Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 三雲晶の死因は簡潔に言うと、恋愛だった。
 といっても、べつに恋患いで本当にくたばったわけじゃない。
 幼なじみの女の子を巡って、べつの男子と争い、どうも戦況が自分に芳しくないことがわかってきたとき、三雲はその恋敵を殺してしまおうと考えた。
 罪悪感はなかった。
 夜、自宅のベッドに寝そべって蛍光灯を見上げながら、自分の心の中をいくら探ってみても、出てくるのは純粋な恋慕の情だけ。クラスの人気者を抹殺して発生する悲しみの数よりも、淡泊で機械的だとばかり思っていた自分に初めて芽生えた、人を大切にしたい、幸せにしたいという気持ちの方が重要に思えた。
 ――おれを止めるということは、おれの恋を否定するということだ。そんなことは誰にもさせない。神にもさせない。呪われてでもおれは勝つ。
 階下から届く家族の談笑する声を遠く聞きながら、三雲晶はそう思った。
 釣りにいこう、と恋敵であり友達でもあった彼を誘った。
「裏山の小川のヌシは、雨の日にしか出てこないらしい。いっちょおれたちで釣り上げてやろうぜ」
 友達は一も二もなく同意してきた。次の日曜日は雨になる予報が出ていたので都合もよかった。
 三雲晶にはたったひとつの誤算があった。
 アリバイ作り? いや。証拠隠滅? 違う。
 ヌシを釣るフリをして、友達を濁流轟く川へ突き落とす算段だったというのに。
 なんのためらいもなく実行できるように布団の中でイメージトレーニングも欠かさなかったというのに。
 いざ本当に、どうやらヌシが自分の釣り竿と釣り糸の先にかかっているらしい、ということがわかると、三雲晶はマジになってしまった。そんなことで彼の恋は吹き飛んだりはもちろんしなかったが、それをちょっと後回しにしてもいいくらいには、土砂降りの雨の中、竿から伝わってくる大物の手応えは三雲晶を狂わせた。
 晶は唾をはねとばしながら叫んだ。
「篠崎、ヌシだ、手伝っ」
 どん、と背中を押されて、両足が宙に浮いた。
 川に飲み込まれる寸前、晶は肩越しに背後を見た。
 泣きそうな顔をした篠崎が、両手を突き出して、その指が雨まじりの大気を掴んでいた。
 その手はきっと、すぐに別のものを掴むことになるのだろう。
 三雲はカフェオレ色の濁流にもみくちゃにされ、溺死するまでに、思った。
 なんだ、あいつもおれぐらいには本気だったのか。
 もっと早くに気づいときゃよかった。
 そしたら、おれは死なずに済んだし、油断もせずに、川に落ちるのはあいつだったはずだ。おれは勝っていたはずだ。おれが負けるわけがない。おまえが本気なのはわかったが、おれだって本気だったんだ。
 それだけは確かなんだ。本当に。
 意識が完全に塗りつぶされる寸前、三雲晶は、大木みたいに太く大きい魚を見た気がしたが、それがあの川のヌシだったのか、いまもって判然としない。



 ○



 三雲晶は死んでから、三途の川の川辺で紙芝居屋と凧上げ屋をやり、時々は妖怪相手の博打をやって暮らしている。もう二ヶ月になる。
 この身体の維持には莫大な魂がかかる。手で水をすくって、25Mプールを満タンにするくらい大変だ。常に自転車操業で、明日も知れぬ身の上で、いつ消滅するか、あるいは自我を失って食欲まみれの化け物になるか知れない。が、いまのところ三雲晶は自分を保っている。
 妖怪たちの間では、三雲は「サンズ」と呼ばれている。三途の川にいるからサンズなのか、三雲の三の字が横町を一周して変形したのかはわからないが、三雲もそのあだ名を気に入っている。
 本来は、魂の量によれども一週間程度しかないこのアフタータイムで、あだ名をつけてもらえる者は稀だ。
 つまりそれは、ひとつの称号とも言えるのだ。
 三雲晶もまた、誰かからの略奪で生き延びる術に長けている一人。一週間か十日置きに死人窟にいって、荒らして、何人かはその場で消去している。それだけでは足らず、妖怪連中にも混ざって打つこともある。
 いまのところは負けなしだ。
 それに加えて、この副業。あの赤ブレザーよりも腕の劣るサンズがバランスを崩さずに博打を続けていられるのには、実はこの副業で一定の収入があるからでもある。
 ゴミ捨て場からかっぱらってきた焼きそば売りの屋台の中で、商売道具の紙芝居をトントンと揃えて、さて今日の売り上げはと銭箱を覗いたとき、屋台の前に誰かが立っていることに気がついた。
「なんだい」
「きみがサンズ?」と客は言った。
「そうだが、今日の演目はもう終わったよ。といってもいつも同じのしかやらないんだがね」
「雷獣がどうのってやつだろう。少しだけ聞きかじったよ。これだろ?」
 客は屋台前に置いてある、雷と黒雲を背景にペンキで描かれたイタチを指した。
「べつに紙芝居形式じゃなくてもいいよ。僕は、ここで釣れる雷獣ってのがどんなもんなのか知りたいだけなんだ」
「どうして」
 サンズには、なんとなく、答えがわかっていた。
「なぜって、僕と君がこれから勝負するからさ。オールインでね」
 のっぺら坊の言うオールインは、そんじょそこらのオールインとは違う。一度賭ければ撤回は効かない。
 負ければ即消滅。冷たい貨幣に両替される。徐々に記憶を失わず、一気に消滅するとき、その魂は忘却の苦痛に悶えるという。
 サンズは聞いた。
「おまえ、名前は?」
「門倉いづる」

