Neetel Inside ニートノベル
表紙

涼宮ハルヒ的な憂鬱
第三話:シバノンの驚愕

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 鈴村の後ろの席になって、はじめて気づいたことがある。
 こいつの髪型はよく変わる。
 もちろん鈴村はハルヒのことなんかこれっぽちのかけらも知らないわけだから、曜日別に色やかたちを決めて宇宙人とのコミュニュケーションを望んでいるなんて、そんな馬鹿な理由が裏にあることはないだろう。
 ただ単にこいつの髪は長いのだ。それゆえ遊び甲斐があるのだろう。
 それも髪が腰に届きそうなほどあるのだから、1つにまとめたり、2つに結ったり、少し上げたり……、バリエーションも様々だ。髪型が1日に2,3回変わることだってある。
 言っておくが、いくら鈴村がちっこいからといっても頭から腰はそれなりの長さがある。ちゃんとあるぞ。
 まぁ、そんな前の席を見ていると「飽きないな」だなんてことを最近は憂愁な数学の時間に思ったりするわけだが、やはりここはセオリーとして本人に聞いておくべきなのではないだろうか。
 そんなよくもわからない義務と使命感を感じて、ある休み時間、俺は鈴村に髪についてたずねたのだった。
「お前、よく髪型変えるよな」宇宙人対策か? んなわけねーよな。
「髪型?」
「そう、髪」
「ただ結び方変えてるだけだけど」
「それでも、種類とかいろいろあるだろ、俺そんなのよく知らないけどさ。やっぱりそういうのって気分で変えるもんなのか?」
「なに? もしかして私の髪型毎日記録したり……」
「してない! 断じてしてないから!」
 なんだかこんなにも必死で否定してしまうと逆に怪しまれるのではないか、という恐怖が襲ってくる。いや、しかし、事実、俺はそんなことしていない。断じてしていない。
「ふーん、まあ、いいけど」
 それ以上俺に深い疑いはかけられることなく、鈴村も自分の作業に戻った。
 俺もほっと一安心したが、しかし、それですべての状況が落ち着いたわけではなかった。
 さっきからずっと、すぐ隣で異常な行動をしているやつがいるのだ。約1名。
「おい、新谷」
「な、なにかな、芝野くん。私はいま寝てるのだ」
「寝てるやつが喋るか。それとさっきから背中が震えてるぞ」
 そう我ながら的確な指摘してやると新谷は机から顔をあげ、一瞬真顔になったが、すぐに改めて潔く笑い出した。潔いのはいいが、むしろさっきより狂気感が増したような気もする。
「私もずっと気になってたんだ。ありがとう」
「じゃあ、自分で聞きゃいいだろ」
「いやいや、芝野様を差し置いてあの質問はできませぬ」
 こいつ、こんなにもうざいキャラだっただろうか。変な笑いで頭の方がおかしくなっているのかもしれない。いや、そうに違いない。そもそもが普通じゃないやつなんだ。
 よく考えて見れば俺の席周りは面倒くさいやつばかりじゃないか。とんだハズレくじだ。教室コーナーというメリットばかりに目がいってしまって、いままで気づけなかった。
「あっ」
「なんだよ」
「私じゃポニーテールできない。ごめん」
新谷が自分の髪を右手でいじりながら、そんなふざけたことを言う。
 たしかに新谷のショートカットじゃ、結び目より下のほうが短くなって、とてもポニーにはなれそうにないが、そういうことじゃなくてだな。
「アホか」

