いったいなぜそんな運転をする必要があるのか、おんぼろのくせに横滑りして停車した朧車からいづると火澄はふらふらと降りた。まさか目的地が見えてから急加速するとは思わなかった。それがやりたいがために営業しているのではないかとさえ疑う。
火澄がよろけながらシート下の貯金箱に小銭を放り込むと幽霊タクシーはのんびりと靄(もや)のような土煙を残して走り去る。
仮面に手を当てて、いづるは遠ざかっていく朧車を見送る。まだ身体が横に流れている気がする。杖代わりにした飛縁魔の太刀がぐらぐら揺れる。電介だけが平気な顔であくびをし、いづるの制服に爪を立ててひょいひょいっと登った。
首を振って吐き気を吹き飛ばし、いづるは輪切りにされた塔のような建物を見上げた。壁にひっかき傷のようなフォントで、常夜橋スタジアム、と刻まれている。そのすぐ下には、些細な光も吸い尽くす洞窟のような暗い入り口。何かに導かれるように妖怪たちがスタジアムの中へと入っていく。入り口脇に細長い木の板が立てかけてあったが、それは別に入り口というわけでもないらしい。みな不可思議そうに板を見ているのでいつもあるものではないようだった。高い壁の塗装でも塗り直すのだろうか。
ぼんやりとその場に突っ立っていたら、「邪魔になりますから」と火澄に背中をぽんぽん押されて、いづるもその歯のない闇をくわえこんだスタジアムに飲み込まれた。蜂の巣をつついたような喧噪が大きくなる。
「一階は券売所と軽食屋が出てます。意外と安くなんでも売ってますよ。文房具屋まであるんですから」
「券売……」
ゆるやかにカーブした通路に宝くじ売場そっくりの券売所が点在していた。それぞれ「1―4」とか「2―3」とか看板が出ており、そこにわらわらと妖怪たちが群がっている。
火澄を見ると頭のてっぺんに「?」を浮かべていた。
「どうかしたんですか? あ、予想紙買ってきましょうか?」
「うん、じゃあ、頼むよ」
はい、と嬉しそうに火澄はぱたぱたと通路を走り去っていき、婉曲した先に消えていった。
いづるは一人、行き交う妖怪たちのど真ん中に取り残される。
見上げると柱と天井が交わる角に鳥が巣を作っていた。しかし鳥の姿はない。人の邪魔にならないように、壁にもたれかかって、券を買う妖怪たちを肩にへばりついた電介と一緒に眺めた。
あの世の競馬。
予想してはいた。こんなスタジアムでやる博打と言えばレースか決闘かどちらかしかない。妖怪たちの予想が途切れ途切れに聞こえてくる。
なにを言っているのかわからない。
麻雀もやった、サイコロも振った、カードもめくったし札も繰った。だが競馬だけはやったことがない。やりたいとも思ったことはない。倶楽部のメンバーの一人だった溝口にはエセ賭け屋呼ばわりまでされた。
それは別に間違いではない。
競馬は客対客の勝負ではなく完全な胴対客のギャンブルだ。たとえば、いづると溝口が麻雀をした場合、動く金はお互いの財布の中身だけ。なにを担保にしようともタカが知れている。
だが、「公衆ギャンブル」は違う。胴が潰れることは万に一つもない。大勢が賭けて外してくれるほど配当は増える。参加する人数が多ければ多いほど、動くカネもまた膨大になる。
麻雀がたった四人の勝負であるのに対し、競馬はスタジアム一杯の人間が参加するのだ。
レート至上主義の溝口が麻雀を博打扱いしないのも、頷ける話でもあるのだ。巷に蔓延る麻雀のレートはレースやパチスロに比べれば世界が違うといっても過言ではない。月給取りが低レート麻雀を打っても、世間一般が心配するような破綻には至らない。なぜか。
カネが動かないから。
ルールも技術もへったくれもない。
勝ち切りたければカネを動かすしかない。
――門倉ァ、おまえが一晩でいくらトップを取ったって、俺の一時間の稼ぎにもならんのだぜ。
溝口の薄ら笑いがいづるの仮面の裏によみがえる。思い返せば喧嘩を売られた記憶しかない。溝口はいつも頬ににきびを作っては潰していて、見るたびに醜くなっていった。
ひょっとするとそれは、勝つごとに、だったかもしれない。
溝口のあばた顔が、耳に噛みつけそうなほど間近からいづるに囁く。
――汗だくになって一時間かけて打って、勝って取られて、馬鹿みてえだと思わねえ?
