Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 すっと立ち上がったさまは、とても酔っ払いには見えない。もとより、酒には酔わないタチで、酔ったのではなく酔いたかっただけなのだ。それともそう思っているのは自分だけだろうか。
 酔客たちの間をすり抜けて、いづるはどくろ亭の表に出る。足元には新しい相棒の雷獣も付き従っている。電介は地上二十センチから見る横丁の見果てぬ広大さに圧倒されたように、忙しく首を左右に振っている。



 さて。
 これからどこへいこうか――――



 と、いづるが一歩踏み出したとき、
「あのう」と背後から呼び止めてくる声。
 振り返ると、死に装束を着て、おしろいを塗りたくっている顔に紅で幾何学模様を彩った少女が立っていた。夕陽を浴びて頬に乗った粉の粗さが目立っている。目はくりくりとしていて可愛らしいのに、暴力的なまでに濃い化粧が彼女の可憐さを冒涜していた。
「何」
 少女が手に見慣れた太刀を持っていることにいづるは気づく。
「これ、置き忘れておられたので……」
 差し出されたそれを受け取ると、ずしり、と非難がましい重みを感じる。
 詩織とアリスによれば、飛縁魔は、いまこの刀の中にいるらしい。本当かどうかは知らないが、もし、手も足も出ないそんなところで、彼女が自分を恨んでいたらどうしよう。
 それはとても恐ろしいことのような気がする。
 少女がじっと自分を見つめているのに気づいて、
「いや、忘れたわけじゃないよ」
 太刀を軽く持ち上げてみせ、
「誰かが指摘してくれたら、持っていこうと思ったんだ。そうでなければ、捨て置こうと思って」
 どこまで本気だったのか、自分でもよくわからない。
 ただ店主に勘定を払って、席を立ったとき、視界にははっきりと飛縁魔の太刀が入っていた。そこですっと手に取ることもできた。なのに、自分はそれをしなかった。なぜなのかはわからない。
 わからないということにしたい。
 だが、いづるにはわかっている。
 自分は、『忘れた』という名目でそれから完全に距離を置きたかったのだ。飛縁魔には、いろいろ語りすぎたし、近づきすぎた。彼女との記憶はほんの一瞬にしか思えなくても、そのほとんどが、いづる自身でさえ直視できない醜悪さとセットになっている。
 願わくばまっさらに消え去るまで、そんな汚点のようなものの象徴を見たくはなかった。
 こうして自分の中の歪んだ思考の束をまとめてみても、なんだか倒錯している。しかしおそらく確実なのは、そんな機微は死装束の少女にはまったく考慮されず、彼女からすればいづるは傷つき変わり果てた姉と慕う少女の成れの果てを居酒屋に置き去りにしたクズに見えるだろうということだ。事実クズでもある。
 罵られてしかるべき邪悪さだ。
 だが、そうはならなかった。
「じゃあ、私が声をかけてよかったんですよね?」
 少女は小首を傾げて問いかけてくる。いづるはまたも反応に困った。そんなことを言われる想定はしていなかった。
「ええと、うん、まァ、そうかな。ありがとう」
 自分の『ありがとう』がちゃんとした発音で言えているか自信が湧かない。本心から言っているつもりなのに、嘘臭さを感じてしまう。
 それを振り切るようにいづるは言う。
「あのさ」
「はい?」
「僕が嘘を言ってるとは、思わないわけ……?」
 すると少女はこう言った。
「嘘をつくなら、あなたはもっとうまくやると思ったのです」
 いづるが急に黙り込み、その場から動かなくなったので、死装束の少女はいづるのブレザーの袖を引いて通りのど真ん中から脇へと移動した。
「あの、どうかしました?」
「なんでもない」いづるは自然に嘘をついた。
「さっきの話さ、聞いてた?」
 少女は目を伏せる。長いまつげが瞳を隠す。
「すいません……聞くつもりは、なかったんですけど」
「あれだけ大声で喋ってたら当然だよ。でも、あの内容を知ってて、よく話しかけようと思ったね。僕みたいなやつは、気持ちが悪いだろうに」
 少女はそれには答えずに、顔を伏せたまま、
「――――冷たい人ですよね」と、怖い声で言った。
「僕?」いづるは思わず聞き返す。そう、と言われたらどうしようかと思ったが、
「いえ、あの、なんか……喋ってた人」
「あ、紙島か。うん、あいつはいつもああなんだよ。僕はもう慣れた」
「でも、言い方ってあると思うし……わたしはべつに、思わないですよ、変だなんて。待っていてくれる人が欲しいって思うことの何が悪いんです? その気持ちがわからないあの人の方が……気持ち悪い」
 いまにも舌打ちして低い声で呪詛を呟きかねない顔をした少女にいづるはちょっとひるむ。少女はハッと目を見開き、
「な、なんかわたしいま怖かったですかね? あ、あはははは!」
「まァ、いいんじゃないの」
 いづるははっきりとした回答を控えたが、少なくともさっきの表情は門倉いづるを一発でフェミニストにするくらいの威力はあった。
「言いたいこと言わないとストレスたまるし」
「そう、ですよね。あは、は」
 会話が途切れる。足元で痺れを切らした電介が早く早くとせかしてくる。
 いづるは、立ち去りたくない。
「あの」と言葉を継いだのは少女の方。
「その刀の人を助けるかどうかは別にして、魂を稼がなくちゃいけないんですよね」
「まァ、そうだね」
「だったら、いいギャンブルがありますよ」
 ピンときた。
「わかったぞ。それを僕と君とでやろうっていうんだろう。そんなことだろうと思ってた」
 だが、少女はふるふると首を振る。
「違います、わたしはやりません。でも、あなたはきっと知ってると思いますよ。ギャンブルの王様ですから」
「どうしてそれを僕に教えてくれるんだ。ははァ、やっぱり君も僕の敵か。最後にはとって喰おうとしているんだな?」
 いづるは自分をかばうように後ずさった。
「みんな敵だ。僕には敵しかいないのだ」
 それは、朝起きて、眠りに落ちるまで、片時も脳裏から離れずに木霊し続けてきた言葉。
 みんな、敵。
 そんないづるを、そう言うしかなくなるところにいるのっぺら坊を、少女は悲しげに見る。
「あなたは可哀想な人、だと思います」
 でも、と真紅の唇が呟いて、
「それでも、不幸じゃないと思います。だから、思ったのです」
「何を」
「あなたの勝負を見てみたい、って」
「たったいま、女の子に言い負かされて泣きそうなところなんだけど」
「そんなの関係ないですよ」
 少女はけんけんぱをするようにいづるの周りを回って、その背中をぽんと押す。
「ねえ、わたしにギャンブル、教えてください」



