Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 飛縁魔が南京錠に鍵を差し込んでねじると、かちりと錠はあっけなくはずれて落ちた。それを足で脇に払いのけ、飛縁魔は立派な竜虎の描かれたふすまを開く。
 ふすまの向こうは広い座敷だった。いったい何畳あるのか。俯瞰すれば板チョコのような長方形に見えただろう。
 部屋の三方は障子になっており、夕日がどこからともなく射し込んで、白い和紙は血に塗れたように赤かった。あちこちに用途不明のがらくたが散乱している。脚の折れたテーブル、砕けたブラウン管、ひびの入ったマネキン人形、天井からはいまにも落ちてきそうなミラーボールがさがっている。
 そのなかでもひときわ大きな粗大ゴミが牛頭天王だった。
 牛頭天王は畳の上にあぐらをかいて座っていた。
 噂に聞くよりも大きく光沢のある黒い牛の頭と、袈裟からはみ出した土気色をした節くれ立った手。寒くもないのに吐く息は白く、その眼光はレーザーポインターのように鋭かった。
 突然の来訪者たちを見つつも、牛頭天王はその手で自分に侍る女たちの髪を撫でる。女たちはみんな額からツノが生えていて、一人残らず死んでいた。
 飛縁魔はぶるっと身を震わせてから、咳払いして言う。
「よう、牛頭天王。だいたい一ヶ月ぶりだな」
 あの世に日付の概念はあまりない。飛縁魔の言う一月前は現世での一週間かもしれないし、一年かもしれなかった。
 牛頭天王は問いかけには答えずに死んだ女のツノを指で弄び、
「誰だっけ、おまえ」
 と言った。
「……………………」
「まあ、誰でもいいか。遊びにきたんだろ。いいぜ、やろう。なにをやる? なんでもいいぜ。おれは負けない」
「ずいぶん自信満々だな。でも今日はそうはいかないぜ。今度こそ家畜みたいに搾り取ってやる」
「ふうん。おれとおまえは会ったことがあるのか? まったく記憶にない。飲み過ぎてるかな」
 そういって、牛頭天王はそばにいた鬼女の死体のひとつから、首をもぎとって、ごくごくと生首の杯から血を飲み始める。
 ぷはあ、と乾ききった生首をそのへんに転がすと、飛縁魔が軽蔑をこめて言った。
「よく鬼なんか食って腹こわさないもんだな、この外道が」
「腹? 壊してるのに気がついてないだけかもな。なんにせよ、鬼は妖怪を喰うんだから、それを退治してやってるおれがそれをどうしようとおれの勝手だ。おれはおまえたちの親分だからな。守ってやるのが当然ってやつだろ?」
 そのとき、ようやく牛頭天王が飛縁魔のうしろに控えているのっぺら坊に気づいた。
「なんだそいつ。おれへの手みやげ?」
 危うく喰われる流れだったが、飛縁魔がフォローを入れる。
「こいつは札巻きだよ。花札のな。公正な勝負にしたいから連れてきた」
 飛縁魔はいじめっ子のようにいづるをドンと突き飛ばした。
 いづるはわけがわからない、とばかりに二人を交互に見比べ、おどおどと指を絡ませる。
「あ、あの、ぼくはどうすれば」
「花札のルールくらい知ってんだろ。ヤマを切って札を配ってくれりゃいいんだ。そうすりゃ極楽浄土にいけるよきっと」
「花札か。久々だからルールが思い出せるかね」と牛頭天王は弱気なことを言っていたが本心はどうだかわからない。
 まあ、それも大したことではない。
