Neetel Inside ニートノベル
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 どたどたどた、と校医の山本が廊下を走り去っていった。
 さっき聞こえてきた女子たちのひそひそ話によると、生徒の誰かが駅前で事故に遭ったらしい。校医が出ていって消毒薬とガーゼでなんとかなる事態ではないと門倉いづるは思った。そんなもので物事が灰に戻ろうとする力を押しとどめられるはずもない。
 見物にいったのか、かかわり合いを避けるためにとっとと家に帰ったのか、校舎の中には人気がない。あらゆる騒ぎが隣の世界にスイッチしてしまったように、白い床を歩いていくいづるの足音だけが木霊する。


 放送室のノブは抵抗することなく回った。
 門倉いづるは身体を斜めにして中に入る。
 放送室を照らし出す裸電球一個の下に麻雀卓が置いてあり、二年生を表す紫色のタイをつけた女子生徒が、パイプ椅子にはすに座っている。赤いべっこう縁のメガネの向こう側の瞳が、興味深げな光をたたえていた。
「きみが入部希望の一年生か」
「そうです」
「名前は」
「門倉いづる」
「ほおー。……あ、私か? 私は白垣サチ。我が博打倶楽部の長を勤めている。よろしく……。じゃ、門倉くん、そこにかけたまえ」
 いづるはパイプ椅子のひとつに座った。
「麻雀は打てる?」と白垣サチは緑色のラシャに手の甲を滑らせた。
「いえ、ルールを知らないので……」
「そうか。打てたら即入部OKだったんだがな」
「そんなものですか」
「メンツが足りないんだ。これは致命的なのだよ、きみ。遊び相手がいなくっちゃな、どうしようもない。桃鉄一人でやったってつまんないだろ? どんなに特急カードを持っていてもね、それはゲームという幻想が機能して初めて価値を持つのだよ。お金と一緒さ。野蛮人に諭吉を何枚くれてやったってどうせケツを拭く紙にされるのがオチさ。おっと失敬、口が悪いのは遺伝でね。ほんとほんと」
 早口にまくし立てられたが、聞き苦しくはなかった。むしろ小気味いい軽快なヒップホップを聞いているような心地がしたくらいだ。
 手持ち無沙汰気味なのか、白垣サチは卓の上に散った麻雀牌をざらっと混ぜた。なるほど防音対策をしてある放送室ならいくら牌がじゃらじゃら鳴ろうと教師連がガサ入れしてくる心配はいらない。
「で――入部動機は?」
「親しい人に死ね、と言われたので」といづるは答えた。
 白垣サチは整った眉をこころもち持ち上げる。
「死……? おもしろいこと言うね。うちは自殺クラブだと思われてるのかな? だったら帰りたまえ、たぶん違う」
「地獄へいく方法、でググったらギャンブルがトップにきたもので。ちょうどいいし、博打ってどんなものかと思って」
「ほおー。つまりきみは死にたいわけかね? 博打狂いになってヒドイ目に遭いたいと?」
 いづるは人形のように小首を綺麗に傾げる。
「そうかもしれません」
 白垣サチは顔の前で手を振り、
「そんなことしても意味ないぞ。それより私ともっと楽しいことをして遊ぼう。そう……オセロとか、すごろくとか、」
「賭け麻雀とか?」
 白垣サチはふっと笑みを消した。
「遊びで麻雀にレートは乗せない」
 沈黙。
 腕時計の秒針がカチカチ鳴り続ける。交わされた視線の熱量だけが上がっていく。
 サチは卓の上で指を絡ませて、その結びを興味深そうに見つめながら、
「きみ、金を稼ぎたいと思うかね?」と聞いた。
 いづるは肩をすくめ、
「べつに。あまり金の使い道はない方なんで」
「では、それがはした金でなく、誰かが夢や希望を失う額ならどうかね」
「どういう意」
「傷つけ、傷つけあいたいと思うかね。自分は血を求めていると思ったことは?」
「あの……」
「拳が固まったままほどけないと錯覚したことは? 道ゆく人を頭の中で殴り倒しながら歩く? 嫌いな奴ほど夢の中で無敵にはなっていないか?」
「…………」
「いま私が君の入部許可を賭けて勝負を申し込んだ場合、いったいいくらまでなら賭けられる?」
 その問いかけに答えるのは簡単だった。
 いづるは、麻雀卓の上に、薄っぺらい財布をポンと転がす。レンズ越しに白垣サチの目がきらめく。
「きみ、私を惚れさせる気かね?」
「や、べつに」
「そうか。ふむ。よかろう、勝負で決めよう。それが一番手っとり早い、きみと私のケースならな」
 白垣サチは放送設備にヒジを乗せて、足を組み替えた。いづるは白いふとももに目もくれず、その唇は一文字に引き結んばれている。
 それがふと、ゆるんだ。





