Neetel Inside 文芸新都
表紙

人妻の独白
下り坂

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 『ハッピーチェンジ』はカナエの言ったとおりシンプルで健全な出会い系サイトだった。「恋人や結婚相手と出会いませんか?あなたの真面目な出会いをサポートします」というサイトの売り文句は、まるで結婚支援サイトのよう。不倫や援助交際といった、私が勝手に抱いていた黒いイメージとは程遠い雰囲気であった。
 女性用の入り口をクリックすると、すぐに男性の書き込みの羅列が表示された。新しいものから古いものまで数えきれない量で、今日書き込まれたものだけで百件は超えている。そんなに多くの人が出会いを求めているものなのかと私は驚いた。ただ、その大半は三十代以上によるもので、お金を払っての割り切りの関係を求めるものばかり。「真面目な出会い」なんて謳う表向きと、実際の中身はまったくの別物だった。
 ひとつひとつ見ていくのは馬鹿らしいので、私はカナエのアドバイスどおりに条件をかけて絞り込むことにした。年齢は二十代、地域は東京、目的は雑談。「最近の出会い系は検索機能が充実していて、ピンポイントで出会いたい子を見つけられるから便利なのよ」とはカナエの弁だ。
 無数の書き込みからこの条件で絞り込んでも、まだたくさんの書き込みが残った。その中でぴんときた男の子にメッセージを送ればいいのだという。正直なところ誰でも良かった私は、とりあえず最新の書き込みをした男の子を選んでみた。
 彼は二十歳の大学生、ユウキ。
「大人の女性と話がしたくて書き込みます。僕は年上のお姉さんが好きなんです。ぜひメル友になってください。よろしくお願いします」
 ユウキはちょうどよく年上との出会いを希望していた。添付されている携帯写真を見ると、文面の印象そのままという感じの、眼鏡をかけた大人しそうな男の子だった。歳の差が十もあることは気になったけれど、私は思い切って彼にメッセージを送ってみることにした。
「こんにちは。私は三十歳のショウコといいます。私も年下の男の子とお話がしたくてユウキくんを見つけました。よかったら私のアドレスにメールください」
 この短い文章とアドレスを書き込むのに、私は十五分の時間をかけた。送信するのも少しためらい、えいっとクリックした時は、ちょっとした興奮が私に訪れていた。なんだかあっさりしているけれど、とうとう私は出会い系サイトに手を出してしまったのだ。音を立てて鼓動する心臓。平日の昼間にこんなにどきどきしたのは久しぶりかもしれない。
 やがてユウキから返事があった。
「はじめましてショウコさん。ユウキです。まさか本当に返事が来るなんて、とても嬉しいです」
 絵文字が付け足されたメールからは、彼の歓喜している様子が伝わってきた。そうなると私だって嬉しくないわけがない。私はまだ心臓をどきどきさせたまま、期待が少しずつ膨らんでいくのを感じていた。

 チャットで会話するユウキは、やはりイメージ通りの男の子だった。控えめで、ところどころ口数も少ない。それでも素性の分からないネット上だからこそ彼は女性としゃべれるのだという。ある程度の会話を交わして時間が経つと、彼は安心したのか自分のことを話すようになった。
>僕、全然モテないんです。好きな女の子に告白してもフラれ続けて、そのうち同世代の女の子に引け目を感じるようになっちゃって。怖いんですよ
>それで年上好きになっちゃったんだ
>年上の人なら、下に見られて当然というか。少し落ち着いて話せるんです
>でも私はちょっと歳が離れすぎてるんじゃないかな。ユウキくんからしたら、私はおばさんでしょう?
>全然そんなことないです。おばさんなんて言葉は四十歳くらいからで、ショウコさんはお姉さんって感じです
 思わず、うふっと声が出た。お姉さん。兄を持つ妹として育ってきた私にとってそれはなんとも新鮮な響きだった。年下の男の子にちやほやされて、のぼせ上がりそうになる。
>おだててくれても何もしてあげられないよ
>おだててなんかないですよ。ショウコさんから返事が来た時は、本当に嬉しかったんです
>ふふ。実は私、今日初めて出会い系サイトを使ってみたの。最初の人がユウキくんでよかったな
>本当に?ショウコさんの初めての話し相手だなんて、なんだか光栄です
 素直なユウキの言葉は、いちいち私を喜ばせた。
 その日は結局、二時間近くも話し込んだ。カナエとのチャットも含めると、午後のほとんどはパソコンの前にいたことになる。同じ姿勢のまま興奮と緊張の中で普段使わない筋肉を使ったからか、伸びをすると心地良い疲労感があった。