 いづるたちには魔法の札があるのだ。勝負はやる前から決まっている。
 いづるは急に冷めてきた。なんだかひどくバカバカしい。いっそ滅茶苦茶な札を配ってやろうか……。
 そんなことを相棒が思案しているとは露ほどもわかっていない飛縁魔は、小山のような牛頭天王から一畳挟んで座った。
 ゆるやかに回転する頭上のミラーボールから降り注ぐ砕けた夕陽の下品な光が彼女の頬を滑っていく。その赤い瞳だけが、あらゆる汚れた光を寄せ付けない。


 ○


 「こいこい」のルールは簡単だ。
 二人に八枚の手札を配る。場にも八枚の札を配る。
 あとはあらかじめ決めておいた親から、手札の中から一枚の札を切り、場にある同じ月の札を取っていく。なければ場に札を出すだけ。
 そしてどっちにしろそのあと山札から一枚引いて、同じ月の札があれば、それも取れる。最大で一度に四枚の札が取れるわけだ。
 こうして札をとっていって役ができた方の勝ち。
 このゲームは相手の札、自分の札、場札などから相手がどの役に進もうとしているのかを読みとり、なおかつ自分も役を作っていく。
 たとえば相手が短冊を四枚取っている。もう一枚短冊を取れば役になる。そういうとき、場に短冊が出ていたら自分で取ってしまう。そういう妨害も戦術のひとつになる。
 だからいづるは、二人が手札と場札からどういうゲーム展開にするのか先読みして札を配らなければならない。
 最初、飛縁魔が土御門に釘を刺されていたにも関わらずガムを噛み忘れて、ちょっと負けた。
 飛縁魔は、いづるがリアリティを演出するためにわざと自分を負かしたぐらいに考えていたらしく、訳知り顔でにやにやしていた。が、突然顔が青ざめたかと思うと懐からガムを取り出してくちゃくちゃやり始めた。何でもないような表情にびっしりと玉の汗が浮かんでいた。
「やめてもいいんだぜ、飛縁魔」
「うるせえ、こっからが本番なんだよ」
「せっかく言ってやってるのに……」
 飛縁魔はぷーっと風船ガムを膨らませてパンと弾けさせた。炸裂したガムが口のまわりに星形にくっついてかなり格好悪かったが、それが結局のところ反撃開始の合図だったわけだ。
 花札はいづるの念じた通りに変化した。
 いづるは、札を配りながら、飛縁魔がどうやって勝つか負けるか、ゴールの決まったドミノをどんな風に並べるか程度の気楽さで考えるだけでよかった。飛縁魔が一方的に勝つのでは怪しすぎるので、二人の勝つ割合を三対一から五対三くらいに調整してゲームを進めた。
 いま、場には九月札の「菊に杯」が出ている。赤と黄色の菊の花を支えるように朱色の杯が寄り添っている札だ。
 牛頭天王の膝前には「すすきに月」と「桜に幕」がある。これに「菊に杯」が加わると「月見」と「花見」で役ができる。そして牛頭天王の手札には菊のカス札が一枚あった。
 これで飛縁魔が「菊に杯」を取らなければ、奪われたリードを取り戻す足がかりになる。
「…………」
 飛縁魔は手札をジョリジョリ手の中でこすり合わせた。片膝を立て、その膝小僧に顎を乗せて剣呑な目つきで場札を睨んでいたが、やがて一枚の札を出した。その札は一月の札だったが、場には同じ月の札がなかったので札を取ることはできない。
 いづるはヤマから一枚放ってやった。
 それが九月札だったのである。
