Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙のバレンタイン

見開き   最大化      

 胸が上下しているところを見ると、死んではいないようだ。だが、何故こんな薄着で外をうろついているんだ…?
 念の為に、いつでも走り出せるくらいの距離を取って意識を失っている石田の様子をうかがっているのだが、どうも不審な点ばかりが目に付く。
 逃亡中の石田が、何故こんなところに……?
 
 ピクッと、石田の指先が動いたように見えた。まずい。意識を取り戻したのかも知れない。僕は、さっさと警察を呼ばなかったことを後悔した。
 音を立てないように、ゆっくり後ずさる僕の耳に、小さく石田のうめき声が聞こえた。
 見つかってもいい! 逃げよう!
 走り出そうとした途端、すぐそばで悲鳴が聞こえた。悲鳴というよりは、まさに金切り声とでも言える奇声を発しているのは買い物帰りと思われるおばさんだった。
 多分、ニュースで石田の顔を見たことがあったのだろう。思い切り石田に向かって指を指して、言葉にならない言葉で叫び声をあげ続けている。
 打ち付けた後頭部を手さすりながら、石田が状態を起こし始めている。それを見て、今にもひきつけを起こしそうなおばさんの発する音が、ここで初めて日本語の形を取った。
「ひっ…人殺しぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!」

 石田がギョッとしておばさんを見た。おばさんの膝が突然カクンと折れて、その場にへたり込んでしまった。おばさんはきっと腰が抜けてしまったんだ。やつれ果て、薄汚れた衣服をまとい鬼のような恐ろしい形相をした大男が、ゆっくりまっすぐにおばさんへと向かって歩いている。
 駄目だ! きっと石田はおばさんを殺す気だ!
 大声を出して人を呼びたいのに、どうしても声が出てこない。ヒューヒューとむなしい音だけが僕の喉から聞こえて来る。足がすくんで動けない。 誰か! 誰か助けて!

 凍りついてしまったかのように動けない僕の横を、風が走りぬけた。
 風は、大男の背後から飛び掛り、大きくその足を払った。アスファルトに叩きつけられた石田の上に馬乗りになり、奴が着ているシャツの襟を掴んで締め上げている。
 暴れ狂う石田の、大きなゴツゴツした両手両足が急にストンと落ちた。
 立ち上がったのは、植木だった。

「…大丈夫か……?」
 植木は肩で息をしながら、服についたほこりを払い落とした。
「う、うん。ありがとう…」
 情けないことに、聞き取れるかどうかもわからないほど枯れきった声しか出なかった。おばさんは、植木と石田をキョロキョロと見比べている。そりゃそうだろう。長身とはいえ肉付きがいいわけではない植木が、筋骨逞しい石田を倒したのだ。余程の衝撃だったに違いない。
「殺してないから… ちょっと、気絶してもらっただけ…」
 しばらく口をぱくぱくさせていたおばさんは、植木のその言葉を聞いて安心したらしく、大きくため息をついてうなだれた。もう大丈夫そうで良かった。
「助かったよ植木。でも、何でこんなとこに?」
「ああ、ちょっと用があってさ。いきなり悲鳴が聞こえたから何事かと思って急いで声のする方に来てみたんだよ。そしたら、お前ガックガク震えてるし、こいつもいたから咄嗟にやっちゃった」
 震えている自分に気づけないほどテンパっていたのか僕は。あのまま、偶然植木が来てくれなかったら今頃僕はどうなっていたのか想像して、背筋が凍りついてしまった。間違いなく、僕は石田に殺されていたに違いない。あのおばさんと一緒に。
 植木が来てくれて本当に良かった。植木が柔道部で良かった。あの巨体をあっと言う間に倒すことができるのは、植木と亡くなった新井だけだと聞いたことがある。
 安心のあまり僕は失禁しかけたが、なんとかギリギリのところで持ちこたえることに成功した。
「警察呼ぼう」
「…そうだな。コナン、お前携帯電話持ってる?」
「持ってないんだ」
「そっか… おばさん、持ってます?」
 おばさんは口をポカンと開けたまま首をブルブル横に振った。日本人のほとんどが携帯電話を持っているというこのご時勢に、この場にいる誰もが所持していないようだ。
 
 冷たい空気が頬を掠めて、寒気が僕の身体にまとわりつく。膀胱が危険信号を送ってくるのを感じた僕は、おばさんの手を取って起こしてあげている植木に提案してみた。
「僕が職員室の電話を借りて連絡してくるよ。」 
 学校はすぐ目の前だ。もちろんトイレも。
「わかった。それじゃあ、俺はコイツを見張ってるよ。おばさん、一緒にいてもらえます?」
「嫌よ! また起きて襲い掛かってこられたらどうするのよ! ここにいるくらいなら、私はそっちの眼鏡の子と一緒に行くわ!」
 おばさんは命の恩人に、噛み付きそうな勢いでけたたましく唾を飛ばした。
「…コナン、じゃあ頼むわ」 
「あ、ああ。植木は大丈夫? 一人になっちゃうけど…」
「俺がコイツを倒したの見てただろ? なんとかなるって。ほら、目を覚ます前に行って来いよ」
 殺人の容疑者と二人きりにすることに一抹の不安を覚えたが、僕の股間の耐久メーターが振り切ってしまいそうなの植木にこの場を頼み、おばさんを連れて校舎へと向かった。




