Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 荷造りは必要なかった。
 虚丸以外の景品はすべて換魂してしまい、必要なものなんて他に何も思いつかず、どれもこれもが手に余るようにしか思えなかった。
 ほとんどキャス子が持ち込んだ家具に囲まれながら、いづるは空虚な気持ちでテーブルの上の刀の鞘をさっと撫でた。膝では電介がねぎらうように掌をなめてくる。あまりに熱心になめてくるのでいつか喰われるんじゃないかとさえ思う。
 キャス子と蟻塚には黙って行くことにした。
 なぜと言われても上手く答えられない。ただそうした方がいいという漠然とした、しかし断固とした予感だけがあって、そうすることに迷いはなかった。
 たったひとつ残った景品を無造作に掴んで、勝手知ったる自分の棺同然だった部屋を一瞥もせずに出た。通りには人気も妖気もなく、どこか遠くで耳鳴りのような歓声が、この地下に住む彼らが新しいオモチャを見つけて熱狂していることをいづるに伝えて来る。昨日のチャンプも引退したらそれでおさらばだ。彼らが求めているのは永久に闘い続ける存在であり、それはきっと自分ではない。
 ガッ。
 そんなことを考えているからぬかったのだろう、足元を綺麗に払われ、いづるはものの見事に顔から床に突っ込んだ。そのつむじにニヤけたいつもの声が降る。
「やあやあやあ! いったい君は何をしてるのかな?」
「……。キャス子。仮面が割れたらどうするんだ?」
「んー」とキャス子は片手で自分の仮面を剥がし、
「割れればいいんじゃない?」
 ひれ伏したいづるの顎を靴の爪先で持ち上げるキャス子。この女いつかしばくといづるは心に固く誓う。そばで肩を震わせて笑いを堪えている黒執事も同罪だ。
「君ら、こんなところで何してるんだ? 僕の代わりを探しにいかなくていいのか?」
「ああ、プロモーター稼業ならもうやめた。たっぷり稼いだし、ちょっと休暇でも取ろうと思って」
「休暇? どこで」
「あんたが行く場所で」
 即答。
 いづるは蟻塚に救いを求めたが、黙って首を振られるばかり。
「いいか、この際はっきり言うけど、僕は君が――」
「君が?」
 キャス子は言えるものなら言ってみろとばかりに顎をしゃくる。いづるもいくらかムキになって、
「好きじゃ、ない」
「気のせいだよ」
「うんそうだね気のせい――うえぇ?」
 情け容赦なくいづるの背中を何度もぶっ叩いて、キャス子はその首に腕を絡めた。
「まァまァまァ。もうめんどくさい流れはよそーよ門倉。どうせあたしは諦めないし、あんたはあたしを止められない」
 そうはっきり言われてしまうとそんな気がしてくるから不思議だ。
「それにホラ、前向きに考えればいいじゃん? あたしも蟻塚もあんたが魂を貸せって言ったらいつでも貸してあげるよ。地上に戻ったらまた三度のご飯よりも大好きなギャンブル三昧に洒落込むんでしょ? その時にあたしらがいたら重宝しますぜ旦那」
「お生憎様、そんなこと言いませんよ。この刀を人手に任せたら綺麗さっぱりに消えてやるんだ。もうクタクタだもんな、僕だって安らかに眠りたい時ぐらいある」
「はいはい」
 割と大切なことを口走った気がするのだが、あっさり流されていづるはズルズルとキャス子に引きずられていく。蟻塚がとうとう笑い出して、すぐに笑い声は三人分になり、暗い路道にいつまでも木霊していた。


 そのまま誰にも会わずに、三人は闘技場を出た。試合場を、ではなく、建物自体からだ。鬱蒼とした城壁の上に出ると夜明け前のような冷たく澄んだ空気が満ちていた。
「はあ。やっと出られた」