 牛頭天王が、過負荷のかかったディスクドライブみたいな唸り声を漏らした。飛縁魔はヤマから引いた「菊に青タン」で青い短冊札を三枚揃えている。
 アガリだ。
 負けた牛頭天王は手のひらを上向ける。
 するとそこから硬貨が湯水のように湧いてきた。
 それを汚らしいもののように飛縁魔に投げつける。心なしか、硬貨を失った牛頭天王から気迫や影がなりを潜めたようにいづるには思えた。
「……毎度あり」
 飛縁魔が畳に散らばった硬貨をかき集めて懐に突っ込む。
 こんな風にして、いづると飛縁魔はゲームを進行させていった。
 牛頭天王は小首を傾げることもなく淡々と札を切り続け、着実にその蓄えを吐き出していく。怪しんでいるにしては、素直に負けていた。
 このままガス欠までもっていけそうな気配がしていた。それがかえってよくなかったのかもしれない。
 牛頭天王が馬のナニみたいな葉巻をくわえて、つきの悪いライターをカチカチやり始めたときにはもう、いづるは完全に茹であがっていた。
 こんな茶番になんの意味があるのかわからない。
 いますぐすべてぶち壊してしまいたい。
 なにもしらないアホを演じて黙々と札を巻くのはもうごめんだ。
 札を配っていないとき、二人の勝負を見るいづるの手は握りしめられてぶるぶる震えていた。我慢の限界だった。
 こんなのは勝負じゃない。
 いっそすべてをぶちまけて最初から自分が仕切り直したい。
 この手で、このほかの誰のものでもない己の手で勝負がしたい。
 もはや飛縁魔に対しては憎悪さえ抱きつつある。筋違いだと思っても防ぎようがない。
 血が騒ぐ。肌のすぐ下、肉の裏で炭酸みたいにしゅわしゅわになった血が駆け巡っている。
 もう体などないはずなのに。もう死んでいるはずなのに。
 気分が悪くさえなってきていた。なんとか札の手順は考えられたが、自分の作った通りに進行していくゲームには反吐がでる思いだった。我慢がならない。その一言だけがアタマのなかに反響して消えてくれない。
 いつの間にか、目の前に太い葉巻があった。
「火、つけてくれねえか。ライター持ってたら、だけどよ」
 牛頭天王が指で挟んだ葉巻を上下させ催促する。
 いづるは反射的にポケットからジッポを取り出して、牛頭天王の葉巻に火をつけてやった。
 牛頭天王は礼を言うとうまそうにそれを臼歯の間にくわえこむ。奇妙なことに、その葉巻はふかすごとに線香花火みたいなパチパチした閃光を放つのだった。牛頭天王の吐き出す紫煙が三人を取り囲む。いづるはぼんやりと、バチバチと弾ける火花に見とれた。
 飛縁魔が手を振って煙を散らす。
「けむい……」
 けほけほせき込む。目に涙が浮かんでいた。タバコが苦手らしい。
「悪い悪い、ふふふ、まあこっちが負けてるんだから、これぐらいの息抜きは許してくれよ」
 そのときになっていづるは、牛頭天王の瞳だと思っていたものが、薄暗い頭蓋の奥でちらつく炎だということに気がついた。
 炎は、笑うように揺れている。
「さっさと札配れよ、札巻き」
 悲しいことにゲキを飛ばしてきたのは味方の飛縁魔だ。
 他人のフリをしなければならないので仕方もないが、その声は苛立っていて不機嫌そうで聞くに耐えない。なんだかほんとうに飛縁魔とはなんの関わりもないような気がしてくる。いままでの出来事は、死んでからここにまっすぐやってくるまで、錯乱したいづるの魂が見た夢じゃないと誰に言い切れるだろう?