 私と彼の関係は翌日も続いた。私はすっかり夢中になり、午前中から自由に使える時間のほとんどを彼とのチャットに充てていた。ユウキはユウキで平日は大学があるはずだけど、「講義に出るよりショウコさんと話してる方がずっと楽しい」とサボったようだ。「学校はちゃんと行かないとだめだよ」なんてお姉さんぶったことを言ってみたりもしたけれど、内心はそこまで私に熱心になってくれるのが嬉しかった。
 ユウキは穏やかで、少し臆病な青年だ。彼が私の機嫌をうかがいながら会話していることは文字を通じて伝わってくる。変に気を遣うからか、言葉を選びすぎるせいで妙な言葉遣いになっていたり、女性との会話に慣れていないようだった。これまで一度も女性と付き合ったことがないという打ち明けもどうやら本当のことだろう。写真を見た限りでは女性が引いてしまうような容姿というわけでもない。「自信を持って告白すればきっとすぐに彼女できるよ」と励ましてみたけれど、彼は曖昧に返事をするだけだった。
 それから結構な時間が経っただろうか。私はすっかりユウキへの興味でいっぱいになっていた。話す内容なんて、中身がなくてもいいのだ。三十歳の人妻と二十歳の大学生の間には、お互いのなにげない日常の話だけでも新鮮に映るものだ。
 やがて私にある感情が芽生えた。実際にユウキと会って、話をしてみたくなってしまったのだ。出会い系の男と会うという危険性や恐怖心は、彼の誠実で穏やかな性格によってかき消されていた。もちろん会ってなにをしようというわけではない。文字だけの会話ではなく、ちゃんと顔を合わせてゆっくり彼と話がしたい、ただそれだけのこと。
 時刻はまだお昼を過ぎたばかり。私は思い切って書き込んだ。
>ねえ、ユウキくんはこれから予定ある?
>午後の講義があるけど、ショウコさんとチャットできるならいくらでも休みますよ
>うーん、サボりは本当はよくないんだけど。でもそれは置いといて。よかったら、私と会ってみる気はないかな?
 我ながら唐突でストレート。なかなか彼から返事が来ないものだからアプローチを間違えてしまったかと慌てたけれど、どうやら慌てたのは彼も同じのようだった。
>なんて返事していいか迷っちゃって。僕もぜひ、ショウコさんに会いたいです。でも会ってガッカリさせたらどうしよう
>そんなこと気にしないで。ちょっとお茶しながらお話したいだけだから。ね、気軽に考えてみて
>そうですね……。分かりました、なんとか気軽に考えてみます
 そのとき私の頭に、気軽に考える方法について深く考え込むユウキの姿を想像して、ちょっとだけ可笑しくなった。真面目な男の子のかわいらしい部分はこういうところにあるのだろう。
 それから私たちは待ち合わせる場所と時間を決めた。午後二時に渋谷のハチ公前。ベタだし、人の多いところでちゃんと会えるのか不安もあるけれど、私が無理を言ってお願いした。ハチ公前で待ち合わせをするのは実は初めてで、一度、誰かとあそこで待ち合わせるというイベントを味わってみたかったのだ。
 出会い系サイトを使って、夫以外の男と会う。よくよく考えるとすごいことをしているけれど、実情はちょっとおしゃべりするだけ。彼がどんな雰囲気の男の子なのか知ることができればそれでいいのだ。でも、このときの私はちょっと気軽に考えすぎていたのかもしれない。

     