「勝負は簡単だ。きみはこれから校内に戻っていって、女子生徒から生徒手帳を借りてきたまえ。ただし暴力行為は禁止だ。私はちゃーんと見てるからな?」
 白垣サチはそこでまじめな顔を崩して、
「なあに、ただの借り物競走さ。ただし駆け回るのはきみだけだが」
「……そんなことでいいんですか? もっとハンデをつけてくれたっていいのに」
「死にたいくせに自信過剰かね? 本当におもしろいやつだな。ま、いいのさ。この勝負、意外と奥が深いぞ。せいぜい楽しむがいい。勝っても負けてもな。それに喜べ、もし勝てたらご褒美もある」
「いらないです」
「そう言うなよ。きみも男子だろ? 私がなぜ女子の手帳に限定したのか察してみたまえ。ちなみに私は金持ちだ」
「や、だからそんな、」
「男色かね? もし違うのならば私にきちっと証明してみたまえ、自分が健全な高校一年の男子であると! 滔々とな!」
 有無を言わさぬ、とはまさにあの様子のことを指すのだろう。
 促されるまま、いづるは滔々と赤裸々に自分が男子生徒であることを証明した。白垣サチは至高の音楽にひたるようにリズムをつけていづるの告白に耳を傾け、どんどん頬が赤くなっていった。
 そしてすべて聞き終えると、げらげら笑っていづるにパンチをお見舞いしてきた。
「なかなかの変態だな、きみは!」
 見かけは可愛らしい女の子パンチだったが、結構重かった。
 放送室を出て扉を閉める前にちらっと視線をあげると、白垣サチは袖でよだれを拭っているところだった。





 簡単な勝負だと最初は思った。
 校舎に人気がないとはいえ、部室長屋にいけば女子なんてごろごろしている。
 問題は口実だ。生徒手帳なんて学割ぐらいにしか使われないにせよ、人にほいほい貸すのははばかれるだろう。
 こういうのはどうだろう。
 新聞部が来月の記事に生徒手帳に載ってる顔写真と写真部が撮った顔写真を比較掲載する。協力してくれた方には生徒手帳の顔写真を新しい方とすげ替えてやる。抽選するから手帳を貸してほしい。
 あまりよくない。
 だが、まあ、一人くらいは引っかかるバカがいるだろう。写真の写りが悪いやつは探せば絶対にいるわけだし。いづるはタカをくくって、目あたり次第の女子に話しかけた。
「あの」
「っ!」
 ところが、女子たちはいづるの声を聞いた途端に親の敵を見るような目で逃げていった。伸ばしたいづるの手がゆらゆらと廊下の真ん中で揺れる。
 入学してまだ二ヶ月。
 大したことはしてないし、クラスでも影が薄い方だ。妙な噂が立つわけもない。なのに茶髪も黒髪もストレートもパーマもチビもノッポもデブもガリもビッチも淑女も、最終下刻時刻になるまでいづるを避け続けた。