 いづるはささっと札を配った。
 場に四枚、飛縁魔に四枚、牛頭天王に四枚。それを二回。
 飛縁魔がぶんぶん腕を振りまくったおかげで、あたりの紫煙が晴れた。
 いづるは場札を見た。
 松に赤タン、松のカス、桜のカス、桜に幕、あやめのカス、萩の短冊、紅葉のカス、柳の短冊。
 いづるは、こんな札を配った覚えはない。

 ○


 飛縁魔はよくやったと思う。
 自分に勝ち目がまったくなくなってからすぐに、飛縁魔は魔法が解けたことに気がついたようだった。
 そのときはあやうく腰を浮かしかけたが、すぐに観念して座り直した。そして、唇を軽く引き結んで、前を向いた。
 イカサマなしの勝負に挑むために。
 飛縁魔は自分がなにをすべきかはわかるくらいには、勝負慣れしていた。もはやガチンコするしかないのだ。
 がま口財布はあっと言う間にすべてを吐き出し、飛縁魔も牛頭天王と同じように、自分の手のひらからカネを作り出す羽目になった。おそらくこの一月、牛頭天王に挑んだ先人たちと同じように。
 土御門光明が作ってくれた花札は、いまとなってはもはやただの花札で、いづるの意志その一切を拒絶している。
 いづるはなにもできずに、本当にただ札を配るだけしかできなかった。
 いったいなぜあんなにも茶番のように簡単だった詐欺が破綻したのか魔法使いでないいづるにはよくわからないし、興味もとっくに失せていた。
 膝に拳を押しつけて、散った花の札を俯瞰する。一枚の札が切られるたびに二転三転するゲームに、二人の間を行き来するカネに心を奪われていた。靴下を履いた足がむずつく。ゲームに参加していないいまの状況が罪に思える。
 妖怪たちは自らの身を削ってカネを作り出す。それが尽きたらどうなるのだろう。
 この場でそれがわかることはなかった。
 飛縁魔の息が荒くなっていた。
 膝前の手札に篭手に鎧われた手を伸ばしたが、うまく拾えずにそのまま札の表面を爪でひっかいた。滑った勢いそのままに、どうっとささくれた畳に倒れこむ。
 その顔は青ざめ、唇は紫色になっている。もう目玉を動かすことさえままならない様子だった。
 ゲームは終わった。
 飛縁魔の負けだった。
 目の前の出来事に気づいていないように、牛頭天王はズタ袋の中に手を突っ込んで、勝ち金を鷲掴みにして上から口に流し込んだ。ばりばりと硬貨をクッキーのようにかみ砕く。いづるは座ったまま身動きができない。
 ぷしゅーと牛の耳から煙が吹き出した。臼歯の隙間からももくもくと白い蒸気が立ちこめる。
 牛頭天王は立ち上がって、傍らに添えてあった錫杖を握りしめた。
 いづるは立ち上がって、まだ散らばったままの花札を踏みつけていることにも気づかずに、牛頭天王の前に立ちはだかった。飛縁魔は立ち上がる気配を見せない。
「やっぱり組んでやがったか、チャチな芝居しやがって、すっかり騙されたぜ」
「…………」
「この花札になんか仕掛けてあったのか? おれにはよくわからんが、そういう小細工はおれには通じない。第一、そんなにまでしてなんになる?」
 牛頭天王は杖の先でいづるの顎をついっと持ち上げた。
「見逃してやる。とっとと失せろ。おれは優しいんだ。おれが、優しくいられるうちに消えてくれ」
「…………。飛縁魔をどうするつもりだ」
「どうって? どうもくそもない、ケリをつけるんだよ。二度と復讐なんてできないようにする。当たり前だろ? おれは命を狙われたんだ。そうする権利と意味がある。おれは生きねばならん。誰もおれを救ってはくれない以上、おれが自分でやるしかねえ。そうだろ?」
「彼女も悪気があったわけじゃない」
「そんなことは関係ない。おれが悪いのだとしても関係ない。おれは生きる」
「身勝手すぎるぞ」
