Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 垢なめが体調を崩した。
 無理もない、もう篭城を始めてから三日目。垢をなめることを存在理由として生まれてきたものが、それをせずに生きていけるわけもなかった。
 横たわった垢なめをガリバー旅行記よろしくコロポックルたちが介抱している。
 それを見た猫町が一肌脱いで、
「こ、この際、仕方ない……垢ちゃん、あたしの腕でなんとか我慢して! さ、最近シャワー浴びてないし!」
 垢なめの目前に白い腕を差し出したが、垢なめは整った顔を苦しそうに歪めて首を振るばかりだった。
「そんな……」
 猫町はうなだれた。乙女の柔肌が垢まみれの湯船に負けたというのはかなり堪えた。
 うな垂れた猫町を見かけたのか、最近ひっそりと地上へ舞い戻ってきた河童がポンポンとセーラー服の肩を叩いた。
「気にすんなよ猫町。どんな別嬪の肌でも駄目だろう。湯船じゃなきゃ駄目なんだよ」
「そんなわがままな」
「わがままでも仕方ねえ。それがこいつの生き方だからなあ」
「どうしよう」
 垢なめの美しい黒髪を、猫町が指でそっと梳いた。
「このままじゃ垢ちゃん死んじゃうかもしんない」
「連れてってやるしかないだろ。誰かが黄泉ノ湯まで連れて行って垢なめを引き渡すんだ」
「で、でも」猫町はあがいた。
「黄泉ノ湯は光明たちがいるんでしょ。捕まっちゃうよ」
「そこまであいつらは外道者じゃねえと思うが……まァ、とにかくここで干からびさせておくわけにもいくまい。問題は誰が連れて行くかだが」
 河童は周囲を見回して、ため息をついた。
「猫町、おまえしかいねえらしいな」
「いいよ、あたしで。どっち道、垢ちゃん運べるのあたししかいないし」
 光明にバイクを破壊された猫町だったが、ここへ立てこもる少し前に西のはずれにあるクズ鉄山までいってフレームからタイヤまで一番いいのを見繕って新車に仕立て上げていた。クズ鉄山はあの世のゴミ捨て場で、大抵のものならなんでも転がっている。
 猫町は垢なめの細い身体をシートに乗せて、ぶかぶかのレインコートを二人羽織りにして垢なめと密着した。そして居残り組の妖怪たちに何があっても、倉庫から出ないようにきつく言い残して、あぜ道を突っ走っていた。
 点々と散らばるあばら家が走っていくうちに密集し始める。ちょっとした通りになるともうそこからはあの世横丁だ。だが、今はすっかり活気が失せて、文字通りゴーストタウンと化している。見慣れた風景を見る猫町の赤茶けた瞳が、少しだけ潤む。が、風と埃を払うように瞬きすると、元の気まぐれな猫の瞳に戻っていた。
 黄泉ノ湯は通常通り営業していた。しかし客はいないらしく、塀の前に土御門光明がぼんやり突っ立って、肉まんを頬張っていた。猫町を見つけると包帯の隙間からにやっと笑って片手を挙げた。
「よお」
 とだけ言う。猫町はブレーキをかけてバイクを停めた。
「光明」と言って、なんと続けるべきか迷い、
「――久しぶり」とだけ言った。
 光明がもぐもぐと肉まんを噛みながら、猫町のありさまを面白そうに眺める。
「垢なめがへばったのか。結構持ったな。もっと早く来ると思ってた」
「知ってたの?」
「ああ。うちから消えてたからな。豪傑ってわけでもなし、いるならおまえんとこだと思ってた」
 光明は入り口に首を伸ばして、おおいと声を上げた。すると狐の仮面を被った女性が暖簾の奥から出てきて、垢なめを担いでまた黄泉ノ湯へと入っていった。
「――今のって、孤后天さま? なんであんたたちと一緒にいるのよ」
「お仲間だからさ」
 光明は喰い尽くした肉まんの包みをくしゃくしゃに潰した。
「おまえもどっかから聞いてるだろう。それとも志馬が自分で噂を流したのかな。――今度の勝負は、強弱、清濁、もろもろ混合でいろんなあやかしの手が必要なんだ。なあ、くどいかもだが、俺たちと一緒に闘ってくれねえか」
「あんたが式神でも出して面子を揃えればいいでしょ」
