」
「じゃあ、お前はいつ、どんなふうに彼女をつくるんだ」
「そ、そりゃおめえ、あれだよ、そのうち運命の美女が舞い降りてくるんだよ」
 ダメダメなのは押見のほうだった。運命とか舞い降りるってなんだよ。現実を見ろ。鏡を見ろとまでは言わんが。
「チャンスじゃねーか、シバノン」
「チャンス?」
「鈴村と付き合っちゃえよ」
 俺は口のなかの玉子焼きを飲み込んでから、深く溜息をつく。どうしてそうなる、と。
「あのな、そんな気ないって」
「なんでだよ、性格はあれだけど、かなり美人だし、同じクラス委員なんだからいくらでもチャンスあるだろ。それに文化祭の準備とか増えてるらしいじゃんか。ふたりきりの放課後の教室で……」
「あほか」
 ちゃんと一文字ずつ区切って言いつけてやる。この妄想野郎め。
「もったいないなあ」
「そう思うんならお前が鈴村にアタックすればいいだろ。俺に押し付けるな」
「無理無理。性格が合わない」
「俺だって合わねえよ」
 そもそもいまのあいつは他人と合わせる気なんてないのだから、彼氏なんてつくったほうが間違いなんだ。
 それに俺にあいつの彼氏になる権利なんてないんだ。救うことを諦めたからな。あいつの彼氏になることが救うことになるとも思えない。
「おまえ、鈍感だから気づいてないかもしれないけど」
「うるせえ」
「鈴村はお前に気あると思うぞ」
 今度は口の中のものを飲み込むことができなかった。それどころか吹き出しそうになってしまう。なにを突然と突拍子もないことを言ってるんだ、こいつは。
「あのな……」
 しつこい押見に再度言い返してやろうとしているところを、教室の隅で起きた歓声が遮った。正直良い言い返しが思いついていなかったので、その歓声はありがたかったが、歓声の原因が鈴村と天原なのを確認して思わず頭を抱えそうになる。
「なんだ、あのふたりやっぱりやり直すのか?」
「さあな」
「あのふたりを止めるなら今しかないぜ」
「あほか」
 よくわからないが興奮気味の押見を短い言葉であしらって、弁当を空にすることだけに集中する。決して失敗したわけではないのに、ああ、どうしてだろうな。全然うまく感じねえわ。
 天原が鈴村に話しかけたのは、いまのが今日初めてだった。それだけでもクラスの連中の興味をあつめたが、鈴村が天原の言葉に頷いて、二人揃って昼休みの教室を出て行くと、一気に教室が騒がしくなった。
「いったいどこへ行くんだ?」「復縁か!?」「ドラマみたい!」「追いかけようぜ!」
 そんな風に誰もが期待するように騒いでいたけれど、どうしてか俺だけは少し不安を感じた。
 あのふたりが再びで付き合いだしたところで、お互いにとって何の益もないようなきがする。たしかに鈴村はなんの理由も言わずに一方的に別れを告げたが、天原はまだ諦めていないのだろうか。そこまで本気で愛していたようにも見えなかったが。
「シバノンは興味ないの? あのふたりのこと」
「興味ないことはないがな」
 ただ他人のことでいっぱいいっぱいになるのは、もう勘弁だ。

 ○

 まだ俺が大阪に住んでいた、中学時代の話だ。
 俺は中学校の三年間を、バスケ部員として過ごした。それまでに経験があったわけでもなく、高校にはいってからはやめてしまった。
 いま思い返しても、大した技術もセンスも俺は持ってなかったが、背がそれなりに高かったこともあってか、二年の後半から試合のレギュラーになれた。それが妙に俺に自信を持たせた。
 とはいっても、うちのバスケ部は弱小で、部活の練習も厳しくなく、真面目に練習するやつだってほとんどいなかった。
 誰も勝とうだとか、上の大会へ行こうだとか、ちいさな目標さえも立てず、ただだらだらと三年になると引退していく。それがうちのクラブだった。
 そんな怠惰的だったバスケ部に、俺が三年の代になった春、新しい顧問の教師がやってきた。
 なんでも自分が学生時代のときは強豪なバスケ部に所属していたらしく、全国大会の経験も何回もあるそうだ。
 それゆえ、バスケ部の練習は一気に厳しくなった。
 なんで弱小のうちの学校なんかにおまえみたいなやつが来るだよと、厳しくなった部活に愚痴をこぼしながら退部するものも何人もいた。
 それでも俺はバスケ部を続けた。別に顧問に退部届けを突き出す勇気がなかったわけじゃない。まだレギュラーだという責任と自信を持っていたのかもしれない。いま思い返してもちゃんとした理由は浮かばないが、それでも俺は最後の試合までやりきってやろうと、厳しい練習に耐えた。
 もしかしたらずっとこんな練習がしたいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
 そうやって必死でバスケをやって迎えた、夏、さいごの試合。
 これだけ頑張ったのだから、それなりの成果は得られるのだろうと、部の誰もが思っていた。
 しかし、結果はこれまでとなにも変わらない、一回戦敗退。あっさりと負けた。特にいいところもなしに。
「お前らが負けたのは、俺が来るまでさぼっていたからだ。それがお前らの三年間だ」
 試合が終わった後、熱血新任顧問は俺たちにそう言い放った。同じ三年の連中は陰であいつは自分が指導しても勝てなかった責任を俺たちに押しつけてるだけだと文句を言っていたが、俺はどこかその顧問の言葉に納得した。
 たしかに俺たちは必死に練習した。しかし、それはいまの顧問が来てからの半年にも満たない期間だ。相手はこんな練習を一年のときからやってきたのかもしれない。そうだとしたら、俺たちが負けるのは当然じゃないか。
 はじめて試合で負けて悔しいと思った。それはさいごの試合ということだけではなく、一生懸命練習したのに負けたからなんだろう。
 こんなことなら、練習なんてしなければよかった。いままでの三年生みたいにだらだらと負けて引退すればよかった。俺もあのとき退部届けを突き出しとけばよかった。レギュラーなんか選ばれない方がよかった。
 勝負に敗者は必ずいる。それも一回戦で負けるところなんて、ほぼ全体の半分じゃないか。少しでも希望持って負けて、ショックをうけるのならば、何にも期待せずに生きていたほうがいい。
 俺はそれでいいと思った。
 そんな風にすぐにあきらめる自分を、俺は嫌いにもなれなかった。そんなことさえ、あきらめていた。

