Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 なめられている。
 目を開けると獣の瞳とざらついた舌に出くわした。いづるは何度か瞬きしてから、電介の首根っこを掴んで顔の前からどけた。慰めてくれようとしたのだろう、しかしもう顔面はよだれまみれだ。いったいどのくらいの間なめ回していたのか、全方位やられている。そして被害状況を肌で感じている時にいづるはふと気づいた。
 仮面がない。
「あ、いづるん起きてる」
 木目の天井を背にぬっと顔を突き出してきたのはアリスだ。いつもの人を喰ったような態度はどこへ消えたのか眉を八の字にして見下ろしてくる。
「大丈夫? 痛いとこない?」
「特にない。顔が物凄くかゆい」
「それなら俺が拭いてやるよ」と雑巾でごしごし顔を擦ってきたのは光明。世紀末のにおいが鼻を打った。雑巾を跳ね飛ばして起き上がる。
「よう、ひでえ目に遭ったな」と光明が笑った。
「みっちゃん。僕は、僕は――」
「火澄に、な。仕方ねえよ。操られてたんだ」
「それはわかってる――ここは?」
「俺の隠れ家のひとつだ。心配すんな、志馬だろうが紙島だろうが入って来れない。それとな、言いそびれる前に言っとくけど、仮面が割れちまったからおまえの角が生えてきちまった。さわってみ」
 手を額にやると、髪の生え際の少し上、それまで何もなかった場所に感触が出現していた。
「で、完全に伸びきると鬼になっちまう。志馬は平気な顔してウロウロしてるが、あれだって影響を完全に受けてないのかどうか神様にしかわかんねー。だからその前に先手を打って鬼になるのを食い止めることにした。片目、瞑ってみろ」
「うん――」
 言われた通りにした。闇が広がった。
「みえない」
「黙ってやっちまって悪いが、片目を刳り貫かせてもらった。まァ気にするな、代わりの偽眼はヤンが大量に買って来てたからたくさんあったしよ、一番いい色のやつを突っ込んどいた」
「オッドアイって言うんだって」アリスがことさら明るい顔で言った。
「そっちの世界だと流行ってるんでしょ? 去年案内してあげた死人が言ってた」
「ああ、格好いいぞ。俺が褒めるんだから間違いはねえ」
 いづるを置き去りにして光明とアリスが笑いあう。
 いづるは露になった顔を伏せた。
 片目が見えない。角が生えた。
 そんなことは、どうでもいい。
「――ヅっくんは? 怪我したの?」
 いづるの問いかけに二人はピタリと笑うのをやめ、視線を逸らした。
 背筋が冷たくなる。電介を抱く手に力がこもるのを必死にこらえた。
「嘘――でしょ。嘘だよね。嘘だって言ってよ、ねえ」
「おまえの言い分だと思ったがな」
「――何が?」
 光明は包帯の隙間から刃のような視線を向けてきた。
「蟻塚さんはもう死んでた。ここにいたのはただのロスタイム。べつにいつ消えたっておかしなことじゃない。むしろ長くいすぎた方だ」
「光明!」アリスが叫んだ。
「そんな言い方ないでしょ!? 何考えてんの!?」
 光明はアリスを無視した。
「慣れろよ、門倉。俺は慣れることにした」
「光明ってば!!」
「どんなに泣いて潰れて悔やんでいてえと思っても時間は容赦なんかしてくれねえ。あっという間に癒してくれるよ。それに逆らったって意味なんかねえ。流されちまえ。忘れちまえ。それで前に進めりゃ――」
 光明のセリフの続きは聞けなかった。俯いて黙ったままのいづるに感情移入したアリスが、懐から取り出した金槌で光明を背後から殴り倒したからだ。
 はあはあと荒い息遣いを漏らす幼女と、子猫を撫でながらそれを眺める少年という奇妙な構図が四十秒ほど続いた。
 アリスはまだぜぇはぁしながら、いづるに泣きそうな顔を向ける。
「ご、ごごご強盗が入ったってことに……!」
 苦しい言い訳である。
「指紋がべっとり凶器についてるから無理かなあ」
 いづるが苦笑いしながら言うとアリスは「ヒィ!」と喚いて金槌をぶん投げた。角度を考えずに投げたものだから金槌は光明の頭を再度直撃し、恐ろしい音を立てた。
 またそれであわあわとうろたえ始めるアリスがおかしくて、いづるはほんの少しだけ力を取り戻した。
「キャス子はどこ?」
 アリスがパタリと動きを止めた。
 おそるおそるいづるの顔を窺うような按配で答えた。
「たぶん、煙突の上。ボイラー室から上がれると思う。中庭から向こうにいけるよ」
「煙突? ――わかった。ありがとう」
 なぜ隠れ家に煙突やボイラーなどがあるのかはよくわからなかったが、とりあえず動いてみることにした。もうすっかり血が乾ききってしまったブレザーのポケットに電介を突っ込んで襖から廊下に出て、ふと思った。
 ひょっとすると今あの場にいた中で、一番切れたのは自分でも光明でもなく、アリスだったのかもしれない。


