Neetel Inside ニートノベル
表紙

ようせいたん
i.幻想世界

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■幻想世界

 ――僕は、思うんだ。

 ――僕はきっと、妖精なんだって。


 だって、僕は人間と仲良くなんてできない。
 彼らとはきっと違う生き物。
 いつだってそう。彼らは卑しく笑って、僕みたいな相容れないものを蹴落とす。
 僕が何をしたというのだろうか。ただ、人間より少しだけ頭が良くて、少しだけ運動神経が悪くて、地味で、そして臆病なだけなのに。
 彼らの、捉えた獲物を見つめるような、小さな子供がトンボの羽を毟ろうとしているような、恍惚とした眼差し。間違いなく僕に向けられていたその眼差しを忘れようと、学校の帰り道、お気に入りの隠れ家へと向かう。


 古来より妖精は、自分たちの子供と人間の子供を取り替える、特別な儀式を行ってきたと伝えられている。妖精の目的は分からないけれど、人間の子供を連れ去る代わりに、人間界に自分たちの子供を置いていく。そして、妖精の子は人間のお母さんに育てられ、ほとんど気づかれることはない。妖精は、何を思ってこんな世界に子を残していったんだろう。幸せを願って?それとも別の子供が欲しかったから?
 僕も恐らくその一人。でもやっぱり、他の人間とは少し違うし、幸せだなんて少しも思えない。お母さんはすごく優しくしてくれるけれども、だからこそ、学校でのことを話して心配させたくないし、ましてや自分が妖精だ……なんて言えない。
 でも、妖精の子が大きくなると、ある日突然、妖精界から迎えが来ることもあるらしい。いつか僕にも来てくれない――かな。


 帰り道、シャッター通り。閑散とした街並みに映える夕焼けと、ほんの少しの茜雲。
 こんな景色は好きだ。駅前の人ごみなんかより余程。
 冷たい風が吹き付け、木の葉を舞わせる。
 僕は足早に一軒の古本屋へと入る。

 この本屋は二階建てになっていて、一階には見る人の多い漫画や一般書籍が置かれている。人通りの少ない立地にあっては客足も伸びなさそうなものだけど、近所に大手の古本屋がないこともあり、お店を維持できる程度には客が来ているみたいだ。
 僕は、人当たりの良さそうな初老の店主を一瞥し、二階に上がった。

 鼻を包む、紙と糊の匂い。
 暗がりを照らす、しかしながら薄暗い照明。
 ここには僕以外、ほとんど来ることはない。
 一面の本棚に積まれたどれもが、茶色っぽくなった分厚い本。
 この店の主人の趣味らしい、様々な世界の、幻想のお話。
 水晶窟の竜。珊瑚の森の人魚姫。
 さっきの妖精のことも、ここで読んだ。
 ここからだったら僕はどんな世界へだって行ける。
 この世界に疲れたとき、僕はここに来て、別の世界のことを読み、考える。
 そうしている間、僕はこの人間の体をした自分を忘れることができる。そして、ひょっとしたらただの人間なのかも……なんてくだらないことを考えないで済む。

 不躾なことに、床に数冊の本が散らばっていた。
 まったく、こんなことをしたのは誰だろう。

 ぽつぽつと、床に点在する本を、目で追う。
 視線の先に、淡いクリーム色の光が映った。
 光は、形状を伴って、そこに在る。
 向こうに開かれた本の上で光る、何か。
 心臓の鼓動が速くなる。
 大きさにして漫画の単行本くらいの、浮遊する何か。
 それは確かに、確実に、本の上に存在している。
 ストレートロングのブロンドの髪。
 コバルトブルーの瞳。
 背中には、天使のような純白の鳥の翼。
 纏うは、幾層にも重ねられた純白のドレス。
 幻想は、認識を伴って、具現する。
 この世界の何物よりも美しい、少女。

 それは、僕が初めて遭遇した、本物の――妖精だった。

     