 ○

 午後の最初の授業は、ずっと騒がしかった。
 授業がどんな状況だろうと絶対に注意しないじいさんの古文ということもあってか、みんながしゃべりたいことをしゃべっているからだった。
 その話題の的は、またしても鈴村だ。
 鈴村が帰ってこないのだ。授業が始まってからずっと、俺の前は空席。あの昼休み天原に連れ出されてから、教室に帰ってきていない。
 それで騒いでいた。あいつは変わってはいても、授業をサボることはなかったし、学校を休んだことさえなかったのだからなおさらだ。
 おまけに一方の天原は悠然と自分の席に座っている。周りの席のやつが天原に鈴村はどうしたのかと尋ねたらしかったが、ちゃんとした答えは返ってこなかったらしい。
 これでは、昼休み二人の間になにかあったと言ってるようなものだ。
「帰ったんじゃねーの」
 自然とそういう推測がささやかれる。
「天原にがつんと言われて泣いたんじゃないか」
 どんどんと話題は発展していく。あいつが泣くなんて想像もつかなかったし、ありえないと思ったが、文芸部室でのことを思い出して考えを改める。
 その新谷のいる横の席を見ると、天原のいる方向を不機嫌そうな表情でじっと見ていた。こりゃ、天原、振り返ったら驚くだろうなあ。
「あの野郎、なにしたっていうんだ、胸ぐら掴みあげて吐かしてやろうか」
「やめとけよ」
 恐いことを口走っている新谷を止める。ほかのやつに聞こえてたらどうするんだよ。
「じゃあ、芝野が言ってよ」
「俺が言ってもおかしいだろ」
 新谷はしばらく納得のいかない表情を俺に向けていたが、しばらくしてあきらめたようだった。
 悪いな、いつも期待させて。
 心の中で謝る。他人に俺と同じように生きろとは言えないから、ごめんなと。
 教室の喧噪はもはや収まりそうにもなかったし、弱々しくどこかふるえてるような古文のじいさんの声では、この教室の隅の席までうまく届きそうにもなく、俺も気を抜いて休むことにした。
 なんとなくゆっくりしたいとき、授業中よく窓の外を見る。これは窓際の席の特権だと思っている。
 だけどその特権がこんなかたちで働くことになるなんて、なあ。
 見上げた曇りがちな空の景色の端でゆれた、人影。L字の校舎の屋上に立っていたそいつの姿は、遠いはずなのに、カメラでズームでもしたかのように目に飛び込んできた。
 なにやってんだ、あいつ――
 その瞬間思わず席を立ち上がってしまった。少し勢いがよすぎて椅子が大きな音を立てて後ろに倒れてしまい、あんなに騒がしかった教室が一気に静まり返ってしまった。
「ど、どうした、えっーと芝野」じいさんが座席表を確認して言う。
「えっーと、あの……」
 自分でもいきなりの行動にどう言ったらいいのかもわからず、言葉に詰まる。本当のことを言うわけにもいかないしな。
 じいさんだけじゃなく、クラス中の視線が俺に集まっている。まあ、屋上に目をやられるよりかマシか……じゃなくて、まずはなにか言わないと。
「あの……トイレ行っていいですか」
「あ、ああ、我慢できないならいきなさい」
 教室中に笑いが起きて、再び騒がしくなってしまう。それもそうだ。いきなり立ち上がって注目を集めておきながら、こんな素っ頓狂な答えでは。
「なんだ、クラス委員らしく怒るのかと思ったよ」
 そんなことを心配していたのか。残念ながら俺にそんなことを言う勇気はないんだ。
「新谷」
 横の新谷もなんだよと笑っていたが、こいつだけにはちゃんと伝えておこうと思い、ちいさく声をかけた。
「なに?」
 こっそりと俺は視線を屋上へと促す。しばらくして新谷の表情が変わって、確認したことがわかった。
「うそ……」
 こぼれるように、そんな声が漏れた。
「どうした、芝野。行くならさっさと行きなさい」
「あ、はい」
 もしかしたら新谷はいまの光景を見て昔のことと重ね合わせたかもしれない。それでもパニックになるようなことはなかった。俺が思っている以上にこいつらは強いから、俺がトイレなんか行く気ないということも、きっとわかったんだろう。
 少し早足で教室を出る。新谷の後ろを通るとき、なにか言われたような気がしたが、それが「おねがい」だったのか「ありがとう」だったのかはよくわからなかった。
「シバノン、そんなに急いで大の方か?」
 押見が大きな声で小学生みたいなことをいう。しかし、まあ、そっちだと思ってくれたほうが今回ばかりはありがたい。少し時間がかかりそうだから。

       

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