あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
02.どくろ亭
○
「――で、こいつ、どうしてやろうか。腹ひらきがいいかな? 背ひらきがいいかな? それともナ・マ・ス?」
飛縁魔は突きつけた匕首の刃先で、つんつんと河童の喉元に細かな傷をやたらとつけている。手加減を間違えればそのままスッパリいってしまうだろう。河童は気が気ではない。銀色の刃が動くたびに視線が執拗にその軌道を追いかけた。
「このオカッパ野郎――なめやがって!」
剣呑な雰囲気にすっかり通りから妖怪たちの気配は消えている。周囲のバラックのなかから、コソコソと小さな囁き声と好奇の視線が漏れてくるばかりだ。正座をした河童は、緑色の肌に嫌な汗をかいて審判を待っている。いま、彼の命運は飛縁魔の掌の上でゆらゆら揺れていた。
「まァまァ姉さん。そう怒らなくてもいいじゃないか」
「さっきから思ってたけど誰が姉さんだよ?」
いづるはそれには答えずに、
「いやァ河童さんはすごいんだよ。きみにはわかんないかもしんないけど。僕はね、イカサマをする人を尊敬してるんだ。バカじゃできないからね。だからナマスにするのはやめてあげようよ。あと僕に刃物を向けるのもやめようか。うん、どうやら僕が悪かったらしいね。ごめんよ。河童狙ってね。河童」
目の前にちらついた刃先にいづるはもろ手を上げて降参した。他人を助けて自分が損するつもりは微塵もない。一瞬希望に眼を輝かせた河童が、やはり変わりそうもない自分の運命に、眼に涙を浮かべていた。
「た、頼むよ飛縁魔……助けて……」
飛縁魔は答えずに、震える河童を後ろから抱きすくめる――ようにして、その首筋に逆手に持った匕首を構えた。河童はしきりに飛縁魔の名を呼んだが、彼女に聞く気はないようだった。全身から静かな見えない怒りを迸らせている。古今東西、お互い承知でイカサマをしあった詐欺師同士でない限り、不義に気づいたカモがペテン師を許してやった試しはない。
「わ、悪気はなかったんだ。俺も最近、きつくてさ……ちょ、ちょっと薄くなり始めてるのわかる? わかんない? もう自分の分まで魂が足りなくてさ」
「じゃ、もう悩まなくていいようにしてやる」
せーの、と飛縁魔が匕首を振りかざした。河童はとうとう泣き始めた。
「待って待って待って待ってぇっ! に、兄ちゃん、なんとかしてくれよぅ、飛縁魔のツレだろう!?」
僕? といづるは自分を指差した。
「さっきも言ったけど、僕は助けてあげたいんだ。でも無理だよ、姉さん沸騰しちゃってるもん」
「そんな、冷たいこと言わないでくれよ!」
「僕は自分から助けるのはいいけど、助けてって頼まれるとなんでかやる気なくすんだ。だから、ごめんね」
話は終わりか、と飛縁魔が眼で尋ねてきたので、いづるは頷いた。飛縁魔はそれを見て、匕首を持った手を伸ばした。それが魚のように翻ったとき、河童に致命的な傷ができるだろう。その未来は、なによりも当人の脳裏にありありと浮かんだ。
河童が子犬のように呻き、身をすくませた。
匕首を手放し、身を翻らせた飛縁魔の腰の入った一発が河童の横顔に決まった。いい音を立てて河童はどうッと背後の小屋の壁をぶち破って、倒れこみ、中からきゃあきゃあと小さなコロポックルたちが喚きたてる声がした。できたての穴からぐったりと垂れた河童の足が、ときたまぴくぴくと痙攣した。
紫煙を立ち昇らせる発砲したての拳銃にするように、飛縁魔は自分の拳に息を吹いた。そこまではよかったのだが、痛かったのか、手首をぷらぷらさせ始めてなにもかも台無しになった。
「いってェいってェ。掌底かビンタにしとけばよかったぜ」
照れくさそうに笑う飛縁魔を見て、いづるは仮面の下で、眼を細めた。
その笑顔は眩しすぎて、まともに眼も開けていられはしないのだ。
○