 僕は棒立ちしたまま、ただ見とれていた。
 時が止まったかのような空間。そこにあるのは完全な静寂。
 自分がゴクリ、とつばを飲み込んだ音だけが聞こえた。

 目の前にいる存在は何だろう?
 天使のような姿をした、身長20cmくらいの宙に浮かんだ少女のかたちをしたもの。
 翼の動きは緩慢で、飛んでいる……というより浮いている、といった感じだった。そして何よりも可愛い。僕と同じくらいの年に見えるけど、ロリ気味な可愛い子をただ小さくしてもここまで可愛くはならない。例えるならアリス調のフランス人形というか、それに背中の翼が何とも言えない幻想的な雰囲気を醸し出していて、とにかく人間がいかに着飾っても表現できない美しさだった。
 きっと普通の人間が彼女を見たら、「これは妖精だ!」と言うだろう。僕も実際そうとしか思えない。これは西洋のフェアリーだと。
 くだんの妖精は、床に広げられた本の一冊を読んでいるみたいだ。たぶん僕には気づいていない。いや、本当に本物の妖精だとは言い切れないんだけど。ただ、あまりに美しくて、僕の中の妖精のイメージにぴったりすぎて、そうとしか言えなかった。
 そして、あるいは僕もこの妖精のように、可愛らしくて美しい姿をしているのかもしれない。いつも考えていた本当の僕のイメージ。この世界の僕は仮の姿で、妖精界に戻れば元の体が待っている。そんな空想も、目の前の妖精の姿を見れば現実味を帯びてくる。
 この妖精は真剣に本を見ているのだろう。見開きにした本を上から眺めている形だ。僕はなぜかこの読み方がとてもうらやましかった。当の本人にしてみれば、着地したままだと全面を見ることができないだろうし、単にその方が読みやすいのだろうけど。

 ――例えば、この妖精が本物だとして、彼女から見た僕は妖精だと認識されるのだろうか。ふとそんなことを考え始める。僕がこんな姿をしていては、ひょっとして人間に見られてしまうかもしれない。しかしまず、目の前の妖精は本物なのだろうか。確かに僕自身は妖精のはずだ。けれどもそれを証明する手段はないし、本当に本物の妖精を見たこともないから、彼女が本物かどうかなんてやはり分からない。。僕からしたら本物の妖精が迎えに来てくれるのを待つしかないのであって、偶然目撃してしまった妖精のようなものに「あなたは妖精ですよね。僕も妖精なんです。妖精界に帰らせてください。」などと言うのはちょっとおかしい気がするし、取り合ってもらえる可能性は低い。つまるところ、僕の見ている妖精は僕自身の想像上の存在にすぎないのであって、だとしたら僕は統合失調症ということになり――って何を考えているんだ僕は。だって僕は普通の人間とは違う。人間とは考え方が違うし、能力も違うし、それに……それに――あんな奴らと同じ人間だなんて嫌だ。あいつらと同じ生き物であっていいはずがない!
 でも僕は人間として育ってきた。それは事実だ。そしてこの世界で本物の妖精を目撃した話は聞いたことがない。だとしたら、目の前の妖精が本物だということは、妖精界から迷い込んで来たか、何らかの目的があって来たか、そうでなければ妖精はこの世界にいて、同じ妖精である僕にしか見えないかだ。仮にこの妖精が妖精界から来たとして、妖精は何語を話すのだろうか。ファンタジーの世界では、何の気もなしに日本語なり本に書かれた言語をそのまま話しているけれども、文化背景が違うし、日本語や、最近Be動詞が理解できたくらいの英語で通じるものなんだろうか。こうしたままでコミュニケーションの取りようがなければ何の進展もない。でも、少なくともここにある本を読んでいるということは、日本語か何かしらの言語を理解しているのであって……

 不意に、今まで本とにらみ合っていた妖精が顔を上げ、かかった髪を払った。青い色をした瞳が正面を向く。正面には僕がいる。僕もぎょっとして注視してしまう。明らかに目が合った……!
 ――どうしよう。僕はそもそもお母さん以外の人間と話したこともほとんどないし、会話はものすごく苦手だ。なのに本物の妖精となんてどう話したらいいんだろう。
 妖精も驚いているみたいで、瞳を大きく開けてこちらをみている。
 どうしよう。逃げられちゃうかもしれない。
 初めて出会った妖精。二度とこんなチャンスはないかもしれない。
 どうしよう。何か言わないと。

