飛縁魔が硬貨をスロットに入れて、レバーを降ろした。これで何度目だろうか、生首たちの回転がふたたび始まった。
スロットの回転というやつは実に不思議で、眺めているとそれまでの負けをいつの間にか忘れてしまう。いや、完全に忘れるわけでは無論ないのだが、回転し、流れる滲んだ線と化した絵を見ていると、なんだか新しい何かが始まったような気がしてくるのだ。輝かしい勝ちへの流れが見えるような、そんなどうかしている気分になってくる。
実際のところ、大半の人間にとっては、それは自分を破滅へと運ぶ無慈悲なベルトコンベアに過ぎないわけだが、ギャンブルの魔力はそんな恐ろしいものでさえ傷一つなく光る天国への階段に変えてしまうパワーを持っているものだ。
いつだって、勝つ可能性はある。
そう思えるゲームは、楽しい。
回転している首の向こうに、いづるは天国も地獄も見ていなかった。
ただ、こちらの不安と恐れを楽しむ下卑た笑いが三つ並んでいるのがはっきりと見えるだけ。
性格の悪い首どもが、せいぜい笑っているがいい。白い仮面をはめた顔がスロットを仰ぐ。
びりびりと包みを破いて、いづるは舌刺しを中央の顔の正面にかざした。指の隙間に串を挟んで、ちょうど3WAY-Shotのカタチに広がった状態だ。
いづるの喉仏がごくんと上下した。食欲で、ではなく緊張で。
生首たちは何事もなく回り続けている。
飛縁魔がごん、と壁にアタマを打ちつけた。「かーっ」とうめいて、手の平でぱしっと額を押さえて言う。
「なにすんのかと思ったら、そんなことかよ……無理に決まってるだろ、そんなの!」
「無理かどうかはこの際どうでもいい……」
そんな議論にどれほどの意味がある?
いま、いづるの手元にあるカードはこれだけだ。これがいづるの正真正銘最後の手だ。
だったら仕方ない。
押し切るしかない。
たとえ手札がブタでもゴミでも、最後までいくしかないのだ。決して降りないのであれば、迷う自由さえ与えられてはいないのだ。どうしようもなく。
無常にも生首たちは回転し続ける。
惚けたような時間が過ぎていく。
いづるは諦めない。
左手をブレザーのポケットに突っ込んだ。いづるは煙草を吸わなかった。ただ、ライターだけは持っていた。高価な銀色の重たいジッポライター。ギャンブルで巻き上げたそれは、いづるが初めて勝って、そして初めて手に入れた、借金のカタ。それが指先に触れた。
舌刺しの側にジッポを寄せて、点火した。じりじりと赤い炎が桃色の肉きれをあぶっていく。その縁から、青白い煙が幾筋かたなびき始めた。焦げていく肉の鼻腔をくすぐるにおいは食欲を誘い、嗅いだだけで脂が乗った肉が幻視してしまえそうなほど。
そんなにおいが立ち込め、生首の回転が、乱れた。
ほんのわずかだ。飛縁魔は気づかなかっただろう。だがいづるにはわかった。
捧げるように両手を掲げたまま、待つ。
バカみたいな時間。
こんなにもったいぶってなんにもならなかったら恥ずかしくって飛縁魔の顔をまともに拝むことなんて二度とできないだろう。
だが、いづるは諦めない。
根競べだ。肉がだめになりいづるの自尊心が砕けるのが先か、それとも……。
肉切れが充分に焼けた。いづるは、スナップを効かして火を消し、ジッポを仕舞う。肉は最高の状態だ。生焼けの、一番甘くて柔らかくて美味しい状態。だが、だんだんと冷めていく。あの世だろうとどこだろうと料理に賞味期限は存在する。それが切れたら、終わったら、この肉きれを飛縁魔と仲良く喰いながら尻尾を巻いて帰るしかなくなる。いやな未来だ、考えたくない。
生首の回転は止まらない。
だめか、といづるが手を引っ込めかけたとき、
「いづるっ!」
なにかが飛んできた。黄色い何か。
飛来してきたレモンを受け取ったいづるは、間髪いれずにそれを舌刺しの真上で握り潰し、その酸っぱい果汁をふんだんに肉に浴びせかけた。
いづるでさえ、それがなんの肉なのか一瞬忘れて、思わずむしゃぶりつきたくなる。それはそんな、串焼きだった。
おおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……
生首たちがリールから外れかねない勢いで、鼻面を犬のように真正面に突き出す。いづるは一歩後退して距離を取った。生首たちの暗い口腔からは、洞穴を吹き抜ける風のような恨めしい声のない叫びが迸る。乾ききった舌が覗いていた。
「飛縁魔!」
呼ぶまでもなかった。身体を半身に開いた飛縁魔から、左、左、右の三連打がボタンに叩き込まれた。一発一発が、衝撃の瞬間に周囲の空気が反転するのが見えるような強烈な痛打だった。
電光表示板が哀れな音を立てて砕け散った。
生首たちは勤めも忘れて、届きもしない肉きれを求めて舌を伸ばしていた。みりみりと肉が裂ける音がした。あまりにも遠くまで伸ばそうと努力したがために筋肉が千切れている。いづるはそれを哀れとは思わなかった。ただ、待った。
ちゃり――――ん
硬いものが受け皿に落ちた。
いづるはしゃがみ込んで、それを拾い上げる。なんの飾り気もない鍵だ。
駆け寄ってきた飛縁魔に、ゴミでも渡すようにいづるはそれを無造作に放り投げた。飛縁魔が慌ててそれをキャッチする。なにか文句を言っていたが、まだ興奮覚めやらぬいづるには届かなかった。
生首たちはいまや哀れっぽく泣きながら、いづるの手にある串を求めて苦しんでいる。いづるはそれを振って、においをくれてやった。嗚咽がことさらひどくなった。
「……………………」
いづるはそれを生首たちの舌ぎりぎりのところまで差し出す。
スライムのようにグロテスクに伸びた生首どもの舌は、いまや錐の先のようになっている。舌先がもうほんの少しで、よく焼けた肉を舐めようとしたところで、いづるはさっと手を引いた。
ぶちっと音がして、生首どもの舌が真ん中あたりから千切れ落ち、廊下に筋となって伸びた。それはしばらくの間、断末魔の痙攣に陥っていたが、やがてそれも止まった。
生首たちの眼球に宿っていた熱っぽい光が真っ黒く塗りつぶされる。
いづるは声だけで淡く笑って、
「地獄に落ちなよ」
その声は、寒気がするほど楽しげで、無邪気で、ちょっと悪ふざけをしただけの子どもみたいに、残酷だ。
いづるは、よく焼けた人間の舌の刺さった串を床板に躊躇いなく投げ捨てて、ローファーの踵で思い切り踏みにじった。ぷちゅッと肉汁が溢れる音がし、靴底と床に挟まれた異物が平たくなる感覚があった。もう食欲をそそるにおいは、半分も残っていなかった。
あぁ――――――――――――――――
悲哀と苦悶と絶望。生首たちの絶叫は屋敷全体を隙間なく満たし溢れ、壮絶なその叫びはそばにいた飛縁魔の黒髪が総毛だったほどだった。
「いこう、姉さん」
いづるは気にした風もなく言ってのけ、震えるスロットに背中を向けた。
返事はない。
飛縁魔は咄嗟に言葉が出なかった。やったな、とか、すごいな、とか、いろいろ言えたはずであった。なにも出てこなかった。ただ、引きつった声が出ないように息を止めているのが精一杯だった。のっぺら坊の少年の背中を映すそのまなざしは、どこかよそよそしげで、冷たく、時の流れが鈍かった。慌てて瞬きする。いま自分の瞳と心に湧き起こったさざなみをなかったことにしなければ。けれど、一度起こった波紋はいつまでもこだまのように反響し、飛縁魔の中に残った。飛縁魔は、それがいやで、でもどうすることもできず、いづるの背中を見続けるしかなかった。認めたくなかった。けれど本当はわかっていた。
いま自分は、この死人に怯えてしまったのだ、と。
門倉いづるはそれを知ってか知らずか、なんでもないようにブレザーのポケットに手を突っ込んで、硬貨の縁を指でなぞった。
ひとつの勝利が次の勝負を呼び寄せる。
牛頭天王との対面は、もう間もなくだ。
○
二人が廊下の角を曲がってからも、生首たちの怨嗟は途絶えることなく続いていた。
いまもまだ、続いているかもしれない。