 ○


 少々方向音痴の気のあるいづるだったが、中庭にはさして苦労せずに出れた。どうやらロの字型の家屋らしい。飛び石や小さな池のある中庭からは、煤けた煙突が一本確かに見えた。人影が見える。キャス子かもしれない。
 ひょいひょいと飛び石を超えて庇の下から廊下に上がると、壁に二つ入り口があった。扉はない。はてなにかなと片方に入ってみてわかった。脱衣所があり、番台がある。
 どうやらここは銭湯か、浴場つきの旅館かどちらからしい。
 番台の裏側から細い通路を進むと木戸があり、そこを開けるとボイラー室だった。壁に棒が立てかけてある。それを天井のフックに引っ掛けるとパタンと戸が開いた。どうやってよじ登ろうか考えていると、開いた戸からなまっちろい手が伸ばされてきた。どうもありがとうと手を借りて屋根の上に登った。掴んでいたはずの手も、その持ち主もどこにも見当たらなかった。
 屋根から生えたむき出しの煙突、その脇に備え付けられた梯子を登っていく。後から思えばあの高さをよじ登っていく最中に少しも恐怖を感じなかったことがすでに緊張していたことの証だった。
 てっぺんにキャス子はいた。背を向けて、足を煙突から垂らしながら、あの世横丁を、その果てにある夕陽を眺めている。
「門倉?」
 背中が言った。
 なんでもないその呼びかけに、いづるは身がすくみそうになる。
「起きたんだ。ずいぶん寝てたね」
「――」
「何」
「――」
「何か言いなよ」
 それでも黙り続ける少年にキャス子はため息を吐き、
「だんまりか。じゃあもういいよ。あたし喋るもん。あたしあんたと違って喋ることあるもんね。へへへ」
 言葉とは裏腹にキャス子は長い間、黙っていた。いづるも糊付けされたように口を閉ざしていた。
 仮面が恋しかった。
「――あたしは、平気だって言ったのに」
 素足を抱くキャス子の両手に力がこもる。
「執事なんて、おめかけ役なんて、いらないって言った。なのに母さんが無理やり押し付けてきて。いらないって言ったのに」
「――」
「あんなやつ、いらなかった――いらなかったよ」
 膝に仮面のおもてを当てて、すすり泣くキャス子にいづるは何もしてやれない。
 湿った風が二人の髪を揺らした。
 だが誰もその頭を撫でてくれはしなかった。