 ○

 フラグ、というのは日常のなかに潜んでいるからこそフラグというのだと、俺は何となくだが体感することになった。
 もちろんそんなものは持論で、正しいかどうかは知らない。だけどひとつだけ言えるのはフラグというのは質が悪い。それもかなり悪質だ。
 その日、いつもの駅までの坂本と押見との3人での帰り道、珍しく勉強の話なんかが始まって、そこで気づいた。
「そういえば明日数学の宿題だね」
「あ、机のなかに入れたままだ……」
 自転車の籠に突っ込んでいた鞄のなかを確認してみる。やはりノートはあるが、教科書がない。当たり前だがノートだけでは問題は解けないし、宿題だって出来やしない。
「ちょっと取ってくる」幸いまだ学校から近い。明日早くに来て、新谷なんかに茶化されながら焦って解くよりは無難だろう。
「大丈夫だって、シバノン。俺も持って帰ってないけどどうせやらないし」
 どうも押見は勉強という点に関してはきっぱりと諦めているところがある。潔いというよりか馬鹿丸出しに近い。特に部活に打ち込んでるわけでもないからなおさらだ。
「悪いがお前と一緒にしないでくれ」
「どうせサカモッちゃんが見せてくれるって、な!」
「見せないよ」
「えっ……」
 言っておくが俺は坂本に勉強を教えてもらったことはあっても、写さしてもらったことはない。どうしてこうも学力差のある三人がグループを成しているのか。。
「たまには勉強しようぜ、押見」
「嫌だ! 俺は意地でも取りに帰ったりしない。ここまで歩いてきた体力の消費を無駄にしてたまるものか!」
「教室を出てからここまで1キロもないがな」
 結局押見はそのまま校門を出て、俺は真反対の校舎に向かって歩き出したわけだが、こういうところに俺と押見の主人公要素としての差があるのではないだろうか。
 言ってしまえば押見は馬鹿なりにも今回のフラグを回避したわけである。一方俺はまんまと神様の運命とやらに引っかかり、思い通りの行動を取ってしまうわけだ。
 どうせならハーレムな物語の主人公がよかったな。
 巨乳で柔和な上級生と寡黙な文学少女にお気楽と学園生活を送れるのであれば、この上ない。
 しかし、俺はそういう物語の主人公になるには少しばかり抜けているところがあるのだろう。だからいつまでも中途半端なポジションで、いつも追い越されるのだ。

「俺と、付き合ってください!」

 他に言いようがない、青春の現場にぶつかってしまった。
 俺が教科書を取りに入ろうとした教室――1年1組のその教室からそんな声がたしかに聞こえてきた。
 ――告白、かよ。
 たしかに春は恋の季節なんていうけれども、いまの時期はどちらかというと交友関係とか新生活に追われて忙しい。そんななかでもう恋愛なんかを意識して、しかもこうして告白まで行動を起こすやつが同じ学年、それも同じクラスにいたなんて事実があまりにも衝撃的だった。
 まだ高校生活が始まって間もないし、お互いのことだって大してよくわかってない。逆に3年生になるとお互いによく知りすぎて恋人に発展なんかも難しいが、とにかく恋の告白のタイミングなんていつだって難しい。
 それでも告白した、いや現在進行形でしているやつは誰なんだろうか。俺は当然の如く気になった。それくらいの野次馬根性は許してくれ。
 なるべく音を立てないようにゆっくりと体を移動し、少しずつ教室の中を確認していく。まず目に入ったのは男の姿だった。髪型とそのサッカー部のユニフォーム姿から容易にクラスの誰かは判断がついた。
 ――天原翼(あまはら つばさ)。
 なるほどな、とどこか納得してしまう自分がいた。女子の会話などに参加しているわけではないが、こいつがモテるのは周知の事実というかパッと見で判断ができる。運動神経がいいし、顔だって学年でもトップクラスのイケメンだろう。
 さっき聞こえてきた声からするとどうやら天原から告白をしたらしい。
 むしろ女子から告白されそうなやつではあるが、逆に言うと告白されて断る女子は少ない。そういうことを考えるとこんな時期に告白するのも納得がいってしまう。
 中学時代からの彼女が居てもおかしくないなとか思っていたが、いったいそんな天原が告白をした女子は誰なんだろうか。どんどんと湧き上がる野次馬根性が俺の体を動かし、少しずつ、少しずつ教室の全貌が視界に入ってくる。
 どうやら教室にいるのはその二人だけのようで、天原の正面にいるのはちっこくて、髪が長くて、今日の髪型はツインテールみたいで……。
 そこまで確認して、俺は慌てて身を隠した。もしかしたら音を立ててしまったかもしれない。気づかれたかもしれない。でも、あのままでは目が合ってしまいそうだったんだ。
 ――鈴村と。
 心臓が高まって、飛び跳ねて止まらない。こんなに驚いたのは鈴村のあの自己紹介以来だろうか。結局鈴村に驚かされてばかりじゃないか。あの時とは少し違う驚きかもしれないが。
 後ろで二人の交わされる会話は遠くて、小さくて、よく聞こえない。
 そんなよくわからない会話を聞き流しながら、意外とあの二人はお似合いかもしれないななんて壁に背中をつけながら考える。イケメンと美人で、もし付き合うことになればクラスご自慢のカップルになるかもしれない。
 しばらくそんなことを考えていたが、教室からあの二人のどちらかが出てきて鉢合わせでもしたら、気不味いことになるに違いない。
 こんなところにいつまでもいるのは野暮だとも思い、いつのまにか俺は野次馬根性も消え失せ、ついでに教科書を取りに来たということも忘れ、その場を去ることにした。