 結局、手ぶらでいづるは放送室に戻った。最終下刻時刻を告げるチャイムが鳴ったからだ。
 放送室に戻ると、白垣サチが麻雀牌でピラミッドを作っていた。いづるに気がつくとじゃらっと崩してしまう。
「どうだったかね」
「だめでした」
 いづるはパイプ椅子に座って、柔らかそうな苔色のラシャに目を落としながら、
「口も利いてもらえませんでしたよ。僕はそんなにキチガイじみたツラをしていますか」
「なかなか大事(おおごと)だね、きみ。え? たまたま自分とソリが合わなかった婦女子としか出会わなかっただけかもしれないじゃないか。気を落とすなよ、童貞も守り続ければいつか何かに変わるよ。たぶん」
 いづるは一学年上の女子からのセクハラを完璧に無視した。
「簡単な勝負だとタカをくくっていたんですがね」
「まあ、誰でもあのきみの告白を聞いてぞっとしない婦女子はおるまい」
「でも、僕は普段からあんなこと言ってるわけじゃありませんよ」
「そりゃそうだろう。でも彼女たちは聞いていた。それもついさっき……な」
 白垣サチは、とんとんと指先で放送設備を叩いた。
 いづるは思わず腰を浮かしかけ、
「な、流したんですか、アレを?」
「おう、ばっちりとな!」サチはげらげら笑って両手を広げ、
「おめでとう、これで晴れてきみはどこに出しても恥ずかしくない立派な女子高生の敵だ。精進したまえ!」
「なにを精進しろってんですか。ちょっともうなんか……やってらんないな。じゃあ、こういうことですか、最初から僕に勝ち目なんかなかったと」
「そんなことはないよ? 私は暴力行為は禁じたが窃盗までは禁止していない。たとえば私がきみなら、保健室にいったろうね。迷わず」
「へえ、誰かが落とした手帳がベッドと床の隙間にないか探すためですか」
「違うよ。さっき校医の山本が出ていったろ?」
「ええ」
「なにか事故があったらしいが、普段保健室には保健室登校の女子生徒が一人いてな。鞄を山本に預けて、山本がいないときはベッドで寝ているんだ。そして山本が仕事を終えるまで保健室に残って課題学習している。なにを学習しているのかは判然としないが私はピンクなことを期待している」
「疲れてるんですか? とっとと本題に入ってください」
「うむ。山本はいつもその女子生徒の鞄をストーブの上に置いておくんだ。山本がいない、女子生徒も寝ている、ならば手帳もギれるというわけだ」
 いづるはそんなこと知らなかった。隣の席に誰が座っているかも知らないのにそんなトリビア蓄えているわけもない。
「そんなの……たまたまそういう情報をあなたが知ってただけじゃないですか」
「そうだな。まず情報ありきなのはきみの言うとおりだ。だが、それを必要なときにさっと連想できるかどうか、また女子生徒がたまたま起きていたり、手帳を持っていないという不運をはじくツキ、そして肝心要の土壇場でビクついてヘマをしないクソ度胸。きみがたまたまと言ったこの勝ち方にはこれだけのものが必要なのだよ」
「…………」
「悔しいかね」
「腑に落ちないですね」
「そうか。なら次は自分が腑に落ちる勝ち方をするがいい。べつに博打に限ったことじゃない。気に食わないことは、力ずくでどうにかするしかないのだ。生きている以上はな」
 白垣サチはそこで言葉を切って、それから継ぎ足しのように言葉を添えて、演説を終わらせた。
「ここに来たということは、きみもまた呪われた魂の持ち主なのだろう。ロクなやつはいないからな、ここには。だが、」
 あきらめの混じった爽やかな笑顔で、
「呪われているやつ同士の方が、勝負というのはおもしろいものなのだ」
 と言い切った。