「ご苦労さん。長かった? それとも一瞬だった?」
「さあ、どっちかな。少なくとも自分を騙したやつと出る時も一緒だとは思ってなかったよ」
「えっ! 騙したって誰が……ねぇ蟻塚知ってる?」
「さて。どうせまた門倉の被害妄想でしょう。もはや夢も現もわからないようですね」
「まあ! なんてこと……ただでさえホイホイ知らない人についていっちゃうばかなのに……」
「……。もういいよ……これからまた上まで歩いていかなくちゃいけないんだ、無駄話なんかしてたら日が暮れるよ」
「上まで?」
 仮面を被り直したキャス子が素っ頓狂な声を出した。
「なんで歩いていかなきゃいけないわけ?」
「え、だって……」
 と、地上へと続いている遥かな城壁を振り返ったいづるの目の前に一台のバスが停車した。とっとと乗り込んでしまうキャス子と蟻塚をいづるは呆然と見上げる。
「バスなんて出てたの……?」
「うん、この城壁の上はね。でも行きは出くわさなかったねー。あんたってほんと変にタイミング悪いンだなァ」
「門倉、おまえはラッキーなのかそれとも悲惨なのか、一体全体どっちなんだ? はっきりしろ」
「僕が知るか」
「はいはい、さっさと乗っちゃって。ほら乗車賃は五百炎だよ」
 高っ、と叫びかけて、青っ白い顔をした運転手にぎろりと睨まれたので、いづるはぺこぺこしながら大人しく魂を払う。他の乗客はおらず、三人は一番後ろの座席に陣取った。バスが緩やかな重力を孕みながら発進する。
「時に門倉」顔はキャス子の膝に乗った電介に向けたまま蟻塚が言う。
「おまえ、天魔王会の賞品はどうしたんだ?」
「売った」
「売った? 売ったって、全部か? 馬鹿な、あれはただの骨董品じゃないんだぞ」
 そうそう、とキャス子が電介の喉を撫でながら相槌を打つ。
「四次元に通じてる壷とか、好きな顔になれるお面とか、狙った目が絶対出せるサイコロとかあったでしょ? それ全部売っちゃったの?」
「うん。だっていらないし。これさえあればいいから」
 いづるは肩にもたれさせた刀にコツンとこめかみを当てて、
「他のは全部、僕には使い道が思いつかないから、言い値で河童のおっさんに売ってやった」
「河童!? ……ちょっと待ってなんか嫌な予感してきた。あんたそれで諸々をいくらで売り飛ばしたの? キャス子お姉さんに教えなさい」
「三万二千炎」
「……。わんもあぷりーず」
「三万にせ」
「千の位なんぞどうでもいいわあ――――いっ!!」
 キャス子が吼えた。
「さ、三万!? 三万!! あんたバッカじゃないのあれ全部合わせたら一千万近くは絶対なにがなんでもいくはずよだってあたしが勝った時に売っ払ったらそんぐらいいったもん! それが! それがぁ!! さささささんまさんま」
 ずるずると尻から床に崩れ落ちていくキャス子を慌てて蟻塚が引っ張り上げた。
「ああ、お嬢様、しっかり!」
「だって蟻塚。一千万あったらね、三年はあの世に留まっていられるよなって、キャス美思うの」
「へえー。じゃあ一年留まるには三百万ちょい稼げばいいのか。なんだか普通に生きていくのと似たような感じだねぐえー」
 余裕ぶったいづるの態度がキャス子の導火線を完全に消し炭にした。胸倉を掴んで鼓膜があったら破りかねない勢いで、
「あんたほんっとに馬鹿じゃん!? 一体全体なに考えてんのよ! ああもう、こんなことだったら最初からあたしが全部管理するって手はずにしておけばよかった……手数料だけでもあたしは二年は稼げたのに……」
「管理するだけで三分の二も持って行くのか? それはちょっと……」
「何がちょっとよこのどアホ!!」
 その一喝の風圧で、いづるの仮面が吹っ飛んだ。