「いい子にしてたら誰かがおれの頭をなでてくれるのか? で、それはいくらになるんだ? おれのいかなる不幸を吹き飛ばしてくれる? 頭痛がなくなるか? 吐き気がおさまるか? ははは、なにもだ。なにも変わらん。ならば戦うだけだ。てめえらみんなに災厄をくれてやる」
「災厄? 最悪? いま言ったのはどっち?」
 いづるの意図不明な質問に牛頭天王が答える前に、倒れていた飛縁魔が抜き放った太刀が走った。牛頭天王は咄嗟に身をのけぞらせるが、交わしきるには程遠い。
 銀色の刃は牛頭天王の袈裟を切り裂いたが、その向こう側の肉を断つことはできなかった。
「時間稼ぎか、汚いやつらめ」
「生憎な……諦めが悪いんだよ、あたしは」
 そういう飛縁魔はいまにも気絶しそうなほどに弱っている。霞がかった赤い瞳には精気がない。刀も満足に持ち上げられないのだ。刃先は畳に触れていた。
 牛頭天王はそばに転がっていた鬼女の残骸を拾ってむしゃむしゃと食う。ぺっと骨の欠片を吐き出して、
「飛縁魔、おまえはどんな味がするんだろうな? 教えてくれよ」
 錫杖を振り上げた。からん、と遊環が鳴る。杖を握る節くれだった手には力がこもり、血管が浮いている。その力を飛縁魔の華奢な身体が受け止めきれるはずもない。直撃を喰らえばあっけなく粉砕されてしまうだろう。
 呼吸のできない一瞬が過ぎて、二つの力の奔流がぶつかり合った。
 巻き起こった風がガラクタと門倉いづるをめちゃくちゃに転がす。
 小さな嵐がおさまり、顔をあげたとき、いづるの前に飛縁魔は横たわっていた。額から血を流している。そばには折れた刀が転がっていた。
「二連敗だな」
 くくっ、と楽しそうに牛頭天王が言う。ぶん、と錫杖を振るって、石突で畳をどんと突いた。
「のっぺら坊、おまえもすぐに楽にしてやる。なァに、ちょっと荒療治だが心配するな。チップになったあと、意識が少し残っているだろうが、まあすぐに喰ってやるからよ……おれの食道からケツの穴までの観光旅行をせいぜい楽しんでくれや」
「それはいやだな……キャンセルするよ」
「だめさ」
 牛頭天王は杖を振りかざす。眼窩の奥で青い炎が燃えている。
「おれはもう優しくないんだ。キャンセルはできない」
「なら、勝手に帰ることにする」
「無理だね」
 ぶんっ、と振り下ろされた錫杖が、憑き物が落ちたように、いづるの面の前でピタリと止まった。
 牛頭天王の拳がぶるぶる震え、杖の先の環が警鐘のように鳴り響く。
「おお、おお、やめろ、やめろ」
 巨体を折り曲げて、牛頭天王は耳を塞いで苦しんでいる。
 笛の音がしていた。
「いづるんっ!」
「アリス……」
 金髪の童女は答える代わりに、木でできた真新しい笛を吹きながら、顎で竜虎の描かれたふすまをしゃくった。猫娘はいづるの依頼をきちんと果たし、アリスに新しい笛を買い与えてここまでやってこさせてくれたようだ。念のための保険だったが、やはりかけておくに越したことはない。
 いづるは内心で感謝することも忘れて、気絶した飛縁魔を抱えあげた。その背も腿も氷詰めにされた死体みたいに冷たい。
「やめろ……殺すぞ……ガキが……う、うるせえ……うるせえんだっ!!」
 廊下を駆け抜けながら、牛頭天王の怒号とアリスの悲鳴を背中に感じていたが、いづるは振り向くことなくその場を走り去った。

 ○

 どこをどう走ったのか、いづるは覚えていない。
 ただ、ちらっと最後に見た看板に「常雨通り」と書いてあったのと、赤い雨雲から灰色の雨が降っていることから、ここが常に雨の降っている通りなのだろうという予測だけが、心の隅に引っかかっていた。
 飛縁魔は目を覚まさない。
 いい夢にまどろんでいるように目尻を下げて、口をほんの少し開けたまま、いづるの腕のなかで眠っている。
 どこか雨宿りできる場所を探さなければ。けれどその通りはどこもかしこも戸を固く閉ざしていて、誰の気配もしなかった。せめて少しでも雨露を凌げればと、いづるはゴミ捨て場から捨てられた傘を一本見つけ出して、塀にもたれさせた飛縁魔の上に差す。
