Neetel Inside 文芸新都
表紙

安田清美の優雅でひそやかな生活
9.女子中学生の父親の目を覚まさせる説得法(2011/5/23)

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 6~8話のあらすじ  虐待を受けてるっぽい家出少女が、実はご近所さんだったよ。



 ほっぺが痛い。
 でもこれは、しょうがない。あたしが悪いんッス。
 ご飯が上手に作れない。
 お掃除も、下手くそ。

 お酒くさいって言ったら、殴られた。
 お仕事はいつ探すの? って訊いたら、蹴られた。
 最近は、何も言わなくっても物を投げてくる。
 お母さんが生きてたころは、こんなことなかったのに。

 だからあたしがお母さんの代わりになって、お父さんを支えないといけない。
 でもあたし、不器用だから何やってもダメなんッス。
 「お母さんの代わりに、お前が死ねばよかった」って、また言われた。
 うん。あたしもそう思うッス。

 お母さんみたいにきれいに髪を染めようとしたけど、うまく出来なかった。
 生意気だって言われて、ハサミで乱暴に切られた。
 当然ッスよね。
 あたし、やっぱりお母さんみたいになれないのかな。

 昨日は家出なんかしたから、朝帰りなんかしたから、お父さんを怒らせちゃった。
 なんであたし、逃げちゃったんだろう?
 ああでも、昨日の人たち、優しかったな。
 もしああいうところの子供になれたら、きっと幸せになれる……?

 ううん、ダメだ。そんなこと考えちゃいけない。お父さんが一人ぼっちになっちゃう。
 悪いのは、あたし。
 だから、あたしには、幸せになる資格なんて無い。
 お父さんが幸せになるまでは、あたし一人で勝手に幸せになっちゃいけないんッス。

 がんばらなきゃ……そうだ、あれをやってみよう。
 昨日の奥さんみたいに、ぎゅーって抱きしめてあげたら、お父さんは幸せになれるかな?


 やっぱりぶん殴られたッス
 「気持ち悪い」だって。
 そりゃあ、そうッスよね。
 あたし、やせっぽちだし、手も冷たいし。

 ……誰か来たみたい。
 誰だろう?
 また学校の先生かな……?

   *

 「吉瀬」の表札がかかった扉に近づいて初めて、清美は部屋の中から響く男の怒声を耳にした。それは己の感情をでたらめに吐き出し、相手への思いやりを欠片も含まず、ただただ周りを不快にさせるだけの罵倒の文句であった。
 清美は左手で竹刀袋を握り締め、右手でチャイムを鳴らす。
 罵声は確かに止んだが、しかし家人が出てくる様子は無い。そこで清美が呼び鈴を定感覚で連打すると、今度はインターフォンから彼女に向けての威嚇が飛んできた。実際に面してなくとも酒気を感じさせる声である。
『あぁ? うるせぇっぞぉらあ!』
「白昼に失礼する。貴様と、貴様の娘について問いただしたい」
『んだぁおら! てめぇにゃ関係ねぇだろうが!』
 それだけ言い放つと、ゆかりの父はまた沈黙を決めたらしい。
 対して清美は無理にでも立ち入ろうとドアノブに手をかけるが、回らない。
「さすがに鍵がかかっているな」
「では私が」
 そこで七後である。それまで無言で清美の傍にいた彼女はヘアピンを抜き、迷わずピン先を鍵穴に挿し込んでガタガタ揺らした。
「開きました」
「さすがは七後だ」
 所要時間は約二秒。

