Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      



 一瞬、意識が断ち切れていた。
 業斗がハッと自分を取り戻した時にはもう、自分の重ねられた両手を見上げていて、何が起こったのかはとうとう手遅れになるまで気づけなかった。
 真っ白い腕。
 一度も日に焼けたことのない腕が、自分を守っている。
 掌に感じる麻袋の感触は紛れもなく現実で、じゃらじゃらと出の悪い湧き水のように零れ落ちている魂貨がブラックジャックに詰まっていたものだと脊髄のどこかで思う。
 ――君が、
 脳裏にいづるの声が、その脊髄とやらの中を反響する。

 ――君がズルさえしなければ、彼女には決して手を出さない。
 ――君が、
 ――ズルさえ、しなければ。



 あれ?
 俺、何してんだろ。
 これって、確か、やっちゃあいけないことだったよな。
 あれ?
 俺、本当に、
 何、やってんだろ――



 何度瞬きをしても、雪のように白いあの子の笑顔が目玉の裏に貼りついて離れてくれない。
 自分は、
 自分は果たして本当に正しいことをしているのだろうか。本当に、これでよかったのだろうか。何か大事なことを忘れている気がする。何か大切なことを捨ててしまった気がする。
 そこまでして、俺は夢を叶えたかったんだろうか。
 目を逸らしていた事実が心の隙間から流れ込んで来る。そもそもいまやったことは、果たして初めて犯した罪なのか? いままで勝って喰ってきた連中にだって、自分は同じことをしてきたんじゃないか? ただ目を背けていただけで、俺はとっくに――
 ――夢も希望もないやつが、おめおめと居残っている方が間違いなのよ。
 あの女はそう言った。自分もそうだと思った。でも、そう思いたかっただけじゃないのか? 自分が倒してきた連中に夢も希望もなかったかどうか、どうして俺にわかるんだ? どうしてあの女にわかるんだ? 誰にもそんなことわかりはしないのに。
 怖くなる。
 何かを踏み台にして、前へ進むということが、初めて指の先まで実感できた。
 思えば自分は、
 自分で食べたローストチキンの一羽とて、手前で絞め殺して喰ったことなどなかったじゃないか。
 ああ――
 無理だ。
 自分にはできない。何かを犠牲にしてまで前へは進めない。そうまでして進まねばならない『前』とはなんだったのか、もうわからない。思い出せない。どうにもできない。
 嫌になる。
 どうしていつも、手遅れになってから気づくんだろう。
 自分はもう、前へ進んでしまったというのに。
 もう、四本腕を晒してしまった。引き返すことはできない。
 ああ、どうして。



 手に持ったままの麻袋を投げ捨てて、業斗は駆け出した。目に映っているのはただひとり、こちらを見返す守銭奴の影。
 あいつのせいだ、とは思わなかった。
 本当にいづるがミクニを殺すかどうか、が問題ではなかった。
 殺すと言われてなお約束を違えた自分が、業斗にはただ、恐ろしかった。
 俺は、
 本当に、ここまでして、夢を叶えたかったんだろうか?
 本当に、大切なものって、
 なんだったんだろう――

 その答えを教えて欲しくて。
 業斗は走る。
 いづるは背後に手を回し、再びブラックジャックを放つ――が、この土壇場で足元の霜に足を滑らせて暴投、ブラックジャックは遥か頭上の吊り船めがけて吹っ飛び去り、観客は声にならない叫びを上げ、業斗の四本の手が救いを求めるようにいづるへと殺到しかけ、そして、
 業斗の視界を闇が覆った。



 ○



 いづるは背後に手を回し、二発目のブラックジャックの麻紐を握り締める。
 ――よちよち歩きの馬鹿を始末するには、呵責を感じる手を打つ時がついにやってきた。
 ブラックジャックなどは所詮その一手の前座に過ぎない。ありったけの魂貨が詰め込んでいるとはいえ、ガードを超えて頭部を打ち砕けるわけでもなし、ハナからこんなオモチャに期待などしていない。それでもできることなら先のブラックジャックでケリをつけたかった。呵責を感じるのは、業斗に対してだけではないから。
 それでもその瞬間はやってきた。
 それならそれで、受けて立つ。
 いづるの心はどんどん冷えていく。涙さえ凍るような冷たさだ。心が、自分の明日のために誰かの今日を殺せるにようになっていく。
 自分の明日が、こいつの今日より上か下かはどうでもいい。
 そんなものに優劣はない。そんなものを誰かが決めるなんて元々できはしないのだ。明日がいいものかどうかはわからない。ただ、今、ここで最後の一手を打った後、俺かこいつの明日が消える。
 そして残った方が、明日へ行く。
 それだけのこと。
 いづるは身体が沈むほど左足を踏み込み、霜で足を滑らせつつも上を向き、最後のブラックジャックを頭上高くに打ち上げた。
 外した。










