Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 志馬が戻ってきた。その赤い目が素早く動いて、状況を察した。
「堂島サンはいくらになった?」
 いづるの手が、ぴくっ、と震えた。志馬は椅子に腰かけながら、なんでもないことのように言う。
「おまえの考えてることはわかるよ。もうわかってんだろ? 俺が全額投入すれば、雪女郎は生き残る。俺がいくら持ってると思う?」
「知らない」
「一億五千七百万炎」
「…………」
「羅刹天がやられた時は焦ったが、まあ結果オーライだな。この状況に至るまでの布石だったと思えば悪くない。それで? おまえはちびちび百万炎ごときにビクついてたようだが、いくら持ってきたんだ? 八百万? 一千万? まあそんなところだろう。そんなはした魂で、なにかができると思ったか?」
「…………」
「ま、いいさ。おまえは諦めてくれたようだし。キャス子から魂を持ってきたのは、アリスだけでも救いたいって腹だからだろ? もちろん俺はいまさらギブアップなんか認めない。そんな勝ちは拒否する。ここまできたら、おまえを徹底的に叩き潰さないと気が済まねえからな」
「…………」
「それにしても、アリスのために堂島サンを犠牲にするなんて――いよいよ筋金入りの人非人だな、人のやることじゃねえよ。好き嫌いでそこまでできるものかとびっくりするぜ。おまえはやっぱり、『人でなし』だな」
「お互い様だ」
「そうだな」
 志馬は胸ポケットから煙草を取り出して、一炎玉をへし折って鬼火を作り、深々と雷雲の紫煙を吐いた。いづるの目が、力なくそれへ向いた。
「美味しいの」
「なに?」
「美味しいの、それ」
「知りたいか」
「うん」
「――教えてやらない」
 志馬がぺっと煙草を吐き捨てて、一枚の札をかざした。
「さあ、終わらせようぜ。俺の夢が続いていくか、あるいは奇跡が起こって? おまえの悪夢が続くのか……二つにひとつだ。白か黒かだ。だが、俺は負けない。必ず勝つ」
「勝つ?」
 いづるは嗤った。
 いつものように、嗤った。
「ちがうよ、志馬。僕たちは勝ち残ってきたんじゃない。――負け越してきたんだ」
「――いくぜ」
 第八戦。
 志馬がかざした札には牛頭天王が描かれている。
 対面でいづるのかざしている札が、電介ならば志馬の勝ちが確定する。
 アリスであったなら、彼女が死のうが生きようが、最終戦、雪女郎と電介がぶつかる。その場合、どこまで賭けることになるかわからないが、投資する羽目になる。
 それは命の金。
 飛縁魔と一緒にいられる、時間のあかし。
 だから、今。
 ここで相打ちを取る。
 必ず。
 俺には、と志馬は思う。
 俺には、欲しいものがあった。
 それを求めて、足掻いただけだ。
 それの何が悪い。
 それの何がおかしい。
 間違っているからといって諦められる夢じゃなかった。
 それだけだ。
 悔いはない。どんな結果になろうとも。
 ただ、わかって欲しかった。
 おまえにだけは。
 二人は同時に式札を打った。