「よっしゃああああ」と天原の雄叫びのようなものが聞こえてきたのは俺が階段を降りる直前のところであった。
 そして、俺は理解した。
 ああ、そういうことなんだな、と。
 俺の物語は結局そういうことなんだ、と。

 ○

 教室を離れた俺はそのまま素直に家へ帰ることはなく、だからと言って寄り道というほどでもないが、柄にもなく学校の図書館なんかに来ていた。
 つまりは校門もいまだにくぐっていないわけだ。まったくなんでだろうな。
 3年生でさえも受験に熱が入るわけでもないこの時期の図書館は、雨の日でも極めて利用者が少ない。俺だってひとりでこうやって足を踏み入れるのは入学してから1ヶ月ほど経つが、初めてのことだった。
 特に目的もなくなぜかやってきてしまった俺は何か雑誌でも読んで時間を潰すことにした。
 おそらくあの告白の現場を目撃したのは俺だけだろう。だからといってメールで「天原と鈴村のカップル誕生!」なんて拡散したりするつもりは一切ないし、嫉妬に狂って二人の仲を引き裂こうだなんて悪巧みもない。そもそも俺が鈴村にそんな恋愛感情とか好きだとかを感じていたわけではないんだ。
 ただあの鈴村に彼氏ができた。しかも相手はイケメンで、鈴村は承諾した。
 それが不思議で、違和感がして仕方がなかった。
 手に取っていた音楽系情報雑誌は思いの外おもしろくなかった。そもそも俺はCDだってほとんど買わないし、音楽なんて有名なのしか知らないじゃないか。興味のないことほど面白くないものはない。黙って元の棚に雑誌を戻した。
 そういえば真っ直ぐ家に帰らないのは今日が初めてかもしれない。
 別に俺は帰宅部として自宅にどれだけ短時間で帰れるなんて競ってるつもりはないけれども、よく考えてみれば俺は家でやることがあまりにも多すぎるのだ。
 姉貴が大学に行かず一日家にいるときはゴミが溜まってるし、帰ればすぐに夕飯をつくるよう催促される。その他にも洗濯や掃除だってしないといけないのに。
 たまには「遊んで帰ってきた」なんて言って遅くに帰ってやったら、姉貴はどんな表情をするのだろうか。自分でカップ麺でもつくって平然とテレビでも観ているだろうか。それとも俺に文句を言うだろうか。
 そんなことは推測するより、実際にやってしまった方が早くわかるのだろうが、そんなどうでもいいことを俺は意味もなく考えた。
 それで時間が過ぎて下校時間になれば、それもいい気がした。聞いた話だと、下校時間には校内放送で「ハレ晴レユカイ」が流れるらしい。いや、それは絶対嘘だと思うが、なにかしら放送はかかるのだろう。
「芝野くん?」
 そんな取り留めないことを考えながら、なにか面白い本でもないかと本棚を見て回っているところに、声が掛かった。それも名前で呼ばれたものだから、予想外のことに驚く。しかもお相手は女子。
「あぁ……えーと」
「2組の前坂。覚えてくれてる?」
「あぁ、もちろん」
 一瞬名前が出てこなかったのは口にしないことにしておく。
 前坂とはクラス委員会の時に顔を合わせるくらいで、メアドも交換していたが大した会話はしたことがなかった。それもそのはずで、そもそも俺は鈴村のついでのような感じだったのだから。
 前坂はハルヒが好きなのかは知らないが、鈴村のことに異常な興味を示していた。クラス委員会の度に鈴村に話しかけたり質問をしたりしているのをよく見かける。たいていは冷たくあしらわれるのがオチだったが。
 もし鈴村と前坂が同じクラスだったら、そのうち鈴村が根負けして心を開いて、友達にでもなっていたんじゃないだろうか。そんなことを時々思うが、要するに前坂もそれなりの変人である。