 ○


 煙突からひとりで下りてきたいづるは、ボイラーの際に光明がいるのに気づいた。
「みっちゃん」
「アンナちゃんの様子は? ――聞かなくてもわかるか。それより客が来てるぜ」
「客」
「志馬の使いだよ。話さないわけにはいかねえだろ」
 光明に連れられて、玄関口へやってくると、紺色の着物を着た女性が立っていた。狐の仮面をつけているが、どうも狐ではないらしかった。左手は佩いた刀の柄に添えられ、右手は茶色い包みを抱えていた。
「魔縁天狗の孤后天だ」女性はいづるの顔を確かめるとぶっきらぼうに言った。
「志馬から手紙と荷物を預かってきた」
「へぇ――よくもまァ敵地へ平然と顔を出せたものだね。褒めてあげるよ。みっちゃん手伝ってくれ。こいつぶっ殺してやる」
「わっ、馬鹿!」右手を鉤形にして飛び掛りかけるいづるを光明が羽交い絞めにした。
「死人が天狗に勝てるわけねえだろ。おまえやけに大人しいと思ったら何考えてんだ――気持ちはわかるが落ち着けよ。それに孤后天は敵じゃねえ」
「何故」
「やつは飛縁魔のお袋さんだ」
 風船の空気が抜けたようにいづるが大人しくなった。まじまじと見知らぬ天狗を上から下まで眺め、
「あ――髪が、」
 闇夜に輝きながら流れる運河のような黒髪は、あの世にだってそうはいない。
「土御門」
 孤后天はいづるを無視した。
「受け取れ。志馬をやるなら助太刀はしてやる。だがそれ以外のことは私の知ったことじゃない」
「お、おい? この包みはなんなんだよ」
「見ればわかる」
 それだけ言って、孤后天は出ていった。
 光明は手の中の荷物をいづるに渡すべきか悩むように何度か交互に見やった。
「気にすんなよ」
「べつに気にしてない。それより開けてみよう」
 いづるは手紙を、光明は小包の封を破った。
「こっちは――カメラだな。インスタントカメラ。何か呪がかかってるみたいだが。そっちはなんて?」
 いづるは便箋に斜めばって書かれた志馬からの手紙を光明に見せた。