 ○


 四十五枚。
 それがいづるが費やした戦術ノートの枚数。
 昔の人は言う。勝敗は戦う前にすでに決していると。本当にそうかどうかはともかく、いづるもまた手ぶらで闘技場の土を踏むわけにはいかず、部屋にいる時は大抵ノートに鉛筆を持ってソファに座っているのが常だった。
 そもそも足りないと思うのだ。いづるは自分の指先を自分で軽く魂貫して、一枚の魂貨を取り出して見る。このちっぽけな欠片が勝負の趨勢をいつもその数で決めている。自分が相手より多いか少ないか、まるで天秤にかけられる重石になった気がする。
 果たして、自分よりも確実に『重い』相手をひっくり返すことができるのだろうか。
 無論、やり方次第と言うは容易い。確かに戦局次第では小は大を殺す。その前提があるからこそ、いづるとて鉛筆片手にごしごし心に浮かんだ案を紙切れに書きとめているのだ。
 だが、それでもなのだ。
 人質を取り、四本腕を封じ、迷彩マントを羽織って仕込んだブラックジャックを背に隠し持ち、放ったブラックジャックを相手がガードをあげたと同時に紐を緩めて射程を伸ばし後方からの奇襲へ変化させる。
 それで足りるかもしれない。花村業斗に届くかもしれない。正確なことは実際にやってみなければわからない。ひょっとしたら、ブラックジャックを頭部に当てただけで、あるいはもっと早くにこの右手で相手の胸か頭を貫けるかもしれない。
 でも、いづるは思う。
 足りない。
 あと一手、用意できなければ、おそらくきっと勝てないままだ。
 勝つには、『勝てない』という前提をぶち壊さなければならない。
「死にそうな顔をしているぞ、門倉」
 と、見えてもいないくせに蟻塚が言う。
 蟻塚は、他人のベッドの上に断りもなく腹ばいになって、目の前で眠っている電介を眺めている。あの堂々とした狼藉以降、どこかへひとりで姿を消すことが多くなったキャス子のせいで蟻塚は自分の役目を失いフラフラとしていたが、結局は唯一の知り合いと言ってもいいいづるの部屋に入り浸っていた。べつに部屋に居つくのはいいが、ことあるごとに電介を持ち逃げしようとするのだけはやめてほしいといづるは思う。その時もよせばいいのに寝ている電介から放たれている放電の間隙を縫って寝背中をなでようと虎視眈々狙いをつけていた。懲りないやつである。
 いづるはため息をつき、
「そりゃあ死にそうな顔にもなるよ。どうにも負け戦が濃厚だ。雑誌にも書いてあったけど、僕とやつの残高は百か二百の差があると思う」
 蟻塚は一瞬、仮面をこちらに向け、
「そんなにか」
 百と二百ではかなり話が違ってくる。一般に、自分より二倍の額を抱え込んでいるやつと揉め事を起こしたら背中を見せて逃げ出すべきで、一・七倍で一太刀返してすぐ逃げるのがせいぜい、一・五倍で悪戦苦闘の果てに勝つか負けるか、と言われている。
 最悪、戦況次第で魂貫が不能になるほどの差が出る可能性がある。そうしたらお手上げだ。素手の勝負で素手じゃ勝てなくなる。
 あと一手、あればそれで満足する。
 だが、その一手が思いつかない。
 四十四枚の試行錯誤の果てに花村業斗を相手にしてノーダメージ・ノックアウトができないという結論に達した以上、それが正しかろうが正しくなかろうが、あと一手が必要なのだ。何か案はないものかと思う。いづるは仮面の向こうに垣間見る。円形の闘技場のど真ん中で、ふらふらになりながらも、倒れることなく二本の足で立っている敵の姿を。そして打つ手をなくして立ちすくむ自分の影を。どうにもそれが現実になる気がしてならない。
 だから、あと一手。
 それだけでいい。
 キャス子は怒るかもしれないが、これが生涯死涯合わせて最後の博打になる覚悟はできていた。そうするだけの価値は、この闘いにはあるのだと思う。
 だから、あと一手でいい。なのに頭はふわふわと空転するばかりで、むしろ気合を入れれば入れるほど大切なものが零れ落ちていくような錯覚。ボケの毒が回る心地とはこういう気分なのかもしれない。
 押し黙ったいづるに、蟻塚は肩をすくめてみせる。
「そう焦るな。好機は寝て待て」
「そんな時間ないよ」
「知っている。だが、私はそれほど心配してはいない」
「どうして?」
「これまでの三ヶ月でわかったことがあるからな」
 蟻塚は身体を起こし、とうとう寝ている電介を抱き上げてあぐらをかいた自分の股座の中に鎮座させるという暴挙に出た。一瞬寝ぼけた電介は焦点の合わない目で虚空を見つめ哲学家のような面を晒していたが、自分がどんな屈辱的姿勢をとらされているかに思い至ると激烈に抵抗し、
「フシャ―――――――!!」
 だが蟻塚は気にせずに電介を抑えこみ、話を続ける。
「門倉、おまえはちょっと真面目すぎる」
 いったい誰が言ったのかと思った。