「私、はじめて図書館来たんだけど全然知り合いとかいなくてびっくりしてたんだ。あ、芝野くんはよく来るの?」
「いや、俺もはじめてで」
「そっかあ、偶然だね」
 前坂は特に声をひそめることもなく、話しかけてきた。別に大して利用者がいるわけでもないから迷惑ではないかもしれないが、図書館的にはどうなんだろうか。
「もしかしたら鈴村さんがいるかなあ、なんて思ったりもしてたんだけどね」
「あいつはだいたい直行で帰るよ。図書館は昼休みとかに利用してるんじゃないか」
「へぇー、そうなんだ」
 前坂が不思議とその双眸を輝かす。どうやら鈴村関連の情報が本当にお好きなようだ。
「さすがは側近、芝野くん」
「側近って……」
 結局そのまま成り行きで前坂とやたらと長い図書館の机に向かい合わせで座ることになった。はじめて会ったときからなんとなく分かっていたが、前坂はよく知らない相手でも気兼ねなく話せるような、社交的な人間らしい。
 そんな彼女の口車にのって、俺は鈴村の近況をひたすら話し、ときどき前坂がメモを取るといったなんとも怪しい談話がしばらく繰り広げられた。
「どうしてそんなにあいつのことが気になるんだ?」
 ずっと質問されっぱなしだったので、ひとつ質問を返してみることにした。
「ん? そうね、私、人間観察が好きなの」
 また随分と風変わりな趣味を堂々と言われる。いまどき人間観察だなんて、心理学でも学ぶ気なのだろうか。
「それも変な人間の」
「変な人間観察?」
「それだと人間観察が変みたいになっちゃうよ。人間観察は変じゃないよ」
 俺にとっては十分おかしな趣味だと思うが、前坂的には読書とか映画鑑賞とか、そういうレベルの普通の趣味と変りないのかも知れない。
「芝野くんも、なかなかの変人だと私は思うよ」
 その言葉はあまりにもショッキングだった。俺が変だって? やめてくれ、可能なかぎり普通を演じてきた俺の努力を一瞬にして崩さないくれ。
「俺は絶対普通だと思ってたんだが……」
「第一、こんな晴れの日に図書館に来てる時点で変だよ」
「それだと、前坂も変人ということになるぞ」
「うん、そうだよ。私も変人」
 あっさりと認めたよ、この変人。人間観察は否定したくせに。
「みんな変わってて、みんな面白い。それが人間観察の醍醐味だよ」
 その理屈だと観察も変人に限る必要性は感じられない気もしたが、そもそも俺は人間観察なんてものには興味がないのだからそんなことを享受されても困る。
「なんで前坂は図書館なんて来たんだ? 別に雨が降ってるわけでもないのに」
「えっーと、本を読んでたの」
 まあ、図書館だからそうだろうな。なんとももっともな答えだ。
「別にここで読まなくたって、借りて家で読めばいいじゃないか」
 図書館の本は当たり前だが生徒なら2週間借りることができる。図鑑や百科事典とか、あまりにも分厚い本は借りれなかった気もするが、まさかそんなものを読みに来ているようには見えない。
「いやあ、私、期限とか守るの苦手で借りちゃったら忘れそうだから。短い本だし、ここでパパっと読んじゃおう思ってて」
「そうか、なんか俺邪魔したか」
「いやいや、声かけたの私の方からだし。それに思ったよりも長くて、やっぱり借りようかなって思ってたところなんだよ」
 そう言って、前坂はひとつの文庫本を机上に立てた。遠目でタイトルを見て、なんとなく見覚えを感じた。
「その本……」
「う? じゃーん、『銀河鉄道の夜』です」
 その文庫本の表紙を、俺はどこかで見たような覚えがあったが、それがどこだったかすぐに思い出せなかった。あまり長い時間考え込むのもあれなので、とりあえず言葉を続ける。
