Neetel Inside ニートノベル
表紙

だいじょうぶですか?お隣さん。
第一話

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◆プロローグ

 八月の某日。気温は38℃の猛暑日。
 かんかん照りの夏の熱気がグラウンドを覆う。むせかえるような空気が地面に当たって返る。すし詰めになった人人人人人。球場はあたかも食材を炒めるフライパンにでもなったかのようだ。
 観客席に座るギャラリーは頂点にまで達した陽に参ってしまって半ば屍と化している。
 しかし攻撃チームの応援団は、その異常とも言える陽気に負けることなく今バッターボックスに立つ選手の名前を喉が張り裂けんばかりの勢いで叫び、楽器を演奏する吹奏楽部は顔を真っ赤にして楽器を力いっぱいに演奏をする。
 よくある高校野球の一場面。
 マウンドに立つピッチャーは何度も何度も汗を泥で汚れたユニフォームの袖で拭う。ぐいぐいと強くこすり付けるもんだから、顔中服の汚れで黒くなってしまっている。だがそんなことを気にする余裕が彼にはなかった。気迫の速球と巧みなカーブ。それを武器に彼は失点をことごとく抑えてきた。だが一回から七回までぶっ続けでの投球に体力は底をつき、八回で大量の点数を奪われてしまう。もはや気力は幾許もない。彼の瞳にはバッターボックスとの間に霞がかかったように見えた。額と目元にはまた汗がふきだす。彼の勝利は蜃気楼のごとく幻と消えていく。

 2‐4 九回表ツーアウト一、三塁。守備チームの劣勢。これ以上を点を取らせなければまだ逆転の余地ありという正念場。代打として打席に立つ彼はまさに死神に見えるだろう。目は猛禽類かと見紛うほどに燦然と輝く。プロ候補と名高い有力打者。ここぞという時まで温存していたのか、猛暑に負けじと強く構えている。対して気温と直射日光とフルイニングでの連投という三重苦のおかげで憔悴しきっている。執拗なまでに圧しかかるプレッシャー。これ以上はもういいのではないか。だが、彼以外に登板可能な選手はいない。だから自分が抑えなくてはという使命感。
 自然と守備陣にもそれは伝播し、全員が一体となって鉄壁を作る。間違っても三塁の走者をホームへ帰してはならない。そうすれば逆転の糸口はなくなり、勝利は望めない。なんとしてもこの回は無失点で抑えなくては。
 球場にいる全ての人間が固唾を呑む。視線の全てが自然とピッチャーの持つボールへと集まる。ボールの行方は勝ちか負けかどちらか。それは神のみぞ知るといったところか。
 キャッチャーのサインにうなずいて、球種を決めたピッチャーが振りかぶる。その瞬間に守備側の応援団は裂帛の気合で投手に活を入れんと熱気を上げる。
 投法はスリークォーター。負担が純粋なオーバースローより少なく、球種の変化がオーバースローよりも上がる。現代の多くの選手が好む投法である。本来はややオーバースローであったが、高校にあがって初めて投球練習をした日、監督に肩に負担の少ない投法を薦められて練習したのがスリークォーターだった。研鑚の結果行き着いた彼自身の到着点。それが彼の全てだ。

 ステップ。三年間、否。幼少の頃より白球を追いかけた日々を走馬灯のように垣間見る。汗と血に滲んだ日を過ごしてきた。チームの誰よりもこの夏この瞬間を望み、努力による努力で青春を棒に振ってでも練習に励んだ。何万回と同じことを繰り返したおかげでこの身体は投球のためのものに作り変えられている。
 テイクバック。この肉体は野球をするために生まれてきたのだと思う。何を思っても球速を1kmでも速くしようという思考が頭から離れないのだ。勝利に対する飽くなき探求。夢、野望、勝利。野球は勝敗が全て。経過など意味がない。グラウンドに存在するのはその二つのみ。だから勝たなくてはただの敗者だ。だから勝つための方法を探し続けた。それを今ぶつける。
 リリース。届けと強く願う。時が緩やかに流れる。ダイヤモンドの中、マウンドとバッターボックスを結ぶ直線。セットポジションから約二秒で決着が付く。
 
 バッターがテイクバックに移るところで一踏みする。シンクロ、ステップ、テイクバック。下半身を固定し、上半身をネジのようにまわす。最後にインパクト。
 白球はミットめがけてのど真ん中直球。ボールは―――

 

風は吹けども熱冷めあらぬ甲子園球場。今日は全国高等学校野球選手権大会。その決勝戦である。

     