 大渦巻を孕んだテレビの中に二枚の札が吸い込まれていく。
 稲妻と共に、水底に、二身のあやかしが降りた。
 牛頭人身、黒い袈裟を着た、巨大なあやかし。
 思えば、彼もまた輝く闇のようないづるの魅力に引きずられた、被害者のようなものだ。だが、彼はそう呼ばれることを拒むだろう。
 自分の手で、選んだつもりだ。
 そう、思っている。
 そうでなければ、いづるの前に立つ資格はない。
 稲妻の名残が晴れて、いづるの打った式があらわになった。
 金色の体毛、大瀑布の流れを宿したかのような筋肉、触れるだけで骨まで断たれてしまいそうな上下四本の牙、そして青い色をした優しげな瞳。
 電介だった。
「――――ッ!!!」
 真っ向から、二身のあやかしが階位九の力をもって激突した。その衝撃はテレビを超えて、クズ鉄山全体を激震させた。
 その震動に合わせたように、志馬の高笑いが虚空にこだまする。
 相打ち。
 すなわち。
「ハハハハハハハ!! 勝った、俺は、俺は勝ったんだ! これでや――っと報われる! 俺の闘い、俺の流した血、俺の生命、俺の魂は、ただの塵芥じゃなかった! 俺には意味があった! 俺は無駄死になんかじゃなかった!!」
「志馬」
 もう、いづるの声は志馬には届かない。
 いづるには、どうすることもできない。
 ただ、バターナイフを取った。
 手首に当てる。
 死を思わせる行為。
 そうだ、といづるは思う。これは死だ。死者は死んでいるのが似つかわしい。
 返そう、すべて。
 死んだ僕がみんなから少しずつ借りていたものを、全部。
 いづるは、一気にナイフを引いた。
 ぱっくり開いた傷口から、涙のように魂が零れだしてくる。
 いづるは傷口ごと右手を、テレビの中に沈めた。その方が、早く魂が浸透してくれるだろう。
「ハハハハハハ……何してる、門倉」
「リストカット」
「そんなことを聞いてるんじゃねえ、おまえ、何を……?」
 テレビの中で、異変が起きていた。
 牛頭天王の左腕が宙を舞っていた。
 電介がそれをおもちゃにじゃれつくように飛びかかって粉々に噛み砕く。魂貨が溢れるが、その見分けがつかないほどの大量の魂貨が電介に降り注ぎ、そしてその力となっていった。
 牛頭天王が、雄たけびを上げて錫杖を振り回すが、電介はそれこそ稲妻のように幻影を残してあちらこちらへ飛び回り、災厄のように牛頭天王を予期せぬ方角から引き裂きまくった。
 とても引き分けの試合ではなかった。
 志馬はただ、呆然とするしかない。
 いづるはテレビ画面にほとんど頬をくっつけながら、敵の顔を見上げた。
「かつて、このテレビを使った勝負で、一千万以上の魂を費やしたやつが他にいるとは思えない。そんな人非人は僕と志馬だけでたくさんだ。――だから、ここから先は、誰にもわからない領域。誰も踏み込んだことのない境界線の向こう側。僕は、それに賭ける」
 ようやくわかった。志馬の背筋を冷や汗が伝う。
 アリスを救うためなんかじゃない。
 こいつは、勝つために。
 勝つためだけに、魂が必要だったのだ。
「門倉ァ――!!」
「みんな、信じてくれた。こんな僕を。だったら、応えなきゃいけない。そしてみんなのところに返してあげなきゃいけない。僕たちが、横取りしようとしたものを。大切な、たったひとりのあの子を」
「や、やめ――」
 間に合わなかった。
 牛頭天王の首をくわえた電介が、大画面でテレビに映った。牛の頭はもう何も言わず、何も見ず、そのまま噛み砕かれて塵になった。
 縫いとめられたかのように動けない志馬の頭上で、ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼと赤い鬼火が燃え盛った。ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。
「ちがう、嘘だ、こんな、こんな馬鹿なことが……」
「一千万も、こんな実験に――同じ階位同士でぶつけあった場合、魂貨を注ぎ続けたら勝敗が変わるのか、なんて実験に賭けられないよな。確かめられないよな。僕がひょっとしたら、きみと同じくらい魂を抱えていたかもしれないんだから。そう思ったら、百炎でも無駄になんて、できなかったんだろ? それともこんな手は思いつかなかったかい、志馬」
「俺が……俺が負けるはず…………がっ!?」
 志馬が、鳥に啄ばまれていた。
 いや、ちがう。志馬の身体から紙幣が剥がれ落ちている。それが風を受けてはためく様が、鳥のように見えるのだ。
 取立てが始まっていた。
 電介の式札がテレビからはじき出されて、ブラウン管の縁をからからと回って、ぱたりと倒れた。それをいづるの目が追っていた。
「清算(おわり)だよ、志馬」
「ああああああああああああああああああっ!!!!!」
 消える。
 消えていく。
 自分が。
 たったひとつ、この世でたったひとつ、信じてきたものが。
 ほかに頼るものなどなかった。どこへいけばよかったというのだ。あの焦土で。この赤い町で。どこへゆけば受け入れてもらえたというのだ。
 俺は、
 ただ、
 ただ――――
 志馬の赤い眼がぎろりとテレビの縁に乗った、火澄の札を捉えた。
 一瞬の早業だった。
 志馬は火澄の式札を掴むと、まだ腕を突っ込んでいたいづるの顔に掌底を喰らわせてひっくり返し、テレビの中に飛び込んだ。その赤いブレザーの裾を、起き上がったいづるが掴んだ。
 足が浮いた。
 そのまま二人は、水底へと飲み込まれていった。