『あの……』

 口をついた言葉。その言葉は確かに僕がふと発したものだったけれども、鈴の音のような、細く、甲高く、透き通った声。目の前の妖精の声とシンクロする。
 それで僕は頭が真っ白になってしまった。再び静まりかえる部屋。
 何を言おうとしていたんだっけ。さっき色々考えていたのに、だって妖精も「あの」って言ったよ。これは最後のチャンスで、妖精は確かに想像じゃなくて、そうだ、この子は本当に妖精なのか聞かなくちゃ。

「――あなたは、妖精……ですか?」
「ひょっとしてあなたは妖精ですの?」

『えっ?』
 再びシンクロする会話。――妙な語尾が聞こえた気がするけど。

「えっと、僕、妖精だと思うんですけど、あなたも妖精ですよね。――ってそうじゃなくて、僕はきっと取り替え子で、本当は帰る場所があって、もし妖精の世界があるんなら、僕を連れて行ってください!」
 ――駄目だ、自分でも何を言ってるのか分からなくなってきた。それでも、この機会を逃してしまったら僕はきっと一生後悔する。だから、今まで秘めてきた想いを何とか理解してもらおうと続ける。
「僕、もう人間の世界で生きるのは嫌なんです!もうあいつらと一緒にはいたくない!だから……僕は、妖精界に行きたい!」
 そう言って、僕は妖精に近づいていく。
 彼女のドレスの裾がわずかに震えている。それが彼女自身の震えかは分からない。
 周囲の光が強くなる。
「あのー、おっしゃられている意味がよく分かりませんの。あなたは妖精で、ここは妖精の世界ではないんですの?」
 強くなった光は純白に近づき、周囲の空間を飲み込みながら僕を包み込む。
「えっ、それってどういう――」

 視界に映る全てが白くなる。と、同時に何かが僕の中に流れ込んでくる。何か温かい、お母さんに抱かれているようなぬくもり。
 得体の知れない、けれども心地良い何かに包まれて、僕の意識は遠のいていった。

     



 妖精の国があったとしたら、どんなに美しい場所なんだろう。
 森の中、青白い幻想的な光が降り注いでいて。
 大きな切り株やキノコに並んで座って。
 月明かりの下でダンスを踊るんだ――


「ねえ、あれって……妖精、だよね?」
「わかんない。」
「でも、すごく大きくて、真っ黒い服を着ているってさ。」
「とりあえず爺(じじ)様呼んでこよっ!」
「うん!」


 爽やかな風が頬をくすぐる。
 確か今は冬だったはずなのに、春のような暖かい日差しが降り注いている。
 僕は夢を見ているのだろうか。それとも、今まで夢を見ていたのだろうか。現実から乖離した感覚。そして大海原のど真ん中に背浮きしているような、そんな浮遊感があった。
 僕の頭から足先を撫で回った風は、どこまでも続く草原を駆け抜けていく。風――草原?

 僕はうつ伏せの状態で横になっていた。懐かしい、どこかで嗅いだような草の匂い。これは夢なのかな、なんて思ってみたけれども、決してそうとは言えない確かなリアリティがあった。
 頭が重い。思考はまだ虚空をさ迷っている。定まらない記憶。僕は何をしていたんだっけ……?
 どこからか澄んだ甲高い旋律が聴こえてくる。そう、さっき聴いたような。僕はこの美しい音色を聞いていたんだ。どこで?――学校の帰り道、本屋の二階で、僕は妖精に出会った……
「妖精!」
 僕は思わずその単語を声に出して、上体を起こす。
 僕の視界に映ったのは、一面の草原、というよりも白に染まるお花畑だった。風に揺れる幾千もの青緑色の葉と、そこから延びる穂には、ベル状の形をした小さな白い花が、列になって並んで咲き競っている。辺りから洗いたての洗濯物の香りがする。それは、初夏に咲くはずのスズランの花だった。目を奪われるような、美しい白一色の群落。最上質の白のじゅうたんは地平までも続いているようで、太陽の光をいっぱいに受けていたけれど、左右を見回すと、スズラン畑はある線を境に木々に替わり、今度は薄暗い鬱蒼とした森がどこまでも続いているのだった。
「そうでしたか。なるほど。やはりそなたは妖精なのですかな?」
 ふと背後から、ほんの少しだけ低い声がした。まだ痛む頭を回転させ、声の方を振り向くと、そこには――