馬鹿みたいだと思う。
だが、どうしても好きになれなかったのだ、公衆モノは。なんだかそれに触れただけで「負ける」気がした。いったい自分は何と戦っていたのかと思う。
しかし、いま、魂を稼ぐには、ちんたら半荘なんて打っていられないのも事実だ。
競馬にかかる時間は平均して二分半。
たったの二分半。
火澄のおしろいと紅まみれの笑顔を思う。
――ふん。
押し切ってやる。
確かに自分はレースに関して素人だ。オモテとかウラとか押さえとかよくわかんない。
でも、自分なりの賭け方みたいなものはたぶんある。
だったらそれでやるまでだ。常識もセオリーもくそ喰らえだ。
十二頭の馬畜生のどいつが未来の種馬になって、どいつが馬肉になるのか、それを当てるだけでいいんだろう。
どの道、正攻法なんてやり方で助かる星の下に生まれちゃいない。死んでもいない。
ふう、とため息。
期待に満ちたあの目を思う。
あんな目で見られたのは生まれてこの方一度もなくて、
「お待たせしましたー」
火澄が畳んだ新聞を赤ん坊のように抱えて戻ってきた。
「予想紙どこも売り切れで、親切な方に譲ってもらえなかったらもうどうしようかとかくなる上はかっぱらうしかないかと……兄さん?」
押し切るしかない。
いつもそうしてきた。
だから、今度もそうする。
○
いづるは新聞を受け取りしげしげと眺め始める。火澄がおずおずと言った。
「兄さん、それ逆」
がさがさと新聞をこねくり回して、やっといづるは正しい見方にたどり着いた。これだから新聞は嫌いである。朝の電車の中でサラリーマンが手にしているのは新聞からスマートフォンに変わってしまったが、いづるが子供の頃はまだ満員電車の中で巧みに畳んだ新聞を無限軌道で読み進める企業戦士がいたものだ。
「サラリーマンには向いてないですね」
「うるさい」
新聞には馬名が書いてあると思ったが違った。
十二の縦枠で区切られているところまでは同じである。だが、本来は「セカンドインパクト」とか「ブラックサンデー」とか中学生の脳内異名のごとき馬名が連ねられているべきところに人名が掲載されている。その名前も珍妙なものが多かった。
「なんだこれ。あの世だと騎手が重視されるのか?」
あまり競馬に明るくないいづるでも、競馬が『ブラッドスポーツ』と呼ばれるほどに馬の血統に重きが置かれたギャンブルであることぐらいは聞いたことがある。だが、ここは現世ではなく何もかもがくたばった後の世界であって、そういう物事の順序が逆転していてもおかしくないのかも、とも思う。
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
ちっとも悪びれている風でもなく、火澄が言う。
「これは競馬じゃないんですよ。似ていますけど」
「競馬じゃない?」
「はい。予想紙に書いてあるでしょう?」
見てみる。
競神通信、と右上の大枠に書いてあった。よく見なかったので普通に競馬と書かれているものだと思い込んでいた。
字の意味だけを捉えれば、
「神様の……競馬ァ?」
思わず胡散臭げな声が出てしまう。いづるは「神」とか「教え」とか「調和」とかの類の清らかなる単語を聞くといつも鳥肌が立ってしまうのだ。ひどいときにはジンマシンにまでなる。
「厳密に言うと『式神の競馬』ですね、競神(せりがみ)は」
火澄がひょこっといづるの横から新聞を覗き込んで言う。なんだおまえ、と電介が火澄をしたたかに睨む。火澄はその殺気に満ちた視線に気づかずのん気に、
「だからそこに載っているのは、式神の使い手である陰陽師たちの名前なんですよ。式神は造り手の実力がはっきり表れるので、結局、式神を走らせて誰が一番いい呪い師なのかを競うわけです」
「へえ……式神ってよくわからないんだけど、妖怪とは違うの?」
「違います」
ちょっと心外そうに火澄は唇を尖らせた。