◆第一話

「あーっ、打たれたー!」
 中年のしゃかれた声が木造二階建て築二十五年のアパート、二〇三号室から響く。
「うにゃ!?」
 目が覚めたのはお父さんの怒号のおかげだった。どうやら今日は高校野球の決勝らしく、お盆で会社が休みなのをいいことにテレビを一人独占して、もう2,3℃体感温度が上がるような野球中継の映像なんぞを見ている。毎年毎年飽きないのか。
 父は団塊の世代真っ只中で生きてきた人であり、年季の入った野球ファンだ。どんなに暑かろうと、寒かろうと熱の入った暑苦しい応援で味方したチームを応援する。ちなみに特定のチームではなく、負けている方を応援する。異常ににわか臭い。球場へ観戦に行ったことがないなんてもうそれ以下な気がするけど。
 とにかく。無駄に大きい声のせいで、現実逃避をして夢の中に旅立っていた私は夢の国から強制的に現実へと連れ戻されてしまった。グッバイネバーランド。私はがんばって生きるよ。
「お父さんうるさい! あたしの部屋隣なんだから! 私寝てたんだから!」
 我慢ならず、父のいる居間に突入する。せっかく暑さを忘れてしばらくの安息に浸っていたのに……。むむむ、許せん。
「くそぅ! なんでストレートなんだよ! そこはなんか、こうカーブとか入れてくるだろう! おかげでホームランじゃないか!」
 おいおい、まともに解説もできんのかい。そんなんでよくファン暦=年齢とか言えるな。というか何歳からだ。
「ねぇ、話聞いてる?」
「静音《しずね》か。ちょっと聞いてくれよ。大事な局面でど真ん中直球ってありえるか!? 漫画じゃねぇんだからもうちょっと―――」
「あたしは野球が大嫌いだっ!」
 渾身のローキックがお父さんの腰にクリーンヒット。のたうち回って痛みを堪えている姿は、さながら捌かれる寸前、最後の悪あがきにと盛大にはねる鯛のようだった。
「お前っ。父さんこの前ぎっくりやったんだぞ……!」
「知ってるよ。しっぷ貼ったのあたしだもん。というかうるさいうえに人の話聞かないお父さんが悪いんだから」
 ごろごろとテーブルまで転がって新聞を私によこしてきた。話まったく聞かねぇな。耳にタンポンでも詰めてるのかこの親父は。殺意ポイントがうなぎ上り。もう包丁で
「ほらここ。見てみろ」
 スポーツ欄の一つに高校野球決勝のカードが書かれていた。父は対戦校と並んで書かれている県立小見山高校を指差す。
「知ってるよ。それがどうかしたの」
 なんといっても小見山高校とはお父さんの母校であり、私の通っている学校でもある。今日が甲子園だということも終業式の集会にて校長が鼻を高々にして語っていた。話の内容なんて右の耳から入って左の耳から出て行ったものだから曖昧なままだけど。どうせ今の野球部はワシが育てたなんてことと、みんな応援に行きましょうとかを長く話していたことだろう。
 校長は絶対に野球なんかに興味はない。だって前に県大会ベスト8まで勝ち進んだバスケ部にも同じことを言っていたし、校長の脳内は都合の良いことばかりで育ったお花畑なのだろう。
「どうかしたのってお前、自分の高校だぞ!? 父さんの母校だぞ!? なんとも思わないのか? この『打つな!』って想いをボールごと吹っ飛ばされた悔しさをお前も感じないのか!?」
「思わないよ。だってあたし野球部のマネージャーとかじゃないし、付き合ってる人野球部じゃないし。何しろあたし彼氏いないし。恋愛とか今のところ縁がないし。つまるところ野球部につながる要素がないので同情の余地はない」
 きっぱりとノーサンキュー。興味ないことにはまったくの関心を寄せないのが、現代の女子高生というものなのです。だって応援にいったのも有志の人たちと応援団と吹奏楽部だけでしょ。だけっていってもミーハーなやつが多いし。おそらく全校生徒のほとんどが神戸くんだりまであのジャンヌ・ダルクが受けた火あぶりの苦しみを何百年またぎかで共有しに行ったのだ。
「あーやだやだ。この時期になるとみんな暑さでお脳が溶けてアホになるんだわ。きっとそうだわ」
 小見川高校がまた打たれる。アウトにできないこともないが、疲労と暑さで集中できないのかエラーをしでかしてしまった。ホームランを打たれたことで精根尽き果てた暗い表情になってしまっている。
「あ、畜生。負けたな……こりゃ」
 もう勝ち目が薄いからってそんな弱腰でいいのか? 勝て勝て逆転しろと念を唱えて勝利を祈願するんじゃないのか?
 競馬に負けて馬券を投げ捨てる無職のオッサンのような空ろな目をするお父さん。入れ込んでたチームとはいえどうせ他人事なんだし、そんな落ち込むことはないんじゃ?
 パチンコで負けて帰ってきたときと同じ顔しているお父さんに一抹の
「まさか、また勝敗で賭けてた?」
「えっ」
 無声映画での演技みたいなオーバーな動き。顔からは若干脂汗が染み出て、表情はなんだかごまかすような笑みと泳いだ目線でぎこちない。なんだ、そのあからさまな動揺。ホント漫画じゃないんだから。
「なにやってんだよ! このダメ親父! この前パチンコで大負けして散々お母さんに絞られたじゃん!」
「うう、今年は調子いいからいけると想ったんだよぅ。許してくれよぅ……」
 最悪だ。どうせ相手は福原んトコだ。無職の五十過ぎにしては無意味に頭が切れる。どうせ願掛けとばかりに母校を選んだお父さんはヤツにとって易いカモだっただろう。
「もうあの人と付き合うのやめたら」
「あいつとはもうかれこれ高校時代からの腐れ縁だからなぁ。そう簡単には切れんよ」
 しみじみと回想に浸るがそうはいかない。こちとら金がかかっているのだ。家計から出された立派な家のお金を無駄に散らすなんて許されることではない。
「お父さん。何円賭けたの」
「い、一万」
「一万!? 今月のおこづかい全部じゃん!」
 なにやってるんだ、ホントこのクズ親父は! 生活キツキツなのをわかって言ってるのかぁ? いや、わかってやってるんなら頭にウジが涌いているどころか、なんかおもしろい地球外のブツが脳の代わりに収まってるんじゃないか。
「な、なぁ。これでお金なくなっちゃったんだよぉ。静音。一生のお願いだから―――」
「知るか! 死んでつぐなえ!」
 もう一発ローキックをお見舞いして、身の着のままで家を飛び出した。

