Neetel Inside ニートノベル
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 誰もいない。
 闘技場をぐるりと囲んだ客席に寄り集まっていたはずの黒ローブたちはひとり残らずどこかへと去ってしまっていた。囁き声ひとつしない。物売りが売り歩いたパンを包んでいた紙袋も凍ったように動かず、赤い魂貨の山へのスポットライトと化した照明の光は、時間が流れ出そうとするのをせき止めているかに思える。
 勝負は終わった。
 いづるは勝った。
 耳を澄ませば、どこか遠くから、震えに似たざわめきが聞こえてくるような気もするが、それは五時の鐘が鳴ってまた明日と別れた友達の声がいつまでも耳に残響するのに似すぎていて現実なのか夢幻なのか判断がつかない。
 誰もいない客席。
 だが、二人はそこにいた。
 ドリンク屋は手すりに肘を乗せて、眼下の光景をぼんやりと眺めていた。いつもは貼り付けたようなお追従笑いを浮かべている口元が今度ばかりは引き締められ、仮面にペイントされた泣き笑いの顔も今日ばかりは本当に泣いているようにしか見えなかった。それでもドリンク屋の心までが泣いていたかといえば決して違う。
 どうやら自分は負けたらしい。
 アテが外れた。ツイてなかった。言葉はいくらだってあるが、結局どう言い繕おうが負けたのだ。だが自分は何に負けたのだろう。ドリンク屋は博打で強い弱いを言い出す馬鹿が死ぬ前から嫌いだった。博打の胴元をやれば誰もが気づく。所詮博打の強弱など幻想だと。もちろんゲームの習熟度に差は出て来るが、そんなものは理不尽なまでの横殴りの暴運の前になすすべもなく潰されるばかりで、かえってにわかかじりの似非博徒の方が素人衆にカモにされるなんていうのは昔からさして珍しいことではなかった。そして一時の勝ちを拾ったとうしろう連中だって海千山千の外道どもの中でしのいでいけるわけもなく手持ちのあぶく銭を溶かし切ったやつから消えていき、そうして残った連中とて金持ちになったわけでもなく、賭場から離れられないのも他の生き方をろくすっぽ知らないからだけに過ぎない。博打に強いも弱いもない。手を出したやつはひとり残らずいつか負けて終わるのだ。だから、自分は負けたが、そのことで誰かに恥じ入るつもりは毛頭ない。
 ただ、思うだけだ。
 そんなのありかよ、と。
 ドリンク屋は半分残った仮面と意地を手すりにごん、と打ちつけた。
「お嬢、どうやらあっしの負けのようです」
「みたいだね」
 キャス子はいづるの仮面をポイ、と魂貨の山へ投げ捨てた。持ち主は魂貨の山からポン刀一本握った腕を晒して、残りは完全に埋まっていて誰かに助けを求めているのだろうが、いまのところキャス子は助けにいく気がないらしい。
 ドリンク屋は隣で同じように下を見下ろしているキャス子を見やり、首を振った。
「いやはや、参りました。ええ、降参ですとも。門倉兄ィは確かに強い。あっしが思っていた以上に、そしてあっしが思っていたよりもずっと異常に。勝って手に入る話のものを勝負中に分捕るなんて、博打がどうのというよりも、往生際が悪すぎます」
「あれが愛の力……ってやつだよ」
 ひとりウンウン頷いているキャス子をドリンク屋は無視しようかと思ったが、
「……愛?」
「そう、愛よ愛。おかしい?」
「おかしかないですが――」
「あいつはね、とんでもない天邪鬼の癖して妖怪の女の子を好きになっちゃって、その子を助けたいってあんな頑張ってんの。笑いたきゃ笑えばいいよ。でもね、あいつ見てると、結構そういうのも本当は悪くないのかなって気がしてくんの。そんでもって、あたしもそういうの悪くないのかなって思い始めてんの。おわかり?」
 わからなかった。
 だが、ストンと何かが腑に落ちた。
 そういうものかもしれない。
 結局、理屈ではないのだ。
 理屈で割り切れないものがあるから、自分だって今、こうしているんじゃないのか。
