Neetel Inside ニートノベル
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 黒牛の頭を頂いた、六尺超の大男だった。分厚く寄り合わせられた綱のような筋肉に鎧われた身体を、さらに坊主が着るような袈裟装束が包んでいた。それもボロボロで、長い旅を超えてきたように汗と埃と油にまみれていた。先端にいくつかリングがついた太い杖を支えにして、男は横丁の入り口に立っていた。
 人間と同じように妖怪も、自分がどこから来たのか覚えていない。人間はそれを遡ろうとするけれど、妖怪はそんなこと気にしない。忘れてしまったことをいくら考えたって腹は少しも膨れないし退屈はますます強まるばかりだ。あにかの拍子に思い出すならそれでいいし、そうでなくたって別段構わない。
 だから、いつからその男がそこに立っていたのか誰も知らない。みんながそいつに気づいたときにはもう、揉め事が起こった後だった。

 ○

「おい」
 やめておけばいいのに猪笹王(いのざさおう)がちょっかいを出した。猪笹王は猪頭に人の身体をした、あの世では普通に見かけるタイプの妖怪だったけれど、その我の強さと手の速さは抜きん出ているものがあった。怒ると手がつけられないので、猪笹王と博打をしないと固く決めている者も多かった。
「なにしてんだ、てめー。そんなところでずーっと突っ立ってよ。電柱かコラ。ションベンひっかけられてーのか?」
 牛頭は何も言い返さなかった。ただ、緑色の瞳で、土煙が濛々と渦を巻く道の果てを見ていた。猪笹王がその肩を掴む。それにも抵抗するそぶりもなく、袈裟を引っ張られて筋骨隆々とした肩があらわになった。
 奇妙なことだが、そのとき周りにいた妖怪たちにとって、その牛頭に抱いた感想は「気味が悪い」だった。妖怪が不気味もないものだ。けれど、それがそのとき側にいた皆の率直な感想だった。いまとなってはわからないが、おそらく猪笹王もそうだったのかもしれない。
 牽制のつもりだったのだろう。
 腰も使っていない、大振りな腕だけ回したパンチが牛頭の頬を打った。肉を打つ音に、ひゃあ、とろくろ首の女が何人か驚いて逃げていった。牛頭はその場にどうっと倒れこんだ。猪笹王が、ぶふーと勝利の鼻息を吐いた。
 無抵抗な牛頭にいきなりパンチを見舞った猪笹王にやいのやいのと野次が飛んだ。猫耳の女子高生はスクールバッグを振り回して猪笹王を罵り、一つ目男子はケタケタ笑って囃し立て、狒々はぱちぱちと拍手を送った。アリスは懐から笛を取り出してぴーひゃらぴーひゃらやり始めた。アリスの着物の裾を弄ぶように、足元でコロポックルたちが踊り始めた。
 猪笹王は自分を歓待する者たちにだけ両手をあげて、喝采を沈めた。猫娘には唾を吐いた。なにすんのよバッカじゃないのこれだから猪突猛進バカは嫌いなのよ一生ケンカしてろスカタン! 猫娘は涙目になって去っていき、猪笹王はその後ろ姿に一瞥もくれずに和服の袂に手を突っ込んでぽりぽりと胸をかいた。騒動はそれで終わりかと思われた。
 牛頭がゆらりと立っていた。猪笹王は深いため息を鼻からついて振り返った。どうやらもっとキツイのを喰らわせてやらなければ満足しないらしい。
 烈風が巻いた。
 どしゃり、と巨体が倒れた。
 誰も何も言わなかった。一つ目小僧はどこかへ姿をくらまし、狒々は手の平を合わせたまま動きを止め、コロポックルたちは緊張で背筋を伸ばしていた。
 アリスだけが気丈に、笛を吹いたまま、挑戦的な目つきで迫ってくる緑色の瞳に対抗した。震えそうになる指を叱咤して、軽やかに閃かせ続ける。
 なんだよあれ、と誰かが言った。誰かがそれに答えた。
「牛頭、天王……」
 自身が疫病や災厄を司る神と呼ばれたことには関せず、その妖怪は、アリスの笛を奪い取った。そしてそれを菓子のように握り潰して、粉にしてしまった。アリスは唾を飲み込み、着物の裾のなかにコロポックルたちを隠した。
 男は言った。
 俺の前で、二度と笛なんか吹くな……。
 そして、まだ笛の破片が刺さった手の平で、頭を抱えた。その大きさと重さに耐え切れないように。手に持った錫杖に震えが伝わり、リングがぶつかって音が鳴った。からからぁん。
 それが一月前のことだった。