 ○




「あ、いいところに」
 ちょうど通りかかった朧車に少女がさっと手を挙げた。ききぃ、と悲しげな音を立てて、水底から引き上げてきたような錆びきった車体が停まる。
「乗りましょう。代金は持ちますので」
「…………」
「どうかしました? さ、乗ってくださいな。ここから歩くと結構かかるんですよ」
 ぽんぽん押されて、いづるは狭い車内に押し込まれた。少女は手動でドアを閉めて、誰もいない運転席に身を乗り出す。
「常夜橋スタジアムまで」
 誰も握っていないハンドルが回り、エンジンがやる気を出し、おんぼろタクシーが出発した。いづるは足元の電介を抱き上げて、
「僕はまだ引き受けるなんて言ってないんだけど」
「えっ?」
 少女が電流を浴びたように飛び上がった。
「そうなんですか? わたしはてっきり引き受けてくれたものと……」
「だって、まだきみのことを信じる気になれないし」
「そんな……」
 そんなことを言われるとは露ほども思っていなかったのだろう、少女は意気消沈し、身体まで一回り縮んだように思えた。
「どうしたら信頼してもらえるのでしょうか……。なにぶん世間知らずなものでして、思ったことは口に出していただきたいのです」
「まず、信頼してもらう、というのは間違ってるかな」
「間違い……?」
「信じて欲しければ、信頼させるんだ。そうせざるを得ない状況に相手を追い込んで、そうして信頼というものはやっと手に入る。そうでなければ、お互いに信じないのが普通で、そこに裏切りとか情の厚薄は絡まない。詰め将棋みたいなものだよ。僕は、将棋は嫌いだけども」
「――」
 少女は魂を抜かれたように、ぽかんと口を開けている。
「わたしは、違った風に教わって育ちましたし、違うのだと思っていました」
「それは自分が幸せだと言っているに等しいね。うらやましいなァ、愛されて育ててもらえてさァ。でも自慢なら運ちゃんにでも言ってくれよ。ん、いないな。まァどうでもいいや。なんにせよ他人の自慢なんて僕は聞きたくな」
 そこで、いづるは言葉を切った。途端に訪れた静寂が、自分のまくし立てた言葉の勢いを物語る。
 背筋を冷たい汗が伝った。
「――怒ってないよ」と苦し紛れに弁解してみたが、少女は首を振る。
「声、硬かったです……」
 怯えてしまったのだろう、少女は身を縮ませて上目遣いにいづるを窺っている。ばつが悪いが、無視するわけにもいかない。だが、どうしても謝りたくなかった。こういうとき、自分が馬鹿だと痛感する。
 そしてその馬鹿はこんな言葉を口走った。
「悪いとは思ってるけど、謝る気分じゃないから、謝らない」
 とんでもない言い分である。おまえは何様だ、と罵倒されてもおかしくない。だから友達もろくすっぽできないのである。それでもいづるは謝れない。謝ったら最後、二度とまっすぐ立てない気がする。
 少女はまた一瞬ぽかん、とした後、くすりと笑った。
「面白い人ですね。いづるさんって」
 その微笑みは完璧すぎて、何か裏がありそうでさえある、ようにいづるには思える。
「あ、そういえば」
 少女はぽんと手を合わせる。
「まだ名乗ってませんでしたね。わたし、いろいろ呼び名はあるんですが、基本的に妖怪っていい加減で、みんな呼びたいように呼ぶし、戸籍とかもないんで、いづるさんも何か呼びたい名前があったらそっちで決めてくださっても構いません」
