ある日、玄関をくぐって家に帰ると、花柄のマットの上に桔梗が正座しているのに出くわして、光明は思わず声をあげるところだった。家柄の関係で幽霊やら妖怪やらには頻繁にお目にかかるが、それはほとんどあの世でのことである。許婚が罪人のように頭を垂れて玄関先で小さくなっていても動じないタフさは、このときまだ身につけていなかった。
「……光明?」
桔梗は、なぜかモスグリーンのパジャマの裾を捲り上げていて、その両手足はしっとりと濡れていた。
「なにやってんの、おまえ……怖いんだけど」
「…………。来て」
襲いかかるように光明の学生服の裾を掴み、桔梗は電灯の点いていない昼下がりの廊下をずんずん進んでいった。光明はわけがわからずされるがままに連れられていった。
和洋を問わず、絵という絵がアトランダムに貼り付けられた廊下を渡っていった先にあったのは、風呂場だった。いまはガラス戸が閉まっている。どうやら桔梗は風呂掃除の途中だったらしい。
「おまえ今日風邪で学校休んだくせに何働いてんだよ。寝とけよ」
桔梗は何も言わない。青ざめた横顔を俯けて、魅入られたように脱衣所の床を見つめている。様子がおかしい。
光明は、
「……風呂場になんかいるのか? ゴキブリでも出たか? でもおまえ虫は平気だっ」
閉められた戸に手をかけ、
「たじゃねえ」
静かに、開いた。
「か…………?」
足元に誰か倒れていた。
モスグリーンのパジャマを着て、袖を捲り上げた、髪の長い少女が、
「え…………」
頭から血を流して、倒れていた。
そばには踏まれでもしたのか、割れた石鹸が石をあしらったタイル床に転がっている。少女の頭部から溢れた血が、石鹸のヒビの隙間に流れ込んで、縁がうっすらと桃色の染まっていて、
わけがわからなくなった。
振り返ると桔梗がいた。倒れている桔梗と同じパジャマ。同じ髪型。同じ顔。
同じ、傷。
どうして気づかなかったのだろう。いや、いまになって溢れたのか。
どこか虚ろな表情で立ちすくんでいる桔梗の額からも、血がつうっと伝い、それはやがて壁を渡る雨水のように止まることなく流れ出し、彼女の顔を真っ赤に染めた。赤い赤い顔の中で、見開かれた白目だけが、吐き気がするほど白くて、
「あた、あたし」
「…………」
「お、風呂そう、じ、して、してたら……よろけちゃ……って……」
「……………………」
「そしたら……そしたら……」
「………………………………」
いつからそこにあったのだろう。
脱衣籠の中に、光明には見慣れた、あの白い仮面が入っていた。
それは息が聞こえるほどすぐそばで死者が出た証。
死者が、自分を忘れて無に帰すための仮面。
そして、それが現れた以上。
それが、そこにある以上。
死者がいるのだ。
すぐそばに。
それは、きっと、本当に、
ぞっとするぐらい、近くに――
手を取った。
桔梗がびっくりしたように身を強張らせる。もうそんな身体など、本当はありもしないのに。
――そうはさせない。
「助ける」
「……え?」
「死なせない。死ぬはずがない。こんな、こんなくだらないことで――」
「みつ、あき……」
桔梗の横を通り抜け、風呂場に倒れている桔梗の膝に手を入れて抱きあげる。が、一息で持ち上がらなかった。ぐったりしたその身体は弛緩しきっていて、
認めない。
「蔵に運ぶぞ」
「え? ……え?」
答えも聞かずに光明は脱衣所を飛び出した。全力で駆け出したい気持ちをなんとか抑え込み、一刻も早く忌むべき場所から逃れようとした。後から足音がついてくる。
もし、ここに誰か土御門家以外の人間がいたら、霊感というやつを備えていないものがいたら、それは本当に、ただの足音だったのだろう。
足音が言う。
「み、光明ちょっと待ってよ。蔵に行ってどうするの?」
「身体が残っていればまだ望みはある。俺はこれから奥多摩の倉橋さんちにいってくる。あそこには古い文献が手付かずで残ってる。それを漁れば何か方法がわかるかもしれない」
「え、で、でも倉橋さんちが保管してるのって……見たりやったりしちゃいけないものなんじゃ……」
「そんなことはどうでもいい。おまえはなにも考えなくていい」
蔵に辿り着いてから南京錠がかかっていることに気づいた。鍵を取りに母屋に戻るのももどかしく、光明は制服のポケットから式札のデッキを取り出して、一枚抜き取った。それを軽くスナップで南京錠めがけて放ると、札に封じられていた金属で出来た魚が飛び出し、
――キィン
鼻面で南京錠を両断した。ぼとりと真っ二つにされた錠が落ちるのも待たずに光明は扉を開け放った。下ろしていた桔梗の身体を再び抱き上げると、地面に寝かせていたため、髪に土くれがこびりついていた。舌打ちしてそれを払う。
