Neetel Inside ニートノベル
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 馬頭鬼(めずき)に首根っこを掴まれて、いづるはずるずるとスタジアム内を引きずられていった。焼肉を焼いた後の金網みたいに汚れた床をいづるのマラソン上等のスニーカーがこすっていく。左手で無造作に掴んだ太刀が人物問わずにぶつかりまくってがちゃがちゃ音を立て、周囲からはいぶかしげな視線が向けられている。
 火澄にはその場で待っているように言っておいた。彼女には関係のないことだし、その場で成敗されていないことから、どうやら話し合いの余地はありそうだと踏んだからだ。
 火澄は胸に電介を抱いて、母親が赤ん坊にそうするように、そのふくよかな肉球のついた手をいづるに振ってみせた。電介はされるがまま、半分寝ていた。
「で、僕はどこに連れて行かれるんだ?」
 いづるは精一杯の抵抗として身体をぐったりさせながら、
「きみと違って忙しいんだ。遊び相手なら他を当たってもらおう!」
 馬頭鬼はちらっとそのテニスボールほどもある目玉をいづるに向け、また無言で前に向き直った。軽蔑したらしい。いづるはおとなしくすることにした。
「連れてまいりました」
「ああ」
 どん、と馬頭鬼に乱暴に背中を押され、いづるはたたらを踏んだ。よほど振り返って文句のひとつも言ってやろうかと思ったが、馬頭鬼はすでに群集に紛れ込んだ後だった。案外、取って返して券売所にでもいったのかもしれない。
 顔を上げた先に、牛頭天王がいた。
 あの世の元締めは、壁にめり込むようにして設えられたバーのカウンターに巨体を納めて、グラスをつまんでいた。9Lの袈裟を着て、金属の環が先端につけられた杖はいまは脇に立てかけられている。
「よう」牛頭天王はちらっといづるを見て、「座れよ」
 いづるは少しだけ逡巡してから、ストゥールに腰かけてバーテンに「ミルク」と言った。やはり骸骨のバーテンは軽く頷くと、張った水のように綺麗なグラスにミルクを注いでくれた。牛頭天王は何も言わなかった。
「で、何の用」といづる。
「別に何も、って言ったらどうする?」
「どうもしない。ミルク飲んで帰る」
 牛頭天王はぐっふっふっふと地響きのように笑った。
「そんな時間がおまえにあるかな」
「何?」
「死人だろうが、おまえは……」
 牛頭天王はショットグラスの中の酒を一気にあおった。茶色い液体が臼歯の隙間からこぼれる。
「まァ、そうだね。でも、あんたにいま消されなければ、もう少し長くいられるだろう」
「別に消しやしない」
 いづるは首を振る。
「どうして? 僕はあんたの敵だぜ」
「敵なのか? あんな悪戯、俺は気にしてないよ。おまえを探させてたのは、これを返したくてな」
 そういって、牛頭天王は袈裟の懐から桐の箱を取り出し、バーテンの真似をしてテーブルの上を滑らせた。いづるはそれを受け取って、ふたを開ける。花札が入っていた。念じるだけで絵柄が変わる土御門の花札だ。そういえば、畳に散らかしたまま出てきてしまったのだった。
「ありがとう」いづるはふたをしてそれをポケットに突っ込み、
「わざわざ返してくれるなんてね」
「とっておいても邪魔だからな。ああ、それはもう解呪されてるからただの花札だとさ」
「なんであんたにそんなことがわかる」
「うちのやつが言ってたんだよ」
「うちのやつ?」
「ああ。陰陽師なんだ。何かと俺の世話を焼いてくれる。牛の頭はしてないが」地響き。
「陰陽師なのにあんたの味方をしてるのか?」
「悪いか」
「べつに」
 仮面のおとがいを持ち上げてミルクを飲む。牛頭天王がじっと瞳にそんないづるを映している。
「あんた、ひょっとして僕と友達になりたいのか?」
「――――」
 牛頭天王はいづるから顔をそむけずに、ショットグラスを口に運んだ。
「どうしてそう思う?」
「あんたは僕に気を遣ってるみたいだからね」
「俺が? ――そうかもな。不思議だな。自分でもいま気づいたよ」
 乾いた笑い。
 遮るように、
「でも、悪いね」
 空になったグラスが、曇りひとつないカウンターを強く叩く。
「僕は友達は作らない。あんたは僕の敵だ。だから、このミルク代は自分で払うのさ」
 ごそごそと制服の下に着込んだパーカーを漁って、小銭をいづるはカウンターに置く。牛頭天王が、その小銭に話しかけるように言う。
「ずっとそうやって生きてきたのか?」
「うん」
「友達を一人も作らずに?」
「いや、一人だけいた。でもそいつは特別だ」
「どう特別なんだ」
「そいつといると安心できたから。そういうもんなんだろ、友達っていうのは」
「どうかな」
 いつの間にか、喧騒がスタジアムの中から外へと転じていた。バーのそばには誰もいなくて、遠くから熱気と怒号の乱反射だけが寂しく届く。
「どうかな、ってなんだよ」
「おまえに友達なんかできるわけがないと思って、な」
「――――」
「おまえが安心できたっていうなら、それはきっと、そいつが」
 沈黙。
「――なんだよ」口調が意図せずに荒くなる。「はっきり言えよ」
 牛頭天王はショットグラスの中の、揺らめく反転した世界を見つめながら、
「それはきっと、あんたがそいつを、敵としてさえ見られないほど侮っていたからだよ」



