Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
18.180秒の決闘

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「――だからね、わたしはちゃんとやっていたのだよ。ただわたしは運がなかったのだ。それだけのことなんだよ。わかるだろう?」
「ええ、そりゃあもう、もちろんっすよ藤林さん」
「だろう。なあ一つ目小僧くん――ええと名前はなんだったかな?」
「ヤンです。ただのヤン」
「そうだったね、ヤンくん。わたしは真面目に働いていたし、きちんと家族への務めも果たしていた。それなのに最後が酔っ払いに突き飛ばされて線路に落ちるなんて――まったく世の中どうかしてるよ。そう思うだろうヤンくん」
「ええ、そりゃあもう」ヤンもいい加減うんざりきていた。
「もちろんっすよ、藤林さん。あんたはまったくもって正しい人間だし、悪いことなんかひとつだってしちゃあいません。でもそれでも死ぬときゃ死ぬのが人間ってもんです」
「いや、納得できない。これは不当だ。神様のところへ案内してくれたまえ。一言文句を言ってやる」
「神様はちょっと俺にもアテがありませんが」ヤンは砂利道の先をついっと指差した。
「閻魔大王になら会えますよ。すぐにね」
「そいつがわたしをあんなバラバラな目に遭わせたのか」
「あいや、そういうわけじゃ――あ、ちょっと藤林さん、走んないでくださいよ! ったく元気だなあもう」
 藤林氏は肘を垂直に曲げて猛然と羅刹門へと突撃していった。待てと言って止まるおっさんではないことはヤンにもこの短い付き合いでよくわかっていたので、もう声を出すのも煩わしく、体育の授業よろしくとてとてとモーレツ社員の背中を追った。銀行員というよりは体操のお兄さんの十年後と言った方が相応しいだろう藤林氏は、ヤンを待つことなく羅刹門の扉を両手で押し開けた。普通は大の男二人がかりが押して開けるものなのだが、そんな常識は藤林氏には通用しない。
 関所のように長く伸びた羅刹門は二階建てになっており、一階は歴代の閻魔大王たちの像がひたすら立ち並んでいる。入り口の反対側にはもうひとつ扉があり、そこからあの世横丁へ出られるのだが、それも昔の話で今は固く閉ざされている。
「ヤンくん、わたしはあの扉を突破してもいいのかね」
「だ、駄目です」このおっさんなら体当たりでぶち破りかねない。ヤンはどうどう、と藤林氏をなだめた。
「まずは二階にいる閻魔大王に会ってもらいます」
「ふむ。死人が現世で犯した罪に裁定を下す方だな。さぞや立派な方なんだろう。お会いするのが楽しみだ」
「そう言ってもらえると俺も助かるっすよ。たまに会いたくないって駄々こねられることもあって――昔はこんな決め、なかったんだけど」
「ははは。何、わたしは嘘が大嫌いでね。自慢じゃないが小さな嘘ひとつ吐いたことがないんだ。閻魔大王だろうがお釈迦様だろうがわたしの舌を引っこ抜くことはできんよ。怖いことなどあるものか、さ、いこうヤンくん」
「ええ――」
 のっしのっしと朱塗りの階段を登っていく藤林氏の背中を見ながら、ひょっとしたらとヤンは思った。こいつなら、この性格ならひょっとすると成し遂げられるかもしれない。この羅刹門を超えてあの世横丁へ進める最初の死人になれるかもしれない。
 期待が胸に広がった。
「藤林さん」
「なんだい」
「――がんばってください」
 藤林氏は白い仮面を背後へ振り向けたが、にっと笑ったのがヤンにもわかった。かすかにはみ出た頬から人のよさそうな笑い皺がはみ出していた。
「大丈夫、自慢じゃないが、わたしは今まで誰にも何にも負けたことはないんだ。――死んでしまったこと以外はね」
 そう言って藤林氏は堂々と、朱塗りの扉を開け放った。扉が音を立てて開いていき、赤い絨毯が長々と伸びる間に出た。扉枠の上に金で刻まれたその部屋の名前をヤンはたったひとつの目玉で上目遣いに見やった。