 ――草原は僕のすぐ後ろで終わり、石造りのアーチ状をした門のようなものと、それから先には、写真で見た古めかしいヨーロッパの街並みのような、どう見てもこれは「街」があった。その周囲は石壁で守られていて、なかなか堅牢そうに見える。けれどそこには奇妙な違和感が付随していて、それが何に起因するかといえば、その街のスケールは、明らかにどこかのレジャー施設でみられるようなジオラマのそれで、石造りの家々は僕の背丈より少し低いくらい、彼方にはお城のような建物も見えるけど、それもまたたいして大きそうには見えなかった。
「こちらに御座います。」
 声の主は視界よりもやや下方にいた。
「えっ!?」
 僕は驚きを禁じ得なかった。なぜならそこにいたのは、少し老けて見える男の妖精(?)と、その背後で飛びながら様子をうかがっている二人の妖精の女の子だったからだ。初老の男の妖精は透明に近い空色の、普通に考えられている妖精にあるようなトンボの形をした羽を、女の子のうちの一人は薄ピンク色の同じくトンボ型の羽を、もう一人は黄色いアゲハ蝶のような羽を、それぞれ飛ぶというにはかなりゆっくりとした速度でパタパタと動かして浮遊していた。ちなみに、女の子の服は羽の色に合わせた、お揃いのシンプルなワンピースだ。背の丈はやはり20cmくらいだろうか。先程の彼女とは違った、素朴な可愛らしさがあった。
 ――そんなことよりも現状を考えよう。目の前に広がるのは、あまり背の高くない僕から見ても、とてもとてもスケールの小さな街。おそらくその入口に僕は倒れていたところを、この人たちに発見されたんだろう。周囲は草木に囲まれていて、本屋からこんな場所に繋がっているなんておかしい。何だか季節も飛んでいるし。そしてこの人たちはどう見ても妖精なのであって……その、ようするに僕は、妖精の国に来ちゃった?――としか考えられない。ちょっとイメージとは違うけど。それよりも、男の妖精っていたんだなって、ひょっとしたら当たり前かもしれないことを思ってしまった。
 男の妖精は英国紳士然とした面持ちで、目が合うと僕に一礼し、僕が口ごもっているのを見て続けた。
「私はあちらの城で執事をしておりますモミジと申します。大きな旅人よ、よろしければお名前をお聞かせください。」
 ジェントルマンな風貌の妖精は、意外にも和風な名前だった。優しそうな雰囲気を纏っている。
「もっとも、皆の者は私を爺様と呼ぶのですがな。」
 そう言って彼はほほ笑んだ。後ろの二人は隠れたままだった。思考があまり追いついていないけど、とりあえず僕も自分の名前を答える。
「あ、えっと、僕は佐倉……さくら……何だっけ?んと、佐倉、でいいです。」
 僕の名字は佐倉だ。佐倉……それ以上考えようとすると頭が痛くなる。僕はなぜか下の名前が思い出せなかった。まるで何らかの魔法にかかったみたいに、記憶から一部分だけがすっぽり抜け落ちたような虚無感だけがあった。そして、少しぼーっとしていたからだと思っていたけど、何だか気付いてからずっと頭が重いのが、段々ひどくなってきていた。
「サクラ様とおっしゃられるのですね。とても良いお名前ですな。それではサクラ様、彼女たちも心配しているようですし、単刀直入にお聞きしますが――あなた様は妖精であられるのですかな?」
 ――どういう意味だろう。つまりこの人たちから見ても、僕が妖精かどうかなんて分からないんだろうか。そういえば僕って、別に妖精になったわけでもなく、全くいつも通りの姿のままなんだよね……。
「あの、僕は自分が妖精だと思ってきたんですけど……違うんですか?この姿では分からないかもしれませんけど。」
「いいえ、私共はてっきりあなた様のそのお姿が妖精のものなのかと……。」
「えっ?それはどういう意味ですか?」
 僕はますます混乱してきた。頭痛もひどいし。
「あなた様のお姿を拝見してすぐに連想しました。魔力なき世界に住み、身の丈ははるか大きく羽をもたぬ、我々と同じ姿で黒衣を纏った妖精と呼ばれる存在が、星を拓き魔力を治め我々を形作った。これが私共に伝わる伝承にございます。」
 黒衣……黒い服……と言えば僕は確かに学ランを着ていた。それに、羽なんてないし、魔力って何系の発想?
「確かに、僕はそんな感じかもしれませんけど……。僕は、えっと、モミジさんたちみたいなのを妖精って言うんだと思っていました。それに、そもそもここはどこなんですか?」
「ここは――」

