Neetel Inside 文芸新都
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安田清美の優雅でひそやかな生活
6.夫が女子中学生を家に連れてきたときの対処法(2011/4/21)

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 あるいは、女子中学生を家に連れ帰ったときに妻を納得させる方法。



 今日は定時上がりだから今から会社を出るところだ、と連絡があってからかれこれ二時間弱が過ぎた。
「まっすぐ電車を乗り継げば40分かそこらで到着するはずなのだが、まったく安田くんは、一体全体どこで道草を食っているのやら」
 今や夕飯のおかずはすっかり冷めてしまい、清美はある種の諦めと共に待ちに徹している。時計の秒針は終始チクタクと鳴って動く中、彼女の指はチクチクと縫い針を動かしていた。
 白い無地のハンカチに、花咲く桜の模様が刺繍されていく。
 そこへガチャリと玄関の開く音がした。だがここで清美が眉をひそめたことには、帰宅を報せる「ただいま」の声も、廊下を歩く足音も、すぐには届いてこなかったのである。
 やや不審に思った清美が出迎えに行ってみると、半開きの扉の向こうで何やら、義之が小声で誰かに話しかけているようだ。
「大丈夫だって。別にヘンなことするわけじゃないから。え? いやいや、俺はそういう意味で言ったんじゃないってば。違うって。なに、ここまで来てそりゃあないでしょ。とにかくさ、とりあえず中に入ろうよ。な? いやほんと、優しくするから」
 そして一段落が着いたのか、義之はようやく扉を全開にして足を踏み入れる。するとその場に待ち構えていた清美と鼻先同士が触れ合った。
「うおっ、清美!」
「うおっ、ではない」
 顔の間合いが近すぎるために互いの表情を細かくは知れないが、少なくともこの時点で義之は、彼女の声に若干の怒気が含まれていることを肌で感じた。
「おかえり、安田くん。さて、予め先手打ちとして言っておくが、安田くん。ここはきみと私とが生活を営む基盤としての住居であって、きみが淫欲奇行に走ることを想定して設けた秘密基地でもなければ、煩悩物欲を混ぜこぜにして愉しむ坩堝(るつぼ)としてのホテルとも違うのだ」
 清美の鼻がすんすんと動く。
「しらふのようだからそれは当然にわきまえているとは思うが、ここまでの私の発言を踏まえた上で、安田くん。問おう。私のあずかり知らぬところで何をして、また如何なる目的で誰を連れてきたのかと」
「落ち着け、清美。俺は別にイヤらしい理由でこの子を引っ張ってきたわけじゃねえんだ」
「ならばその『この子』とやらを紹介してみせたらどうだ? もちろんきみの言葉選び次第では、私も何を仕出かしてしまうか抑えきれぬところがあるのでな。命が惜しくば慎重に慎重を重ねたまえよ」
 そこで清美は一歩引いた。そしてこれだけ言ってもまだ義之の左手が、外にいる何者かの腕を握っているのを見て、彼女は腕を組み目を細めた。
「なんていうか、紹介っていうか、とにかく家に上げさせてやってくれよ。頼むからさ」
「くどくどしいな。きみには何ら不義が無いと主張するつもりならば、いっそ私の顔色伺いなどせずに堂々としていればよいではないか」
 言いながらも清美は内心で穏やかではなかった。女の影について義之を追及した場合、いつもの彼は目を泳がせたり目を伏せたりと、明らかに子供っぽい動揺の色を見せるものだ。ところが今回はそれが無い。
 それから義之があやすように手を引くと、よろけながらも腕の先の人物が扉の内側に入ってきた。
「…………っ」
 まず清美が息を呑んだのは、そこに現れた女が予想よりも若かったから。体つきは確かに女性らしさが見てとれるが、痩せっぽちで色気と呼ぶには程遠い。顔つきには幼さもまだ残っている。彼女が未成年であることは明らかだった。
 さらに「これはこれは安田くん。さしもの私も驚きを禁じ得ないよ。未成年は県の定めたる青少年保護条例に則ってその心身が守られるべきだということは、社会に生きる大人の義務として心得ておかねばならぬことだ。まさかそれを知らないわけではあるまいな? どうなのだ? いざとなれば私は苦渋の決断でもってきみを官憲に引き渡すことになるのだが」という得意の饒舌ささえも飲み下したのは、その少女の様相に理由がある。
 安物のヘアカラーで染めたのであろう色ムラのある茶髪は長さが不揃いで、しかも乱雑に切られた形跡があった。スカートから覗く膝とすねには所々に青アザが出来ていて、服の下にはもっと多くの傷があると予想される。さらに顔は頬の腫れた赤みと、切れた唇から滲む血が、受けた暴力の真新しさを物語っていた。
 そして最も目を惹くのは、彼女の右目を覆う眼帯。もしこれが身体中に見られる怪我と同じく人為的な悪意によるものだとしたら、うっかりやってしまったでは済まされないレベルの外傷だった。
「安田くん……」
 清美は奥歯を強く噛んでから義之に向き直った。
「ご飯にするか。お風呂にするか。それとも私と話をするか」
「えっと、じゃあ……清美で」
 ラブコメディの常套句にも似た、しかし真剣な問い。
 義之はその実質一択の答えに頷いた。