 ワァァァァァァァ――――



 どこか遠くで、ひとつのレースが終わったらしかった。いづるはカウンターに片肘を乗せて、拳を握り締めたまま、動かない。
「侮っていた? 僕が首藤を? ふざけるなよ、そんなことない」
「具体的にどう、ないんだ? おまえこそはっきり言ってみろ。普段の威勢のよさはどうした」
「あいつは、僕よりも」
 あるはずの言葉に、頭の中の手が届かない。掴もうとすればするほど、記憶の中に確かにあるはずの思いが零れ落ちていく。
「僕よりも――」
 僕よりも、なんだというのか。
 強い? まさかそんなこと言えるわけもないだろう。背中に張りついたもう一人の自分が囁く。だっておまえは自分が一番強いと思っているんだから。そうだろ? 誰のことも認めてやれずに腹の底じゃ誰も彼もを鼻で笑っているのさ。どいつもこいつも馬鹿だと蔑んで、ぐるりとてめえの周りを囲んだ孤独っていう薄くて柔らかい膜を冷めた目で眺めているのさ。
 出られないくせにな。
「僕よりも、人間らしかった」
 苦し紛れに出てきたセリフがそれか? 人間らしい? いったい何を取って人間らしくてそうじゃないかを区別してるんだ。友情愛情人望人徳どれも数値化できやしないってのによ。なんにせよおまえは人間らしさとかいうのをさも美徳みたいに言っているが、本当にそれが自分の持っているものより上等だと思っているのか? おまえはあの桜の木の下で、首藤相手にへらへら笑っているとき本当に一度も思ったことがないのか?
 自分は、こいつじゃ死んでも届かない高みにいる――って。