 ああ、暑かったから薄着だけどまぁいいや。
 
 県立小見川高校。7‐2で敗北。黒川静音の父である黒川孝一郎は娘にも見捨てられ、ノストラダムスの大予言が当たりに当たって世界が滅亡しようとしている瞬間に立ち会ったかのような喪失感と絶望感に打ちひしがれた顔になった。 

     

                  ●

 ベニヤでできたようなチャチで古臭いドアをバンッ! と勢いよく開け放つ。
 暑苦しい湿気はもう十分堪能したからいいとして、今度は燦々と照りつける陽の光もセットになって付いてきた。これがもしファストフードのメニューならば、店員の顔面にこんなモン誰が頼むかと絶叫して叩き返したくなるレベルだ。つまり我慢し難いものということ。
 風景がビビッドブルーの水平線、真っ白なビーチが揃っているならば、我慢どころか服を脱ぎ捨てて狂喜乱舞で走り出すことだろう。もちろん気温なんて微塵も気に留めることなんてない。プライベートビーチ。辺りには誰もいなくて、静寂のみが私に寄り添う。そんな中で、私はジュース片手にくつろいで……。と、こんなトロピカルな妄想をしたところでしとどに溢れ出る汗を止められはしない。そこでまた現実に引き戻され、悲しみのネガティブスパイラルに突入してしまう。はぁ、不幸な私を助けて……。
 何年海に行ってないだろうか。いや、そもそも行った記憶なんてない。思い出しただけでまた悲しくなる。私の今までの人生に『海に行く』なんて予定が一度でもできたことなんてない。
 このままでは青春を謳歌するどころかお父さんの世話焼きだけで花の十代が終わってしまう…。
 ああ、黒川静音十七歳と十一ヵ月。未だ青春の日々を夢見ております。
「はぁ……泣けるわ」
 もう一度目をつむって夢の世界にダイブしたかったけど、またお父さんと顔を合わせでもしたら、またお金をせびりにゴマすりにくることは決まりだ。何を言おうと揺らがない自信はあるけど、くれるまで何度も駄々をこねるので、正直殺意を抑えきれず今度は殺してしまうかもしれない。こういう時は離れて頭を冷やすのが一番だ。
 しょうがない。どこか適当にぶらついてお父さんが仕事にいく夕方まで時間つぶすかな。
 タンクトップにショートパンツっていう部屋着だけど。まぁ、町内歩くくらいなら人の目少ないだろうしね。一応パーカーぐらいは着ておいた。
 人生は切り替えが重要と、アルバイトしていたお店の店長が言ってたっけ。その店はある事件によって潰れるどころか、粉微塵になってなくなってしまった。言い訳をするわけではないけど、私のせいではない。何もかも状況と居合わせた人が悪い。絶対そうだ。まぁ、それは蛇足なのでまた今度の機会に話すとしよう。
 そういうわけでいつまでもイライラと腹を立てていられない。とりあえずくすねられないように財布だけは持ってきたので、ファミレスで時間をつぶすのが一番かな。