 閻魔大王の間。
 つまり、それは、誰の部屋かというと。
「――これはこれは。ずいぶん上等なスーツを着たお化けだな。時計もいいし靴はブランド、そのつやつやした髪に塗りたくってるのは整髪剤か? いいねえ、全身からいいにおいがする。――金のにおいだ」
 その少年の声は、赤い絨毯の終わりから届いてきた。
 鬼の口を象った、恐ろしい色合いの椅子に悠然と座っている。針金のような金髪からはねじれた象牙のような角が一本生えていて、着ている赤いブレザーと黒いカッターシャツはどちらも流血の成れの果てのように胸糞悪い色合い、そして申し訳程度の緩さで結ばれた緑色のネクタイは常識人の代表者たる藤林氏を不愉快にさせるに違いなかった。
 その膝では仮面をつけた少女がもたれるようにして眠っている。その少女を見たヤンの目に血が走った。ヤンはその少女を知っていた。
「きみは誰だ」藤林氏は肩で風を切って廊を歩いていった。
「わたしは閻魔大王に会いにきたんだ。通してくれ」
「それは光栄だね。俺がそうだよ。ええと、おいヤン、その人だれだ」
「――――」
「ヤン」
「藤林」ヤンは目玉を動かさずに言う。
「藤林照仁さんだ。電車の事故で小一時間ばかし前に亡くなったから連れてきた」
「ふうん」少年はにやにやと藤林氏を靴の爪先から頭のてっぺんまで見回した。その目つきがカンにさわったのだろう、藤林氏の声が大きくなった。
「で、きみの名前はなんていうんだ」
「俺――?」
「そうだ。閻魔大王だろうと名前があるはずだ。一つ目小僧の彼にも名があるようにな。まずは初めに名乗るが礼儀というものだ」
「ふむ。そうかな。そんなに名前が大事か」
「大事じゃないはずがあるか」
「いや、ある」少年は少し身を乗り出した。膝に乗せた少女の黒髪がさらりと流れる。
「大切なのは名前なんぞじゃあない。そいつが誰であるか、何であるか、何をするかだ。それだけだ。逆に聞くぜ、あんたは何者だ? 名前以外にあんたを表すものがあるか」
「あるとも」藤林氏はたくましい胸を帆船の帆のごとく張った。
「だが、それに答えるのはきみの名前を聞いてからだ。でなければ答えん」
「モーレツ社員め」少年の口に呆れたような苦笑が広がった。ヤンは知っている。今まで誰一人として、あの日からここを訪れた死人は彼にここまでの顔をさせることさえできなかったことを。
「志馬だよ。夕原志馬」
「夕原――きみはひょっとして、人間か?」
 志馬はこつこつと自分の額から生えた角を叩いた。
「こいつが見えないのか? 俺は人間じゃない。ただのシマだ。だから俺を夕原なんて名で呼ぶな。うっかり名乗った俺が馬鹿だったぜ、今日を最後に苗字なんぞ捨てちまおう」
「なんてことを言うんだ。いいかね夕原くん、苗字というのはご両親から――」
「俺に親はいない。苗字は俺を拾った坊主がくれた。そいつも戦争で死んじまったがな」
「戦争――きみは――」
 重ねて問いかけようとした藤林氏を志馬はぎろりと睨み、黙らせた。
「いいか、勘違いしているようだが質問するのは俺だぜ。あんたは死んで閻魔大王さまに現世での罪を告白しにここまで引っ立てられてきたんだ。どっちが上かははっきりわかっといてもらう」
 藤林氏はフンと鼻を鳴らした。
「わかったよ。名乗ってもらったお礼に自己紹介させてもらおう。名は藤林照仁。銀行員だ。名前は母がつけてくれたもので、他の候補は康仁、照明、照一郎――」
「つけられなかった名前まで自慢か? 俺はあんたに話を聞いてるんだぜ、藤林照仁さん」
 藤林氏は一瞬、憮然とした沈黙を残したが、すぐにまた喋り始めた。
「わたしが何者か、と聞いたな。きみはせっかちなようだから、簡単に答えさせてもらおう。わたしは銀行員で、夫で、父親だ」
「父親――」
「そうだ。いま三歳になる息子がいる。かわいい盛りだ」そこで藤林氏はしょんぼりと声を落とした。自分がなぜここにいるのか思い出したのだろう。