 どさっ、といづるが両足で着地し、振り返るともう、志馬が火澄を後ろから羽交い絞めにしていた。勝負が終わったため、火澄をもう一度ここへ入れることができたのだろう。
 火澄は、くたっと顔を伏せていた。気を失っている。
 いづるが一歩近づこうとすると、
「くるな」
 志馬が、血走った目でそれを制止した。テレビの中は一種の結界になっているのか、取立てが中断され、身体の端々から紙幣がなびいているだけだった。
 いづるは無視して歩いていく。ざっざっと砂を足が踏むたびに、ゆっくりと砂埃が舞い上がった。
「くるなって言ってんだよぉ!!」
 いづるは、志馬の目の前に立った。志馬の右手は、火澄の首に爪先を埋めている。
「これ以上、近づいたら」
 耳を貸さず、いづるは容赦なく右の貫手を放った。
 火澄の胸を狙って。
 それは、きっと放つ前から志馬にはわかっていたのだろう。
 自分がどうするのか。
 志馬は、火澄を真横に突き飛ばした。
「かっ……」
 いづるの貫手が、志馬の胸を貫いた。
 志馬の身体から力が抜ける。身体が何かを求めるように小刻みに痙攣していた。
「なんっ……で……」
「ばかだな」
 いづるは、右手を貫いたまま、左手で志馬の背中を抱いた。
「誰が誰を人質に取ったんだよ」
「あ……ぁ……」
「もういいんだ。志馬。もう、いいんだ……」
「俺は……お……れ……は……」
 志馬の手が、いづるの背中を掴んだ。強い、強い力でしがみついてくる。
 誰も受け止めてやれなかった手を、いづるは受け止めた。
「もしも来世があったら、今度は、生きてる時に友達になろうな」
「………………」
 最後、志馬は何か呟いたようだったが、口元のそばで聞いていたいづるにも、その言葉がなんだったのか、最後までわからなかった。
 手の中から、誰かに引き抜かれたように重さと肩さが消えた。
 後には、ただ、静かに宙を舞い降りていく紙幣が残った。
「…………」
 いづるは、踵を返した。
 火澄が、横倒しに倒れている。そのそばに跪いて、身体を抱き起こした。
 久しぶりに見る火澄の顔は、涙の跡がうっすらと残っていたけれど、安らかだった。
 綺麗だった。
「…………」
 小さな肩を抱き締める。強く力を込めたら砕けてしまうんじゃないかと思うほど小さなぬくもり。
 いづるは自分の額を彼女の額に、合わせた。
「よかった……無事で、本当によかった……」
 心の底から、そう思った。
 そして、いなくなってしまった者たちの顔が、次から次へといづるの瞼の裏に浮かんできた。
 サンズ、桔梗、吉田、業斗、死人窟の死人たち、倒してきた守銭奴、ドリンク屋、朧車、コロポックル、志馬側のあやかし、首藤、蟻塚、志馬、そして、キャス子。
 みんないなくなってしまった。
 それでも、後悔はない。
 誰一人も欠くことなく、いづるはみんなに感謝している。
 この子を守りきれたことに感謝している。
 志馬だけじゃない、僕という名の災いから、この子を解き放てたことを。
 ――ありがとう。
 火澄の額にかかった、前髪を、指で払った。
 これだ、と思う。
 これが守りたかった。
 これが僕の、すべてを賭けてもいい、
 守りたかった、大切なひと。