 ○


 すぐそこの川原で妖怪の幼子たちが凧上げしてきゃっきゃと騒いでいる。その声を聞きながら、いづるとサンズは向かい合って、お互いぴくりとも動かなかった。
「おまえ、本気か」
「わからない」
「わからない? てめえふざけてるのか、おい」
「いや、自分が本気なのかどうか、まったくもってわからないんだ。冗談じゃないんだが、自分でも真剣になれなくてね。まあ、カモを餌食にすると思ってひとつ頼むよ」
 サンズの経験上、こういうことを言うやつは必ず腹に一物抱えている。
「おまえ詐欺師か、それとも馬鹿か? どっちにしたって、おれはそんな勝負には乗らない」
 いづるは首を振る。
「いや、あんたは乗るよ。だってあんたはここの店主なんだろう。だったら、客が遊びたいって言ったら受けろよ。それがあんたの仕事だ」
「つまり、おまえがやる勝負っていうのは、」
「雷獣ってやつを僕に釣られたら、あんたの負けということだ」
 サンズは自分の白い仮面をぬるりと大きな手のひらで拭った。
 どうやらこの人を喰った新入りは、どこかでサンズのことを聞いてやってきた、人修羅希望者……らしい。しかし、どうも肝心な話を聞き損ねているようだ。
 いまだかつて、この店で雷獣を釣り上げた者はいない。
 門倉いづるはこの店のことを誤解している。サンズは妖怪や死人たちに雷獣についての紙芝居を上演する。そして、そのおまけとして、釣れるはずのない雷獣を釣るという名目で釣りの場を提供しているにすぎない。つまりこれはハリボテ、ただのアトラクションなのだ。釣りをやって客たちが持ち帰るのは、長靴とかヤカンとかのガラクタ程度だ。そういうものは持ち帰ってもいいことにしている。門倉いづるが雷獣を釣り上げることはありえない。
 と、まァ、理屈で言えばこんなところだったろうが、サンズの心の奥底に反響しているのはいづるのたった一言だった。
 あんた店主だろ。
 そうだ、とサンズは思う。
 おれはここのボスだ。たったひとりでも、この店はおれの店だ。
 売られた喧嘩はどんな値だろうと買い叩く。
 サンズは頷いた。
「いいぜ、やろう。釣り道具を貸してやる」
「いいんだな、オールインで」
「こっちのセリフだ。後悔しても知らんぜ。まァ、一度この世界で口に出した勝負の決めは覆らないからな」
「とりっぱぐれがなくていいね」
「抜かせよ、新入り」
「ははは。で、竿はどこだい」
 両手を広げて突っ立ったいづるを見て、サンズはけらけらと笑った。
「竿なんて使わないよ」
「じゃ、どうやって釣るんだよ」
 あれさ、とサンズは凧上げで遊んでいる子供たちを指で示した。いづるの顔が夕焼け空に舞い上がった凧を追った。
「雷獣ってのは、雨雲の中にいるんだ。釣り竿なんかじゃとても届かねえのさ」
 紺色制服ののっぺら坊はサンズの方を見て、夕焼け空を気ままに飛んでいる凧に顔を向け、またサンズの方に首を傾けた。
「マジかよ」


