Neetel Inside 文芸新都
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人妻の独白
始まりの掲示板

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 私、早川美貴は三十を超えたばかりの専業主婦。二十六の時に結婚し、夫婦生活を始めて四年が経った。
夫の早川光一は三十四歳の会社員。役所などにシステムを納入する大手電子機器メーカーに勤めており、経済的に安定した生活を送らせてくれている。歳のわりに顔つきは若々しく、ハンサムと言えるかもしれない。なにより、出会った時から彼はとても優しい。
 出会いのきっかけはありきたりなコンパだった。そのとき私はOLをしていて、友達から「勝ち組の男つかまえたら将来安泰よ」などと半ば強引に誘われ、そこで知り合ったのが夫だった。何の趣味も持たない平凡なOLだった私が彼と打ち解けられるようになったのは、一つの共通した理由からだった。
 それは互いに兄がいて、結婚してすでに後継ぎの子供がいたという点だ。そういう境遇なので、親族から結婚を急かされなかった結果、三十近くまで彼は結婚相手を探さなかったのだと言う。私も同じで、付き合った男性くらいはいたけれど結婚を考えたことはなく、まだまだ遠い未来のことだと思っていた。そんな私が初めて結婚を意識したのが夫というわけだ。
 夫は優しい。はっきり言って文句のない、完璧な旦那様だ。平日は一生懸命働き、家で愚痴をこぼすこともない。休日はショッピングを兼ねてドライブを楽しむ。連休には宿をとり旅行に連れていってくれる。夫婦の営みだって自然に回を重ねている。そこに愛はあって、私は幸せな妻なのだ。
 しかし、家事を終えたあとの空白の時間はどうしたって空虚だ。主婦の暇つぶしなんて、だいたいはテレビを眺めているくらいしかない。それなのに昼間の時間帯はどうしようもなくつまらない番組ばかり。世の旦那さんを悪者にする話か、有名人のスキャンダルを追いかけまわす話か、食べ物の話の繰り返し。夫に満足していて、タレントの騒動に関心を持てず、甘いものもそれほど食べない私にとっては苦痛としかいいようのないものばかり。あとは外に出ると言ってもお茶をしに行くか、買い物ついでの散歩くらいしかない。選択肢は驚くほど少ないのだ。働いていた頃の私から見たら羨むような日々だけれど、そんな日常が四年も続くと、暇を持て余し気味になってくるものなのだと身を以て自覚した。
 その四年前、結婚を機に私たちは目黒区にマンションを買った。そこの五階が今の住まいというわけだ。お互いの両親がかなりの額の頭金を出してくれたことで購入にこぎつけることができたマンションは、閑静な高級住宅地というだけあって、住人のほとんどは収入の安定した年代の人たちで構成されている。若い夫婦もいるにはいるけれど、共働きのようで朝早くから出勤している様子を見かける。私と同じような年齢で午後のほとんどを怠惰に過ごす住人は見かけない。友達のつくりようがなかった。
 そんな時ふと思うのだ。子供がいたらまた違うのかな、と。どこかにママ友達を見つけて、お喋りや育児に追われれば暇を感じることもないのかもしれない。こういうとき、本当に心から赤ちゃんが欲しくなる。
 四月になったばかりの、ある夜のことだ。
「あなた。そろそろ私、赤ちゃんが欲しい」
忙しい三月の決算期を終え、彼との夜の回数も増えていた頃、私は思い切っておねだりをした。
「そうだなあ……でも、今のままでも十分じゃないか」
彼は私を優しく愛撫しながらそう言った。
「私、もう三十よ。子供をつくるならもうゆっくりしていられない歳だと思うの」
「慌てることなんてないよ。お互い欲しくなってからでいい。今までもそうだったじゃないか。ただ、俺はまだ君と二人でいたいんだよ」
そう囁かれ、優しくも力強く抱きしめられると、私は何も言えなくなってしまう。彼に説き伏せられてしまうのだ。
 ひと通り愛撫が終わると、彼はベッドサイドのコンドームに手をやった。結婚する前も、結婚してからも、彼はセックスでそれを欠かしたことがない。一枚の膜を隔てて愛しあう君の理性をときに寂しむ。ふと、いつか読んだ女性歌人の歌を思い出した。
「そんなのいらないのに……」
私が恨めしく言うと、理性的な彼は少し切なそうな顔をするのだった。

 明くる日にも怠惰な午後はやってくる。この日の家事も終え、部屋の中で私はただぼんやりとしていた。
思い出すのはプロポーズされ、婚約も決まり、夫婦になってからの計画を二人で話し合っていた頃のこと。あのときの私は幸せの絶頂であり、何もかもが良い方にとんとん拍子で進み、そこに甘え、浮かれていた。二人で話し合っていたなんていうのは形だけで、私は頼もしい彼に付いていくだけだった。そんな彼が言った言葉を思い出す。
「今は仕事が面白い時期だし、美貴との新婚気分を長く味わいたい。子供をつくるのはまだ先でいいよね」
ちょっと前までは思い出すだけでとろけそうなくらい甘い言葉だった。今は、ほんの少し不安になる。あれから四年が経った。「まだ先」って一体いつになるのだろうか。
 私はふと思い立ち、パソコンの電源を入れた。
自分と似たような境遇で悩んでる人はいないか、インターネットを使って探してみたくなったのだ。悩んでいるなんて大げさだけど、要するに誰かと話をして気を楽にしたかっただけ。そういう話をできる友達がいない私には、ネットで探すしかないのだ。
 さっそく「子作り 不安」なんてキーワードで検索をかけると二十万件もヒットして驚いた。調べてみて初めて分かったけれど、子供のことで悩んでいる奥さんはとても多いようだった。そのほとんどは、子作りをしているのに夫や自分の体質から赤ちゃんができないという類のもの。あるいは金銭的な理由から子供をつくることに悩んでいるといったものだ。夫婦共に問題ない身体状況で、金銭的にも余裕がある私にはなんだか立ち入ってはいけない話題ばかりで戸惑った。
 ゆっくり時間をかけて色々なブログや掲示板を見て回っているうちに、私は一つの書き込みを見つけた。
「結婚したはいいけど、旦那が子供つくる気なくて夫婦仲の危機な人。お話しませんか」
そこは主婦の情報交換のための小さな掲示板だった。夫婦仲が危機だとはこれっぽっちも思わないけれど、これまで見て回った中では一番私が立ち入りやすい話題だと思った。書き込んでいるのは三十一歳のカナエさん。歳も近い。私は彼女に返事を出すことにした。
「結婚して四年になります。夫にも生活にも満足しているのですが、子供をつくらない日々に悩んでいます。ぜひお話させてください」
そして少し考えてから、三十歳ショウコと付け足した。ショウコは私が似てると言われる一昔前の歌手から取ったものだ。わざわざ本名を語る必要はなく、思いつく偽名といったらこれしか浮かばなかった。
 カナエの返事は思っていたよりも早かった。買い物に出掛け、帰ってからパソコンに戻るとすでに書き込みが追加されていた。まさか今日中に反応があるとは思っていなかった。
「ショウコさんお返事ありがとう。話せる仲間がいて嬉しい。とりあえず話題が話題なので、よかったら二人だけでチャットをしませんか?」
 そうしてカナエはよく使うのだというチャット広場へと私を誘導した。一連のことから、カナエがインターネットに慣れているのが分かる。仕事を辞めてから、私はめっきりパソコンに触れる機会を失っていた。タイピングが遅かったら失礼にならないかな、なんてどうでもいいことを考えながら、私とカナエのやり取りは始まった。

       

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