「首藤はいいやつだった。僕のたったひとりの友達だった。僕には友達がいたんだ。正真正銘の友達だ。たとえあいつが、そうじゃないって言ったって、僕はあいつを友達だと思ってる――」
 言葉が上滑りして、価値を失っていく。わかっていながら、いづるは喋ることをやめられなかった。首藤と交わした言葉を、思い出を、聞かれてもいないのに洗いざらいぶちまける。それは無実を訴える釈明に似ていた。
 ――僕は友達は作らない。
 そんなことを言っていられたのも、本当の友達っていうものがいたからだ。保険が張ってあったからだ。だが、牛頭天王の問いかけはいづるの奥深いところにある欺瞞を粉々に吹き飛ばした。
 もし、それが真実なら、自分は欠片ほども人間らしい生き方をせずに死んだことになる。友情だと思っていたものが一皮剥げば単なる優越感。
 いまさらになって、怖くなった。
 何をそんな動揺している――鼓膜の近くで誰かが言う。逆に聞こう。どうして動揺せずにいられる?
 あの思い出があったから、死んでものほほんとしてられたんだぞ。
 あの記憶が支えてくれていたから、消えてもいいって思ってたんだぞ。
 それが――
 結局――
「僕は正しい」
 身体を膨らませるようにして、いづるはやっとのことで言い放った。
「間違っているのは、あんただ」
「指が震えてるぜ」
「震えてない」
「どうあっても、認めないんだな、自分の有様を。自分で言ったんだろ、敵しかいないって」
「違う――」
「滅茶苦茶だな、もう」
 エンジンを空ぶかししたような深いため息をついて、牛頭天王は腰を上げた。杖を手に取り、しゃらんと遊環が鳴る。いづるは貼り付けられたテクスチャのように、ストゥールに座ったまま、
「どこにいくんだ」
「帰るんだよ」
「賭けに来たんじゃないのか」
「賭け? 俺はそんなことしない。受けるだけ。自分から仕掛けたりしない。待ち続けるだけだ、敵が向こうからやって来てくれるのを。――あんたと逆だな。あんたは、周りをみんな敵だって言ったが、違うよ」


「あんたが敵なんだ、全部の」


 じゃあな、と牛頭天王は軽やかにいって、小地震を起こしながら去っていった。いづるは空になったグラスを握り締める。グラスにゆっくりヒビが入っていって、砕けて、血が流れ出しても、いづるは拳をほどかなかった。
 少し、時間が経って。
 その手に、ふにゅ、と何かが当たった。拡散していた意識のピントが合う。
 火澄が立っていた。心配そうな顔をして。手に当たっている柔らかいものは、火澄の傀儡と化した電介の肉球だった。
 いづるは何も言わなかった。火澄は隣に腰かけて、割れた食器を見るような顔で、いづるを見る。