飛縁魔に腕を引かれて、いづるは、『どくろ亭』ののれんをくぐった。飛縁魔の話では軽食屋だという。店の中は多種多様な妖怪たちで賑わっていた。グラスでビールを飲んでいる猿の妖怪、狒々を始めとして、どちらかといえば陽気な妖怪たちが集まる店らしい。辛気臭くもなければおどろおどろしくもない。ちょっと見た感じでは、気合の入った仮装パーティに紛れ込んだようなものだ。
飛縁魔は「ごめんよごめんよ」と妖垣(あやかしがき)をかき分けて、カウンター席にいづるを引っ張り上げた。
「すごいね、大繁盛だ」
「ここはメシ出てくるの早いんだよ。なァおやじ?」
服のシワを伸ばし終えたいづるが面をあげると、ハチマキを巻いた白骨死体が腕組みをして、鐘のようにでかい鍋でぐつぐつしているスープを睨んでいた。肉はないが骨太である。枯れ木というよりはバットのような白い骨は崩れもせずに人型を保っている。
白骨死体がこっちを見た。いづるは反射的になぜか背筋を伸ばした。
「飛縁魔の姉御か。ウチに来るってこたァ勝ったかい」
「ふっふっふ。常勝無敗とはあたしのことよ。脳漿ラーメンふたつ。あと茶な茶」
「よく言うぜ」と白骨死体は鍋に注意を戻しかけ、見慣れないブレザーがちょこんと座っていることに気づいた。
「兄さん、死人かい」
「らしいね」
「ここに来た連中はだいたい震えておどおどしてるんだが、あんたしっかりしてるね」
「そうかな。でも、おじさんのことは見たことあるから」
カタカタカタ、と白骨死体の顎が震えた。笑っているらしい。
「あんた桜高の生徒だろ?」
「知ってるの?」
「その制服、見たことあるよ。前にもあんたみたいなやつがウチに来たよ」
のっぺらぼうは、一瞬、電池が切れたように動きをぴたりと止めた。
「――どれくらい前?」
「半年くらい前かな。なに、知り合い? どっちにしろ、とっくに両替されてるだろうけど」
店主はおたまでスープをごりごりとかき混ぜた。なかに硬いものがいくつか混じっているらしい。
「俺もたまにあっちに遊んでいって、あんたみたいなのを捕まえてくるけど、あんたの声は聞いたことないな。どこで会ったかな?」
いづるは自分の考えに集中していたので、うっかり返事をし忘れそうになった。先ほどまでの会話を反芻して、
「――えと、学校の理科準備室」
カタカタカタ。
「たまにね、バカが標本壊したりするとさ、俺が頼まれて代理でいったりするんだよ。でも、あんな薬臭いところはもうゴメンだね。いまはまだマシだけど昔のガキはひどかったよ。標本にアンモニア嗅がせてどうしようって言うんだろうね。おかげであれから鼻が利かないよ」
冗談のつもりだったのに話が通じてしまって、いづるはどうしようかと思ったが、ドクロ店主はそれきり鍋にかかりきりになってしまった。
飛縁魔と肩を並べて、脳漿ラーメンとやらができるのを待つ。仮面というのは便利だ。どこを見ても怒られない。いづるは改めて飛縁魔の顔をまじまじと見つめた。黙って俯いているととてつもない美少女である。青ざめた肌に妖しい光を宿した双眸。許されるなら、頭を何発か殴ってもっとバカにして大人しくさせてから、部屋にずっと飾っておきたい。
飛縁魔は、カウンター下の雑誌置きからジャンプを取り出してパラパラめくった。そのめくり方がどうも不自然だったので、飛縁魔が横から注がれる視線を居心地悪く思っていることが判明した。けれどどうしてか、飛縁魔は文句も言わずにそわそわとあっちの漫画を読んだりこっちの漫画を読んだりしているのだった。何度も座りなおしたり髪の毛を梳ったりしている。
とうとう聞いた。
「どうしたの?」
「は?」
「落ち着きがないけど。あ、おなか痛いの? トイレいく? 正露丸あるよ」
飛縁魔はなにか口でもごもご言ったが、背後から怒涛のごとく押し寄せてくる妖怪たちの喧騒にまぎれて何も聞こえてこなかった。いづるは何度も「なに?」と聞き返し、そのたびに飛縁魔は怒って早口にまくし立てるのだが、やっぱりその声も要領を得ないのだった。とうとうカウンターに丼がドンと置かれて、その件はうやむやになった。
「へいお待ち。脳漿二つね。980炎になります」