                    ※
 渋谷の街は思っていた以上にたいへんな混雑だった。センター街前の交差点には数えきれないほどの人が集まり、それらが思い思いにしゃべるものだからざわめきが絶えない。ハチ公前はそれが特に顕著で、溢れんばかりの人の渦ができていた。この一角だけで、いったいどれだけの人が待ち合わせをしているのだろうか。
 私はそこから少し離れた壁に寄りかかって時間を待っていた。落ち着かないからか、やたらと周りのことが気になってしまう。
 この日は少し暖かい日だったから、私は春物の薄着を身にまとっていた。メイクはそれほど時間をかけたわけではないけれど、スカートは少し短くヒールまで履いて、私にしては気合が入りすぎた格好。周りが気になると、自分のことまで気になってしまうものだった。
 約束の二時が迫り、私は周囲を見渡した。人が多すぎるので無意味に背伸びをしてみたりもする。ほとんどの人が携帯電話を眺めながら下を向いている中、顔を上げ、不安そうに辺りに目を配っている男の子を見つけた。彼がユウキであることはすぐに分かった。雰囲気から顔つきまで、携帯写真で見たとおりの彼だったからだ。私は、はやる気持ちを抑えながら近づいた。
「ユウキくんかな」
 私が声をかけると彼はこちらに気づいた。その視線は私の顔から足元までを上下し、すぐに信じられないというような顔に変わった。それが好意的なものであることはなんとなく分かる。彼の反応は素直で、単純だった。
「はい、あの……ショウコさんですよね?」
「ふふ、こんにちは。ひょっとしてユウキくんの想像と違ってたかな」
「いえ、その、思っていたより綺麗で、びっくりしちゃって……」
 そう話すユウキと目が合うと、彼は緊張の面持ちでうつむいた。どうやら思っていた以上にうぶな男の子のようだ。そういう子にいきなり綺麗だなんて言われると、こちらも必要以上に意識してしまいそうで困ってしまう。
「とりあえず、お茶しに行きましょう。話はそれからゆっくりしようね」
 私たちは早めにこの場所から離れることにした。ここでは人も多く、話し声がかき消されてしまう。それに私とユウキの違和感のある会話は周囲の目を誘ったようで、何人かの男の人から邪推するような目を向けられた。どうやらハチ公前は思っていたよりも待ち合わせに向いていないようだ。いい教訓になったかもしれない。
 しばらく歩き、私たちは近くのカフェに空席を見つけた。コーヒーブレイクをしながら改めて挨拶を済ませると、彼もようやく落ち着いてきたようだった。
「本当にびっくりして、まだちょっと心臓がどきどきいってます。ショウコさんは僕が思っていたイメージを思いきり美人にした感じで、なんていうか……まだ信じられません」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいな。ユウキくんに会えてよかった。会ってみたいって言い出したのが急だったし、もしかしたら来てくれないかもって思ってたの」
「実はちょっと迷ったんです。僕、基本的に女性と話するの苦手だから……」
 彼はそう言いながら、ちらちらと盗み見るように私の様子をうかがっていた。その視線が私の胸元に集中しているのは少し気になったけれど、それも愛嬌なのだろう。正直に言うと、若い男の視線は私をいい気持ちにさせていた。
「でも勇気を出してよかったです。ショウコさんみたいな美人とこうしてカフェで話をしてるなんて、数日前の僕には考えられないや」
「もう、さらっと口説いてくれちゃって。本当に女の人が苦手なの?」
「あっ、いや、ごめんなさい。調子に乗りすぎました……」
 少しからかっただけで彼は顔を真っ赤にして身を縮めた。そのいじらしくて愛らしい挙動に私の琴線はくすぐられてしまう。だって年下の男の子と会話をする機会なんて、この歳になると本当にゼロに近いのだから。
 カフェを出た私たちは、用もなく街を歩いた。渋谷は道幅も歩幅も広く、意外に緑も多い。今まで目に入らなかった景色が、となりに若い男の子がいるというだけで鮮やかに映る。私たちは肩を抱いてもいないし、手を繋いでもいなかった。ただ相手の歩く速さに合わせて、肩を並べているだけである。それでも何気なく交わす会話が楽しかった。目についた雑貨屋に入ってみたりすることがなにか特別なイベントのようなことに感じられて、年甲斐もなく心が踊ってしまう。ショッピングは一人よりも誰かといっしょの方が絶対に楽しいものだ。
 宇田川町から道玄坂上の辺りまで歩いた私たちは、小さな公園のベンチに並んで腰を掛けた。途中で買ったアイスクリームは舌が痺れるほど美味しい。私はすっかりデートを満喫していた。
「結構歩いたね。いろいろ付き合わせちゃって、ごめんね」
「いやあ。渋谷なんてめったに来ないから新鮮でした。それに、ショウコさんと一緒だから楽しいです」
 彼はまっすぐ私を見て言った。私は思わず照れてしまい、意味もなく足を組み直してしまう。彼の口下手はすっかり解消されたようだった。
「あの、一つ質問いいですか」
 彼は真面目な表情を崩さずに続けた。今までのユウキとは違った雰囲気に、私は少しどきっとしてしまう。
「なにかな。なんでも聞いて」
「それじゃあ。ショウコさんは、どうして出会い系なんか始めたんですか?」
「えっ。それは……」
 それは、退屈な主婦の暇つぶし。刺激が足りないから若い男の子と話がしたかった、ただそれだけのこと。チャットのときにすでに話題にしていたことで、彼はそれを知っているはずだった。
「ショウコさん。僕、お願いがあるんです。僕はまだ女の人とエッチしたことがなくて、それで……ショウコさんさえよかったら、僕の初めての人になって欲しいんです」
 アイスを握る手が、思わず緩みかけた。彼の突然の告白じみた言葉に私は思いっきり動揺してしまい、頭は回らず、言葉も出なかった。周囲に人がいないせいで、黙ったままお互い見つめ合うと時が止まったように思えた。
「えっと……それはダメよ。ごめんね。私、そういうつもりじゃなかったの」
 私は搾り出したような声で言った。
「僕は、そういうつもりでした。大学の子に声をかけられないから、出会い系で話をしてくれる女の人を探して、そういう人とできたらなって思ってたんです。僕、ショウコさんに一目惚れしました。優しくて綺麗で、だから……お願いします。ショウコさんに断られたら僕は悔やんでも悔やみきれません」
 彼の表情には、今にも私を押し倒しそうな勢いがあった。
 私だって生娘じゃない。出会い系を使う男の子がデートだけで満足するはずもなく、そういう目的を持っていることくらい分かっている。大人しいユウキも例外なく男なのだ。彼が事あるごとに私の胸やお尻を盗み見ていたのも分かっている。
 ただ、それを知っていることと受け入れることは別の問題だ。
「ごめんなさい。それだけは、どうしても……」
「……わかりました。そう、ですよね」
 彼はあっさりと身を引いた。そして先ほどの言葉を悔いるように頭を垂れた。
「いきなり失礼なことを言ってごめんなさい。僕、どうかしてました。ショウコさんとのデートがすごく楽しくて、なんか一人盛り上がっちゃって……本当にごめんなさい」
 不思議だった。ユウキが身体の関係を欲したことよりも、私は今こうして落ち込む彼を見ることのほうが辛かった。
「私もユウキくんといっしょにいて楽しかったよ。ね、顔をあげて」
「はい……」
 彼は私の言葉に素直に返事をするけれど、やましさからか、もう私の目を見ることができなくなっていた。そんな彼の態度は私の心をきつく締めつける。忘れられたアイスは彼の今を映すかのように、無様に溶けて地面に滴れていた。