「一千万のお宝を三万で売り払ったのはどこのどいつよ! 河童!? 河童ですって!? あははあは蟻塚ー河童だってーかっぱかっぱあははははははははははは」
「なんとかしろ門倉。お嬢様がぶっ壊れた」と蟻塚が顔を上げるといづるは膝を抱えて震えていた。それにしてもすごい絵面である。
「女の子ってこわい。こわいものきらい。……なあ、電介、おまえもそう思うだろ?」
「なお」
 すっかり怯えていづるの陰に隠れていた電介が、錯乱するキャス子をムッと睨んだ。相棒が頼んで来るなら仕方がないとばかりに鼻を一発すんすん鳴らし、次の瞬間、目も眩まんばかりの電撃が笑い狂ったキャス子を襲った。
「あはははあはあはははははははウギャーッ!!」
 ものすごい絶叫を最後にキャス子は黒こげになり、ぷすぷすと黒煙をくゆらせて、そのまま座席の下に消えていった。今度は蟻塚は拾い上げようとせずに、両前足で顔を洗い始めた電介のたたずまいをじっと見つめることに忙しい。
「よし、危機は去った」
 いづるはひとり呟き、汗ばんだ額を拭った。せっかくバスに乗っているのだから、のんびり景色でも眺める時間ぐらい欲しいというもの。外は暗かったが、青白く光る葉を茂らせた奇妙な木々のおかげで夜明け前ぐらいには周囲が見渡せた。バスは両側を雑木林に挟まれて結構な速度で走っていた。だから彼女とすれ違ったのはほんの一瞬のことだったが、いづるははっきりとそれを見た。
 青味がかった銀髪。
 真っ白な着物。
 結晶のような透明なまなざし。
(ミクニ……)
 いつも傍にいた幽霊を失った妖怪は、一回りも縮んでしまったようで。
 とても声をかけられるような時間はなかった。ただ、確かに目は合った。それで何かが伝わったかどうか、いづるにはわからない。床に落ちていた自分の仮面を拾って被り直し、呟く。
「キャス子」
 キャス子はごろりと床で寝返りを打って、仮面を外した。じろりと睨む。
「何よ」
「何かを好きになるのって、怖いね」
「……どうして?」
「好きになることは、みんないいことだって言う。でも本当はそんなに綺麗なことじゃないんだ。執着してしまえばその途端、目端は利かなくなるし耳だって遠くなる。好きだなんて思わない方が誰にとっても平和だし穏便なんだ。でも、それはあまりに寂しい。どうしてもそこにひとりきりではいられない。あいつらだけじゃない。僕もだ。僕でさえも、ただひとりではいられなかった……」
「門倉……」
「博打はいい。金がそれを代理してくれる。一番簡単なやり方で決済がつく。破産したら死ねばいい。すべてがそれで済むなら、どんなにラクだったかと思うよ」
 キャス子から答えは来なかった。



 ○



 途中でバスを降り、梯子や階段を昇降し続けてとうとう無視していた飽きが回ってきた頃に外に出た。
 真っ赤な町は、あいも変わらずにそこにあり、残影のような黒い切れ目が、通りを揺らぐように歩いていく。
 あの世横丁。
 あれから、もう何千年も経ったような気がする。
 右手に握る刀の柄を強く強く握り締める。
 帰って来た。
 帰って来たんだ。
 感極まっているところを、どかっとキャス子に後ろから蹴られる。
「何ぼさっとしてんの、とりあえずどっか行こうよ。蟻塚、近くに何か軽く食べられる場所ある?」
 蟻塚はソムリエのごとく周囲を吟味してから言った。
「どくろ亭でしょうな。阿呆が多くてお嬢様がたむろするには似つかわしくありませんが」
「あ、でも僕、たぶん指名手配中なんだけど……」
「だあいじょうぶだって。どうせみんなあんたのことなんか忘れてるよ! さ、いこいこ」