『九人のあやかしを集めろ
 できなければ おまえの負け
 揃えたなら、七つ後
 クズ鉄山で待っている      閻魔』


 七つ後、というのはおそらく日付が変わるたびにあやかしたちによって放たれる大砲のことだろう。あの世横丁に夜は訪れないが、現世での真夜中に撃ち放たれることから闇ドンなどと呼ばれている。
 光明が手紙に目を向けたまま言った。
「九人のあやかしって――あいつ何をやるつもりなんだ?」
「対抗戦か何かかな」いづるはまるでそこに書いてあるかのように言う。
「とりあえず、そのカメラがあやかし集めに何か関係してるんだろうね。何か撮ってみよう」
「おまえ撮ろうか」
 光明がカメラを構えたがいづるは嫌そうに顔をしかめた。
「やめてくれ。写真は嫌いなんだ」
「なんでだよ」
「なんでってなんだよ。嫌なものは嫌なんだ」
 光明は怪訝そうにカメラから顔を離したが、ふとその目に理解の色が浮かんだ。
「おまえ、写真に写ると魂を抜かれるとかこのご時勢にまだ信じてるクチか? 馬鹿だな、んなことあるわけねえだろ。専門の俺が言うんだから間違いねえ」
「そんなこと信じてるわけないだろ。ただ、そう、志馬が何か罠を仕掛けてるかもしれないし」
 撮る撮らないを二人で押し問答していると、どこかから猫の鳴き声がした。二人が視線を下ろすと、いづるの制服から電介が顔を出していた。
「よお電介」言って、光明がシャッターを押した。フラッシュで目を焚かれた電介が泡を食ってポケットの中に戻っていった。孕んだように膨らんだポケットを撫でながらいづるは光明を睨んだ。
「いきなり何するんだよ。驚いちゃっただろ」
「気にするな」と光明が的外れなことを言う。
 カメラが写真を吐き出してきた。染みこむように絵が鮮明になっていく。ポケットから両手と上半身を垂らした無垢な電介がこれから自分を襲う驚愕など知る由もない目でこちらを見上げているさまが写っている。が、写真の右上に弾痕のような歪みがひとつ生まれていた。
「故障ってわけじゃなさそうだな」光明が面白そうに言う。
「他のやつも撮ってみようぜ。何かヒントになるかもしれねえ。ヤンを撮って見るか」
「そういえば、彼はどこに? 起きてから見かけていないけど」
「ここだよ」
 光明は右腰に下げたデッキホルスターから一枚抜き取って見せた。手に平に収まる程度の大きさの式札に、ひまわりに寝転んで宙をぼんやり眺めているヤンが描かれている。
「ヤン――式神に?」
「一時的にな。あやかしは実体を保たずに、何かを依代にしてた方が回復が早いんだ。おまえの荒っぽい肩代わりは言っちまえば全身の血液を一瞬で総入れ替えしたようなもんだ。そら」
 光明は手馴れたスナップで宙に式札を打った。不可視の壁にぶつかったように空中に貼りついた式札から学生服を着たヤンが飛び出してくる。少し充血した一つ目が二人を交互に見やった。
「おお、光明にいづるか。――今度ばかりは俺も駄目かと思ったぜ。いや助かった。ありがとう」そう言ってぺこりと頭を下げた。
「礼と言っちゃなんだが、俺にできることがあるなら何でも手伝うぜ。志馬とやり合うんだろ?」
「そう言ってくれると助かるよ」いづるは笑って、
「じゃあ早速、写真を一枚撮らせてくれるかな」
「おっけい」
 ヤンは玄関脇、ピンク色の公衆電話の傍に腕を組んでもたれかかった。
「ポーズはこんなんでいいか」
「うん、ポーズはすこぶるどうでもいいんだ。みっちゃん、撮って」
 人使いが荒いなァとぼやきながら光明がフラッシュを焚いた。じぃーと夏の蝉のように鳴きながらカメラがほろ暖かい写真を吐き出す。三人が三方向からそれを覗き込んだ。
「ううん、もうちっと顎を下げるべきだったぜ」
「んなことどうでもいいんだよ。それよかいづるよ、また弾痕が出来てるぜ。今度ァ多いな。七つか。しかし、どういう意味があるんだ?」
「たぶん、この弾丸は妖怪の格みたいのを表してるんだと思う」
「格?」
「うん。九人集めろっていうのは、このカメラで写真を撮って、弾痕が一から九までのあやかしを揃えろってことだと思う」
 九、といづるは心覚えのある言葉にそうするように、口の中で呟いて、
「みっちゃん、どう思う。この弾痕の数は、あやかしの強さに比例してると思う?」
 光明はヤンを胡散臭そうに見つめた。
「こいつが七っていうのは釈然としねえが、ま、そうかもな。――ん?」
 ひらひらと何もない空中から、一枚の写真が降ってきた。光明がそれを取った。
 孤后天が刀に手を添えて、憂鬱そうに横を向いていた。その周りを幼児の手形のようなランダムさで弾痕が飾っている。
 八つ。
「味な真似するなあ、おまえの義母ちゃん」
「うるさいよみっちゃん」
「でも、これでやることは決まったみたいだな」とヤンが言った。
「早速、あの世中のあやかしを撮って、面子を揃えようぜ。俺、ちょっと一っ走りして横丁にお触れを出して来る」
 お触れ? といづるが首を傾げた。
「うん。表向きは詩織もいるし、志馬には誰も逆らえない。人間の陰陽師たちはみんな妖怪のことは妖怪がなんとかしろって言って取り合ってくれないし。でも腹ン中じゃムカついてるやつは沢山いるはずだ。そういうやつらをここに集めようぜ、勝負にゃ関係なくても一緒にいたら心強いよ」
 そう言うとヤンは矢のように飛び出していった。
「あの気力はどこから来るんだか」
 光明がヤンの写真を真っ二つに折りながら言った。そして、いづるに悪戯っぽい視線を投げかけ、
「でも、おまえもあれくらいの元気出せよ」
「僕? 僕は元気だよ。心配いらない」
「そういうことはな、鏡を見てから言え」




 その後、台所にいたアリスにお茶漬けを作ってもらったり、光明とひとっ風呂浴びたりしている間にヤンが腕に覚えのある妖怪たちと大挙して戻ってきた。その数の多さに光明の隠れ家『黄泉ノ湯』は一時騒然としたが、いづるも光明も、それが嬉しい苦しみだと信じて疑わなかった。
 全員の写真撮影が終わってから、ある問題が明るみになった。

       

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