 さて、と歩き出そうとしたところで、さび付いた階段を上ってくる音がした。こん、こん、と間の空いた高い音と共に、足踏みの衝撃が伝わってくる。
「お、考一郎クンとこのお嬢さんじゃありやせんかい?」
 見てみれば、よりにもよって一番会いたくないヤツの姿があった。長細いシルエットに総髪。整った顔だが、嫌味と皮肉しか吐き出しそうにないにやけ面で台無しになっている。格好はちゃらついた赤い一見アロハシャツのようだが、ただ柄が派手なだけという上着にヴィンテージ物のジーンズとサンダル。
 その身の着全てがブランド物。働いている素振りは無いのに、小奇麗な服装と年齢の割には若々しく、清潔感もあるが、その人を知る人は疑問と胡散臭さしか感じることがないという。もちろん私もそのクチだ。
「なんか用っすか。福原さん」
 露骨に関わりを避けるような態度をとってみる。わきまえのできたやつではないので、気を許せば土足で心の領域に踏み込んで挙げ句にはハンマーを持ち込んでぶち壊していくような真似を平気でしでかす。福原正道という男はつくづく最高に最低な男なのだ。
 何を思ったか卑しげなにやけ面を嗜虐的に歪ませる。生理的な嫌悪感を催させる視線で私の体を頭からつま先までを何往復かさせる。特に胸とか。正直女を見る目ではないが、あえて見させておく。恥ずかしげな態度など、この男にとってなりよりの推進剤となる。
「相変わらず無防備な格好してるな嬢ちゃん」
「なんですか、警察呼びますよ」
「おいおい。つれなくするなよ。こないだいいモンやったろ?」
「アホか! あんなもんアレが終わったら即座に破棄したわ!」
 あんなこともうまっぴらごめんで、もうコイツにも会いたくなかったっていうのに。お父さんがあんなにクズで、またクズとつるんでるからこう毎回会う羽目になるんだ。もう見事に『類は友を呼ぶ』を体現している。最後にお鉢が来るのは私なんだからもう少し考えて立ち回ってほしい。
「もったいねぇ。あれ造るのに金が超かかったんだからな。もっと大事にしろよ。俺の一生にあるかないかのプレゼントなんだぜ?」
「アンタいったいどっからそんな金が涌いて出るんだよ…」
「おれは汗水垂らして働いてる二流三流とは一味違う。一流はな。投資してくれるオトモダチっつうのがいっぱいいるから、働かなくても金が出てくるンんだよ」
 そのオトモダチがウチのクソ親父ってことね。くそ、一発ぶん殴りたい。
「そんな顔しなくても安心しろって。お前からはとろうなんて思わないよ。お前のとりえといえばその無駄にデカイ乳とデカイ図体にバカ力だもんなぁ。金に直結することなんて一つもねぇや」
 今のは効きましたよ。今のは。デカイ乳とバカ力は百万光年くらいの歩数譲っていいとして、デカイ図体? コンプレックスをなんのためらいもなくほじくってきやがって……。
「そんなことはともかく、小遣いついでにこいつを返しにきたってのが今日の用事だよ」
「はぁ?」 
 小脇に抱えていた紙袋をよこす。受け取れば、手に重さが圧しかかる。
「こ、これって……。まさか」
 袋の口を開けてみると、中には赤色の塊二つ。血に染まったかのように赤く、魔的に輝いている。見れば取り込まれるような毒々しさに一瞬見とれてしまう。
「なんで……捨てたはずなのに……!」
「こいつがお前から離れられないんだとさ。もてるのは辛いなぁ色男。今度は捨ててやるなよ? 近々絶対これが要り用になるぜ。絶対だ」
 そう言い残して私の横を通りすぎていく。お父さんから賭け金を徴収していくつもりなのか、私とは入れ違いになる形で、部屋に入っていく。福原がドアを閉めて、完全に姿が見えなくなるまで、私は袋の中の物から目が離せずにいた。

     

