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あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
序章――門倉いづる

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 序章  門倉いづる



 半年前。
 友達が、首から上をフッ飛ばして死んだ。



 うちの高校の校舎裏には、一本の立派な桜の木がある。
 樹齢何年になるのか誰も知らないけれど、戦争中にこの桜の下で旦那に別れを告げたお婆さんがいたというから、だいぶ昔からあったのだろう。
 厳つくごつごつした樹皮は、男子がトイレで一服するのに重宝する百円ライターの火勢なんかではとても燃え上がりそうになく、節くれだった幹を切り倒せば年輪がどれほど重なっているのか見当もつかない。
 外周を結界のようにぐるりと囲んだ緑色のネットと、ところどころ欠けたコンクリートの校舎に挟まれて、その桜はぽつんと置いていかれた子どものように立っていた。
 ひとつのベンチと錆びた焼却炉があるきりの校舎裏に、春になると桃色のじゅうたんが広がる。風が吹くと、散った花びらが螺旋を描いて舞い踊る。
 骨も皮もありはしないけれど、そんな桜の木が僕にとって、首藤星彦の墓だった。

 腕時計の長針はコンパスのように頂点を指している。
 薄暗い桜の木陰で、僕は焼きそばパンのビニールを荒々しく破いた。脇にはお茶のペットボトルと、バナナアップルジュースのパック。
 赤ん坊の腕くらいの長さをした焼きそばパンをくわえながら、僕は紙パックの口を開けた。
 このバナナアップルジュースというのは、『美味いもの足す美味いものは美味いとは限らない』という訓戒を僕に与えてくれたありがたいジュースなのだが、首藤星彦、あの混ぜるなキケンをすぐ混ぜたがる彼の性分と味覚のキャッチャーミットに剛速球でストライクを決めたらしく、知り合ってから終わりまで、首藤は飽きずに毎日これを飲んでいた。
 だから、墓石に水やら酒やらをかけてやるよりも、昼休みの駄弁り場所として僕たち二人が好んで居座ったこの校舎裏に、この桜に、あいつが好きだった未知の液体をぶちまけてやる方が、よっぽど供養になる。そう思った。
 今にもしゅうしゅう煙でも出しそうな怪しげなジュースを、根元にそろそろと零していく。後ろから見ると僕がまるで立ちションしているように見えるのではと戦々恐々なのだが、数年前に自殺者が出て以来、この校舎裏にわざわざやってくる生徒は少ないので気にしないことにする。
 ちょぼぼぼぼぼ、と土の布団から首を出していたミミズくんにジュースをかけていると、うしろから思い切りスパコ――――ンと頭を殴られた。
「あのさ、そんなのかけたら木が腐っちゃうでしょ、門倉くん」
「紙島……」
 偉そうに腕を組んで、僕を見上げているややチビな女子は、同じクラスの紙島詩織だ。変わったやつで、いつも真っ白いロシア帽を被っている。そこから溢れる豊かな栗色の髪はそよ風を受けて気まぐれに波打っている。
 その手には、なぜか演劇部のものらしい台本が握られていた。それで僕の頭部を殴打せしめたらしい。ひどいやつだ。
「またピンチヒッターで部活の助っ人やってるのか? 暇人だねェ」
「環境破壊者に言われたくない」
「ちょっとちょっと、違うってば。破壊じゃない、供養だよ」
「無意味なところは同じだよ」
 未練がましい、と紙島は吐き捨てる。
 どうやらちょっと怒っているらしく、髪と同じ色をした澄んだ双眸は細められて輝きを増している。
「前にも言ったと思うけど」
「うん」
 紙島に逆らっていいことはないので、素直に頷いておく。