「簡単に言うと、妖怪は天然モノで、式神は人造のモノって感じですね。現世にいって五行の精――火の精とか水の精とか――を森とか湖とか、そういうパワースポットから集めてきて陰陽師が造るのが式神です。なので自我とかないですし。まァ陰陽師に従っている妖怪を式神って言うこともあるので、そこは『日本語って難しい』で納得してください」
なるほどなるほど、といづるはふんふん頷いていたが、その実まるっきり頭に入ってこなかった。興味のない授業を聞いているときの気分である。
予想紙には、陰陽師の名前の上に称号のような二文字の名称が添えられていた。それぞれ右から、闘蛇(とうだ)、朱雀(すざく)、六号(りくごう)、勾陣(こうじん)、青龍(せいりゅう)、稀人(きじん)、天后(てんこう)、陽炎(かげろう)、玄武(げんぶ)、久遠(くおん)、白虎(びゃっこ)、天空(てんくう)、とある。これは何かと火澄に問うと、
「陰陽師が扱う式神には縛りがあって、テンプレートみたいなものがあらかじめ決まってるんです」
いまや火澄の身体が隙間なくいづるの背中にくっついて、いづるは身動きひとつできない。
「昔、安倍晴明っていう陰陽師がいたのは知っていますか?」
それは知っていた。確か土御門光明のご先祖さまで、雷獣を空の上へと追放した大昔の陰陽師。
「彼が使役したと言われる十二柱からなる伝説の式神――十二天将の名前と属性に適合した式神を造ることが競神の決まりなんです。たとえば朱雀だったら炎の式神、とか」
「それに何か意味が?」
「あります。式神はどれも五つの属性、木、火、土、金、水で分けられているんですが、それぞれが近くにいると相互作用が発生するのです。作用の種類は二つです。片方の属性がもう片方の属性を支援する『五行相生』と反対にもう片方の属性を打ち消す働きをする『五行相克』」
がんばるのだ、といづるは自分に言い聞かせる。麻雀だってバカラだってナポレオンだって覚えられたじゃないか。
火澄は水を求める魚のように、一生懸命、いづるの理解を得ようと話し続ける。
「ええと、そんなに複雑じゃないんですよ。『相生』の方は、木が燃えたら火になって、火が燃え尽きたら灰つまり土になり、その土の中から金属が掘り出され、その金属が冷えて水の雫ができ、その水が滴って木を育てる……ね?」
「つまり……循環してる?」
「はい。だから競神の最中も、火の式のそばに木の式がいたら、火の式は勢いを増すのです。『相克』の方は、循環はしていなくて、木は成長して根を張り土を砕き、土は貪欲に水を吸い取り、水はご存知の通り火を消して、火は金属を溶かして駄目にしてしまい、そして木は金属でできた剣や斧で切り倒されてしまう……『相克』の場合は火の式のそばに水の式がいた場合、ステータスが低下してしまうのです」
「じゃあ、火の式のそばに水の式と木の式が一緒にいたらどうなるんだ?」
「状況によります。水の式が火の式よりも強ければステータスは低下しますし、火の式の使い手が水の式を上回っていれば木の式からの勢いを得て加速します。そこが読みごたえのあるところ、なのです」
駆ける方にとっても、賭ける方にとっても。
いづるは多面刷りの新聞を仮面越しにじっと見つめる。なんとなく概要はわかった。普通の競馬と違ってオカルト的な要素があって面白いとも思う。
だが、やっぱり専門外だ。その印象はぬぐえない。なぜだろう。いったい何が他のギャンブルと違うというのか。この博打だけが、いづるにはどうしても馴染まない。
ふと気配が背後から消えているのに気づいて、新聞を顔の前からおろすと、火澄が上目遣いでいづるを見上げていた。
「あの……わかりづらかったですか、兄さん?」
咄嗟に、言葉が出てこなかった。
氷の隙間に満ちた酒のように輝く赤い瞳に、心を根こそぎ奪われていた。
奪われたまま、それでも自動的にセリフが喉から出てくる。
「いや、そんなことない」
「……? 兄さん?」
「次のレース、ちょっと賭けてみようか。試しにね。まだレース数はたっぷりあるみたいだし」
そして火澄の瞳から逃げるように振り返って、
「門倉いづるだな」
馬の頭をした巨漢に、肩を掴まれていた。
「一緒に来てもらおう」
(つづく)