 ひとまず清美は自分のパジャマの替えを例の少女に手渡し、風呂場へ案内した。少女は無言で促されるままにした。
 それからちゃぶ台を起点にして義之の斜向かいに――彼を責め立てるつもりではないので、今回は敢えて対面ではなく――清美は座った。
「あの娘が尋常ならざる状況に置かれていたのであろうことは察した。しかし安田くん。あれは何者なのだ?」
「いや、それがよく分からねえんだよ」
 答える側の義之もいくらか気楽だ。
「うむ? 素性の知れない相手を連れてきたのか?」
「まあそうなるわな。いろいろ質問したけど、あんまり答えてくれなかったんだよ」
「名前は?」
「それも知らん。中学生かって訊いたときにはなんとか頷いてくれたけど、それ以外は」
 清美は眉間に手を当てる。
「まさか本当に『キャバクラ名刺売りの少女』とでも言うのではあるまいな?」
「あの話は作り話だし……っていうかあれは、もう蒸し返さねえって約束だったろ?(1.キャバクラ問答参照)」
「そうだったな。すまない。ならばどこで知り合った? さてはいわゆる『出逢い系』などといかがわしい情報交換に手を出したか?」
「違うちがう。会社の近くの駅でさ、一人で壁に寄りかかって、うずくまってたんだ。なんか気分でも悪いのかと思って声をかけたってわけだ。そうしたらあんな感じだろ? こりゃただ事じゃねえなって」
「ふむ……」
 眉間に当てていた手を口元に下げ、清美は考え込む姿勢に移った。
「なるほど言わんとするところは承知した。確かにあの様子であれば火急に身の安全を確保することは肝要だろう。私としてもそれに異存は無い。また安田くんが望むのであれば、家出少女に一宿一飯の世話をすることもやぶさかではない。私とて鬼ではないからな。しかしそれでも解せない点がある」
「な、なんだよ。今度は推理ドラマの探偵みたいに」
 義之はちゃぶ台に肘を置き、清美を覗き込むようにした。
「事実、そんな気分だよ。疑問に思うところは安田くん、きみの動機だ。確かに女と子供を放っておけない性格はきみの美徳とも言い得る部分だが、今回に限ってはそれが過ぎる」
「どういう意味だ?」
 訊き返す彼は、わずかに苛立っていた。
「じゃあ見捨てておけってのかよ」
「そうは言っていない。しかしあの娘がきみを名指しで助けを求めたわけではないのだろう? 私はただ知りたいのだ。きみの通勤時間が片道40分、実際にかかった時間120分、その差約80分間をあの娘の説得に費やしたという事実に至る理由を。そして明白な傷害の痕があるにも関わらず、警察へ相談もせずに連れ帰った理由をだ」
「ああ、なんだ。そういうことかよ。警察は……あの子が嫌がったんだ。んで、なんで俺が諦めなかったかって言うとだな……」
 そこまで言ってから義之は言葉を区切り、もにょもにょと口ごもった。
「はっきりしたまえ。やましいことが無いのなら」
「やましいことは無い。それは誓って言えるぜ。ただ、なんていうか……」
「なんというか?」
「似てるんだよ」
「似ている? 誰にだ?」
「昔のお前にさ」
 すると互いに沈黙し、数拍の間が空いた。
「あの娘が? 私に?」
 驚きとも呆れともとれる表情を浮かべて清美は声を上げた。
「ちっとも、ちっとも似ていないぞ。あの娘と私とでは背丈も身体の線も全然違う。胸も、尻も、比べるまでもない。顔もそうだ。鼻も唇も、髪の色も形もそうだ。およそ身体的特徴のいずれをとっても全く異なるではないか」
「そりゃあさ、今の清美とは似てねえよ。だから昔のだよ」
「同じことだ。私の肉体は学生の時分から鍛錬されたこの形を維持していたし、容姿も状態もあれほど弱々しくはなかった。私に害を為す者は残らず蹴散らしておったから、きみが心配するように生傷が全身を覆うことも無かったぞ。家出だって金輪際した覚えが無い。それでもまだきみは、過去の私とあの娘が似ていると言い張るか? だとしたらその根拠は何だ」
 ここに至って義之は、機関銃話術に怯まず向かった。
「……目だよ、目。お前だって見ただろ? 眼帯をしてないほうの、あの目」
「無論、見た。見たとも。あの娘の眼球ときたら木のうろのように空虚たること極まりなく、まるで目に映る全てのものを敵視、いや、敵視すらしていない。あらゆる物事を自身とは無関係だと切り捨てているかのような、深く深く淀んだ……」
 今度は清美が言葉を止めた。
 そして腕を組み、両目を閉じ、首を捻ってひとしきり唸ってから席を立つ。

 その足でまっすぐ浴室に向かい、曇りガラスの戸を勢いよく開け放った。
「……っ!」
 呆然と湯船に浸かっていた少女は声も無く、しかし動作としては機敏に身を縮めた。
 清美はずいっと詰め寄り、彼女の腫れた頬に手を添えて、真正面からその左目を見据える。
 ただただ見詰める。
「……えっと、あの……何ッスか?」
 おずおずと口を開く少女の黒目は、ただそこにあるだけのもので、まるで何も映っていないのではないかと思わせる茫漠さがあった。
 それを見て、少女と同じくらいだった年頃の己を省みて、清美は呟く。
「いやはや、安田くんの観察眼には恐れ入る」
 少女にとっては、何が何やら分からないだろう。自分に声をかけてきた男の奥さんが、何を思って乗り込んできたのか、知る由も無いだろう。
 しかして清美は一人で納得し、必ず少女の味方になろうと心に決めて言うのである。
「ああ、なるほど確かにそっくりだ」
「だろ? やっぱり似てるよな?」
 そしていつの間にか傍に立っていた義之と、入浴中だから当然に全裸である少女とを見比べて、躊躇無くステンレス製のシャワーヘッドを彼の鼻っ面に投げつけるのである。

       

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