 ○



 最初に目を覚ましたのは、ヤンだった。
 空が赤い。いつものことだったが、なぜかその時だけは不思議といつもより、赤い気がした。赤い絵の具ぶちまけたパレットに描き手の鮮血でも足したように。
 がばっと起き上がる。
 あたりには、式札から解き放たれたあやかしたちが眠っていた。ヤンは近場にいた猫町を揺り起こした。
「猫町、おい、起きろ」
「ううん……はっ、いづる!」
 勢いよく起き上がったものだからヤンのこめかみと猫町の石頭が正面衝突した。鈍い音。
「いったぁ……何すんのよ!」
「それはこっちのセリフだ!」ヤンは頭を撫でて、
「それより、おい、どうなったんだよ。志馬もいづるもいないぞ」
 あやかしたちは志馬側のものたちも含めて、あたりを探し始めた。だが見つかるはずもなかった。
「くっそ……どこいっちまったんだ?」
「ふふ、これで羅刹門いったら志馬が踏ん反りかえってたら笑えるな」
「笑えないっすよ師匠。そういうこと言うのやめてください」
 孤后天はくつくつと笑った。ひょっとしたらこのひとは何もかもお見通しで、俺たちにそれを黙っているんじゃ? とヤンがちらと思いかけた時、
 ざばあ、と派手な飛沫があがった。
 みんなが一斉にそちらを向いた。
「ぷはあっ……ん、なんだよみんな。どうしたんだ? お化けでも見たような顔して」
 火澄がテレビから半身を出して、きょとんとしていた。
「火澄っ!!」
「な、なんだよ! うわ、ちょっ」
 一同にあちらこちらを掴まれて火澄はずるっとテレビから引き抜かれた。
「大丈夫か、火澄」
「べつになんともねーよ。まだちょっと頭がふらっふらしてるけど……」
「いやあとにかく無事でよかったぜ」と河童。
「これでまたぶりっ子に戻ってたりしたら笑えたのにねー」とアリス。
 ぶるるっと火澄が、犬のように身震いして身体中の水気を切った。
「そうだ、火澄、お袋さんが――」
 ヤンが振り返るとすでに孤后天の姿は、どこにもなかった。
「あれ? おかしいな」
「なに馬鹿言ってんだよヤン。お母さんがこんなところにいるわけないだろ。それよりさ、聞きたいことがあってさ」
「ん?」
 みんな火澄のために黙った。
「や、なんかこうして黙られるとキンチョーするな」
 火澄がぽりぽりと頬をかいてにやけた。ヤンがイライラして足踏みする。
「早く言えって」
「わ、わかってるよ。あのな――いづる、どこ?」
 え、とみんな、固まった。
 頭の回転の速い何人かはもう察している。火澄だけがテレビから出てきた以上、おそらく志馬は最後の悪あがきでテレビの中に逃げ込んだのだ。そして、いづるはそれを追っていった。
 みんなの視線が、テレビに集まった。
 火澄だけは「え? え?」と状況がわかっていない。なんだよ、どうしたんだよ、と喚くが、みんな火澄が見えていないかのようにテレビの中を覗き込んだ。
「中には誰もいないよ。ただ、ものすごい量の魂貨が散らばってるだけだ」
 火澄が言った。
 みんな、振り返らなかった。
「なん――なんだよ、え、どうしたんだよ? あたしヘンなこと言ったか? なあ、ヤン、猫町、アリス――なあ」








「いづるは――……?」

       

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