「どうしてそんなもん読んでるんだ?」
「それはですね……」
 なぜ前坂はいま、こんなにも嬉しそうな顔をしているのだろう。
 前坂が本を読んでいる理由より先に、その表情の理由を考えてみて、そこで思い出す。その本をどこで見たか。そして、前坂のその表情の理由も自然と理解できる。
「鈴村が読んでた」
「そう! ってなんで知ってるの?」
「いや、いままでの流れからなんとなく察しただけだ」
 本当は鈴村が同じ本を読んでいたの見ていた。しかし、そんなことを言ってしまえばなんとなく前坂と同類扱いされるような、そんな嫌な予感がしたのでそれとなく誤魔化す。
「鈴村の読んだ本をすべて読むつもりか?」
「うー、できればそうしたいね」
「もはやストーカーだな」
「違うよ、これは人間観察」
 前坂のトーンが動揺しているのか少し上がる。何回も言うがここは図書館だ。
「人間観察は観るだけだろ」
「うーん、確かにそう。だけど人間観察とストーカーのライン引きは弁えてるつもりよ」
「俺には違いがよくわからなくなってきたが」
「わかりやすく言えば私は長門や古泉とかだよ」
 ここでそういう名前が出てくるか。
「要はハルヒごっこ、か」
「ううん、あくまでハルヒはきっかけで、鈴村さんとイコールで結びつける存在ではなくなってきてる。むしろなぜあの自己紹介をしたのか、それが彼女の変人としての一番の謎になってきるの」
 たしかにそれには頷けるところがあるが……。
「なるほど……」
「いわゆる私は鈴村さんの“観察者”から“探求者”に変わってきてるって感じかな。この本を読んで彼女の心がわかるわけではないけど、話のきっかけくらいにはなるでしょ」
 その理屈は俺にはよくわからなかったが、前坂にはわかったような顔をした。簡単に言うとこいつも変人なのだ。それも超がつくほどの。
「まあ、あいつと仲良くしてやってくれ」
 前坂は一瞬不思議そうな驚いた表情をしたが、しばらくして「そうね」と微笑んだ。
 どうして俺の周りにはこうも変人が多いのだろうか。いや、見方を変えてみれば鈴村の周りに変人が多いのかもしれない。そいつらに俺が巻き込まれに行っているような気がする。
「そういえば芝野くん、いままで何してたの?」
「何してたって?」
「ほら、終礼終わってすぐに図書館に来たわけじゃないでしょ。最初いなかったし」
 そういえば俺は教科書を教室に取りに帰ろうとして……あの告白シーンに遭遇して。結局教科書を取れないまま図書館に来てしまったんだっけか。
「教科書……明日の数学の宿題であるの途中で思い出して、取りに帰ってきたんだ」
「なるほどー。で、教科書はありましたか?」
「あ、いや、まだ取ってきてない」
 いまから教室に行けば、取れるだろうか。さすがにもう二人はいないだろうし、さっさと取りに行って帰ったほうがいいかもしれない。
 前坂はというと少し好奇な眼で俺を見ていた。それもそうだ。教科書を取りに学校へ戻ってきて、まだ教科書を取らずに図書館になんて来ているのだから、俺は。
「それは、なかなか理解できない行動ね」
「そりゃどうも。俺は教室に取りに行って、そろそろ帰るよ」
「そっか。私もこれだけ借りて帰ろうかな。芝野くんチャリ通だっけ?」
「そうだけど」
「甲陽園の方?」
「ああ。駅よりもう少し奥まで行くが」
「そっか、私苦楽園なんだ。帰る方角も違うし、一緒には帰れないね」
 同じ方角なら一緒に帰ってくれたとでも言うのだろうか。少々古臭いかもしれないが、俺だって女の子と自転車二人乗りして帰るなんていう行為は永遠の憧れであり、道路交通法違反だ。
