Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙のバレンタイン

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 木造の古びた倉庫は立て付けが悪く、二人がかりの力づくで、なんとかこじ開けることができた。
 スライドさせた扉のすぐ横にきちんと積み重ねられた高飛び用のマットの上に、大ぶりの南京錠とその鍵が無造作に放置されている。
「これは……」
 先に中に入った教頭の笹本が息を飲んだ。
 だいたい10畳くらいのこの倉庫の真ん中には分厚い毛布と馬鹿でかい冬用のコート、コンビニ弁当のゴミや飲料水のペットボトルが散らかっていて、石田がここを根城にしていたのは一目瞭然だった。
 汗と、成人男性特有の体臭と何か腐ったような酸っぱい匂いがこの空間に充満していて、おそろしく不快な気分になってしまう。

 ……待てよ。コンビニ弁当?
 石田の顔写真はそこいらのコンビニに配られていたはずだ。しかも、石田はここに潜伏していたのだから遠くのコンビニで購入したと考えるのは難しい。となると、誰か別の人間が弁当や水を石田に渡してやっていたことになる。協力者は一体誰だろう…

 僕が思案しているその横で笹本が呆然と立ち尽くしている。
「警察が来るまで、手は触れない方がいいですよね」
「ああ… そうだね。あれは宿直室から盗まれた毛布だ。石田君はずっとここに隠れていたのか…」
 冬場に外の倉庫の出入りをするのは陸上部や野球部、サッカー部など屋外の体育会系の部活くらいなものだ。しかも、今は相次ぐ事件のせいで休校が続いて部活動どころではない。その隙を付いて、石田はここに居つくことを決めたのだろう。『灯台下暗し』とはよく言ったものだ。
「さっきサイレンの音がしてましたから、警察が到着したんじゃないですか? 戻りましょう」
 植木のことが気がかりで僕はすぐにでもこの場を後にしたかったのだが、笹本が僕の袖口を掴んで引きとめた。
「待ってくれ。話がある」
「…何ですか?」
 笹本はこちらに向き直り、背筋をまっすぐに伸ばして深々と頭を垂れた。
「すまなかった! ずっと、君に謝りたかったんだ!」
「………………」
「そのために、ここに君を連れてきた。後生だから、どうか愚かな私を許すと言ってくれ!」
 笹本の謝っていることが何に対してなのか、すぐに理解した。しかし、僕は笹本に何の言葉もかけなかった。顔を上げた笹本はすがりつくような目をしている。
「あの時… 君のお父さんの事故の時のことを、私はずっと悔やんでいたんだ。何故、あんな証言をしてしまったのか」
「何故も何も、理由なんてひとつしかないじゃないですか。あなたは学校の名前を守ることを選んだんだ」
 知らず知らずのうちに言葉が勝手に飛び出してしまった。10年間溜め込んできた思いが、堰を切って流れ出す。
「『事故』と言いましたね。あなたは僕に謝罪しながらも、まだ『事故』だと言う。あれは『事故』なんかじゃない、『事件』だ! 知っていたくせに… あなたは、学校の不祥事を隠したくて嘘の証言をしたくせにまだそんなことを言うのか!!」

 
 僕の父は、10年前、この学校で殺されたのだ――――――


 10年前のバレンタインデー、父は教師として勤務していたこの学校にある人物から呼び出され、とある教室に向かった。
 大雪だったその日、手作りのチョコレートを準備して父の帰りを心待ちにしていた母と僕に届けられたのは、父の死を報せる病院からの電話だったのだ。
 父は教室で転倒し、その際後頭部を机に打ち付けて脳内出血で亡くなったそうだ。
 父の机にしまってあった呼び出しの手紙には差出人の名前があった。母はそれを持って学校に訴え出たのだが、応対したこの笹本は筆跡を調べると母を騙し、手紙を握りつぶして事件を隠蔽してしまったのだった。
 長年教鞭を取っている人格者で有名な教師と、一介の主婦と小学生の意見では誰しもが前者を信じるだろう。僕たちがいくら警察や周囲に訴え出ても、誰も僕たちの話を聞いてくれなかった。
 笹本が『あれは事故だった』と断定したその瞬間に、事件はなかったことにされてしまった―――――