 ○

「それから先は簡単だったよ」と飛縁魔は言う。
「おやじとあたしが着いたときには、猪笹王の仇をとろうとして返り討ちにあった連中で通りは溢れかえってた。おやじは当然、怒り狂ったよ。やられたなかには、おやじの花札博打の常連も混じってたし。で、勇敢にも挑みかかって」
 飛縁魔はミルクを空にした。口についた白髭を拭う。
「――――で、いま、牛頭天王はおやじが住んでた屋敷にずっといる。圧政ってさっきおまえ言ったな。そうだよ。牛頭天王はなんでか知らないけど、必要以上に魂貨を集めてる。あたしたちはみーんな想像もしてなかったくらい重い税を課せられてる。河童のバカが似合わねえイカサマやっちまったのも、そのせいかも、な」
 いづるは自分のコップをゆらゆら振って、白い水面に波紋を立てた。
「イヤなやつだな、そいつ」うしろでバカ騒ぎしている一団を見やって、
「気に入らないね。なんとかならないの?」
 飛縁魔はすぐには答えなかった。
「…………。ヘンな話さ、あたしらのエネルギー源ってこれなんだよ」
 一枚の魂貨を取り出して、パクッと食べた。ぼりぼりと咀嚼し、飲み込む。
「いま、牛頭天王の手元にはかなり魂が集まってる。でも、それがなくなればいくら強くたってガス欠のクルマとおンなじだ。だったら」
 ぐっと拳を握り締め、
「――――そいつを奪っちまえばいい」
 いづるは飛縁魔がなにを考えているのか悟った。
「ギャンブルで奪うってこと? でも、そんなこともう試した後なんじゃないの?」
「お利口なやつだな。そうだよ。もうあらかた、このあの世で博打に強いって評判だった妖怪は牛頭天王にカモられちまった。……自分自身も両替されるまで」
「あの世中の魂を誰かに集めればいいんじゃないかな? 元気玉みたいな感じで」
 たとえが通じたかどうかはわからないが、飛縁魔は首を振った。
「そんな気概のあるやつはいねえよ。魂を博打に使うにしても、ガソリンにするにしても、負けたらパァだ。べつにいまは、不満はあるけど、すぐにどうこうってほど追い詰められてるわけじゃない。だから……」
 いつもと違う笑い方をして、天井の木目を見上げる。
「一人でやるよ。それに、おやじの仇はひとりで討ちたいって気もするんだ」
「飛縁魔……」
「いまから行こうかな。気分ノッてきたし、今日はきっとツイてる」
「ギャンブルなら僕が代わりに――」
 飛縁魔は首を振った。頑なだった。
「あたしがやる。あたしがやらなきゃだめなんだ」
「いくらボスのためでも、そこまで義理立てすることないって」
「なァ」
 飛縁魔は顔を伏せ、黒い髪がその表情を隠した。
「それ以上、止めたら、あたし泣くからな」
 口論はそれで終わりだった。一撃だった。
 飛縁魔は勘定をどくろ店主に払って、のれんを潜って出て行った。いづるは店を出る前に、中を振り返った。アリスはなぜかマイク片手にカラオケをおっぱじめていたので、置いていくことにした。
 通りを進んでいく飛縁魔の背中についていく。いづるには、飛縁魔がなぜ終わったことにそこまでして拘るのかわからなかった。そして、その感情を理解できないということがいづるを焦らせた。飛縁魔の背中が自分を責めているように思えた。
 むかし母親から贈られた言葉がどこかから聞こえる。
 ――――人非人、あんたには、人の気持ちがわからないのよ。
 そして、その言葉に呼び起こされるように、一気に真実を悟った。
 閻魔大王。おやじとあたし。仇討ち。
 飛縁魔。







 死にたくなったが、とうに死んでいた。

       

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