 ○


「元々、雷獣というのは――」とサンズは、凧を広げて、その布地に描かれた模様を観察しているいづるに向かって言った。
「一千年前に安倍晴明って陰陽師に嫌われて、空に追放されたと言われてる。なんでも、陰陽道における五行、おれは専門じゃないから詳しくないんだが、火だの土だの金だの水だの……あとなんだっけ」
「木かな」といづるが、最高のできばえになった洗濯物のように凧を掲げて、言った。
「ああ、たぶんそれだ。その五行に、自分も加わりたいと雷獣が安倍晴明に頼んだそうだ。ところが、安倍晴明はせっかく学んだ五行の理が増えることを好まなかったし、そんなことできねーよってわけで、式神を使って雷獣を脅かして、二度と地面に降りてこないようにしちまったんだと」
「可哀想に」
「そうか? 物事には身分相応ってものがある。身の丈以上のものを求めたらば、不幸になるのは自然の流れさ。それこそ理(ことわり)ってやつだ。違うか?」
 いづるは凧を持った両手を下げた。
「人修羅になってまで生きながらえようとしてるあんたは、身分不相応じゃないのか?」
「おれは相応なのさ」
「よく言うよ」
 いづるは自分の凧を川原に広げて、皺ができないように伸ばした。凧は六角形で、一つの角の頂点に釣り針が仕掛けられており、白い布地には看板と同じ雨雲と雷を背景に茶色いイタチが描かれている。
 いづるはポケットから洗剤を取り出した。サンズがいぶかしげに首をひねる。
「そんなもんどうするんだ」
 いづるは黙って、凧に洗剤の粉を振りまく。振りまきながら言った。
「言い忘れてたんだが、三番勝負にしてくれないか」
「ちょ、言い忘れすぎだぞ、ふざけんな、誰がそんな……」
「ほとんど雷獣が釣れた試しがないってこと、僕が知らないとでも思ってるのか? それこそふざけろ。いいか、これは正当な権利ってやつだぜ。僕はオールインしたんだ。賭けたのはすべてだ。あんたは勝てば僕の魂といくらかのはした魂が手に入る。文句は言うな。わかったな」
「なんてわがままな……いいだろう、だが、二番勝負だ。三回は時間の無駄だし悠長だ。どうせ何度やっても同じなんだからな」
「かもね」
 糸を少しずつ糸巻きからほどいて、長さを十分にしてから、いづるは三途の川辺を全力疾走し始めた。風が凧をさらって、あっという間に上空まで送った。
 洗剤の粉を浴びたいいにおいのする凧は、赤く焼けた雲の中に吸い込まれていった。
 いづるは立ち止まって、くいくいと糸を引っ張ったり放したりする。
 時々、雲の中から、チラっと遠雷が瞬いた。