「わたしは、銀行のため、社会のため、妻のため、息子のために生きた男だ。まだ途中だったが、それがわたしだ。これでいいか?」
「ふむ」と志馬はにやにやしながら頷いた。
「なるほど。じゃあさぞかし辛いだろうな? 可愛い奥さんと小さな息子さんを残してきたんだから」
「当たり前だ。できるものなら生き返りたいものだ。だが、それはできないのだろう。これも運命と割り切ってもらった七日間を静かにここで過ごすよ」
「それでいいのか」
「え――?」
「それでいいのかよ。運命?」志馬はそれがさも愚かしい誰かの名のように言った。
「運命、そんなものがあるとして、あんたそいつになら従えるのか。そいつはなんだ。あんたの上司か、あんたの親か、あんたの伴侶か、あんたの子孫か。それはそんなに大事なことか? 守らなくっちゃいけないものか?」
「守るもなにも、運命に抗うことはできまい。誰にも」
「できるさ! 俺にはできる、そしてあんたにもだ。生き返ることはできない。だが前向きに考えてみろ。学校じゃあ教えてくれなかったろうが世の中には表と裏があるんだぜ。確かにあんたは死んだ。これからあんたの魂にふさわしい日数を過ごすわけだが、それは変えられる」
「どういうことだ?」
 志馬は馴れた調子で魂を稼げばあの世に残留し続けられることを藤林氏に語った。それを聞いた氏は深く黙り込んだ。その頭に浴びせかけるように志馬が誘いの文句を口走る。
「俺と勝負をしよう」
「勝負――?」
「ああ、勝負だ。勝負して、あんたが勝てば俺はあんたに魂をくれてやる。このあの世で、百年は過ごしていける魂をやるよ! あの世にはなんでもある。楽しいぞ、な、どうだ?」
 だが、藤林氏は首を振った。
「断る」
「何故」
「わたしひとりがここに留まったところで、意味がない。家族がいなければ、わたしは無意味だ」
 一瞬、志馬の顔が耐え難い苦痛を受けたように歪んだが、それを見たのはヤンだけだった。
「家族――。おまえもか」
「何?」
「いや、いいんだ」志馬は綺麗に笑って頷いて、
「そうだな、忘れてた。家族のこともフォローしなくっちゃな。あんたが勝てば、あんたと、いづれやってくるあんたの身内にも等しく百年プレゼントしよう」
「――なんだかあやしいな。どうしてそこまでしてくれる?」
「べつにくれてやるとは言ってない。あんたが勝てばの話だろ」
「じゃあ、きみが勝ったらわたしはどうなるんだ?」
「どうもしないよ」志馬は笑った。
「ただここで、消えてもらうだけさ。記憶が薄らがないままで、魂に戻るのは、存在していたことを後悔するほど痛いらしいが、ま、一瞬の話さ。そうとも。勝てば永遠、負ければ刹那。悪い博打じゃないだろう?」
 藤林氏は石のように考え込んでいた。
 だが、おそらく、最初から答えは決まっていたのだろうとヤンは思う。
 どんなに藤林氏が常識を弁えていても、それが孤独を癒してくれたりはしないのだ。
 彼は、家族に会いたがった。
 それだけの話だ。
「やろう」
 そうこなくっちゃな、と嬉しそうに言って、志馬は膝の上の少女の髪をいとおしげに撫でた。仮面の少女は、死んだように動かない。彼女のほつれた髪を見下ろしながら、
「じゃあルールを説明しよう」と志馬は言った。
「といってもなにも複雑なことはなにもない。俺がひとつ質問するから、あんたが答える。答えはあらかじめ俺が用意しておくから、あんたはそれを答える。当たっていればあんたの勝ち。あんたの家族の死は、未来への手痛い片道切符となるわけだ」
「待ってくれ、夕原くん」
「志馬だ」
「志馬くん。それはちょっと卑怯だぞ。わたしが答えてもきみが違うと言ったらそれでわたしの負けじゃないか」
「いや、それは違うんだ藤林さん」と口を挟んだのはヤン。