 公園を離れてからの帰り道、無言のまま私は考えていた。となりを歩く彼は、男としてこれからどうなってしまうのか。
 出会い系はもうやめてしまうかもしれない。唯一まともに会話できる手段だったチャットやメールも、やめてしまうかもしれない。誰か女性の方から彼に出会いを求め、話しかけ、手を差し伸べない限り、彼はもう二度と女性と話をしない人になってしまうのではないか。そんな余計な心配をしながら、私は悪い方へ悪い方へと考えるばかりだった。
「ショウコさん」
 急に話しかけられ、私は慌てて顔を上げた。
「あの、そんなに深く考えないでくださいね。最初から無茶だって分かってましたし、正直、もう忘れて欲しいくらいで。ショウコさんが気にすることないじゃないですか」
 彼は努めて明るく振舞っていた。それが作ったものであることはすぐに分かる。デートしていたときに比べたら雲泥の差だ。
 本当は嬉しかった。若い男の子に求愛されて嬉しくないはずがなかった。それに、公園に来る前から私は彼の気持ちに気づいていた。彼の、私に対する男の視線に気づいておきながら、私はなにも知らないふりをしていた。
 私は急に、自分がとんでもなくいやらしい女のように思えた。汗ばむからと理由をつけて男を誘うような格好をし、それでそんな気はなかったなんて。おかしな話だった。
「あ、ショウコさん……この辺は歩くのやめましょう……」
 道玄坂を下って歩いていた私たちは、気づくとラブホテル街の見える位置まで来ていた。気まずそうな彼はそれを避けたいようだった。
 そうね、と答えた私は上の空だった。頭の中にラブホテルという単語だけが回り始める。歩くたびに聞こえるコツ、コツ、というヒールの音が、静まりかけた私の女を焚きつけるようだった。
 私はユウキの手を握って立ち止まった。自分でも驚くほど落ち着いているのが分かる。そのまま口を彼の耳元に近づけ、私は囁いた。
「ホテル、行きましょうか」

       

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Neetsha