 ○


 引き下ろした凧には、なにもかかっていなかった。ただいいにおいがするばかりである。
 いづるは試しによく嗅いでみたり、どこかにひっかき傷がないかあらためてみたが、そんな希望のとっかかりになってくれそうなものは微塵もなかった。凧は舞い上がったときと同じ凧のままだった。
 サンズは屋台の中で、頬杖をつきながら明るい調子で言った。
「たまにヤカンとか長靴とかガラクタはひっかかるんだがな、それもなしか。センスないな」
「ガラクタって……雲の中に?」
「ああ、雲の中に」
「じゃ、きっと雷獣もいるさ」
「いねえよ」
 サンズはひらひらと手を振って、
「馬鹿な野郎だ、ありもしない幻に自分のすべてを賭けちまったんだから」
「うん。それが?」
「それが、もなにもない。おまえはギャンブラーの風上にもおけねえやつだってことさ」
 サンズはぐっと屋台から身を乗り出して、置いてけぼりにされたようにポツンと川原に立ついづるに言った。
「本物ならおまえみたくはしない」
「じゃあ、本物のギャンブラーならどうするっていうんだ?」
「よし、教えてやる。本物の博打打ちってのはな、ちゃァんと策を練って、できるだけ冒険をなくし、確率とツキを自分っていう天秤にかけて、精査し、そして熱く大きく勝負するのさ。おたくみたいなただ賭けるってだけでウキウキしちゃうやつなんぞハナからお呼びじゃねえんだ」
「そうか。そうかもしれないな」
 いづるは凧の布地をぎゅっと握りしめた。しわの寄ったイタチが醜悪な形相になる。
「参ったな。一発で決められると思ってたもんだから、もう策がないんだ。どうやら、僕の最後の対戦相手は君だったらしい」
「はっはは、光栄だね。だったらとっとと消えてくれるとありがたいな。おれは忙しいんだ。マガイモノのおまえとは違って、おれは本物なんでね」
「ああ。――君でよかったよ」
「何?」
「最期の相手がクズじゃつまらないな、とは思っていたんだ」
「おれからすればおまえはクズさ」
 それきり、サンズはいづるへの興味関心を失った。まだいづるが屋台の前に立っているのも気にせずに、ごそごそと屋台の中を漁って雑誌を取り出し、読み始める。屋台の前で硬貨が散らばる音がしたら、雑誌を閉じて、立ち上がって、箒とちりとりを持って表へ出ればいい。そこには門倉いづるの残骸が落ちているだろう。それを拾い集めてポケットに入れる。それだけのこと。ぼろい勝負。
 だが、雑誌を読み終わっても、勝利の音色は聞こえてこない。サンズは、門倉いづるが二回目の勝負を終えることで決着が訪れるのを恐れてその場に立ちすくんでいるのだと思った。
 雑誌から顔をあげて、サンズはため息をつく。
「見苦しいぞ。クズはクズでも気持ちのいいクズとして消えちまってくんねえかな。鬱陶しいんだよ、そこに立っていられると……」
 のっぺら坊が仮面の奥でどんな表情をしているのかはわからない。だが、そのとき、サンズがどんな顔をしているのか見える気がした。
 手放された凧が地面にふわりと舞い落ちる。いづるの指先がびきびきと、苦しげに悶えている。まるで、本人の顔が封じられている分、自分たちが主の心を代弁するのだというかのように。
「参ったな」
 拳を握る。
「まだもう少し、やれそうなこと、思いついちゃったよ」
 そう言うと、いづるは土手際のフランクフルトスタンドにいって、紙コップになみなみと注がれたオレンジジュースを持って帰ってきた。そして、サンズの目の前で、その中身を捨てた。
 サンズは何も言わなかった。ただ、少しだけ、体温があがった気がした。
 そんなもの、もうありはしないというのに。


 ○


 いづるによって無惨に中身を捨てられた二つのコップは、それぞれ凧の先端と、手糸の先にくっつけられて、ゴミから活用品に蘇生した。
 いづるは紙コップが取れないかどうかしつこいぐらいに検証し、気に喰わなかったときはセロハンテープの量を増やした。セロハンテープもフランクフルト屋の犬男から借り受けたのだが、彼は目の前でジュースを捨てられて少々気分を害していた。それでもいづるの申し出を渋々了承してくれたのは、いづるにとって僥倖だった。
 サンズは子供に性について聞かれた大人みたいにボリボリ頭をかいて、
「門倉、おれはおまえがなにをしようとしているのかさっぱりわからん」
「そう? わかってるもんだと思ってたよ、あんたなら。なんてったって本物なんだろ?」
「べつにわからなくたっていいのさ。同じだからな。おまえは負ける。何も釣り上げられやしない」
「かもね」といづるはまた言った。凧糸を手頃な長さに調節し、走れるだけのスペースにアタリをつけた。
「でも、どうせ釣るなら、もしも釣れるなら、ヌシを釣ってみせるよ。一番でかくて立派なやつを」
 そのセリフは、サンズの心の底の底にあった火を揺らめかせた。だが、消えるまでにはいたらなかった。サンズは屋台から転げ落ちかねないほどぐっと身を乗り出した。
「やってみやがれ、できるもんなら。それだけが、ギャンブラーの証明なんだ」
「うちの部長も、そう言ってた」
 言い捨てると、橙色に染まった川原の上流へ、誰もいない砂利道へ、いづるは駆けだした。糸を繰って、より高くへ舞い上がるよう、風に凧をうまく乗せてやる。
 少しずつ、少しずつ、大気の段差の上へ上へ。
 そして、分厚い雲の中へと。
 凧が完全に雲に埋没したのを確かめてから、いづるは糸巻きから手糸をほどき、たわんだ部分まで完全にピンと張るまで、また糸を操って凧の高度をあげた。そして、いづると凧を結ぶ細い糸は完全に伸びきった。
 いづるの手の中には、紙コップが残るばかりだ。
 いづるは仮面を外す。途端に、ドス黒い気分に再び襲われる。おそらく、このまま放っておけば妖怪も死人も見境なく襲いかかるという鬼になるのだろう。そして、牛頭天王に捕まり、あの鬼女たちのように喰われてしまうのだろう。
 その前に、もしも、間に合うのなら。
 いづるは仮面を片手に、もう片方の手でコップを口元につけた。背中に、強烈なまでに、サンズの視線を感じる。
 息を吸う。
 そして、ドス黒い衝動の向こうにある、消したくても消せない気持ちを、彼なりに吐き出した。
 ちゃちで不出来な糸電話に乗せて。