 だが、キャス子が腕を引っ張っても、いづるは動かなかった。その顔は通りの一点に向けられたまま。
「あいつ……」
「どしたの――あっ!」
 キャス子の手を振り払って、いづるは走った。そしてひとつの人影に駆け寄ると物も言わずにその横顔に拳を一発叩き込んだ。
「ぶうぇあ!」
 人影がどう、と地面に倒れこんで土煙を巻き上げる。だがその人影も負けてはいない、よろけながら立ち上がるとまだ晴れ切ってもいない煙幕の中から手馴れた一発をいづるの横っ面に返した。
「げふぁ!」
「てんめえ、いきなり何すんだ! この俺を誰だと――」
「知、ってるよ。僕はただ届けものを届けただけだ」
 ずれた仮面を顔にはめ込み直しながら、いづるは立ち上がり、人影に向かって言った。
「久しぶり、みっちゃん」
 呼ばれて。
 土御門光明は、包帯を巻かれた顔を怪訝そうに歪めた。
「門倉? おまえなんで――」とその目がいづるの背後にいる二人に向けられるやいなや、カッと見開かれた。
「あ、あ、あ」
 キャス子を震える指先で指し示し、光明は叫ぶ。
「アンナちゃん!?」


 ○


 そのまま一行はどくろ亭にぞろぞろと雪崩れ込み、いい感じに酔いの回っていた狼男と年増の赤頭巾たちを路頭に蹴りだして場所を作り、積もる話を重ねに重ねた。紙島詩織による門倉いづるの指名手配はもう警戒を解かれていることをいづるが聞いた時に酒を注文していたキャス子は、いづるが光明に彼の弟の話をし終える頃には泥酔しきって蟻塚の膝の上で完全にぶっ潰れていた。
 キャス子の手に握られて揺れる酒瓶を複雑そうに見ながら、光明は呟く。
「土御門業斗、ね……」
「会ったことは?」
「あるよ。一回だけな。俺んちまで来て、弟子にしてくれって頼み込んできた」
 その時のことを思い出しているのか、光明はすうっと目を細めた。
「熱心だったけどさ、なりたいってものがものだったし、すっぱり諦めさせた方がいいだろうと思って結構キツく言ったんだよな。陰陽師ってさ、修行でどうにかできるもんじゃねえんだ。ガキの頃からどこもかしこも幽霊だらけってぐらいに見えてなきゃ、とてもこんなあの世まで生身で来れやしねえんだよ」
「……だろうね」
「それが……」
 光明は深々とため息をついた。
「それが、そうか、幽霊になって守銭奴に……。やつは自殺だったのか?」
「いや、聞いた話だと殺されたらしい。なかば事故みたいな感じだったって話だけど、詳しくはちょっと」
「まあ、自殺じゃないならよかった。もしそうなら俺が殺したみたいで後味悪いぜ」
「僕は今でも充分胸糞悪い」
「ああ、そうか、そうだな、いや悪い。でも助かったよ。すまねえな、身内の不祥事をおまえに解決してもらっちまった」
 バンバンと光明はいづるの肩を叩いて、気まずそうに笑った。
「あいつ、強かったか?」
「当たり前だよ。死ぬかと思った」
 そうか、とまた言って、光明は黙っていたが、どうやら微笑んでいたらしい。それにしても、と続けて言う。
「陰陽師になりたい、か」
 光明は腰のホルスターからデッキを取り出して、それをカウンターにぶちまけた。色とりどりの花を背景にした五色の魔獣たちを描いた式札が砕けたように散らばった。
「これが、こんなものが、そんなに羨ましかったのか。こんなの身体は辛いし、潰しはきかねえし、いいことねえよ。クレジットカードだって簡単には作れねえしよ」
 いづるは、散らばった札から一枚抜き取って、それを真上で提げられたカンテラの光に照らして見た。
 綺麗だった。
「それでも、これがよかったんだろ、あいつは」
 光明は一瞬、深く深く押し黙ったが、首をぶんぶん振ると元気よく叫んだ。