「そうだ、よかったら、私の宿題写す?」
 できてるよ、と前坂が鞄を見せる。同時にとてもカワイイとは言えないような熊のストラップが振り子のように揺れる。
「いや、家で自分でやるよ」
「真面目だね」
「普通の人間だからな」
 そう言ってやると前坂がおかしそうに笑った。本当に俺は変人じゃないんだからな。
 本当ならそこであっさりと図書館を出るべきであったんだろうが、どうも俺にはひとつ気がかりなことがあった。
 自称ではあるが鈴村の“観察者”とやらの前坂に、さきほどの告白の件を伝えるべきかどうかということについて、俺は割と真剣に悩んでいたのだった。
 取られ方によって俺は他人のプライベートなことを無神経に暴露するただの嫌の奴と取られるかもしれない。それでもその大きな秘密を知っているのは、いまのところ世界にどうやら俺だけなのだ。
 それをどう活用するか。
 前坂が聞けばどう思うだろうか。鈴村に対する見方が変わるだろうか。それは個人的に気になったが、それでもその事実を伝える度胸は俺にはなかった。
 だから遠回しな確認をしてみる。
「前坂」
「なに?」
「もし、もしもだぞ」
「うんうん」
「その、鈴村に彼氏ができたらどうする?」
 もしも。そのもしもは俺の中では事実になっている。そんな突拍子な質問は、あきらかに怪しくて、彼女に変な誤解を与えるのも無理はなかった。
「芝野くん、告白するの?」
「は?」
「それとも、もうしたの?」
「いやいやいや、そうじゃなくて、もしもの話なんだ。俺はそんな気全然ないから、安心してくれ」
 嘘。もしもの話は存在しない。どうもこの手の嘘は苦手なんだ。俺の心が純粋すぎるからだろうか。いや、それはないな。その証拠にいまこの瞬間、こんな意地悪な嘘をついてるんだからとても純粋とはいえない。
「なあんだ、芝野くんはその気ないのか。鈴村さんに彼氏が~の話だけど、もちろん驚くとは思うけど、私には他人の恋愛を止める権限なんてないよ。そりゃ、鈴村さんが私に恋愛相談とか持ちかけてきてくれたら嬉しいことこの上ないけどね」
「そうか」
 後半は前坂の願望が入っていたものの、彼女の反応は普通とも言えるものだった。
 ただ俺が異常に反応しているだけなんだろうか。最初に知ってしまったから? なにを動揺する必要があるのか、さっぱり見当がつかない。
 1週間、2週間経って、あの二人が付き合ってるということが公然に知られるようになったら、みんなはどう思うのか。やっぱり驚くのだろうか。そして、それだけか? やっぱり鈴村も普通に恋愛するんだなって、それで終わりなのか。
「芝野くん?」
 前坂が鞄を持ったまま、俺の顔を覗き込む。そうか、帰る準備をしてたんだっけか。
「ああ、悪い。俺も下校時間前に教科書取ってくるわ」
「別に私は怒らないよ」
「怒る?」
「別に芝野くんが鈴村さんの彼氏になっても、私は怒らない。むしろ一番納得するよ。それは他のみんなもそうだと思う」
 それは遠回しにお似合いだって言ってるんだろうか。
 前坂の言葉をそう解釈して、ようやくひとつ謎が解けたような気がした。そうだ、俺はクラスの誰よりも鈴村の近くにいたような、そんな妙な自信があったんだ。それは周りが見たってわかってたことだし、俺自身も自覚があったことだ。
 だけど、あいつにも彼氏が出来て、きっとあいつにとって一番近い存在は天原になる。それだけのことに、なんで俺は疑問を感じていたんだろう。
「さっきも言ったが、俺が彼氏になるようなことはないよ」
「ふーん、そっか」
 そう、あいつにはもう彼氏がいる。