 七後を外に待機させ、清美は扉を蹴破る勢いで吉瀬の家に押し入った。
 自分の家と同じ間取りではあったが、その様相は全く異なっていた。廊下には即席麺や冷凍食品の空き袋が散乱しており、しかも脇の台所からは生ゴミの腐臭が漂ってくる。それでも臆さず大股で踏み分けながら居間へ向かえば、アルコールの匂いも相まって一層の混沌を見せていた。小蝿まで飛び回っている。
 そんな腐りかけた部屋の隅には、横たわったまま床に片肘を突いて、清美を無言で見上げるゆかりの姿。一見しただけでも、昨日より青あざが増えているのが分かった。
「問われる前に名乗ろう。私は安田清美。昨晩、貴様の娘を世話した者だ。故に無関係ではない。ちなみに向かいの棟の住人でもある」
「ふほ、不法侵入だぞ!」
 ろれつの回らない舌で吼えたのはゆかりの父であろう男。髭も髪も伸び放題で、体型もだらしない。
「不法でも無法でも大いに結構。訴えられようとも覚悟の上でここに来た。無論、いざというときには貴様も道連れにする意気だがな」
 さて、と室内を改めて見回し、ゆかりを注視してから男に向き直り、彼女は続ける。
「この無様。この怠惰。貴様は塵塚怪王でも気取っているのか。そして何より、この不条理。義にも勇にも反する理由で娘をひた殴るのが父親の務めか? 恥は知らぬのか?」
「か勝手に入ってきて、なにぃ言ってんだ。他人ん家の事情に口出しすんじゃねぇよ。親が子供をどうしようと勝手だろうがぁん?」
「言ったな?」
 清美は努めて表情を変えなかった。ちなみに塵塚怪王とは、ゴミ捨て場を統率する妖怪の名である。
「ならばその台詞、白昼堂々と言ってみろ。天下の往来で、これが我が家の教育だと叫びながら娘を殴ってみせろ。官憲の目の前ででも、これは家庭の事情だから口出し無用と嘯き(うそぶき)ながら娘を打ち続けてみせろ。それが自身の正義から出てくるものならば可能なはずだ。そうでないならば、貴様はただの卑怯者だ」
「てめぇ、ほんとに何言ってんだ? 頭おかしいんじゃねぇのか?」
「私は出来る」
 清美が一歩進み、男は一歩退いた。
「理不尽な呪縛から少女を解放するためならば、今すぐ貴様を目抜き通りに連れ出して、朗々と告発文を読み上げることに些かの恥も覚えない。またその際に貴様を取り押さえる都合で腕の一本や二本をへし折ることを労苦とも思わないし、それで私に刑法上、民法上の罰が与えられるとしても甘んじて受けよう」
 さらに一歩。
「さあ、己の振る舞いを改めて真っ当な生活に戻ると誓うか、それとも自分を犠牲にして私を犯罪者にするか、どちらかを選べ。出来れば手荒な真似はしたくない」
「ふ、ふっざけんなぁおら!」
 威圧に耐えかねたのか、男はやぶれかぶれに、持っていた酒瓶を投げつけた。そういった物理的な反撃はもちろん想定済みであり、清美は姿勢を半身にするだけで難なくかわす。
 その余裕がさらに男の神経を逆撫でしたのだろう。彼は再び足元の瓶を拾い上げた。
 一瞬。

 開けた竹刀袋の口に手を入れて、清美は中の得物を抜き出した。薄暗い室内で、鈍光は美しい曲線軌道を描き、男の手元にある瓶を真っ二つにした。中身がぶちまけられた。なおも勢いは削がれなかったが、男の首に触れるか否かのところでぴたりと止まる。

 それが一瞬。
 わずかに遅れて、床に落ちた酒からアルコール臭が立ち昇る。だが首の皮に鋭い冷気を感じている男は、むしろ急激に酔いが醒めていた。
 わななく男に、清美は強く言ってのける。

「ふざけてなどいない。私は真剣だ!」

 ややもすればいつでも命をとられる状況。ここにおいて男は何か喋ろうにも考えがまとまらないし、口もうまく動かない。一方で清美も体勢を崩そうとしない。
 動いているのはゆかりだけだ。彼女は音を立てないようにゆっくりと身を起こし、おぼつかない足取りで、一触即発の間に割って入ったのである。両腕を広げて、焦点の合わない左目で見上げて、その様子は清美から父親をかばっているようだ。
「……ぁ……ダ、メ……わるいのは、あたし……だから……」
 首を横に振り弱々しく懇願する彼女を見て、清美は今朝に聞いた七後の意見を思い出す。