 その時、ひときわ強い風が吹き付けて、僕は頭が痛いのでいっぱいで、それはモミジさんの言葉をかき消して僕の体勢を奪った。三人の妖精が詰め寄ってくる。ブラックアウトする視界。そして僕の思考ははるか彼方へと飛んでいく。


「――気付きましたの?」
 埃っぽい本の匂い。窓から注ぐ夕日。
 普段見ていた景色。幻想ではない世界。
 その中で僕は、翼を持つ天使に膝枕されていた。

     



 夕暮れの光は、とても優しくこの部屋を照らしている。僕は目を開けることなく覚醒した。
 僕のガリバー旅行記は突然終わってしまった。どう考えても夢だよね。うん。目が覚めたら妖精の暮らしている街があって、本物の妖精がいてさ、よく分からないけど会話なんかしちゃったり。――そりゃあ僕だってもう14だし内心気付いている。僕はどう見ても何の変哲もないただの人間だし、妖精なんて空想の「いたらいいなあ」が独り歩きしたものだってこと。

「はあ……夢、か。」

「どうしたんですの?」
「――夢を、すごく幸せな夢を見ていたんです。花に囲まれた妖精の国で、本物の妖精に会って、話したんです。」

 ――でも、僕は確かにここで会ったんだ。帰り道、本屋の二階で、純白の天使の翼を持った妖精に。真っ白なドレスを着ていて、髪は長くてブロンドで、本当に天使みたいだったんだ。僕は不思議と、お母さんの愛情に包まれているような、とても幸せな心地がしていた。普段の僕では決して味わうことのない、人肌が直接触れる温もり。首筋からそんな感触が伝わってくる。それは僕に欠乏していた全てを満たしてくれるみたいで、「人間」の優しさを思い出させてくれるみたいで、その感覚に全てをゆだねていたかったけど……

「夢じゃなかった……かも。確かに僕は会いました。みんな羽が生えていて、それで……」
「大丈夫ですの?――仕方ないですの。」
 瞳を閉じて温かい感触に浸っていた僕の頬に、何かがそっと触れる。と同時に顔全体をくすぐったい感覚が襲い、慌てて目を開けると、そこには真っ白い肌に縁取られ、細められたコバルトブルーの瞳があった。女の子の匂いがする。僕は、生まれて初めて異性に――キスを、された。
 彼女の唇は僕の頬から離れ、僕の顔にかかっていた髪もするすると離れていく。彼女の髪はあの妖精のようにブロンドで、僕の頭部に当たっているのは彼女の太ももで、彼女に膝枕されている形になっているのを完全に認識すると、僕の視線は彼女の胸の方に向かってしまった。
 同級生のそれと比較してもやや小ぶりに思えるそれは、しかしながら母性の芽生えを象徴するように存在を主張していて、なぜ僕がそこを注視してしまったかというと、彼女が上半身に身につけているのは純白のレース遣いのスリップで、胸部にはその繊細な薄布がかかるのみだったからだ。
「あっ、あのっ、すみません!」
 僕は慌てて起き上がろうとしたけど、とっさに出た謝罪の声は何だかとてもおかしかった。
「えっ……」
 再び出た僕の声はやはり僕の声ではなかった。甲高い、鈴の音のような声。透き通った女の子の声。それは明らかに目の前の女の子の声で、天使のような妖精の声で、僕の出した声だった。そして、それとは別に僕の下半身にも大きな違和感があった。僕の全身はサテンのすべすべした感触で覆われていて、ほんの少し体を起こすと「ツー」という生地のこすれる音がした。というよりも、両足の太ももが直に触れる、身に覚えのない感覚が奇妙に思えて、下半身に目をやると、そこにはパニエの内蔵された、こんもりと盛り上がった純白のドレスのスカートが、僕の下肢を覆っているのだった。
「これって、どういう……」
 上体を完全に起こすと、今度は頭部から新たな違和感が生まれた。僕の髪は短くはなくても決して肩にはかからないはずなのに、肩を超えて背中の中ほどまで伸びていた。髪先を手に取ってみると、ほんの少しウェーブのかかった、細く柔らかいさらさらとした栗色になっていて、さっき嗅いだかぐわしい女の子の匂いがして、今では僕の斜め後ろにいる彼女のものとそっくりだった。
 僕が後ろを振り向くと彼女はそこにいて、微笑みながら特徴的な口調で言った。
「おはようございますの。」