 誰かに言われたことを伝えるような、そんな心がどこかへ散ったような口調で、紙島は言った。
「門倉くんがどう思っていようとも、その桜の下に首藤なんて埋まってないし、その幹にあいつの心なんて宿ってないし、バナナアップルジュースは絶対木に悪いんだよ」
「――――」
「とにかくもうやめて。その桜が枯れちゃうと怒られるのは美化委員の私なんだから」
 そう言って紙島はぐいっとロシア帽の位置を直した。
 ぱちぱちと瞬きしながら送られてくる視線に責められ、僕はふいっと顔を背けた。
「桜って嫌いなんだ」
 彼女とは時々、今でもこの桜の下で出くわすことが多いが、この話題に触れるのは初めてだった。
 紙島は興味無さそうに流し目だけを送ってきた。
「へえ……珍しいね。興味ないとかじゃなくて嫌いなんだ」
「ああ。だってさ……日本の花といえば、桜だろ?」
 詩織は空を見上げて、そうかも、と頷いた。
「そこが嫌なんだよ。パッと『今答えろ!』と枕詞をくっつけて尋ねたら、みんながみんな桜って返すだろ。日本には元々、松だの、梅だの、藤だの、菖蒲だの、牡丹だの萩だの芒だの菊だの柳だの桐だの、ほかにもたくさん固有の花があるのに、どれかひとつといったらいつも桜だ」
 紙島は生返事しかしてくれないが気にしない。
「それってなんかひどくないか。忘れ去られた花が可哀想だぜ。だから僕は桜なんか嫌いだから枯れたっていいんだ。首藤の墓参りのが大事だぜ」
「首藤が好きだったものを枯れさせて平気なの?」
 はぁ、と大きなため息を紙島が零した。呆れを通り越して微笑んでいる。
「そんなこと考えながら桜を見上げるのは門倉くんくらいだろうね」
「変かな」
「変だよ」
「でも君だって変だぜ」
 僕の反撃に、紙島はまた、へぇと気の無いようなフリをする。フリだと思いたい。
「どこが変なのか言ってみてよ。まあ、門倉くんからしたらフツーの人ほどヘンに見えるんだろうけど」
「うん。――君はさっき、美化委員として僕の行動が許せないとか言ったよな」
「言ったけど?」
「ホントにそうか?」
「――――は?」
「そんなの建前なんじゃないのか。ホントは、死んだ幼馴染の面影が残ってる場所が傷ついて欲しくないから、ってのが本音なんじゃないのか」
 いつの間にか紙島は、ぞっとするほど人形に似た顔つきになっていた。
 怒っている。確実に。
 でも僕は、自分の言葉をいまさら引っ込めるつもりはない。
「だったら何?」
「僕は――首藤に戻ってきてほしいわけでもないし、悲しくも悔しくもない。僕からすればあいつはただの友達で、頭のおかしい馬鹿が張ったピアノ線にバイクで突っ込んで首を三百メートル彼方までぶっ飛ばした珍しい死に方をしたやつで、いい暇つぶしの相手だった。それだけ。――未練がましいのは君の方だろうが」
 いい音が鳴った。
 頬に触れるとじんわりと熱を持っていた。
 手の平を振り切った姿勢のまま、紙島詩織は、キッと僕を射殺す勢いで睨みつけた。
「門倉くんには、わからないだろうね」
 立ち去る紙島の背を見送りながら、いま言われたセリフを反芻する。結構響く言葉だな、と僕は胸に手を当てた。誰もいない校舎裏で、誰に言うでもなく呟く。
「ああ、そうだよ、わかるもんか」
 しかし、なるほど環境破壊か。
 僕は咲き誇る桃色の、自然の傘を見上げた。
 確かに僕は、この桜を破壊しようとしていたのかもしれない。
 傷だらけの幹を見るたびに、たったひとりの友達を失ったという思いがするのは事実だ。
 ああ、そうだ。
 この気持ちを、敗北感と呼ぶんだろう。
 首藤星彦が死んでから、僕の毎日は、味気ないにもほどがある。
 他に友達、いないし。

       

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