「あの世での博打は一度両者納得して取り決められたことは絶対なんだ。だから志馬があらかじめ決めていた答えを後で変えても、負けるのは志馬になるんだ。それは安心してもらっていい」
「ほんとうかい? ヤンくんの言うことなら正しいのだろうが――」
「よかったなヤン。信頼してもらってるみたいだぜ。なあに、藤林さん、あの世の博打はね、言っちまえばイージーモードなんですよ。現実だったら博打にゃ抑止の力がなくっちゃ成り立たないが、死んでまで小面倒なお膳立てはしたかないでしょ。だから神様がちょいとばかし弱者救済してくれてるんだ。いやァあんたはツイてるよ、俺が閻魔大王の時代に死ぬなんてね。死に得ってやつだな」
「その言い方は気に喰わないな。列車事故に巻き込まれたこともないくせに」
「前向きになろうって言ってるだけさ。あんたみたいな人間は好きだろ? 信じれば救われるとか、いつか夢は叶うとか。俺がちょっと口汚くそういうことを語って何が悪い?」
 ぴりぴりとした空気が、睨み合う二人の髪さえも逆立てるようだった。が、藤林氏が顔を背けたことでそれは嘘のようにパチンと消えた。
「早いところ済ませよう。質問してくれ」
「ああ。そうだ、言い忘れてたが制限時間は三分だ」
「三分? それはちょっと短すぎないか?」
「勝ったときのことを考えろよ。これ以上欲張ろうっていうのか」と志馬は肩をすくめ、
「それに死人はあんただけじゃないんだぜ。交通ルールは守ってもらおう」と続けた。
 むう、と藤林氏は唸ったが、結局は頷かざるを得なかった。志馬の言葉の穴を見つけられなかったからだ。
「わかった。それでいい」
「よし、じゃあ聞こう。藤林さん」
「ああ」
「――あんたは自分にいくらなら値をつけられる?」
「値? 値というと――」藤林氏は戸惑ったように頭に手を当てて、
「自分に値段をつけろということか?」
「そういうことだな。――残り二分四十六秒。ま、せいぜいがんばりな」
 そう言うと志馬は背もたれに後頭部を当てて寝息を立て始めた。どう見ても狸寝入りだが蹴っても殴っても起きるつもりはないだろう。
 藤林氏は腕を組んで考え込み始めた。
「自分に値段――考えたこともない、いったいどうすればいいんだ。ヤンくん、答えを知ってるかい?」
「知ってますよ」
「え、じゃあ――」と喜色満声をあげた藤林氏に、ヤンはゆるゆると首を振った。
「すんません、言えないんです」
「そこをなんとか」
「いや、ほんとに言えないんですよ。そういう決めなんです。志馬がズルできないように、藤林さんもそうなんです」
「そうか――そうだな、フェアにやらねば」藤林氏は自分で勝手に納得したらしく、うんうんと頷いた。
「ではここで独り言を言っているから、相槌を打ってくれるかね? それならできるだろう」
「ええ、まあ――」
「よし。――値段か。イメージとしては、わたしがもし誘拐された時に支払える額、のようなものだろうか。そうだな、家、車、貯金、わたしの財産をすべて売却して一億程度か」
「い、一億――」
「ああ。だがまだだな、わたしの身内や会社の上司、友人たちに頼めば、少しは出してもらえるだろう。彼らにも路頭に迷えとはまさか言えまいから、そうだな、それでもまた一億――」
「うわあ――金持ちって。金持ちって」
「金持ちかな? まじめに生きていれば普通さ。努力は必ず実をつけるからね」
 藤林氏はそれから指折り数え始め、
「さっきは友人たちと一くくりにしてしまったが、はてわたしにどれほど頼りになる友人がいたかな。百はくだらないが千には届かんだろう」
「千? 千って友達数えるときの数字じゃなくないすか?」
「ははは、自慢じゃないがわたしは人好きされる方でね。いやありがたいことだ。――よし、決めたぞ。そろそろ三分経つだろう」
 藤林氏はパンパンと手を打って志馬を起こした。
「志馬くん。決まったぞ」
「うむ? そうか、早かったな。それで、いくらなんだ、あんたは」