「辛気くせえな、柄でもねえや。親父ぃ、アツカンおくれ!」
「阿呆」ガシャドクロの親父がぎろりとミイラ少年を睨む。
「未成年にくれてやる酒はねえ」
 光明は背後を親指でぐいと指差した。
「あそこでへべれけになってる馬鹿はいいのかよ」
「アンナはもう十年もあの世にいるじゃねえか。それに死んだら健康も糞もあるか。光坊も死んでからまた来いや」
「その前に成人してるってんだよ糞爺ィ。……あ、いや、その、糞爺さま? 糞おじいちゃん? えへへ、包丁向けるのはやめてね? あっ、ちょっ、やだっ」
 割と冗談抜きに客を刺突し始めた店長を横目に、いづるは身を捻って背後を振り返った。
「ヅッくん、キャス子って……前回の魔王会の優勝者、なんだよね」
「そうだ」下敷きでキャス子の火照った素顔をパタパタと仰ぎながら蟻塚は頷く。
「十年前、お嬢様は十七歳であの世へ来て、その年の魔王となった。それから後のことは、もう話したと思うが」
「もっと最近のことだと思ってたよ。みっちゃんとは、その時に?」
「ああ、英才教育としてあの世を訪れていた光明くんが迷子になったことがあってな。その時、不幸にもお嬢様の目に止まり……」
「ひでえ目に会ったぜ」と光明が割り込んできた。
「アンナちゃんめ、死んで気が立ってたんだろうな。年端もない俺のことをオモチャにしやがって……やれ火の馬を三頭出せだの今度は氷の鳥が五羽見たいだの、七歳のガキに我がまま放題だぜ? 女の子ってこわいんだってその時知ったよ」
「わかるよ」いづるは万感の思いをこめて頷いた。「すんごいわかる」
「しかしまァ」
 光明は身を乗り出して横たわったキャス子を見下ろした。
「十年ぶりに会ってみれば、結構かわいいなこいつ」
「それは罠だよみっちゃん」
「そうかあ。そうだよなあ。うん、やっぱりやめておこう。身が持ちそうにねえわ」
「しかし、いづるよお――」と、ガシャドクロ店主がおもむろに話を振ってきた。
「よくおまえも顔を見せられたもんだよな。最後にここに来た時のおまえさんのグレっぷりったらなかったぜ」
 いづるはぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。
「ごめんよ。あの時は気が違ってたんだ。僕はいつも気狂いだけど、あの時は自分でもわかるくらいひどかった。でも、もういいんだ。僕は逝くことにしたから」
 みっちゃん、といづるは光明に向かって神妙に座り直し、立てかけておいた刀を差し出した。
「実は、この刀にとあるあやかしが封印されてるらしいんだ。でも、そんなことって本当にあるの?」
「あるよ」刀を受け取りながら、こともなげに光明は言った。
「実体化してるのは魂貨を喰うしな。まァおまえら死人ほどじゃないんだが、弱ったあやかしが物に化けるのはさほど珍しいことじゃねえ。……にしても業物だなこりゃァ。売ったらいくらになるんだろ」
「さあね。持ち主と交渉してくれ。とにかくよろしく頼むよ」
「わかったよ。帰って調べてみる」
 式札一枚分ほど覗かせていた刀身をチン、と鞘に収めると、光明は笑った。
「逝くのか、門倉」
「うん。――みっちゃん、いろいろあったけど、ありがとう。助かったよ」
「ああ、こっちこそ。業斗のこと、マジでありがとな。もし――もしあの世の向こうに『どこか』があって、そこにやつがいたら――言葉が過ぎたって言っといてくれねえか」
「わかった」
 いづるは頷いて、蟻塚を振り返った。
「ヅッくん。申し訳ないんだけど、キャス子のこと――」
「言われなくても、私はおまえがちびっこだった時からこの方の従者だ。いつまでも、そうだ」