 相次ぐ事件のせいで苦情や問い合わせが殺到して、職員室には対応に追われる教師が数名いた。おばさんを引き連れ目まぐるしく動き回る教師たちを掻き分けて声をかけられそうな人を捜すがなかなか見つからない。全員が忙しくしている中、一人動きの遅い新任教師の小島を捕まえることに成功した。
「先生! 電話を貸してください! 石田先生を捕まえました!」
「ごめん、今は見ての通り皆忙しいのよ。もう夜になるから、早く帰りなさい」
 僕の声が聞こえなかったのか、言葉が通じていない。僕は、息を吸い込み大きい声で繰り返した。
「石田先生を捕まえました!! 電話を貸してください! 警察に! 連絡を!!!」
 騒々しく、大声を出したり資料をかき回したりしていたその場にいた全員が、ピタリと動きを止めて僕を見た。
「河南君、本当?」
「今植木が見てくれてます!警察に電話をしてください!」
「早くしなさいよ! 男の子がたった一人で見張ってるのよ!」
 おばさんが得意の金切り声で援護してくれた。一番奥にいた教頭が人波を乗り越えて僕の目の前までやって来た。
「それは本当ですか? 危険だ。小島先生、すぐに植木君のところへ行ってあげてください」
「わかりました。河南君、植木君はどこにいるの?」
 大声を出したことで、僕の尿意は限界に来て今にも禁断の扉を開こうとしている。
「すみません! トイレに行くのでこのおばさんに聞いてください!」
 返事も聞かずに廊下へ飛び出し、職員室の最寄のトイレに駆け込んだ。間一髪でパンツを汚さずに済むことに成功。小島に何かを愚痴っている様子のおばさんの声が、どんどん遠ざかっていくのが聞こえた。
 小島は正直言って頼りないが、植木一人でいるよりはずっといい。僕も急いで後を追わねば。その前に、さっき聞いたばかりの情報を教頭に伝えた方がいいかも知れない。石田が体育館裏の用具要れに出入りしていたことを。
 
 終わることがないのかと思うほど長い小便を終えて、手を洗う。何気なく鏡に映る自分を見上げて、僕はハッとなった。
 父の遺影にそっくりだ。
 10年も前の僕の記憶はすっかり色あせ、父の顔は毎日挨拶をする仏壇の真上の天井に掲げられた一枚の写真で確認している。その眉毛、目、鼻も顔の輪郭も、僕のそれはそっくりになっていたのだ。
 
「お父さんに似てきたな、河南」
 トイレから出てきた僕を待ち伏せていた教頭が、たった今僕が思っていたのと同じことを言ってきた。
「…親子ですから」
「いやあ、こんなにも似てくるものかと感心してな。お母さんは元気か?」
「毎日一生懸命働いてくれてます」
「そうか… お前も大変だな。よろしく伝えてくれ」
「ありがとうございます。あの、僕も植木のところに行きたいんですけど」
「今はやめておきなさい。何かがあったら困るからね。植木は小島が連れてくるから、河南はそれまでここで待っていなさい」
 頑固で有名な教頭の命令は絶対だ。植木がすぐにでも来てくれることを祈るしかできないということか。
「……わかりました」
「新井に江崎に小野… この学校はどうなっているんだろうな…」
「僕の父もです」
「!…… そうだな… お前のお父さんも、この学校で亡くなったんだったな…」
 勤続年数が誰よりも長く、数十年この学校と共に歴史を刻み続けてきたこの男が忘れているわけなんかがない。
 父さんが命を落とした、あの日のことを。
「河南、あの…お前のお父さんの事故のことは…」
「石田先生が見つかったことで、事件が解決すればいいですね」
「……そうだな」
 言葉を遮る僕と教頭の間に、微妙な空気が流れる。
「そういえば、石井先生は体育館裏の倉庫に出入りしていたらしいですよ。見た人がいたって聞きました」
「何!? あそこは鍵をかけてあったはず… いや、管理していたのは石井君だったな。そういうことか…。ひとまず、確認してこよう」
「僕も行っていいですか? 職員室に戻っても邪魔になると思うので」
 少しだけ興味があったので、思いつくまま言ってみた。どうせ断られるものと思っていたのだが、教頭の答えは予想外のものだった。
「…いいよ。一緒に行こう」
 
 一度上着を取りに行き、すぐに戻って来た教頭と二人で倉庫に向かった。
 外に出た瞬間、遠くでパトカーのサイレンが聞こえて来た。
  


 

       

表紙
Tweet

Neetsha