 壊れた人形みたいな飛縁魔を雨から守りながら、ぼんやりといづるは飛沫をあげる水溜りを見つめる。
 その水溜りを誰かが踏んだ。いづるは顔をあげる。
 アロハシャツを着た猿が、小首を傾げていた。
「おお、おお、これはこれは。死人さんと飛縁魔ちゃんじゃないですか」
 猿のうしろからわらわらと他の猿たちが現れた。だが、彼らはアロハの猿よりも小柄だ。取り巻きたちはにやにやして、親分のアロハをちらちら見上げる。
 いづるは肩をすくめた。
「きみ、いいところに来てくれたね。参ったよ。迷子になったんだ。ええと……どくろ亭にいきたいんだけど、どうやっていったらいいかな? 僕、ここにはきたばかりでなにがなんだか……」
「死んだばかりで、の間違いだろ?」
「――――。うん、きみがそう言いたいならそれでもいい。で、道を教えてくれないか」
「その女をくれたらいいよ」
 アロハの猿は毛むくじゃらの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「おお、仰天だぜ、こんなに弱った飛縁魔は初めて見る……いやはや、眠っていれば可愛いもんだな。旦那、テイクアウトさせてくれないか? おれたち、餓えてるんだ」
 そうだそうだ、と小猿どもが囃し立てる。いづるはそいつらを完全に無視して、アロハだけに意識を向けた。
「それは困る。これは僕が先に見つけたんだ。僕のだ」
 ぱあん、と傘が裏拳を喰らって通りを舞った。
 アロハ猿がドスの効いた声で言う。
「誰のだって?」
「僕のだ」
 逃げるヒマも与えずに、茶色い毛に覆われた固い拳がいづるの腹にめり込んだ。
「がっ……」
 目玉の飛び出そうな衝撃と痛みがいづるの中心を駆け抜け、その場に崩れ落ちる。アロハ猿はビーチサンダルでいづるの後頭部を踏みつけた。
「なめんなよ、ガキ。てめえは死んでんだよ、とっくのとうにな。女と腰振るヒマもなかったからって、あの世くんだりまで来て盛っちゃうのはお兄さんどうかと思うなァ」
「…………」
「てめえのタイムリミットはゼロってんだよ。な? わかったら大人しく飛縁魔をどうぞご自由にお持ち帰りくださいませって言ってみろ。サービス業は笑顔が命だが、まあ、その仮面に免じて声だけで勘弁してやらァ」
「…………」
 後頭部にかかる力が強まる。仮面に押しつけられた鼻がつぶれて、情けなく痛む。ぐりぐりと、髪を踏みにじられる。
「なに、べつにおまえは悪くない。そうだろ? おまえは疲れてるんだ。なにせ死んだんだからな。そりゃあすスゲー疲れるだろうさ。ヤブ医者だって休養を勧めるよ。なあ? そういうわけでおまえは、この横丁にふらっとやってきてから、わけもわからずイイ夢を見ていたのさ。だから、これから五分ばかり目を瞑って、ぱっと開けたら、それが現実ってことよ。飛縁魔ちゃんなんていなかったのさ。まぼろしのガールフレンド。気を落とすなよ。いまのおまえ自身が、まぼろしみたいなものなのさ」
 いづるはなにも言わない。
 後頭部を圧していた力が消える。足音が遠ざかっていく。笑い声とヒワイな言葉もすぐに聞こえなくなる。
 いづるは、這いずるようにして、ゴミ置き場のポリ袋の群れに身体を運んで、身を埋めた。
 確かにあの猿の言う通りだ。自分は死んでいる。死後の世界などないと思っていたし、そんなものの存在はいま生きていることへの冒涜だとも言ってはばからなかった。
 その責任を、いま取ろう。



 ゴミの玉座に身を預け、仮面の向こうで目を閉じて、
 門倉いづるは、飛縁魔を見捨てることにした。

       

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Neetsha