「ああ、人ひとりを金で換算なんて考えるだけでもおぞましいが――わたしが誘拐された場合、二億七千万までは支払い可能だ。それがわたしの、値段だろうな」
「へえ、ずいぶん高いね」
 志馬はふわあと可愛らしくあくびをして、言った。
「でも違うよ」
 その一言で藤林氏は凍りついた。
「え――そんな、どうして。誤差か? いくらだ? ちょっとの誤差なら納得しないぞ! 誤差はいったい」
「二億七千万」
「――――な」
「だから、誤差は二億七千万だよ」
「馬鹿な!」藤林氏は地団太を踏んで喚いた。
「五億四千万だと!? そんな金はさすがのわたしでも用意はできんぞ! ――まさか横領か? わたしが社会的な立場を横領して稼げる額まで含むというのか!! そんな、汚い、汚い考え方だぞ志馬!」
「汚いのはあんただよ」志馬はもう笑ってはいなかった。
「誰があんたに五億も値打ちがあるなんて言った?」
「え――」
「ゼロだよ」
 藤林氏が音もなくへたりこむ。
「ゼロ、って――そんな馬鹿なことがあるか! わたしが、一円の価値もないというのか!? ふざけるな、たとえ誰にも金を払ってもらえなかったとしてもだ、だとしてもだ、人間には内臓がある! 臓器が金になるはずだ! その分も入れれば百から二百は絶対――まさかわたしに自分でも気づかなかった身体的欠陥があったと!? ありえない、わたしは毎年人間ドックに欠かさず入り、二十代のように健康だとちゃんと会社が選んだ医者から太鼓判だってもらって――ま、まさか会社と医者がグル? わたしを働かせるため? そ、そんな――」
 ひとりぐるぐると頭を抱える藤林氏を、志馬が冷たいまなざしで見下ろした。心の色をそのまま映したような赤い眼で。
「なんて、穢れた――穢れたやつなんだ。ああだこうだと綺麗事を並べていたくせに、土壇場となったらやっぱり金だ。金で計るほかにおまえらに尺度なんてものはないんだ。おまえは結局、自分の言葉なんてこれっぽっちも信じちゃいなかったんだ」
「自分の、言葉――?」
「誰が誘拐された時に身内が自分に払ってくれる金額なんて言ったよ」志馬は心底うんざりしているようだった。
「そんなこと俺は言ってない。俺は、あんたが自分をいくらだと思うかって聞いたんだ。そして俺があんたを査定した値はあんたがどこの誰だろうとハナから決まっていたんだ。――ゼロだよ。誰でもゼロなんだよ。あんたは自分が二億七千万だと言うが、じゃあ二億七千万一円とあんたの間にある境はなんだ? その境界はいったいなにで決まっているっていうんだ? あんたは二億七千万一円より自分に価値がないことに納得できるのか? どうして納得なんてできるんだ? 納得なんてことができるから、あんたには、運命を超えることはできない。その資格なんぞありはしない」
「あ、あ――」
「金なんてものは、所詮、ただの交通整理のための切符と同じものだ」と志馬は続けた。
「金そのものに価値なんぞあるものか。ましてやそれが人ひとりの肩代わりになんぞなりはしないんだ。金は概念であって幻でしかない。あんたはそれを忘れていた。だからこの土壇場で胸を張って言えなかった。自分はゼロだと。ゼロだと答えることでしか、金を無視する解答にならないんだよ。あんたの言う通り、人間に必ず金の値がつけられるなら、あんたみたいな健康な人がタダなわけないんだからな」
「わたしは、わたしは、そんな、ちがう、わたし、は――」
 膝に伸ばされた薄汚い手を、志馬は無造作に払いのけた。
「もう遅い。もう終わった。勝負は決まり、あんたは負けた。だからあんたを――いただくぜ」
 そして藤林氏は見た。
 自分の額にかざされた志馬の掌を。そこにぱっくりと開いた口と並んだ牙を。
 ヤンがこっそりと耳を塞ぐ。
 そうしていないと、もう二度と眠れなくなるからだった。

       

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Neetsha