 オール・イン。
 博打じゃないとでも思ったか。
 自分の間抜けさがつくづく笑えて来る。
 ドリンク屋は、ぐずぐずと魂貨のかたまりへと変わっていく自分の掌を見つめた。
 言おうか言わずにおくか迷ったが、言った。
「お嬢、あっしはね、自分で何かに賭けたことはこれまで一度もなかったんですよ」
「へえ――? じゃあ、どうして」
「どうしてですかね。別に困っていたわけじゃないんですよ。悠々としていたわけじゃ無論ありはしませんが、それでも今すぐお嬢や兄ィをどうこうして稼がなきゃならないほどじゃあなかった。馬鹿なことをしたもんです」
「馬鹿なこと。それがわかったんなら君も立派な博徒の仲間入りができたってわけだね。おめでとう!」
「どうもありがとうございますですよ、まったく。ああ、博打なんぞをやるような負け組にだけはなるまいと思っていたのにね。ずっとバランスを取って暮らしてきたのが、ひょんなことからこのざまだ。ツイてないや」
 ふと、ドリンク屋はキャス子が仮面を外して、にやにやした素顔を晒していることに気がついた。
「なんです」
「いや、ツイてないだのこのざまだの言ってるわりには、どうして笑ってるのかと思ってさ」
 笑ってる?
 俺が?
 ドリンク屋は口元に手をやった。掌に感じるシワは、確かに笑っているように歪んでいた。
「笑っていますね、確かに――」
「笑っているよ、確かに――」とキャス子も返す。
 ドリンク屋はふふんと笑って、
「俺はね、結局羨ましかったんだと思いますよ。今までたくさん人間を見てきたが、生きていても死んでいても、あんたたちほど馬鹿馬鹿しいやつらはいなかった。俺は確かに、博打の胴元をやって、控除率の数字に守られて喰ってきた男です。数字の上下で生きてきた男です。だが、やっぱり、あんたたちと同じ側に座って、自分の流儀で何かを賭けて、生きてみてえと思わないほど乾いていたわけじゃなかったらしい」
 俺は、とドリンク屋は、きらきらと闘技場の中央で輝く一振りの刀を見つめて、言った。
「あれほど何かを欲しいと思ったことがありません。だが、あの時、俺が賭けた馬があんたの馬に負ける瞬間、思いました。思わされましたよ。負けるな! ――って。がんばれ! ――って。誰かをあんなに応援したのは生まれて初めてです。たとえそれが自分の保身のためでも、ね」
 ドリンク屋はよっと手すりに尻を乗せて、キャス子を見下ろした。キャス子は帽子のつばを上げて、まっすぐに見つめ返して、言った。
「楽しい宵だったね、名前も知らない誰かさん」
「ええ」
 ドリンク屋はウンウン頷いて、ゆっくりと空中に倒れこんでいく。
「楽しい宵でしたよ。ほんとに楽しい、いい宵だった」
 ドリンク屋の姿が消える。すでに積もっていた魂貨の上に、また新たに赤金がぶちまけられるいい音がしたが、その反響もすぐに消えて、静かになった。
 キャス子はしばらくそのままそこにいた。が、背後から慌しく足音が迫ってきて、振り返ると蟻塚が背を丸くして立っていた。
「お嬢様、申し訳ありません」
「何が?」
「取り逃がしました――」
「取り逃がしたって、誰を?」
「雪女郎をです。申し訳ありません、隈なく探したのですが見つからず――」
「ふうん」
「ふうんて。お嬢様、門倉が負けてなんとも思わないのですか?」
「勝ったよ」
「へ?」
「門倉が勝ったって。それに、雪女郎もここにはいなかった。いたら人質にならないし……まァ業斗は最後に四本腕を使ったけど」
「それは、ええと、どういうことになるんでしょうか――」
「わかんない。けど、いなかったってことは、何か用事があったんでしょ」
「たとえば、誰かと会っていたとか?」
「もしそうなら」
 キャス子は頬を手すりに頬をつけて、言った。
「問題は誰が、ってことだよね」
 答えは見えなかった。

       

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