 ○



 一分か、二分か、三分か。
 どれほどそうしていたろうか。
 コップを口から離すと、すぐに仮面を被った。ドス黒い気分はいまやかなりひどくなっており、わずかな間に全身汗だくになっている。シャツが肌にぴったり張りついてきて、とても嫌な感じだ。それでも、仮面を被っているうちに少しは楽になった。
 背後から、サンズが早く下ろせさっさとしろと急かしてくる。いづるは言われた通りにした。二人ののっぺら坊が、裁きを待つ囚人のように赤い雲を恭しく見上げる。
 するすると糸が引き下ろされていく。やがて凧の下部が見えてきた。
 どちらともなく、息を呑む。
 黒雲と稲妻を背景に、白い布地に、黄色い猫がしっかとしがみついていた。
「嘘だろ」
「そうだよ」
 いづるは凧を完全に引き下ろして、飛びかかってきた黄色い猫を両手で受け止めた。毛先からばちばちと電気を放っている猫は、いづるの手の中で、地面に落ちているガラスの破片やらこぼれたジュースやらを、物珍しそうに見回している。毛並みのいい背中をいづるの手がなでる。
「そう、ほんとに――ヌシを釣ってみせるってのは、紛れもなく、僕の嘘だったよ、サンズ」
 その雷獣は、まだほんの子猫だった。
 屋台から、ふらふらと出てきたサンズが、雷獣に手を伸ばす。
「殺すなよ」
 いづるの注意も聞こえていたのかどうか、サンズは、分娩室で初めて自分の子供に触れる父親のように、子猫ののどをそっと人差し指でなでた。
「なーお」
 子猫は気持ちよさそうに鳴く。サンズは震える声で問う。
「どうやって……こいつを……」
「言ってただろ、雷獣は陰陽師にいじめられて一千年も空にいたんだって。だから、きっと寂しいと思ったんだ。どこで聞いたか忘れたけど、雷獣は猫だって聞いてたもんでね。猫語をしゃべる自信はなかったけど、なに、昔これでも猫を飼ってたもんでね。鳴き真似は得意なんだ」
「は……はは……」
 サンズは後ずさった。その瞬間、右腕から付け根からカネに変わって、じゃらじゃらと砂利の上に散らばった。だが、そんなことはもうサンズにはどうでもいいことらしかった。
「幻だと……思ってた。あんな伝説……ずっと……」
 左足の膝から下が硬貨になり、立っていられなくなったサンズはその場に跪いた。もうどことはいわず、サンズの表面を滝のようなカネが流れ落ちていく。
「大したやつだぜ……門倉いづる。おまえ、幻を釣り上げやがった」
「そんなに幻まぼろし言うなよ、幻じゃなかったんだから」
 サンズは仮面を外した。いづるは初めてサンズの顔を見た。知らない顔だった。だが、いい目をしていた。
 その目の輝きをそのままに、サンズは前のめりに倒れ込んだ。
 後には漂白された金と銀のカネだけが残った。
 魂の残骸だけが。
 いづるは雷獣を地面に下ろす。子猫は金色の瞳でのっぺら坊を見上げる。
「さ、おまえは自由だ。どこにでもいけよ。久しぶりの地上なんだろ?」
 子猫は、右を見て、左を見た。そして、いづるのズボンの裾に顔をこすりつけてきた。いづるは首を折れそうなくらいに曲げる。
「後悔するなよ、僕は不幸の種子をばらまくぞ」
「なーお」
「……わかってるのかな、本当に?」
 子猫はいづるにまとわりつくのをやめ、三雲晶だったものによじ登っては、こぼれ落ちる硬貨によって、ずるずると滑り落ちてしまう。子猫はそれが楽しいらしく何度も繰り返す。何度も何度も。
 少なくとも、サンズは最期の最期に子猫の遊び道具になることができた。
 いづるには、それがほんの少しだけ、妬ましい。




(つづく)

       

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