「……は? いや、そんな、どこが? 僕はこれでも性格が悪いんで有名だったんだ」
「ああ、そうだろうな」
 無駄だと知りつつも蟻塚は自分の指からひねり出した魂貨を電介の口元に寄せる。電介は嫌々をしているが腹が減っているのか電撃のキレが悪く拘束からなかなか逃れられない。
「それでも門倉、おまえは真面目だ。キがつくほどにな。おまえは勝つたびに辛そうな顔をしている。通りをゆくあやかしから小遣い銭しか入っていないがま口財布を掏り取るたびに苦虫を噛んだような顔をしている」
「ちょっと待ってよ。だからなんでヅッくんに僕の顔が見えるのさ。冗談も大概にしてくれよ、僕だってたまには怒る」
「三ヶ月もお嬢様の周りをウロウロされたら嫌でもわかってくることぐらいある。門倉、おまえはそろそろ悟った方がいい」
「何を」
「おまえがおまえだと言うことをだ」
 仮面をつけていてこれほど助かったと思ったことはない。
 いづるは声が震えないようにするのに必死だった。
「……君に何がわかる? 普通に生きてきた君に?」
「さあな。私もなんでこんなことを言っているのか自分でもようわからん。だが門倉、いい加減少しは自分を許してやったらどうだ。何をしたのか知らないが、おまえは充分に償いはしたと私は思う」
 いいじゃないか、と蟻塚は続けた。
「人非人でも、おまえはおまえだろう?」
 その時、バチリと音がして、蟻塚の人差し指の先が吹っ飛んだ。その一瞬の隙を突いて電介はベッドから飛び降り、ドアも開けずにそれこそ稲妻のような速度で霊安室から出て行った。蟻塚は先を失った自分の指を見て、
「やりすぎてしまった。申し訳ないことをした。彼に謝っておいてくれ」
「ヅっくん……」
 蟻塚は電介の後を追うように、霊安室の扉に手をかけ、半面だけ振り向いた。
「それとな、門倉。そんな変なあだ名を無理やりつけなくとも、私とておまえのことを友人ぐらいにはとっくのとうに思っている」
 返す言葉がなかった。
 一人になって、置物のようにソファに身を埋めながら、いづるは見るともなしに、蟻塚が落としていった指先が魂化していくのを眺めていた。
 人非人でもいい? おまえはおまえ?
 馬鹿じゃないのかと思う。
 人非人でいていいはずがない。人でなしはいてはいけないのだ。人の気持ちがわからずに、彷徨うだけの狂人はいない方がいいのだ。いても誰かを傷つけるだけで、自分の孤独を嵩に着て、自分と同じ気持ちを味わえとばかりに不幸の種子をあたり一面にばら撒くのがオチなのだ。
 だから、そう思ったから、ここまで頑張ってきたのだ。
 僕の気持ちは変わらない、といづるは思う。
 飛縁魔を取り戻し、人非人たる自分が撒いたあらゆる不幸の苗を根こそぎ葬り去って、今度こそ消えるのだ。
 何もかもを無かったことにはしてやれない。それが本当に申し訳ないと思う。それでも、逃げ出すわけにはいかず、忘れるわけにもいかず、闘い続けるしかない。
 彼女のために、あとほんの少しだけ、自分は人非人であり続ける。
 彼女のために。
 彼女を取り戻すためには、勝つしか――
「おまえは、真面目すぎる、か」
 いづるは髪に指を差し込んで、ふっと笑い、
「言われたことあったっけ、そんなこと……」
 部長が聞いたら笑い出すだろうな、と思い、さっきまで蟻塚がいた空間を見つめ、そしていづるの脳裏に閃光が突如ほとばしった。それまで考えていたことが一発でどこかへ消し飛んだ。
 立ち上がり、卓をぐるっと回って、ベッドに近づく。しゃがみこんで、蟻塚が落としていった指先を拾い上げた。指先はもうとっくに魂化し終えていて、ただの歪んだ小銭の塔になっていた。
 いづるはその小さな、風変わりなチェスの駒のようなそれを引き剥がそうとして、失敗した。再度挑戦して、やっと塔は二つに別れた。
 磁石のように。
 悟る。
 そう、問題は最初から距離だった。
 彼女と自分を隔てるのは常に距離だった。
 それを殺してやればいい。ことは簡単だった。が、あまりに単純すぎて、なかなか考えつかないことでもあった。
 おまえは真面目すぎる。
 まさにそうだった。懸かっているものが飛縁魔でなければ、もっと早くにそうしようと決断していたはずだった。
 問題は距離。
 地上からは、吊り船を吊る鎖はあまりに遠すぎた。少なくともいづるはブラックジャックでそれを撃ち抜く自信はなかった。練習する時間も、する距離を作るスペースも足りなかった。だったら補助してもらえばいい。
 電介が自分に懐いていてくれて本当によかったと思う。自分に都合がいいからじゃない。これで彼女を救えるからだ。
 門倉いづるを救えるものは、残念ながらどこにもいない。
 門倉いづるは、死んでいるから。
 だが、あの子はまだ生きている。
 それだけのことだ。