わたしは恋をしている。誰にしているかは、乙女の検閲によって明らかにはできない。
 もう一度言おう。わたしは恋をしているのだ!
 初めてその人を見た時、電極を体に刺されてそのまま電流を流されたかのような……いや、なんだかえらく物騒な例えだけどそのくらいになるまでわたしの恋心は強く射止められた。
 入学して何ヶ月かしたころ、いつもより遅れて帰宅しようとしていた時に彼を見た。
 彼はずっと、ずっとボールを投げていた。道が確かでないところを歩く。一つ間違えれば踏み出したところに地面ではなく、そこは奈落かもしれない。それなのに彼は恐れることなく、まっすぐと見据えて歩く。まだ高くはあるが、少しずつ朱に染まっていく太陽。それに照らされてまるでダイヤモンドのように輝いたその目に心奪われた。
 それが私の恋の始まり。
 教室では勉強を疎かにすることなく、授業をしっかり受ける姿。レギュラーを勝ち取ったときの喜ぶ姿。マウンドに立つ姿。投球に青春を捧げ、色恋沙汰や浮ついた遊びにも手を出さずただ速度と技術の向上に励み、試合に一喜一憂する姿。試合に負けて泣いた姿。試合に勝って仲間と笑いあっている姿。地区予選。県大会。甲子園の決勝まで順調に勝ち上がり、徐々に緊張していく姿。ただの一度だって彼から目を離したことなんてなかった。彼はいつ見ても凛々しく、かっこよかったのだ。
 弱小だった小見川高校が甲子園に行けたのは彼のおかげだ。いや、彼だけじゃないけども、ピッチャー無くして防御は成しえないのだからもうほぼ、導いたようなものでしょう。その功績は誰にでも自慢できる。そのはずなのに、別に鼻にかけることもない。
 謙虚で実力があって、それでいて顔とか造りが神がかり的なのだ!
 ああ、なんて完璧なんだろう!

 でもそんな人と、クラスでは存在すら忘れられているのではないかと思われるわたしとで果たして釣り合うだろうか?

 ―――答えは否だ。彼の方に重さがいって、私になんてそのはずみでどっかにすっ飛んでいってしまう。だって、私は単に遠くで見ているだけ。入学してからの三年間。ずっとみてきただけなのだ。話すのだってまともにしたことがその三年間でただの一度もない。
 いや、話しかけられたことなら幾度かある。
 野球部マネージャーの仕事に就いて、数週間したところでなんと彼から私に近づいてきたのだ。
「洗うユニフォーム。ここでいいかな?」
 との問いかけに対し、
「えっと……うん」
 だけである。
 ……穴があったら入りたい。
 もっと持ちかけたい話題があるのに! もっと彼の笑顔とか見たいのに!
 しかし、こんなこと考えるのは不毛だ。
 もともと異性と話すのが得意ではないわたしだし。こういうことは覚悟していたことだ。今更悔やんだところですぐにこの口下手が直るわけでもない。
 ここでまた私の暗さが一段階くらい上がった。もう眠ったら起きたくない気分。
 恋がかなわなくたっていい。見ているだけでいい。ただ近くにいたいだけ。だから野球部のマネージャーになって、彼を支えようとどんな雑用もこなしてきた。
 でもわたしはぜったいにストーカー紛いなことなんてしたくない。私のせいで彼を不安がらせたり、彼の近くにいられなくなるのは嫌だから。
 でも見てるばっかりだからそう思われても仕方ないかも。でも見てないところで他の女の子と話してるのはなんだか腹が立ってくる。でもわたしあんまり可愛くないから告白したって恋人同士になんてなれないし、そもそも絶対釣り合わないっていうのは決まってて……。でも彼に恋人ができるなんて想像したくないし、できてほしくない。
 ―――わたしってダメだなぁ。でもでもばっかりでなんにも進んでないや。やってもないのにブツブツ言って勝手にため息ついてほんと嫌になる。
 人に話しかけられても一言目につくのが、
 「でも」とか、
 「だって」とか、
 「えっと」だし。
 どんなに地味で陰鬱なやつなんだよって、自己嫌悪したくなる。
 好きなのに告白するような度胸がない女。でも嫉妬深い。なんてめんどくさい人間なんだ。わたしって。
 だから、せめて遠くまで行ってしまわないように見ていることにする。あの姿を、野球をやってる姿を。彼が笑っている姿を。勝手に彼を、あの輝いている姿を鳥かごに閉じ込めてしまおう。しっかりと鍵をかけて、逃げられないように。
 わたしを見なくてもいい。振り向いてくれなくてもいい。
 わたしは見てる。どんなに今のその栄光が地に堕ちてもあなたを離さない。どんなことがあっても。 
 