「あなたは保身しか頭にないんだ。今も、昔もあなたを信じることはできませんよ笹本先生。僕も母も、あなたを許すことは永遠にありえません」
「私だってずっと苦しかった。しかし、私は生徒たちを守らなければならない立場にいるんだ。学校の関係者の不祥事で子供たち未来に傷をつけるのは忍びなかった。君も教師の息子なら、わかってくれるだろう?」
「あなたの謝罪は贖罪のためなんかじゃない。自分が許されることで、苦しみから解放されたいだけじゃないですか!」
「すまない、君たち親子にはどんなに謝っても足りないことはわかっている。確かに、あれは事故なんかじゃなく事件だった。犯人を隠したことも認めるよ。だが仕方なかった。ああするしかなかったんだ」
 
 僕と母が、あの時どんな思いをしてきたか。今までどんなに苦しかったか、この男は全く理解していない。毎年毎年、この季節になるたびに母がどんな顔で父の仏壇に手を合わせてきたのか。
「お願いだ、どんなに罵倒してくれてもかまわない。どうか許してくれ」
「あなたがどう言おうと許しません。今更……こんなタイミングで言うなんて卑怯過ぎる…」
「すまない… すまない…」

 笹本も僕も、それきり口をつぐんだ。
 夕闇が倉庫内にひっそり忍び込み、夜をまとって辺りを暗く染め始めている。
 遠くからバタバタと誰かが駆け寄って来る音が聞こえて来た。
「教頭先生! 大変です!」
 先程石田の様子を見に行ったはずの小島が、汗びっしょりで現れた。
「小島先生、石田先生はどうしたんですか?」
 笹本は教頭の仮面をかぶったかのように、キリッとした表情になった。
「それが… ちょうど、私が行った時に逃走してしまったようなんです。入れ違いに到着した警察の方々が、後を追っています」
「植木君は!? 無事なのか?」
「はい。でも石田先生に突き飛ばされたみたいで、今保健室に連れて行ってもらっています」
 なんてことだ。石田がまた行方不明になっただなんて。
「ひとまず私も行こう。どうやら石田君がここにいたことは間違いないようだ」
 力強く小島とうなづきあい、笹本は僕に一瞥をくれた。
 僕が決して心を動かさないことを察したようで、寂しそうに息をもらしたが僕は何の反応も示さなかった。
 教師二人は全速力で立ち去り、僕一人だけが悪臭立ち込める暗い倉庫に取り残されていた。

 植木が気になる。僕も校内に戻ろう。
 倉庫の扉を開け放したまま戻りかけた僕の目の端に、何かが映った。
 倉庫の壁に小さく埋め込まれた窓の下に、少し不自然な一箇所がある。そこだけ、微妙に色が違うように見えたのだ。
 なんとなく気になって、僕はそこを指で掘り起こした。
 冷えて固まっている土は鋭く僕の指に噛み付いた。それでも掘り進めて行くと、土で汚れたバスタオルが出てきた。何かをくるんでいるようだ。
 そっと布の端を掴んでめくると、そこには黒い血がこびりついた万能包丁が鈍く光っていた。これはきっと、江崎を指した凶器に違いない。
 一人でいることが急に恐ろしくなってしまい、僕はあわてて包丁とタオルを戻して、土を元通りにかぶせた。
 作業が一通り終わったところで突然何かが震える音が響き、僕は飛び上がってしまった。
 振動音は倉庫から聴こえて来る。戸口に首だけだして覗き込んでみると、どうやら音はすぐ近くから発せられているようだ。倉庫内を見回した後、南京錠の置かれたマットの間にはさまっていた携帯電話を発見した。
 石田は、どうやらこの時間にアラームをセットしていたらしかった。

 僕は経済的な余裕もないので携帯電話を持っていなかったのだが、漫画や小説である程度の知識は持っている。
 この携帯電話を調べれば、協力者が誰かわかるかも知れない。
 恐る恐るボタンを操作し、電話の履歴画面を開くことに成功した。

 
 …やっぱりそうか……。
 そうではないかと予測はしていたが、違っていて欲しいと願っていた名前がそこにあった。




      植木 歩

 

 と――――――――――。



    

       

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