Neetel Inside ニートノベル
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 火澄は走った。
 通りを逆方向に上がって来る制服姿の死人たちを割って先へ先へと進もうとするが、無限回廊に迷い込んだようになかなか前へと入っていけない。そうしているうちに、あの見覚えのある後ろ姿が去っていってしまうのじゃないかと思うと喚き出したくなった。
「悪いっ、通して、通してくれっ! わっ――」
 誰かの爪先に蹴躓いてあやうく転びかける。後ろを振り返る暇も惜しくてつんのめったまま走った。あたりはどんどん暗くなって、ただでさえ無貌の群れの中にいるのだから、もう誰が誰なのかわかりもしない。それでもきっと自分にだけは、彼のことがわかると信じている。
 濁流に逆らうように、走った。走り続けた。
 視界が涙でぐにゃりと滲んだ。どんどん沈んでいくあの夕陽が完全に没したら、その時が最後のような気がした。そんなのは嫌だった。ずっと押さえ込んでいた気持ちが逆上したように胸の中でほとばしっていた。

 忘れられるわけがなかった。
 忘れていいわけがなかった。
 忘れてくれとお願いしたって駄目だ。
 だって、できない。
 肩に触れれば、抱いてくれていた時のぬくもりがいつでも蘇ってきてしまって、胸が張り裂けそうになる。
 なのに、勝手にいなくなって、『助けました』なんて言い張られたって、そんなの困る。
 忘れたくても忘れられない方の気持ちなんて、きっと考えたこともないのだあの馬鹿は。
 自分勝手にもほどがある。
 ばったり出会って、いきなり消えて。
 言いたいことだけ言うばっかりで少しもこっちの言い分なんて聞こうとしない。
 そんなのは否定されるのが怖くて、最初から自分が悪者だと思い込んで、他人のせいにして逃げてるだけの弱虫以外のなんだと言うのか。
 ほんとうに、ほんとうにこっちのことを考えてくれているというのなら、まずは塞いだ耳の一方だけでも開けてくれればよかったのだ。
 聞いて欲しいことも、言いたいことも、たくさんあったのに。
 たくさん、たくさん、あったのに。
 なのに、まるで、終業のチャイムでも鳴ったかのように、あっさり、いなくなられて。
 それで、それで、傷つかないと思っていたのだとしたら――大馬鹿だ。
 馬鹿すぎて、涙が出る。
 どうして、一から十まで自分で決めてしまうのか。
 なんで、愚痴でも弱音でもなんでもいいから、面と向かって打ち明けてくれなかったのか。
 あたしが、
 それであたしが嫌いになるとでも思ったか。
 そんなの、言ってくれなきゃあたしにだってわかんないのに、ひとりで勝手に諦められたら、どうしていいかもわからない。
 完全に置いてけぼりで、蚊帳の外で、自分がどうしようもない役立たずになってしまったような気になってしまう。
 悲しいし、寂しいし、申し訳ないし、辛いし、むかつくし、最低な気分だ。
 許さない。
 絶対に、許さない。
 このまま、またいなくなったりしたら、
 今度はもう、どう頑張っても許せそうにないから。
 だから、
 だから、
 だから――


「いづる――――――っ!!」


 無貌の死人たちを押しのけて、火澄は土を蹴って跳んだ。勢いが余ってしまって顔からつんのめった。それでも伸ばした手が誰かの袖を掴んだ。
 そのまま、顔が上げられない。
 もし顔を上げて、違っていたらどうしようかと思う。全然知らない死人が白い面をこちらへ向けていたらおそらく自分は正気を失う。泣いて喚いて暴れるぐらいのことはやるし、その場で何千年だってへたりこんで一歩だって動けなくなるに決まっている。この期に及んでちらりと見えた死人がちゃんといづるだったか自信がない。最後の最後に臆病風に吹かれた自分が見た『ゆめまぼろし』だったのではないと胸を張って自分自身に言ってあげることがどうしてもできない。鼻水が垂れそうになった。
 それでも顔を、上げた。