「おまえ意外と頭回るよなあ。でも駄目なんだよ。式神は本物の妖怪じゃないからな。本物じゃないと意味がねえんだ」
「あたしには」
 目を逸らさずに言った。
「あたしたちには、関係ない」
 光明はその言葉の意味を考えるように黙っていたが、やがて、
「そうか」
 とだけ言うと大人しく黄泉ノ湯の中へと消えていった。そのあっさりとした引き際に猫町はかえって怪しく思ったが、なんだか何を思っても向こうの思う壺に嵌っているような気がして、こっちも潔く帰ることにした。バイクにまたがり、偽造した鍵を回してエンジンをかけ、どこから掘り当てたとも知れない燃料を燃やして走り出した。
 走りながら、思う。
 門倉いづるの姿はなかったが、どこにいたのだろう。
 あの黄泉ノ湯の中にいたのだろうか。
 それともどこかで猫町たち以外の弱虫狩りでもしているか。
 不意に、何かとんでもない間違いを犯しているような気持ちになってきた。
 首を振って雑念を振り払う。
 門倉いづるに手を貸したところで、助かるなんて保証はない。
 これでいい。
 これでいいんだ。
 そう思っているうちに、道を曲がり損ねた。と、猫町は自分では思ったが、ひょっとすると倉庫へ帰ってまた徹底的な篭城を始めることを無意識に避けたのかもしれない。
 迷いは、あった。
 答えがすぐには出ない、重苦しい、重油のような迷いだ。それは遠い未来にしかない解答を求めて心の回路をあてもなく彷徨い続ける黒い泥。
 そして、その泥のにおいをよく知っているやつが、猫町が間違えた道の先で、彼女を待っていた。


 ○


 砂利道に珍しく人だかりができていて、バイクを停めざるを得なかった。何事かと思う。あやかしたちは、みんな顔を上げて何かを囁き合っている。ごろごろした唸りが周囲を取り巻いていた。
 場所は、いざなみ社の石段の下だった。あの世にある神社のひとつで、普段は御神刀が一振り奉ってあるだけの場所だ。傾斜のきつい十三段の石段の上に鳥居と祠があるだけで、その周囲を森になりきれない雑木林が囲っている。
「何? どうしたの?」
 猫町があやかしのひとりに尋ねると、彼は黙って石段の上を顎でしゃくった。猫町は誘われるように、顔を上げた。
 門倉いづるだった。
「あ――」
 思わず声が出る。
 いづるは、仮面をつけていなかった。猫町は、初めて彼の素顔を見た。
 志馬との小競り合いで片目を失ったという噂は聞いていた。顔に薄汚れた包帯を斜めに巻いていて、余った帯が風を受けてたなびいている。
 だが、なぜだか知らないが、どうやら今は残った方の左目に包帯を巻いているらしい。開いている右目は偽眼にしか思えない、造り物くさい瞳をしていた。黒光りするその目は害虫の背中を思わせる。死んだ時の血で染まったブレザーを着て、足を組み、石段の最上段に座っているその姿は、人形のように生気がない。
「――いづる」
 怖くなった。猫町の脳裏を悪夢が駆け抜ける。いづるが立ち上がって一歩一歩と階段を下りて来る。その顔は憤怒と憎悪に歪んでもはや元の顔がわからず、耳を澄ませば噛み締めた歯の隙間から蛇の鳴き声のような呪詛が聞こえて来る。そうしていづるは責め立てる。猫町の弱さを責め立てる。
 なんで逃げるの。
 ――我に返った。
 いづるは、まだ段上にいる。その顔はふと窓から外を眺めた時のように遠い。怒ってもいなければ、呪ってもいなかった。その頭上で、風が吹くたびに和紙がひらひらと舞う。
 猫町は初めてそれに気づいた。
 鳥居に、国旗のように連ねられた和紙が吊るされていた。三段、並んでいる。和紙にはそれぞれ手形のようなものが墨汁で描かれていた。最初、目に入った時はその意味がわからなかった。あまりにも懐かしかったからだ。
 グー、チョキ、パァ。
 ジャンケンだ。
 まるで、猫町がそれに気づくのを待っていたかのように、人身燕頭のあやかしが人だかりから一歩出て、砂利の上を進んだ。よくよく見れば、足元に小さな木の枠が張り巡らされている。枠は三つ。それぞれ、やはりジャンケンの絵柄を描いた札が刺さっている。左からグーチョキパァ、の順。