『私の経験と観察のみに基づいて語っていいのなら、これは、根底の部分で自己肯定が出来ないことの表れ。己を責め、自我を消した末に、理不尽に対して怒りも悲しみも持てなくなった人間の目です』

 心の底で父親を愛しているからこそ、ゆかりは自発的に彼を守ろうとするのだろう。清美はそれを加味した上で、敢えて彼女に目をやる。
「ならば問うが、殴る父親と殴らない父親、どちらがよい?」
「そ、そりゃあ、殴らないほう、ッスけど……」
 こんな訊き方をされたら、誰だって後者を選ぶに決まっているだろう。もちろん清美自身もそれを承知の上だ。
「でも、それは、あたしが、お母さんみたいに、なれないから……」
「では貴様にも問う」
 ゆかりが口ごもっていると、清美は彼女の父を睨みつけた。
「ここにいる女の子は、貴様の妻か、それとも娘か」
「お、おれの、娘だよ」
「その娘が、この期に及んでもなお父親は悪くないと言い続けるのは、まだ自力で酒と自堕落から抜け出せると信じているからだ。その想いに応える気概はあるか、否か」
「あ……ある、よ」
 よほどの命知らずでない限り、ここで「否」と答える者はいない。
「そうか。言質はとったぞ」
 誘導的な質問だったとはいえ、望む答えを得られた清美はようやく睨みを解いた。
「さて、この家の懐事情には詳しくないが、芳しくないとは予想される。実際問題、現状を打破し得ない理由には、焦りも多分にあるのだろう。そこで、だ。これをやろう」
 そして手にしていたものを鞘に収め、男の目の前にずいっと差し出す。
 鋼の美しさと力強さは言うに及ばず。それをこしらえる柄、鍔、鞘に彫られている細工の繊細さと、隅々まで曇りなく手入れされているのを見れば、それが相当の値打ち物であろうことは素人目にも明らかだった。また、どれだけ大事にされているのかも。
「私の父の形見だ。名を大刀《緋梅》と言う。売って支度金にするとよい」
「い、いいのか? そんな大事な物を?」
「元よりそのつもりで持ってきたのだ。これだけ尊いものを酒代に変えるには忍びないと、そう自分を戒めるだけの恥は持っていると期待させてくれ。それに上からあれをしろ、これをしろと、口だけ出して手を差し延べないのでは、道理が通らんだろう」
 男が両手でそれを受け取ったのと同時に、清美は「ちなみに」と調子を変えず続けた。
「実は私が父から譲られた刀は二本一組でな。これと対をなすものがまだ手元にあるのだ」
「はあ……」
「もし貴様が《緋梅》の名を汚し、ドブに捨てるような間違いを再び犯したときは、そのもう一本、小刀《月影》が貴様の右目を貫く」
「まじ、ですか?」
 男は顔をひきつらせ、思わず敬語になってしまっている。一方で清美は涼しい顔をしながら、竹刀袋の内側に留めてあった刀剣登録証を抜き出し渡した。
「もちろん真剣だ。そして重ねて言うが、私は同じ団地の、向かいの棟に住んでいる。ゆめゆめ忘れるな」
 念押ししてから清美は、今だに身を震わせているゆかりの頭を撫でる。
「では邪魔したな」
 娘にだけやんわり笑いかけ、いよいよ清美は立ち去った。
 そして親子は呆然、押し付けられた大刀と、壊された玄関扉を何度も交互に眺めたという。