 だから、
 魂貨をたらふく喰わせて元気いっぱい、空気中に溢れんばかりに放電している電介が寄り添う吊り船の鎖めがけて、いづるは二発目のブラックジャックを撃ち放った。
 当たらなくてもいい、磁界に引っかかるだけでいい。業斗が迫って来る。予想より足腰がしっかりしていて速度が速い、間に合うか、間に合わないか、この期に及んで口に笑みが浮かんでしまう自分の性根が心底憎い、
 ガラスが割れるような音。
 傾いた吊り船から景品が転がり落ちてくる。
 壷だの甕だの鎧や槍なにかの機械、人間の魂を千人分貢いだって足りない宝物が降って来る、だがそれのどれもこれもが今はガラクタだ、今この時、決着の瞬間において重要なことは落ちてくるものが『何』かだ。
 業斗が四本腕をたわめる。その顔は怒りというよりも戸惑いと恐怖、何よりも後悔で満ちていた。
 優しいやつだな、といづるは思う。
 業斗は友達よりも自分の夢を選んだことを心底悔いている。悔いながらも、止められず、結局できたのは飾り気も糞もない真正面からの突撃だ。突撃、それが花村業斗の最後の一手だった。
 周りが見えていない。
 業斗はその時、視力や視界はともかくまぎれもなく目盲(めくら)だった。
 吊り船から落ちてきた黄金の甕(かめ)が、曲芸的な回転の果てに業斗の首をスポンと飲み込んだ。どうせめくらならそのまま突き進めばいいものを、ことここに至ってロクに機能していなかった視界が闇に包まれて業斗は怯んだ。急制動をかけてその場に立ち止まったのだ。
 構わず前へ突き進み、その掌からなる四撃をいづるが立っているところへ解き放っていれば、業斗は勝っていた。勝ち、魔王(わからずや)の称号と栄光を手土産に土御門家の門を潜れていたはずだ。その果てにあったのが、馬鹿のひとつ覚えの拒絶にしろ、手の平返しの歓迎にしろ、業斗はその門を潜ることまではできたはずだ。
 業斗はそれを逃した。
 最後の好機が訪れた。
 いづるは、頭上を見上げ、最後のバックステップで距離を取る。
 とすっ。
 一振りの刀が霜の下りた地面に軽く刺さった。朱塗りの鞘に蓮をあしらった柄、柄巻の鮫革は馬鹿のひとつ覚えに練習を繰り返したであろう持ち主によって擦り切れていた。
 鬼切りの虚丸。
 鬼を切れるなら、死人を切っても差し支えなかろう。
 勝った。
 まるでおまえが抜けとばかりにいづるの目の前に突き立った虚丸の柄をいづるは右手で握り、左手で刀を収めた鞘を、
 左手?
 首を左に向ける。
 そこには虚空があるだけだった。
 左手をあがなう魂(かね)は、とっくのとうに使い果たし切っていた。
 鞘を抜くことが、できない。
 この期に、
 この期に及んで、口に笑みを浮かべてしまう自分の性根が心底憎い。
 視界の端で、業斗が甕を顔から外して投げ捨てるのが見える。
 時間はない。
 距離もない。
 あの腕のうち一本が右腕を押さえつければ、残った三本が自分の頭へと殺到する。
 鞘を、
 鞘を抜かなければ、
 抜くんだ、鞘を、
 鞘、