 それがあなたを悲しませるようなことでも。 
 
 だってわたしは、あなたに恋をしているから―――

     

                 ◆
 A県にある小見川町。なんの特徴もない町。でも生まれてからここに住んでいるのだ。なんだかんだ言ってこの町には愛着がある。ちょっと都会っぽくてごみごみしたところだけど。
 町民の一人であるわたし、清川聖子はとある用事を終えて、暇だったので散歩しているところだった。家にいてもなにもすることないし……。ああ、私って寂しい子……。
「あ、聖子じゃん!」
 そこで、知った声を聞く。その声は私の親友のものだ。
「え? あ、静音ちゃん!」
 黒川静音ちゃん。わたしの幼稚園のころからの親友。私と違って美人で身長も高いし、脚も長いし、む、胸だって……おっきいし……。それに性格も明るくて、誰とでも仲良くできるとってもいい子なんです!
「あれ、野球部の試合行かなかったの?」
「うん、こないだから美緒が夏風邪やっちゃったから。ウチ両親が共働きでいないし、わたしが看病しなくちゃいけないんだ。家の人に任せるのも迷惑だし。だから、二年の同じマネージャーの子に行くの替わってもらったの」
「え、美緒ちゃん大丈夫なの?」
 少しびっくりした風に静音ちゃんが私の顔を覗き込む。我が子の安否を心配する親みたいだ。
 大げさだけど、誰にでもここまで心配してくれるのって静音ちゃんだけだなぁ。うちの親より親っぽいかも。
「昨日やっと熱が下がったし、もう大丈夫だよ」 
 ちなみに美緒っていうのはわたしの妹で、先週から夏風邪でダウンしきっていた。それが昨日になってよくなったのでわたしはこうしてなんでもないときでも外に出られるようになったのだ。
「そりゃよかった。でも、聖子のためなら死ねそうな人たちなのに」
「もう大げさだって」
「いや、本当にやりそうなんだけど……。そういや去年あたりから聖子以外にもマネージャー増えたよね」
 昨年。野球部は全国高等学校野球選手権大会―――つまり甲子園に出場して、なんと初出場で準優勝と快挙を見せ、学内での注目度はうなぎ上りになった。そのおかげで、今年は野球部の新入部員や女子マネージャーが増えだしたのだ。
 私しかいなかったマネージャーも今やわたし除いて十人はいる。部員に至っては昨年のやく五倍と、今のグラウンドでは収まりきらないので、現在県と掛け合ってグラウンドを増設することになっている。
 今の小見川高校は野球部がホット(死語かな?)な話題の発信地となっている。
「うん。だからもうわたしも引退して、後続に全部任せようかなって」
「去年まで部費の見積もりとか洗濯とか全部一人でやってたもんね」
「静音ちゃんとかも手伝ってくれたからあんまり苦じゃなかったけど」
 そう。静音ちゃんがクラスの女子とか連れてきていろいろ手伝ってくれたっけ。千本ノックとかやって、部員の人たちが翌日全員筋肉痛で倒れたりとか。懐かしいなぁ。千回もボールを打ってた静音ちゃんはぴんぴんしてたけど。
「いや、なんかあたしは遊んでたような気がするけどさ……。それにしてもひどいよねぇ。今年までだれもマネージャー来なかったっていうんだもん。あのゲーハーなにやってたんだか……」
 ゲーハーと呼ばれているのは野球部顧問の松平先生。頭頂部をうまくカツラで隠している。
 でも静音ちゃんにはそれが本物っぽくないと言っていた。
 静音ちゃんによれば、わかんないけど、本物の感じがしないとのこと。去年の夏、甲子園出場が決まって狂喜乱舞していたところ、カツラが激しく暴れるように落ちてしまい、『暴れん坊将軍』のあだ名を拝領してしまったという事件があった。それも懐かしいことの一つだ。
「松平先生も大変なんだよ。生徒指導部でしょ、ウチの学校規則違反多いらしいし」
「もう、聖子は優しいなぁ」
 背中をバシバシ叩いてくる。静音ちゃんは手加減をしらないからめちゃくちゃいたい。
「いたっ、ちょっ、いたたたた!」
 ふと、叩いてないほうの手を見ると、そこには何か大きいものが入っているのか、かなり膨らんだ紙袋があった。
「静音ちゃん。その袋、なに?」
「えっ? いや、気にしなくていいよ。大したモンじゃないしさっ」
 少し慌てた風に、紙袋を後ろに隠す。静音ちゃんは隠し事や嘘が下手なので、すぐに仕草や顔に出てしまうのだ。しかも厄介事を抱えやすいタイプなので、なおさら心配になってくる。
「静音ちゃん。また一人で抱え込んじゃ駄目だよ。何かあったら私を遠慮なく巻き込んでいいからね? 危ないのはちょっと怖いけど」
 うん。嘘偽りなく言える。私は静音ちゃんのためだったら、一緒に死んでもいい覚悟だ。
 だって、親友は命を張ってでも守れってお父さんが言ってたし。
「大丈夫だって。ただのゴミだし。それに厄介なことがあったとしても聖子巻き込めないよ。今度こそあんたの親父さんにドラム缶詰めにされて小見川港に沈められちゃうわ」
 ちょっと真面目な顔してみたのに、まったく相手にされてない。むぅ。私だって本気なんだからね?
「じゃ、私これ捨ててくるから」
 手を振って走り去っていく静音ちゃん。追いかけようにも静音ちゃんの脚力に勝てる日本人はいないと思うので、ただ見ているしかない。
「もう。甘く見ないでよね」
 精一杯すねてみせる。といってもやり方を知らないので、ドラマの真似を一つ。