「先程は突然その姿に変わられてびっくりしましたの。裸でいらしたので、とりあえず私(わたくし)の服を着せて差し上げたのですけども……ご気分はいかがですの?」
「あ、ああ……ええ、その……」
 僕は狼狽するしかなかった。彼女の背中には大きな純白の翼が、沈みゆく夕日を受けて煌々と輝いている。それよりも僕をはずかしめたのは、彼女が身に纏っているのが、レースのスリップの他には、これまたレースを全面にあしらったショーツだけだったことだ。僕の顔が真っ赤になる。
「あのっ!僕は自分の服でいいです!これは返しますから着直してください!僕の服はどこに行ったんですか!」
「それは、あなたの後ろに。」
 そう言われて僕は再び後ろを振り向く。そこには、さっきは気付かなかったけど、大きな黒い布の山があった。僕の背よりも高く積まれたそれはとても服には見えない。けれども、その黒山はこれまでの違和感を清算するには十分で、改めて周囲を見回すと巨大な本棚が広がっていて、天井はどこまでも高く、仮に世界が巨大化したのでないとすれば、僕が脱ぎ捨てられた布の塊を認識できない程度に縮小したと考える他なかった。すなわち、目の前の巨大な布の山は、確かに僕の制服で、僕は天使のような妖精と同じような姿をしているに違いなかった。

     



 ですの妖精(仮)は、ゆっくりとした口調で何が起きたのかを教えてくれた。彼女の話をまとめると、僕が彼女が近づいたときに魔力が共鳴するような感じがして、光に包まれた僕が一瞬消えて服だけになったと思ったら、服の中に小さくなった裸の僕が埋もれていたので引きずり出して、彼女が服だけ脱いで代わりに着せてくれたらしい。……何だか分かったような分からないような。だから魔力って何さ。

 あまりに広大になった周囲の空間を見回すと、僕は三つの意味で胸の高鳴りが抑えられなかった。一つに、僕が少なくともサイズ上は妖精と思しきものになっていること。もう一つに、そういう趣味がない……とは言い切れないけど、さっきまで彼女が着ていた、まるでウェディングドレスのようなごてごてとした衣装を着せられていること。最後に、下着姿で僕にキスをした天使が、それでも全く羞恥を感じていないようで僕をまっすぐに見つめていること。特に三番目の理由によって、僕の頬は真っ赤に染まったままだ。
「ところで、僕の裸、見たんですよね……?」
「ええ、何か問題ありますの?」
「いや、問題というか、その、……じゃなくてっ!あ、アレ、とかも、見ちゃいました……?」
「そう!びっくりしましたの!私、初めて妖精を見たので分からなかったのですけど、あなたって女の子でしたのね!」
「――えっ?」
 僕は言葉に詰まった。冷静に考えればそうなるけど、僕の声は彼女とほとんど同じソプラノで、髪もたぶん同じ感じになっていて、それは彼女の姿をそのままコピーしたような感じで、背格好が妖精のものになっているという印象が先行して、勝手にドレスを着せられていることもあって、「女の子になっている」ことが頭になかった。そう思うと余計に気恥ずかしくなってきて、僕は股間の方に手を伸ばそうとしたけど、彼女の視線を感じて慌てて手を止め、首の後ろの辺りまで真っ赤になるのだった。そもそも裸の上にドレスを着ているのだから、下着を履いているわけもなく、ちょっと動くと敏感な部分に直接パニエの生地が触れて、そのことを意識するとおかしな気分になってしまった。