 ○



「入部できなくて、本当に残念です。先輩と話すうちにますますギャンブルがやりたくなりました」
 白垣サチは頬杖をついて、エアコンのように目を細くしたり広げたりしている。
「それは、死ぬためにかね、苦しむためかね」
「理由なんかどうだっていいんですよ。いろいろなことがあって、それが混ざって、機会と場が一致して、そしてようやく僕はギャンブルをしてみたいと思った。たまたまね。それだけですよ。深い理由なんかありはしないんだ」
「――そうだね」
 白垣サチのメガネ越しにいづるを見るまなざしは、孫か息子を見るように穏やかだった。
「やってみたい、大切なのはその気持ちなんだろうな。それを否定するべきじゃないんだ。理屈も道理も後から作ってしまえばいい。原初の感情に言葉なんて無意味だ」
「その口振りからすると、おこぼれで僕は入部できそうな感じですか」
 白垣サチはデコピンで牌をいづるの額めがけて飛ばした。
「痛っ」
「甘ったれるんじゃない。我が倶楽部のルールは絶対だ。さっきも言っただろう、ゲームとはつまり幻想だと。破るのは簡単だ、だが思っていたよりももっとあっけなく、ルールを失ったゲームは破壊される。あとにはなにも残らない」
 いづるとサチは三秒間見つめ合ったあと、同時に肩をすくめた。
 いづるは席を立って、ブレザーのポケットに手をつっこむ。
 じゃ、僕はこれで、と言おうとしたとき、指先になにかが当たった。
 いづるはポケットにものを入れない。
 引っ張りだしてみるとそれは自分のよりも汚れた青い生徒手帳。
 開けると、証明写真の白垣サチは、皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
 いづるは写真と同じ顔をしている本物のサチを見る。
「さっき滑り込ませたってわけですか。あんた、最初から僕を入部させるつもりだったんだな」
「さてな」とサチはすっとぼけた。
「さんざん偉そうなこと言っていたくせに、結局これですか」
「嫌ならやめれば?」
「…………」
「どの道、きみはこういうことにのめり込むと思うよ。何年も鉄火場で過ごしているとね、そいつがハリボテかどうかぐらいはわかってくるものさ」
 白垣サチは片手をさしのべる。女の子にしては大きな手だった。
「ようこそ、私の倶楽部へ。門倉いづるくん」
 いづるは背を向けて、放送室を出ようとした。
 そんな意固地ないづるを、白垣サチはますます気に入ったように笑顔を深める。忘れ物を指摘するような口調で、いづるの背中に向かって言った。
「なあ門倉くん、人生とはね、ただの悪ふざけにすぎないのだよ。たまには思い切り羽目を外してみたまえ。意地を張るのが言い訳になってしまうよりも、その方がずっといいと思うがな」
 その言葉が胸に響いたわけではなかったが。
 ドアノブを握ったところで、いづるの決心が揺らぎ始め、そして、がらがらっと崩れた。
 振り向くと、放送室の弱々しい蛍光灯のあかりの下で、緑色の卓とその上に散った麻雀牌が、水面のようにきらきらしていた。深淵で雄大などこかに誘っているかのように、イタズラが好きでたまらない子供の目のように。
 勝負が、いづるを誘惑していた。


 ○


 人生はただの悪ふざけにすぎない。
 そう、そう思っていた。あの人が最初に発した言葉であっても、それは自身の中に形にならないまま漂泊していたものそのものだった。
 そう思っている、いまでも。死んでもそれは変わらない。死んだぐらいでこの心の中の何かが変わることはない。変わってくれるわけもない。


 門倉いづるは身を起こす。
 バランスを失ったポリ袋が雪崩となっていづるの背中にぼこすかぶつかってくる。そんなものはぜんぜん気にならない。いま自分は選択しようとしている。それだけが重要だ。
 寝てるか、動くか。
 寝ていると一度決めた。そうすべきだ。いまさら飛縁魔を追いかけるつもりもないはずだ。べつに彼女とは出会っただけ、そうまさしく出会っただけの関係だった。いづるが死んだとき、彼女はたまたまそこにいた。それだけ。だからそれは簡単に捨てられる。
 捨てられる、はずだ。
 いづるは自分の手の平を見る。十六年間とちょっとの間、毎日見てきた手。
 それが戦慄いている。
 獲物を狙う蛇のように、五本の指が身悶えしてぎりぎりとそれぞれてんでバラバラな動きを見せている。
 いづるはそんなことをしているつもりはない、だが、動かしているのは間違いなく門倉いづるだ。
 苦しい。
 何も考えたくなかった。もう何も感じたくなかった。そしておそらく、感じることはできないし、間違ってもいるのだ。
 門倉いづるは、もう死んでいるのだから。
 消えるべきだ。
 人生が悪ふざけだというのなら、いまのこの時間は『人生』などではない。ただのロスタイム。試合終了のホイッスルが鳴ってから、その笛の音が鳴り止むまでの刹那でしかないのだ。何をしても無駄だし、何か意義あることをすべきでもない。
 わかっている。すべてわかっている。なぜならそういったことは全部、いづるが考えて、いづるが思いついて、いづるが信じたことだから。
 だが、いづるはよろめきながらも立ち上がる。彼がいた場所に怒涛のごとくゴミ袋が殺到し、その玉座を埋めた。もうそこに座り心地のいい窪みはない。
 いづるは呼ばれもしないのに、ふらふらと歩き始めた。
 ゆくあてもろくになく。
 沈みかけた夕陽が責め立てるように、いづるの全身を赤く炙っている。
 動き続ける五本の指の影が、土の上でひらひらと揺らめいた。


(つづく)

       

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