     

「確かにあいつは君を甘く見てるね」
 急に隣から声がかかる。気配とか探れるわけじゃないけどこんなに近くにいるのにどうして気がつかなかったんだろう。
「あ」
 この人……確か福原さん、だっけ。
「懲りないねぇ……。前のは教訓になってねぇみたいだな。捨ててあんなことになったっていうのにさ」
「あの時、ですか?」
「そう。あの時さ。ある物がなくなったことによって、あいつは苦戦を強いられたんだよ。まぁ、おれの華麗な助太刀によって辛勝したがね」
 あの時―――静音ちゃんは小見川町随一の豪邸でなにやらやらかしてしまったらしい。わたしもあの場にいたけどあれはすごかった。
 というのもその豪邸はなんと完成間もなくで瓦礫の山となってしまった。二年の建築期間と莫大な費用がかかったと思うのに、どうしてそんなことになってしまったのか。理由はわからないけど、ただのケンカで約300坪の豪邸はことが始まってわずか一時間で灰燼に帰してしまったのだ。なんだかおとぎ話じみてて現実か空想なのかごっちゃごっちゃになってくるけど。その原因とも言える人物である静音ちゃんは骨折やら刺し傷やらがひどく、新学期早々二ヶ月も病院で過ごしていたのだ。何があったのか聞いてもはぐらかされるし、いつまでも詳細は不明のままだ。まぁ、元気だからいいようなものだけど。
「まぁ、アシュレットがケンカふっかけたのが悪いんだけどな。あ、そういやアイツどうしてんの?」
 アシュレットさん。フルネームはアシュレット・エッケン・ハウザックと言って、一年生の終わりの時にわたし達のクラスに転校してきた筋金入りのお嬢様だ。例によってお決まりの美人さんで、何もかも万能にこなせる名家の生まれ。さらに壊れた豪邸の家主(豪邸ができるまでは高級マンションに住んでいたのだとか)であり、原因その二である。
 アシュレットさんもまた静音ちゃんと同じく病院送りになってしまっていた。彼女は個室で、完全面会謝絶という状況だったので詳しくは知らないけど、どうやら静音ちゃんよりもひどい怪我だったらしい。
「アシュレットさんですか。全教科単位が足らなくてずっと補習受けてましたよ」
 静音ちゃんの退院から一ヶ月遅れてアシュレットさんはようやく病院生活からの脱出に成功した。しかしアシュレットさんの単位は見事に真っ赤で、静音ちゃんはざまぁみろとお嬢様口調で「オーッホッホッホッ! 名家の生まれのあなたが全教科赤点!? 情けなさ過ぎて笑えますわ! オーッホッホッホッ!」と歯を食いしばって悔しさをかみ殺しているアシュレットさんを尻目にめちゃくちゃに大笑いしてたっけ。成績優秀な彼女なので難なくクリアしてしまったけど。もともといざこざが絶えない間柄だけど、なんだかもっと拍車がかかってるような?
 でもケンカするほど仲がいいとという言葉は本当で、こうやっていがみあってはいるものの険悪さは感じられず、クラスではこの対決は名物となっている。たまに遊ぶらしいし。というか夏休みに入ってから二人一緒で出会う頻度が多いような気がする。もう親友と呼んでもいいのではないか? と思うほど。
「悔しがる姿が目に見えるな。これがおれに牙をむいたやつの末路ってやつか」
「どういうことです?」
「あ? いや、こっちの話だよ。っと話を外してしまったけど、君に話があるんだった」
「わたしにですか。一体どんな用ですか?」
「それは喫茶店にでも行って涼みながらでも。実は臨時収入が入ってさ―――」
 え、これっていわゆるナンパってやつですか? 割と古風なやり口ですね……。といっても現代のナンパの仕方もわからないので古風ともなんとも言えない。古風だと思うのは昔のドラマみたいな言い草からだろうか。
「なにをやっているんですか? あなたは」
 後ろから凛とした声がする。福原さんはその声に『ギクリ』と効果音がつきそうなオーバーリアクションでびくつく。お澄まし顔から一変。それは浮気を現行犯で押さえられた夫のようだった。