「――なぁんちゃって、冗談ですの。たぶん私の魔法とあなたの魔法が作用して、私の姿があなたの魔力軸に投影されましたのね。もっとも、私は妖精の世界に魔力は存在しないと教えられましたので、あなたの、妖精の魔法については分からないのですけれども。」
「は、はは……」
 彼女は小さく舌を出してはにかんだ。はっきり言ってものすごく可愛い。一方、言われている僕は、もはや乾いた笑いで答えるしかなかった。
 でも、頭が完全に真っ白になって、改めて一から考えてみると、「妖精」という概念が整合していないように思われた。たぶん夢の中で会った、モミジという紳士風の妖精も言っていた。僕の姿こそが妖精だと。やはりあれは夢ではなかったのかもしれない。
「さっきモミジさんという方も言っていました。僕のほうが妖精だって。でも、僕らから見ればあなたたちの姿が妖精で、僕もたった今妖精になったみたいなんですけど、どういうことなんでしょうか……?」
「まあ!爺やに会ったんですの!突然こんなところに来てしまったので心配で、連絡の取りようもありませんでしたの。元気にされていました?」
 後半部分は完全に無視された。
「やはり知り合いだったんですね。一応それなりにはお元気そうでしたよ。それで、そもそもなんで本屋にいるんですか?」
「爺やは私の爺やですの。いつものように私のお城で魔法を使っていたら、突然周りが真っ暗になって、気付いたらここにいたんですの。」
「はあ、魔法を……。だから魔法って何――って私のお城!?」
 軽く吹き出しそうになってしまった。モミジさんは街の奥に見えたお城の執事で、この子の執事で、つまりこの子って……
「あのー……、あなたって、ひょっとして……」
「あら、そういえば自己紹介してませんでしたのね。私、サウザンリーフ王国の第一王女、ナタネと申しますの。」
 今度こそ僕は盛大に吹き出した。ここにおはしますは王女、プリンセス、お姫様でした。ですの妖精(仮)改めナタネ姫。なるほど確かに威厳に満ちた(?)口調。そしてこの素晴らしい衣装。――今は僕が着ているんだけど。
「いえ、あの、汚くしてすみません……。僕は佐倉と言います。」
 お姫様と言われても、日本にいる限りそのような方には縁がないので、別段かしこまることもない。というか彼女の下着ばかりが印象に残ってしまう。僕は名前を名乗ると、いよいよ彼女を見るのにも耐えられなくなってそっぽを向いた。

 日もすっかり落ち、辺りが暗くなってきた。ここの照明はあまり管理されていないので、正直こうなるとあまり用をなさない。
「そろそろ明かりをつけますの。」
 彼女はそう言うと、翼を軽く広げて目をつぶる。とたんに彼女の背中から淡い光が漏れ出し、全身に広がる。腕を上げ、指先で宙をなぞると、そこに輝く光球が生まれた。
「それが魔法――ですか?」
「ええ、そうですの。光の魔法はあまり得意ではないのですけれども、この世界でも使えるみたいですの。」
 白熱電球のような暖かい光。それにより、白いスリップをスクリーンに、彼女の体のラインがはっきりと映し出されていたけど、僕はなるべく気にしないように努める。
「ところで、サクラさんはこれからどうするおつもりですの?」
「そうですね……」
 僕は何がしたいのだろう。いつも妖精になりたいと願っていて、よく分からないけど妖精っぽい存在になっている。でも、周りの世界は何も変わっていない。例えばこのまま生活するとしてどうなるんだろうか。帰ってお母さんに説明する。理解してもらえるかは分からない。まず、僕は社会的にどうなっているのか。とても今の体が人間のサイズには思えないし、研究施設に送られてしまうかもしれない。第一、ここからどうやったら帰っていいか分からない。このままでは階段だって下りられないと思う。それこそ本物の妖精みたいに飛んで――飛ぶ?
 このとき僕は重大な事実に気付いた。ですの妖精改めナタネ姫には純白の鳥の翼がある。しかし僕はどうだろう。背中には何の感触もなく、彼女を鏡写しにしたようであるのに、手を伸ばしても何にも触れることはなかった。僕の背中には何もない。これでは身長20cmのただの小人だ。
「たぶん、このままでは帰れないと思います……。」
 落胆する僕とは裏腹に、姫の表情は明るくなる。
「それならちょうどいいですの!」
「えっ、何がです……?」
「あなたは確かに願いました。ならば、私の代わりに王女になってほしいですの!」