 名前。
 呼びたい名前、と言われて、いづるの脳裏にはっきりと一つの名前が浮かび上がった。
「かすみ」
「かすみ?」
 少女は何度か口の中でその名を転がし、
「いい名前ですね、どんな字を?」と罪悪感さえ覚えてしまうような笑顔になった。
 いづるは仮面をそむけ、脅されているような弱々しい声で言う。
「燃える火に、澄んだ水の澄で、火澄」
「いま考えたんですか?」
「母さんの名前」
 そのとき流れた空気を、なんと形容すればいいのだろう。
 意識の外に出ていた周囲の音が一気に蘇ってきた。がたごとと車体が揺れる音、エンジンが不機嫌そうに唸り、お互いの呼吸音は、まるで耳元で囁かれているように大きく聞こえる。
 時間が止まったような、気まずい雰囲気。
 いづるは無論、そうなることを踏まえて喋ったのだ。
 べつに適当ぶっこくこともできた。かっこいいからとか、ゲームのキャラの名前とか、なんでも理由はあったはずだ。
 だが、いづるはこの空気を選んだ。
 わかっているのに、うまくいかないのに、試してしまう。
 なにを?
 ――許してもらえるのか、どうかを。





 車窓から、ゆっくり横丁の景色が流れ去っていく。いづるは手動で窓を引き下げて、新鮮な空気を車内に入れた。少女の方は見ない。仮面の表面をすべった冷たい風が、いづるの髪を慰めるようにもてあそぶ。
「――お母さんとは」
 少女――火澄の声は、平坦で、まるでさっきのやり取りがなかったかのようだった。
「仲がよろしいんですか?」
「いや、まったく。最近はろくすっぽ口も利いてもらえない。まァ苦労をかけたから。それも当然なんだろうね」
 それから、生ぬるい沈黙が続いて、もう車を降りるまで喋ることもなかろう、といづるが思い始めてから、火澄がぼそりと言った。




「――お兄ちゃん」




 見えない誰かに後ろから突き飛ばされたように、いづるはつんのめった。あまりのことに声が半笑い気味になる。
「ち、ちょっと待ってくれよ。いきなり何を言い出すんだ? 壊れたのか?」
 見ず知らずの死人をお兄ちゃん呼ばわりして恥ずかしくないわけがなかったのだろう、火澄は目元をぽっと赤く染めて、
「い、言って欲しいのかと思って。そういうの……あの、じゅ、需要があるなら供給すべきっていうか……いなやはない、っていうか……」
 火澄はもじもじしている。いづるの反応をもらえないといつまで経っても落ち着かないのだろう。
 兄と呼ばれて嬉しいのかどうか、いづる自身にもよくわからなかった。無論、悪い気はしない。けれどそれが自分の求めているものなのかどうか。自分は妹萌えなのか、それとも倒錯的家族愛欠乏者なのか、そして満たされている心の隙間はその二つのどちらなのか?
 いづるは葛藤の末に、ぼそっと答えた。
「せめて、兄さんにしてくれ」
 そういう問題じゃねえだろうが、と頭の片隅で別の自分がつっこんだが無視する。
 二人を乗せて、あの世横丁のデコボコ道を朧車はのんびりと走っていく。
 いつの間にか、ギャンブル指南を拒んだことがうやむやになったことに、いづるは気づいていない。


(つづく)

       

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