「どうしたの、姉さん」






 死人が、仮面を外して、笑った。
「姉さん、ヘンな顔してる」
 いづるは、当たり前みたいにそこにいた。
 さっき別れたばっかりなのに、慌てて追いかけられてくすぐったがっているような、そんな顔で。
「いづ……いづる……?」
「うん、僕だよ」
 火澄は一瞬、固まってから、烈火のごとく逆上していづるの胸に拳を叩きつけて叫んだ。
「どこ行ってたんだよおまえ!! 今まで、ずっと……!!」
 いづるは少しだけ寂しそうに、
「地獄の入り口まで行ってきたんだけどね、門前払いを喰っちゃった。僕は地獄にも入れてもらえないらしい。――ああ、参ったな」
 いづるは照れくさそうに掴まれていない方の手で頭をかいた。
「ちょっとだけ顔を見て、それで終わりにしようと思ってたのに」
「終わり……?」
 いづるは笑って答えない。周囲を無貌の魂たちが通り過ぎていく。通りに取り残されているのは、いづると火澄の二人だけ。
 火澄がいづるの額に手を伸ばした。そこには小刀ほどもある角が生えている。
「角……」
「僕は鬼だからね。血塗れの人非人。だから――」
 いづるが一歩下がった。
 身体をもたれかけさせるようにしていた火澄がたたらを踏んだ。
「いづる……? どこ、いくんだよ……終わりって、終わりってなんだよ。なあ」
「さよなら、姉さん」
 火澄はぶんぶん首を振った。
「やだ……」
「姉さん」
「やだ、やだ、やだよ!! なんでだよ、なんで、どうして……!! ここにいるのに、戻ってこれたのに、それなのになんでお別れなんだよ!! 意味わかんねえよ!!」
「僕がいてもいたずらに不幸をばら撒くだけだ」
 火澄の手がぬっと伸びて、いづるの胸倉を掴んだ。一瞬の早業だった。
 草履を履いた足が爪先立ちになった。
 火澄は、ぶつけるようなキスをいづるにした。
 いづるの目が、悔やむように歪む。
 唇を離して、
「あたしは、あたしはいづるが好き。門倉いづるが大好き。何千年、何万年経っても、ずっと好きだ」
「姉さん……」
「いづるは、違うのか? いづるはあたしのこと、もう、忘れたいのか?」
 いづるの手が、袖を掴んでいた火澄の手を握った。
「一秒だって……」
 火澄が見たこともないような真剣なまなざしで、
「一秒だって、きみを忘れたことなんかない」
「だったら……」
 火澄の目からつうっと涙が一滴落ちた。
「だったら、一緒にいてよ。ずっと一緒に、あたしのそばに」
「できないよ……僕は」
 いづるの目にも涙が浮かんだが、瞬きするとそれは夢のように消えてしまった。
「僕はきみを見捨てた」
 手を放した。
 また一歩、遠ざかる。
「見捨てたんだ」
 火澄には最初、なんのことだかわからなかった。
 そしてすぐに思い出した。
 最初に出会った時。牛頭天王の屋敷から逃げ出した時。
 その帰り道。
「ずっと……ずっと、そんなこと気にしてたのか?」
 いづるは答えない。
 俯いて、まるで責め立てられているように顔を歪めていた。
「僕は君を見捨てた。誰が何と言おうと、それは絶対許されちゃいけないことだと思う」
 火澄は嫌々をする駄々っ子のように首を振る。
「だって」
「いいから」
「だって!」
「いいんだ!!」

「――いま、来てくれたじゃん」

「――え?」
「いま、いづるは来てくれただろ?」
 火澄が手を伸ばして、いづるの頬を挟んだ。顔を覗きこみながら、笑った。
「おまえはちゃんと今、あたしのところに来てくれた。いつ、あたしを見捨てたりしたんだよ? そんなの知らないぞ」
「……姉、さん」
「その呼び方、ずっとしてよ」
 いづるの身体が小刻みに震え始めた。喘息の発作でも起こしたように、胸を押さえて、喘いでいる。足から力が抜ける。
 倒れかかったその身体を、火澄が抱きとめた。
「あたしが、許すよ」
 あの時、抱き締めてくれた分を。
 何倍にもして、今、返す。

「誰がおまえを許さなくても、あたしだけは、おまえのことを許すよ」

 その言葉を、どれほどの間、待ち望み続けて来たかわからない。
 いづるの両目に、涙が浮かんだ。今度は止まらなかった。
 両頬から堰を切ったように涙が溢れ出した。視界が滲んで何も見えない。ただすぐそばにある温もりに、いづるはしがみついた。



「ゆるして……くれるの?」



 何を得て、
 何を失ったのか、
 わからなくなるほど、たくさんの時が過ぎた。
 その果てに、ようやく、
 いづるは顔を歪ませ、本当に生まれて初めて、心の底から泣きじゃくった。
 歩き疲れた魂を少女の両腕が抱き締める。
 しゃくりあげる背中を、あやすように撫でながら。





 これは、ただ、


 そのたった一刹那を探し続けた、それだけの物語。















           あの世横丁ぎゃんぶる稀譚


                
















「あーあーあーもう、鼻かめ鼻」

「ぐすっ」ずずっ。

「まったくほんとに、ガキみたいなんだから――」



   お し ま い

       

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