「あ、アシュレットさん。こんにちわ……」
 声の正体はなんとアシュレットさんだった。噂をすれば必ずというか、ベストなタイミングで現れる人だな。
 前から思っていたけど、普段着が去年見た時と違ってえらく庶民的になっている。セレブがジャージって……。しかも両手にはスーパーの買い物袋まで持ってるし。いや、見ようによっては傲慢ちきなイメージしかない金持ちにクリーンなものを加えられるかもしれない。
「ごきげんようセイコ。危ないところでしたわね。あやうくキズモノにされるところでしたわよ」
「おいおい、その言い草はあんまりだぜ。というかどこで覚えたんだそんな言葉……。おれはな可憐な美少女の肌を焼いてはいけないと気を使ってだな……」
 悪ぶって軽口をたたく。なんだろう。この人はそういう星の下生まれてきたのだろうか。いわゆる軽い男の宿命というやつなのか。
「では、この可憐な美少女に気を使って今、この場で死んでくださる?」
「ははは……冗談キツいな相変わらず」
「いえいえ。ジョークではなく、割りと本気《マジ》なお願いですのよ。福原正道さん? 切り刻まれて死ぬか、わたくしの視界から消え去るか。このどちらを選びます?」
 沸点ギリギリ、といったところだろうか。アシュレットさんはまさに怒髪が天を衝く勢いで上がっていくバロメーターを臨界点の間際までとどめているのだ。アーモンド形の切れ長な目が殺気でものすごく凶悪な目つきになっていく。ここまで真に迫っていると、殺しのプロに見えてくる。
 なにか福原さんに積年の恨みでもあるのか、その形相は親の仇を見るようだ。
「わかったよ。じゃ、また近いうちにな。聖子ちゃん」
 福原さんは踵を返して去っていく。アシュレットさんは舌をべぇっ、と出して悪態をついてみせる。
「はい……。また」
 福原さんって誰からも好かれない人だと思う。わたしもわたしで正直言ってしまうとあまり好きな方ではない。軽いというか、付き合ってみたら他に女の人が五、六人はいそうなイメージ。つまり女としては近づきたくないし、男としてはその存在と同化している『おれっていい男だろ』オーラに殺意が芽生える。したたかで嘘つきでずる賢い。だから、誰も相手にしない。思ってみるとちょっとかわいそうな人だ。誰にも相手にされないっていうのはものすごく寂しそうだけど、この人に限ってそんなことでは生ぬるく感じてしまうのだろう。
 私はなんとなくだけど、福原さんの表情に何か感じるのだ。
『そんなにおれが鬱陶しいなら、何も我慢していることはない。さっさと殺してみせろ』
 そう薄ら笑いの顔がそう語っている気がする。
 いや、本当になんとなくだけど。
「居合わせただけで妊娠させられそうなオーラでしたわ。全く……会ったらまたシズネに受けた傷口がうずきそうだわ」
「ま、まぁまぁそんななこと言わずに……アシュレットさん。お買い物の帰りですか?」
 なぜかアシュレットさんには友達のような口調にすることができない。なんだろう人生のレベルにおいて何段階も上を行く彼女のオーラに負けてだろうか? だとするとどうしようもなくわたしは負け組になる。ああ、これが絶対王政下における貴族と平民の差なのだろうか。
「ええ、卵が『超ゲキヤス』、と静音が言っていましたので、ジャンケンに負けたわたくしは朝から二時間もスーパーでもみくちゃですわ。ほんと、なんでこんなことになったのかしら……」
 ん? なにかアシュレットさんはおかしなこと言っているぞ?
「あのぅ。なんでそこに静音ちゃんがでてくるんですか?」
「―――ッ!?」
 しまった、と言いたげなベタに驚いた風で口を手で覆う。本人の前で言えたことではないけど、この人も相当顔に出やすい人だ……。
 これぞまさに類は友を呼ぶ。

       

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