(母さん)
(母さん、あのさ、僕は母さんの仕事は天職だと思うな。そう、向いてると思う。なぜかっていうとね――え?)



(にんぴにん?)



 すべてを決する一瞬間、
 いづるは、右手に握った刀を自分の胸へとまっすぐに突き刺した。
 瞬間、あらゆる神経の先々端まで燃え盛る光のような痛みが何もかもを焼き尽くして走り抜ける。激痛なんて言葉では言い表せない、笑ってしまいそうになるようなそれはもはや衝撃だった。意識なんてものはもうほとんど残っていなかったが、それでもなけなしの力をかき集めて、いづるは業斗を見る。
 目が合う。



 所詮、逃げることはできない。
 どうすることもできない。
 気に喰わないことがあろうと黙って受け入れるしかない。
 それができないなら徹底抗戦で、
 それが許せないなら最終戦争で、
 そうしてお前が僕の前までやってきたというのなら、
 そうしてお前が現実からどこまでも逃げ続けるというのなら、
 この僕が、お前と夢との最後の門だ。
 超えていきたければ超えていけばいい。
 お前が夢見た嘘が、僕の向こうにはあるんだろう。
 それでも逃げ出すことはできない。振り切ることはできない。
 『死』からは。




 もはや斬るも突くも間に合わず、
 右手にやけにひっかかる鮫革の感触だけを頼りに、身体に埋まった鞘から白刃を走らせ、そのまま柄頭を掌底で押し付けるようにして虚丸を投げ放った。これで駄目なら笑って死ねる。顔を打つ無遠慮な照明が祝福のように感じる。何も見えない。何もわからない。
「――――に」
 耳元で囁く声がして、いづるは閉じかけていた目を開けた。霞んでいた視界が焦点を結ぶ。
 胸に根元まで刀を刺した業斗が、目の前に立っていた。二本の右手がいづるの腹部と胸部の手前で稼動限界を迎えたように止まっている。左腕は二本とも下からの掌底を打ち上げる途中で、やはりガス欠を起こしたように停止したまま。
 勝負はついていた。
 お互いに、わかっていた。
 業斗は焦点の合わない目で、いづるにというよりも、その向こうにある照明に向かって喋った。
「ミク……ニに……。ごめん……って……言っ……てくれ……」
「うん」
「――――あ、れ?」
 業斗はゆっくりと足元から崩れ落ちていく。
「俺、どこに行こうとしてたんだっけ――」
「もう、どこにも行かなくていいんだよ」
 ああ、そっか。
 子どもみたいに笑って、業斗は目を閉じた。
 次の瞬間、その身体が内側から吹っ飛び、赤い土石流と化した魂貨がいづるを呑み込んだ。気の狂いそうな騒音の中、赤い流れに弄ばれながらも、いづるは右手を伸ばした。もう失くすのはごめんだ。三ヶ月以上かかった。もう一度やれと言われてもごめんこうむる。切った張ったで言えば自分は張る側の人間で、こんな跳んだり跳ねたりする博打は――絶対、君の方が向いている。
 いづるは持ち主の馬鹿正直さが伝わってきそうな鮫革の柄巻を赤い闇の中からもぎ取った。
 今度は離さなかった。

       

表紙
Tweet

Neetsha