 ○

 実際のところ、北高の下校を告げる音楽はもちろんのこと「ハレ晴レユカイ」などではなく、少し暗い印象をあたえるベートーベンの「月光」であった。
 誰もいなくなった一年一組教室窓際最後尾席――まあ、俺の席なんだが、そのなかの数学教科書を回収し終え、俺が校門をくぐろうとしたとき、ちょうどその「月光」が流れたのだった。もしも「月光」と「下校」をかけているのだとしたら、選曲したやつのセンスを疑う。それならまだハレ晴レユカイの方がマシだ。
 そんな下校放送を遠くで聞きながら、こちらに向かって手を振るひとりの人間の姿も確認する。
 前坂絵美だ。
 なぜ、と俺は心臓を一度跳ねらせ、ゆっくりと自転車を押して近づいていく。どうやら俺のことを待っていたらしい。帰る方向、方法も違う。それはさっきお前から確認したことじゃないか。
「なんで待ってたんだ」
「これ!」
 バッと前坂がケータイを見せつけてくる。あまりにも顔との距離が近かったので、顔を離してピントを合わせてケータイの液晶に映る文字を読む。

“今日できた”

 メールの本文に書かれた5文字。送り主は“鈴村さん”とあった。そう言えば前坂は初めて会ったときにメアド交換していたな。実際にやり取りをしていたとは知らなかったが、登録名でも鈴村はさん付けなんだな。
「これは?」
「私がさっき『鈴村さん、彼氏とかいるの?』と送ったメールの返信」
「なっ……」
 ああ、なんてことだ。前坂がこれまでの行動派だったとは。というかそれに堂々と答える鈴村もどうなんだ。俺の挨拶メールは返信なしだったというのに。昔から居たならともかく今日できた彼氏のことを何の疑いもなく普通教えるか、普通。ダメだ、こいつらに常識なんて通じない。
「おーまいごっと……」
「芝野くん、自転車倒れるよっ」
 俺が両手で頭を抱えこんでしまったものだから、支えを失った自転車が倒れそうになる。前坂が慌てて支えたが、いっそ倒れてしまってもよかった。空しく車輪が回ってくれればよかった。ああ、神様、俺はいったいどう言い訳をすればよいのですか。
「……理由を言った方がいいか?」
「もちろん、そのために待ってたから」
 前坂から自転車のハンドルを渡される。このままこいつに飛び乗って、あの勾配の坂を駆け下りたい気分だったが、目の前に前坂が立ちはだかるものだから、そういうわけにもいかない。
「一応言っておくけど、私が聞きたいのはどうして芝野くんが鈴村さんに今日彼氏ができたことを知っているのかっていう理由よ」
「俺は鈴村に彼氏ができたなんて一言も言ってないぞ」
「あんな不自然な言動、できたって言っているようなものだよ。私、他人の“変”には人一倍敏感だから」
「それには目を瞑っていてほしかったな」
「いいから、はやく理由を聞きたいな」
 校門にて男子生徒の自転車の前に立ちはだかる女子生徒。なんという光景だろうか。横を通りすぎる生徒たちだけでなく、学校の前を往来する人々も俺達に奇異の視線をぶつけてくるが、前坂の方は大して気にしていないようだった。
 出来れば場所を移したかったが、そんなことをしたら余計に長くなりそうなので、手っ取り早く話してしまおうと決心する。
「見たんだよ」
「見た?」
「鈴村が、教室で告白されてるところ」
「見たって、芝野くんが告白したわけじゃないの?」
「まだそんなこと疑ってたのか。俺じゃないって」
「じゃあ、誰?」
「1組の、天原だ」
「あー、天原くん……」
 人付き合いの広い前坂のことだろうから、天原のことだって多少は認知しているんだろう。頷くように顔を俯けた。
「それは放課後?」
「そうだ。俺が教科書を取りに行こうと戻ったところで、鉢合わせた」
「それで図書館に……」
「そういうことだ」
 何もかも話してしまった。よかったのだろうか。
 鈴村本人が前坂に言ったくらいなのだから、おそらく大丈夫だとは思うんだが、それでも少し悪いことをしてしまったような気がする。敵の捕まって何もかも命乞いのため自白してしまうスパイというわけではないが。
「言っておくが、俺が見たのは告白されてるところまでで、鈴村がそれを承諾したのは俺もいま知った」
「うん……」
「鈴村は気にしてないかも知れないが、あんまり広めたりするなよ」
「しないよ……」
 何だか前坂は急に元気をなくした様子だった。返ってくる言葉も短いものばかりだ。
 さっきは鈴村に彼氏ができたところで平気だみたいなことを言っていたけど、やっぱりショックだったんだろうか。それとも単に驚いてるだけか。
「じゃあ、俺は帰るぞ」
 これ以上話すこともないだろうと、自転車の頭の方向を転換して、サドルに跨る。そのまま帰ろうとしたが、前坂は一向に止めようとはしなかった。

「ねえ!」

 少し進んで、ペダルを漕ぎ出そうとしたところでようやく後ろから前坂の声がした。振り向けば膝の前に鞄をぶら下げて、こっちを向く前坂がいた。
「なんだ?」
「芝野くん、私に訊いたよね。もし鈴村さんに彼氏ができたらどうするって。じゃあ、芝野くんはどうなの? 鈴村さんに彼氏が出来て、どう思ってるの?」
 俺がどう思ってるか。
 もちろん初め出くわした時は驚いたが、それで悔しさとか怒りを感じたわけではなかった。鈴村に一番近い存在だって、その妙な自信が崩れた不思議な感覚はあったが、それを正直に言ってしまうのもなんだかおかしいような気がした。
「よかったなって、思ってるよ」
 だから、きっと、それでいい。
「あいつが普通の女の子になるんだったら、よかったなって」
 それで俺も普通になれるなら。

       

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Neetsha