 それはドメスティックでエッセンシャルなお願いだった。単語の意味はあまり分かっていないけど。とにかく僕は妖精のお姫様になれるらしい。それこそ僕がずっと望んでいたものに違いない。
「あの、それはすごく嬉しいんですけど――どうやって?」
「さっきは勝手に反応してしまいましたけれども、もう一度あなたに私の魔法を使ってみますの。同じ反応が起こればきっと、あなたを送り返すことができますの!」
「本当ですか……?」
 怪しい。さっきのだって夢だか何だかわからないし、魔法がどうとか言われても……。
「私はここでしばらく帰る方法を探してみますの。だめならあなたも一緒に探せば済むことですの。」
「まあ、それはそうですね。失敗して変な場所に飛ぶことがなければ。」
「きっと大丈夫ですの!さっきと同じことをすればいいんですもの。」
「――他に帰るあてもないですし、やるしかなさそうですね。それで、王女って何をすればいいんですか?」
「今はもうお父様もお母様もいなくなってしまったので、私が国を治めていますの。ほとんど爺やに任せきりですけれども……。それでも、爺やや妹やみんなもきっと心配していると思いますの。サクラさんには、私の代わりになって、みんなを安心させてほしいんですの。」
「つまり、どうすれば……。」
「爺やに私が無事であることを伝えてくださいませ。爺やなら事情を話せばきっと分かってくれるはずですの!」
 大丈夫かなこの人……。モミジさんをすごく信頼しているみたいだけど、僕からしたら行き当たりばったりすぎて答えになっていない。
「私も帰り方が分かったらすぐ追いますの。それと、これをお渡ししますの。困ったらこれを見せれば大丈夫ですの。」
 姫は首に手を回すと、ネックレスのようなものを取って僕に手渡した。白銀の小鳥をかたどった飾りが付けられている。僕がネックレスを手に乗せたままで困っていると、彼女はそれをそっと持ち、僕の首に回して付けてくれた。彼女の翼が腕に触れて、少しくすぐったかった。

「それと、このドレスは返さなくていいんですか?」
 ナタネ姫は何やら集中しているようで、これ以上の質問はためらわれたけど、僕は最後に一番大事なことを聞く。
「それなら大丈夫だと思いますの。」
 そう言って彼女は床に置かれた一冊の本を指さす。それには「ネクロノミコン写本」と書かれていた。
「どうやら私はこの世界の因果律には干渉できないようですの。その証拠に、あそこに同じ本がありますでしょう?」
 今度は本棚の高い位置を指した。確かに全く同じ本がある。
「ですから、あなたが私の世界に帰られてもその服はここに残るはずですの。」
「はあ、なるほど。」
 ――全く意味が分からない。僕は今後に一抹の不安を覚える。
「それでは、サクラさん。私もなるべく早く戻りますから、それまでよろしくお願いしますの。」
「僕、何とか頑張ってみます。」
「あなたなら大丈夫!だって、私にそっくりなんですもの!」


 彼女の翼が光を帯び、僕たちは真っ白い光に包まれる。それが、僕の幻想世界への旅立ちだった。最後にお母さんの顔が思い浮かんで、ほんの少しだけ申し訳なさを感じた。

       

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