飛縁魔ががま口財布から札を取り出し、端を千切ってカウンターのザルに放り込んだ。いづるからはザルの中は見えなかったが、紙片を投げ込んだはずのザルからはなぜか小銭のぶつかる音がして、それに気をとられているうちにいつの間にか、飛縁魔が千切った札の端は二枚の小銭になっていた。どうやら銀行に両替をお願いする必要は、ここではないらしい。
飛縁魔が自分のどんぶりを手元に降ろし、いづるを横目に見やった。
「のびるぞ」
「え?」
「麺」
いづるは自分も丼を手元に降ろして、中を覗き込んだ。ふつうのラーメンである。太めのコシが強そうな麺が、軽油のような色をしたスープにぎっしりと詰まっている。代わっている点といえば、ところてんみたいな灰色のゼリーが浮いているところと、卵があるはずの位置に小さなドクロが麺に半分埋まっているところくらいだ。美味しそうである。
けれどいづるはすぐ割り箸に手を伸ばさなかった。飛縁魔はますます怪訝そうに、いづるを小突いて、自分だけはとっとと麺をすすり始めた。
「ふぁひまっふぇんふぁお?」
「猫舌なんだ」
いづるは肩をすくめた。
「ちょっと冷めないと食べられない」
飛縁魔は眼を丸くした。けれどモノが口にあるうちは喋れない。口いっぱいにほおばった麺と灰色ゼリーを咀嚼し終えるのを、いづるは辛抱強く待った。
ごっくん。
なっさけねー。
「そんなこと言ったって」
飛縁魔は身をこちらによじって、
「熱いと思うから熱いんだよ。オラ、口あけろ」
「あ、ちょ」
手甲をはめた手が伸びてきて、いづるの仮面を少しだけずらした。口元と鼻先だけが露にされる。ちょうどいい量の麺を箸で挟んで二、三度上下させ、飛縁魔はいづるの口元に箸を近づけた。
「へーきだって。心配すんなよ、火傷なんかしないって。もう死んでんだし」
いづるは必死に麺から顔を背けた。
「い、いいからきみは勝手に食べててくれよ! いつ食べようと僕の自由だろ!」
「見られながら喰えるかっ! ほれ、あーんしろ、あーん」
「やめろってば、ちょ、やーめーろーよーやーめーてーよー」
「うりゃ」
ずぼっ、と麺の塊が口に押し込まれた。思わず一噛み。
じゅわっと旨みが広がった。けれどその何倍も、
「あっづッ!!!!!!」
反射的に首をのけぞらせ、かけていた丸椅子が傾いた。やばいと思ったときには重力の手がいづると飛縁魔の全身をがっしりと絡めとって、そのまま引きずりこんでいた。あッと二人の口から同時に声が出て、周りの妖怪たちを巻き込んで盛大に倒れこんだ。皿が割れて誰かが怒鳴って天井のカンテラが揺れていた。
いづるは起き上がった。起き上がるときに、カウンターのすぐ後ろの卓の長椅子に頭をぶつけて呻く羽目になった。なぜこんなことに。やっぱり弁償だろうか。僕は絶対一文だって払わないぞ。
ふらふら立ち上がるとすぐそばで飛縁魔が膝を抱えてウンウン唸っていた。倒れこんだ時にどこかにしこたまぶつけたらしい。いい気味だ。カウンターのスイングドアから眼窩の奥を怒りで赤く燃やしたガシャドクロ店長にボッコボコにされるといい。
いづるは何の気なしに、振り向いて、
「ふん、ざまみろ」と毒づいた。
振り向いた先の卓には女の子が一人ちょこんと座っていた。青い着物を着たその女の子は、金髪で、碧眼で、胸元は、ガラスの容器とそこから零れたアイスがべっとり。
いまの毒づきは、さて少女に正しい意味で伝わっただろうか。
ヤバイ。
そう思ったところで逃げ場はない。
わなわなと両拳を握り締めた女の子は、いづるを親の敵を見るように睨んだ。
「信っじらんない!!」
僕もです。
いづるはよっぽど言いたかったが、潤んだ女の子の眼がそんな弱音を許さなかった。いづるは両手をあげた。全面降伏するほかなかった。
ようやくふらふら立ち上がった飛縁魔が、錆びたフライパンに脳天をガツンと一撃され、再びバタリと昏倒した。
あの世横丁三番路地左手『どくろ亭』――年中無休、出前なし、茶のみ談義お断り。
どんぐりアイス、130炎也。