Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      



 ぼおっとしている内に店を出たらしい。どくろの親父が何か言っていた気がするが頭の中は親父の無駄口どころではなく何ひとつとして覚えていない。
 ヤンは公園のベンチに座っていた。あの世の公園には彼の他に誰もいなかった。新品同様の滑り台はいつまでもペンキの匂いがして、ブランコの鎖は鏡のような銀色で、鉄棒には誰の手垢も錆もついていない。偽物のような公園の中で、ヤンは顔を伏せている。
 やはり決闘しかないのだろうと思う。
 だが、おそらく志馬は乗ってこないだろう。第一に自分には魂がそれほどない。オールインで乗せ合えばお互いの差額は無視されるが、そんな勝負はそもそも志馬にこそ無視されてしまうのがオチだ。安い挑発に乗って来るタイプでもない。
 第二に、ヤンが志馬に勝てるとしたらそれは運否天賦の勝負しかない。たとえば丁半博打やジャンケンのような必勝法の存在しない、技術の介在しないギャンブル。麻雀やテホンビキ、ポーカーやブラックジャックなどの長期戦では万にひとつも勝ち目はない。やつと自分ではそもそもの出来が違う。それをヤンはこの三ヶ月で痛烈に感じ取っていた。素人がボクサーを殴り殺せるだろうか。リングの上で正々堂々と。できるとかできないとか、やるとかやらないとか、そういうことではなく、ヤンは自分が勝つ姿を想像できない。それでもやるというのなら、それはもはや自殺であって勝負じゃない。
 それでもやろうと思う。
 ただ、何かすがれるものが欲しい。
 それになら自分を賭けてもいいと思えるもの、そして志馬が納得して乗ってきてくれるもの。
 賭けの対象はまんざらアテがないこともない。志馬を消滅させることはできないが自分の目的は達成できる。
 問題は、勝負の内容。
 大切なのはリアリティだとヤンは思う。
 自分が思いつきそうで、なおかつ勝てると踏むだけの目算を得られ、そして志馬を釣り上げられそうな隙を孕んだ博打。
 だが、考えれば考えるほど答えが遠のいていくような気しかせず、なんだか自分のやることなすことすべてが愚かしいような鬱々とした気分にさえなってきた。ベンチにごろりと寝転んで思考を一端止めてみる。
 眠たくなるような夕焼けだった。
 そのまましばらくウトウトしていたのかもしれない。
 きゃっきゃと子どもの声が聞こえてきて、ヤンはとろんとした目を広場に向けた。お、と口を丸く開ける。
 広場でひとり戯れている子どもも一つ目だった。宙をかくように手を伸ばして、青い蝶を捕まえようと跳ね回っている。端から見れば踊っているか気が狂っているかにしか見えない。
 まだ夢の続きを見ているような心地で、ヤンはその子どもを眺めていた。そういえば自分もよくやった気がする。あの青い蝶はあやかしではなく、針弾きという刺青師が彫ってくれる飛び出す刺青で、ヤンの身体のどこかにもまだいるはずである。一度彫ったらもう二度と消えないことを言ってくれないものだからトカゲやネズミを彫ってもらったやつらの悲惨さたるや惨憺たるものがあった。ガキのうちは見せびらかしてヘラヘラできていたが、大人になってくると腹を爬虫類が這いずり回っているのに上手な言い訳が思いつかなくなってくる。まだ自分は蝶の刺青でよかったとヤンは思い、あの刺青は今身体のどこにいるのだろうかと思う。今度風呂に入ったら探してみようか。
「アッ」
 子どもが転んだ。その弾みで一つ目がまぶたから落っこちてコロコロと転がった。それだけでも落ちた視界から上手く身体を操って目玉を拾わねばならず面倒なのに、青い蝶が目玉を拾って舞い上がってしまったからさァ大変、子どもはあっちへふらりこっちへふらりしながら必死に蝶から目玉を取り返そうと躍起になったがあともうちょっとで指が届かない。
 その様がおかしくてハハハとのんきに笑って眺めていたヤンだったが、まさか次の瞬間、ド頭に天啓が飛来してくるとは夢にも思っちゃいなかった。
 それは、まるで世界が切り替わってしまったかのような衝撃だった。
 がばりと起き上がる。
 今の今まで自分が笑って見ていた天然の喜劇を驚愕の顔つきで見つめる。
 ぴくりとも動かずに、ただ頭の中でこれから起こり得るあらゆる可能性が閃いては消えていく。それは隙間を見つけた者にだけ味わえる感覚。理解不能な数式の解がはじき出せた時のような、あるいは模倣されすぎて誰が思いついたかもわからなくなる詐欺を初めて考案した瞬間のような。
 これでいいのかと不安にさえなる。
 だがこれしかないと直感でわかる。
 ヤンは自分の身体にも彫ってあるはずの蝶を探そうとした。普段見かけないからには腹か背中にでもいるのだろうと思ったが、それは違った。この時だけは刺青の蝶はなぜかすぐ近くにいた。
 掌のスクリーンを泳ぐ青い蝶の刺青。
 誘うようなその羽ばたきを見て、ヤンはいても立ってもいられなくなった。拳を握って、忘れていた約束を思い出したように駆け出した。車止めの柵を飛び越えてそのまま走り去って見えなくなった。
 寄せては返す波のように静けさが戻ってきた。
 いつまでも五時の鐘が鳴らない公園で、いつまでも目玉をなくした子どもが跳ね回る。

       

表紙
Tweet

Neetsha