「はは。すごいね、君は。尊敬しちゃうよ――じゃあ、元気でね」
「おまえも、達者でな」
「うん――うん?」
 いきなり、いづるの足を小さな何かがぎゅむっと踏んできた。見下ろすと電介が何か聞きたそうな目をしていづるを見上げていた。
「電介――おまえはいつまでも僕の相棒だからな。何か困ることがあったら、そこの変態執事とか、みっちゃんとか――飛縁、魔とか、頼るんだよ? わかった?」
 なーお、と電介はわかったのか、最初から人間の言葉なんてひとつだってわかってはいなかったのか、大人しくいづるの足から下りてテーブルの隙間に消えていった。
 いづるはそのまま、しばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「さて、辛気くさいのは僕も嫌だ。そろそろ本当に消えるとするよ」
「ちょっと待て」掌を見せて止めたのはガシャドクロの親父。
「店ん中ではやめてくれ。魂貨が溢れかえって収集がつかなくなっちまう。申し訳ねえが外で頼むよ、いづる」
「ああ、そうだね。うっかりしてたよ。飛ぶ鳥あとを濁さず。どこか邪魔にならないところで――」
 いづるが言いかけて立ち上がった時、バァンと店の引き戸が音を立てて開かれた。一同何事かと振り返ると、四角い枠の中で、膝に手を当てて少女がぜいぜい息を荒らげていた。綿雲のような金髪に逆さに被った王冠のような鉄輪(かなわ)、夏空のような青い着物とてけてけ柄の腰帯。
 アリスだった。
「あ、アリス? どうしたのそんなに慌てて――」
「いづる!! 今までどこ行ってたの!?」
 いづるが答えようとする前に、アリスは髪を振り乱して叫ぶ。
「志馬が――志馬が――」
「志馬? 志馬がどうしたの?」
 何かを必死に伝えようとアリスが口をぱくぱくさせるが、上手くそれが言葉にできないのだろう。その様子からいづるはひとつの推測を閃いた。
「ひょっとして、志馬に博打でお小遣いでも巻き上げられたの?」
 アリスの表情がその一撃で凍りついた。
 いづるはその意味に気づかない。
「ううん、あいつのことだからズルしたのかもしれないね。よし、じゃあこうしたらいいよ。実はもうすぐ飛縁魔が復活することになったから、そしたらさ、みんなで志馬に殴りこみをかければいいんだよ! そしたらさ、いくらあいつでも虚丸を首に突きつけられたら借りてきた猫みたいになるよ」
「い、いづ」
「本当は僕が行ってひとこと言ってやりたいんだけどなあ、僕、もう逝くところなんだ。残念だけど、決心が鈍らないうちに消えようと思うからさ。あ、そうだ。アリスがいいや。ねえ、飛縁魔が元に戻ったら、伝えておいてよ、ごめんって――あはは、なんかみんな最後に伝えたいのは謝ることばっかりだね」
「いづる!!」
 今度は、いづるが凍りつく番だった。
 アリスの目から、大粒の涙が零れ落ちていた。
「――どうしたの。ねえ、アリス、どうして泣いて、」
「飛縁魔? 刀に封印されてる? あんた、まだそんなこと信じてたの?」
 アリスは泣きながら、顔を笑う直前まで歪ませて、首を傾げた。
「飛縁魔なら、もういないよ」
「え?」
「飛縁魔なら、もういないよぉ!!」
 うわああああああ――――
 その場に崩れ落ちて、アリスはわんわん泣き始めた。誰も何も言えなかった。誰もそこにいないようだった。
 丸椅子に突き飛ばされたように座って、アリスの慟哭を全身で聴きながら、いづるは天を仰ぐ。
 思う。




 神様。
 もう、やめてくれませんか。

       

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Neetsha