 さて後日。
 春の陽気が溢れる昼下がりにチャイムの音を聞いた清美が、はて誰かと玄関扉を開けてみれば、そこにはゆかりが立ち尽くしていた。
「えっと、あの、こないだはどうもッス」
 ぺこりと頭を下げて、それから清美を見上げた彼女の右目は相変わらず眼帯で覆われているが、左目はくまが消えてわずかに晴れやかさが宿っていた。顔や手足を見ても、真新しい傷はついていない。
「あ、これはお父さんが、持って行きなさいって」
 居間に上げられた彼女が差し出した菓子折りの中身は、塩せんべいであった。製造元にはちゃっかり『七後製菓』と書かれており、清美は「あの商売上手め」と女子高生忍者の手柄を思い出して半ば呆れたが、それはそれとして来客用の茶を用意した。かく言うこの緑茶も、実は高美からの貰い物なのだが(3.妹コントロール参照)。
 ちゃぶ台を挟んでゆかりが語ったところによると、清美が去ったあの後、まずは親子で部屋の掃除をしたらしい。そして父親は心を改めたのか、それとも単に清美の追及を恐れたのか、とにかく新たに仕事を探し始めた。現に今、ハローワークに通っている最中だそうだ。
「いずれにせよ喜ばしい方向へ進んでいるのであれば何よりだ」
 茶をすすり、清美は満足げに頷く。
「ところでずっと気にかけておったのだが」
「何ッスか?」
 ゆかりは塩せんべいをパリッと噛み砕く。初めてここに来たときに見せていた、借りてきた猫のような雰囲気はいくらか薄れている。
「お前の名前は、どちらなのだ? 『相沢』か『吉瀬』か」
「それなんッスけど……昨日言った『相沢』は、お母さんの苗字なんッスよ。ここで『吉瀬』って言っちゃうと、すぐバレるような気がしたんで」
「なるほど、な」
 最初から本名を明かされたところで、その時点での清美では即座に反応出来なかったかもしれない。お互い、気まずそうに苦笑いをした。
「その右目は治るのにどれくらいかかりそうなのだ?」
 昨晩に清美が診たときは、出血こそ止まってはいたが目頭に傷があった。ゆかり本人が平気だと頑固に言い張っていたのでそのままにしてしまったが、無理にでも病院へ連れて行かなかったことが気がかりだったのだ。
「こっちはですね、いや、目はちゃんと見えるんッス。けど何でしたっけ? 涙腺とか言うのが痛んじゃったみたいで、目ぇ開けてるとすぐ乾いちゃうんッスよ。ドライアイのすごい感じみたいッスね。あ、でも、だからってお父さんにまた何か言うのは止めてくださいね。あれめっちゃ怖かったですし、ちゃんともう反省してるんッスから……多分」
 これ使ってれば、そんなに酷いことにはならないみたいッスから。そう続けてゆかりはスカートから目薬を取り出し、点眼する。
「そうか。大事にせねばな。では吉瀬、ちょっと待っておれ」
 対して清美が腰を上げ、寝室のタンスから持ってきたのは一枚のハンカチ。それに針と糸で縁取りをし、ゴム紐を通して、あっという間に眼帯を完成させる。
「これをやろう」
「わあっ、かわいい! あ、ありがとうございます」
 ゆかりは手渡された物をさっそく着けてみた。眼帯を飾るのは淡い色彩の花咲く桜の模様。それは彼女が義之に連れられてこの家に来たとき、丁度そのとき、清美が手慰みに刺繍していたものだ。
「よかった。似合っているぞ」
「えへ、そうッスか?」
 その笑顔にはまだどこかぎこちなさが残っているが、それでも確かに彼女が光を見つけようとしているのが窺えた。

 しばし実の無い世間話を挟んだ後に、ゆかりは神妙な面持ちで清美に伺いを立てた。
「あの、こんな図々しいこと言っていいのか分かんないんッスけど……」
「どうした?」
「お願いがあるんッス」
 もじもじと言い淀み、深呼吸してから深く頭を下げる。
「あたしに料理、教えてください」
 すると清美は、ふっと小さく息を漏らした。
「なんだ、そんなことか。もちろん構わない。料理だけと言わず、私が知るところならば多くを伝えよう」
「い、いいんッスか?」
「むしろ望むところだとも。まず手始めに、シチューの作り方でも教えようか」
「は、はいッ!」


 かくしてこの一件を絆にして、安田清美の優雅でひそやかな生活には、新たな縁が生まれたのである。

       

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Neetsha