 燕頭は、ふむ、と鼻息を吐いて砂利の上をがらがら歩いていたが、やがてグーの札の前で立ち止まった。彼が頭上を見上げたので、猫町も釣られて顔を上げた。
 相当に猫町はいづるを見て動揺していたのだろう。彼の傍にキャスケット帽をかぶった少女が、鳥居の柱にもたれるようにして座っていることにその時ようやく気づいた。白仮面を着けているその少女は、指先でつんつんといづるの肩を突いた。いづるが目覚めたように瞼を広げて、小脇に置いてある壷に手を突っ込んだ。
「じゃん」
 逡巡するように手を揺すり、
「けん」
 ひとつの小石を掴み取って、
「ぽん」
 それを石段の下へ軽く放った。石ころはかっかっと弾みをつけて落ちていき、燕頭のぞうりにぶつかって止まった。道に敷かれた白砂利と違って川から拾ってきたような灰色の石だ。それを燕頭は拾って、
「ふむ」
 またひとつ息を吐き、無造作に後方へ投げた。誰かがそれを掴んで叫んだ。
「パァ!」
 燕頭の足元の札は、グー。
 ああっ、とあやかしたちがどよめいた。石段の上でキャスケット帽の少女が筆で和紙にさらさらとチョキを描いて、それを鳥居に吊るした。それが彼女の役目らしい。
 燕頭が掌から一炎玉をひねり出して、石段に指で弾いた。見るとすでにそこにはかさぶたのように赤い小銭が散らばっているのだった。その小銭を見つめる猫町に、背後から誰かが囁いた。
「みんな一炎玉ずつ寄付していってるのさ」
 まぎらわしいが、寄付、とは博打の負けのことを指すこともある。
 猫町は振り返らずに尋ねた。
「いづるが、負けたら?」
「壱千万炎」
「――桁、合ってなくない?」
「いや、実は裏があってな。いづるというやつはいろんなことを考える。この勝負、実はみんなほんとは十炎賭けてるのさ」
「じゃ、残りの九炎は?」
「取り立てないのさ。そうすると、あやかしはいづるに負い目を背負ってる形になる。べつに式神にされるわけじゃないが、新たに勝負するにはいづるに九炎払わなくっちゃならない。だがやつは受け取りを拒否する。その決済が済むまで、あやかしはニンゲンとなんら交流を持てなくなる。志馬に式神にされずに済むんだ」
「じゃあ、みんな最初から一炎だけ残していけばいいのに」
「それじゃ勝負にならない。それに、そんなことしたら志馬に目をつけられて火澄に斬られるか詩織に燃やされるかだ。だからこれでいいのさ。いづるを倒して手土産にしようとして返り討ちにされた。中にはやはり、本当にいづるを倒して貯蓄にしたいってやつも混ざっているだろうし、この形が一番収まりがつくんだ」
 猫町は息を呑んだ。
「いづるは、そこまで考えて……?」
「ああ、考えて、いま九十七連勝中だ。あと三人で、百人斬りだな。おまえもやれば? どうせ失うものなんて、もうないんだから」
 だが、猫町はその場に棒立ちになったまま、なかなか動こうとしなかった。
 失うものはない。
 確かにそうだ。いや、これほど美味い話はまたとない。負けても志馬に目をつけられるわけでもなし、勝てば――
 もう、
 もう、みんなの食い扶持だってロクに残ってはいないのだ。
 どこかで、魂をどかっと稼ぐ必要があることなんて、最初からわかっていた。所詮どの道、いつまでも隠れているわけにはいかない。
 勝てば、壱千万。
 それでどこまで逃げ切れるかなんてわかりはしない。いつかやってくる破滅が少しの間、延びるだけ。
 わかっていても、すがるしかなかった。
 ――いづるが志馬をやっつけてくれるかもしれないのに?
 首筋で、心の中の自分が面白そうに囁く。
 ――あんたはそれを、信じないんだ? 逃げることを、選ぶんだ?
 猫町は首を振って、その声を振り払い、一歩、踏み出した。段上で、仮面の少女が、つつと顔を新しい挑戦者の方へと向けた。


       

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