 何も言えない。
 何か一言でも言えば、もう二度と立ち上がれない。
 だから、その前にいづるは席を立って、背中を向ける。
 何も言わずに。





 ○






 通路を抜けると、夕焼けだった。ちょっと隣町で戦争でも起きていそうな、赤い空。
 スタジアムは喧騒に包まれている。
 段差になった観客席は異形たちで埋め尽くされ、その向こうに、土が剥き出しのトラックが広がっている。いまは、そこには誰もいない。次のレースまでは少しばかりの猶予がある。
 火澄に手を引かれて、空いている席に座らされた。押しつけるように予想紙を手渡される。
「はい、がんばって」
「うん」
 と生返事してみても、予想紙の見方だってわからないのに頑張るも糞もないのだった。陰陽師――競神では『式打』というらしい――の名前で気に入ったやつに張ってみようか――などと考えていると、視界の端に見知った後ろ姿を見つけた。
 血のような赤いブレザーと、荒々しく波打った金髪。本名は知らないが、そんなことは大したことではない。いづるは新聞を四つに畳んで、席を離れようとしたが、火澄に制服の袖を掴まれる。
「あ、待って。一緒にいきます」
「いいよ、すぐ戻」まで言って、別にいいかと思い直し、妖怪たちの膝前を通って客席を分断する階段まで出た。赤ブレザーはいづるたちのいる段の最前列にいた。飛び出し防止の柵に重ねた両腕を乗せて、お気に入りのプラモデルでも鑑賞するようなラフなたたずまいで、下方の客席とその先のダートコースに仮面を向けている。一人きりかと思ったが、近づくにつれて、話し声が聞こえた。どうも柵の下の段にいる妖怪と喋っているらしい。
「――さか穿崎のアタマとはなァ。鷹城と墓畑の銀行(=結果の予想が堅いレースのこと。鉄板レース)だと思ったのによ。さすがだなァ、千里眼のあだ名は伊達じゃねえんだな」
「ふふん、俺と知り合いでよかったろ? なかなか出せんぜ、俺の的中率は」
「おうよ。で、分なんだが――」
「いいよ、いいよ、俺とタンちゃんの仲じゃないか。分け前なんて気にするな、俺は独り言をこぼしただけなんだから」
「――いやァ、ほんとにおまえって、いいやつ」
 それで会話が終わって、赤ブレザーは首をもたげて夕焼けを見上げた。白い仮面に、はるか彼方で沈もうとしている夕陽の波長がコピーされ、光と影がゆらめき、燃える。
 そして、自分の背後にいつの間にか二人の気配があることに気づいた。
「――よう、また会ったな」
「そうだね」といづる。
 火澄がまた袖を引く。その顔には警戒心が強く表れている。
「誰……?」
「ちょっとね」
「おまえが残ってるってことは」
 赤ブレザーは寝返りを打つように背中を柵に預けて、
「サンズは消えたか。まァそうだろうな。あいつは残れるほどタフじゃなかった」
「いや、たまたまさ。僕がツイてた」
「ツクとわかってて賭けてりゃそれはたまたまなんかじゃねえよ。――俺は、あんたが勝つって信じてたよ」
「――そりゃどうも。どっちが勝っても狩るって言ってたくせに」
「ああ。でも、あんたと勝負(や)る方が楽しそうだ、とは思ってた……」
 赤ブレザーの仮面越しの視線が、いづるの持つ予想紙に据えられた。
「競神やるのか」
「そのつもり」
「教えてやろうか」
「え?」
「初めてなんだろ? 賭け方もろくすっぽわからないはずだ。俺も最初はそうだったからな。わかるよ。そう……基本のアロハくらいは誰かから教わらないとな?」
 何かを待つような間があって、
「……イロハ?」と火澄がおずおずといった。
 赤ブレザーはくすぐったそうに笑う。狙ったらしい。まんまと釣られた火澄がぎりりと歯軋りをする。
「僕を狩るつもり、なんじゃないのか」
 赤ブレザーは肩をすくめて、
「そうだよ。だから教えるんだ。手取り足取り神券(かみ)の買い方から張り方流し方、何を見て何を思えばいいのか、仕込んでやるよ、土台だけはな。そうして、すっかり自信をつけて俺に挑んできたおまえを――喰うんだ」
 赤ブレザーは答えを待っている。
 悪い話ではない。さっきのやり取りからして、赤ブレザーは他の妖怪たちにも一目を置かれる馬券師、いやあの世風に言えば神券(かみ)師であることは容易く窺えること。コーチとしては相応だ。そしていづるには致命的に情報が足りていない。
 そう、悪い話では決して、
「その必要はありません」
 言ったのは火澄だった。
 唖然としたいづるのうしろから、化粧を施した顔に嫌悪と侮蔑の色を混めて赤ブレザーをにらむ。
「兄さんには私が教えてあげるんです。ヤンキーなんてお呼びじゃないです」
「や、ヤンキー……?」赤ブレザーは左手で制服の胸元を押さえ、右手でメッシュ気味の金髪をかき回す。
「ひどいな。俺、生きてた頃は無遅刻無欠席で皆勤賞もらったこともあるんだぜ?」
「聞いていません。兄さん、いきましょう。ここは空気が悪いです」
「最上段だぞ!? ここより風通しのいい場所なんかねえよ! おい門倉、なんとか言えって」
 いづるが黙っていると、
「あ、この野郎、女の子には逆らわない気だな! よしわかった、じゃあこうしようぜ、勝負をしよう。それで白黒つけるんだ」
 まだこいつ喋るのか、とうんざり顔になって、火澄が振り返る。だから兄さんはまだ来たばかりで式神もなにもまだ見てないし準備と予習が必要で
 門倉じゃない。
 赤ブレザーが言う。
 その仮面の向こうで、きっと少年は笑っている。


「――あんたと俺が勝負(や)るんだよ」


 階段をどんどん登っていた火澄の草履が、ぴた、と止まった。

       

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Neetsha