「あ、ありがとう」とそばで見ていた桔梗が言う。
「……。ああ。それよりおまえ、その仮面……」
光明は桔梗が手に持っている白い仮面と彼女の顔を交互に見て、
「絶対に被るなよ。おまえが死者であることが確定するからな」
「わ、わかった」桔梗はこくんと頷く。
「それとな」光明はぷいっと顔を逸らして、
「顔の血、拭け」
「え、わっ! べっとべと……」
光明は許婚のまだ暖かい身体を抱え直し、蔵の中に入った。桔梗が背後でわあわあ言いながら顔についた血と格闘しているのを聞いて怖くなる。気を抜くと普段通りの、日常そのままの、桔梗の間の抜けた声。
もうすぐ、
そんな声も、
聞けなく
認めない。
蔵の中は入り口からの陽の光で薄暗いながらも視界には困らなかった。埃が分厚く積もっているが、雑然とはしていない。置いてあるのは中華風の赤い塗装がなされた箪笥が多いが、竹で編まれたもの、桐の箱などもある。なんにせよ中身がそのままぶちまけられているようなことはなかった。だが、かえって物資が散乱していてくれた方が初見で発見できたかもしれない。光明は片っ端から箪笥を空けて中を確かめていく。和綴じの本や巻物、高級そうな布、新品同然の見事な食器類。どれも光明の求めているものではない。ふと横を見ると、桔梗が手伝おうとして箪笥の取っ手を掴もうとしては失敗していた。いくらもがいても、桔梗の白い手は、取っ手を綺麗にすり抜けてしまう。まるでそんな箪笥は幻かのように。
しかし実際のところ幻なのは
「――うるせえんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
――蔵のどこかで、壊れ物が砕ける音がした。
光明の呪力にアてられたのだ。
光明の怒鳴り声が静まってからも、どこかでその声が、まだわんわんと反響しているようだった。
苦しげに顔をゆがめた光明は、
「手伝わなくて、いい」
やっとのことで、それだけ喉から搾り出した。桔梗の顔は見れなかった。
「……あった」
いくつめの箪笥を暴いたあとだったか、光明の手には日本酒のびんが握られていた。中には透明な液体がゆらゆらと揺れており、まだ箪笥の中には五、六本同じびんが詰まっていた。どのびんにも『反魂酒』と貼ってある。
反魂。すなわち死者蘇生。
名前負けもいいところだ。光明はびんの口を潰しそうなほどに強く握る。これはただの防腐剤に過ぎない。そもそも酒でさえない。嘘ばかりだ。見かけ倒しの役立たず。
だが、そんなものでも今は必要だ。
光明は引き出しを根こそぎ引き出して、ただの箱にした箪笥を倒し、その中になみなみと反魂酒を注いだ。桔梗の見守る前ですべてのびんを空にした。
「この中におまえの身体を入れておく。この蔵の中に置いておけば、腐らないし、発見もされないだろう」
「どうして隠すの……?」
「親父や爺たちにバレたら俺は拘束される。おまえを生きか……助けることができない」
「光明……」
「悪い、服を脱がす。全身が液体にまんべんなく触れてなくちゃいけないから……」
初めて見る許婚の裸体にも、なんの感慨も抱かなかった。いや、意志の力で無理やりそうさせたのだ。そうしなければ、弱い自分の心がこの世で最も邪悪な醜さを発露しそうだった。
「恥ずかしい……よ」
桔梗は頬を染めて、光明と横たわった自分の身体から目を背ける。
「悪い」
光明はそんな彼女にフォローを入れてやることもできない。
身体を箱に詰め、手ごろな板でフタをし、目立たない箪笥同士の隙間に引きずって隠した。
「これでいい。これで……桔梗、おまえもここにいろ」
「うん……でも、光明……」
わかっている。
なにもかもわかっている。
桔梗が死んだことも。
死者を生き返らせることが禁忌であることも。
ぜんぶわかっている。
それでも。
「桔梗……」
光明はやっと、桔梗の目をまっすぐに見つめた。普段よりもどことなく青みがかった、瞳。
「俺はおまえを絶対に助けてやる。おまえは何も心配しなくていい」
「みつ――」
「――だから、何も言うな。何も」
光明は火が点いたように蔵から駆け出した。晩秋の空の赤を暗い雨雲が喰い尽くそうとしていた。
なんとかしなければならない。
なんとかしなければならない。
絶対に、諦めてはならない。
彼女の魂の残高が尽きる七日後まで。
彼女の肉の腐敗が始まる七日後まで。
それまでは、ただ弾丸のように、走り続ける。
○
結果は、失敗に終わった。
○
倉橋家に辿り着けなかったか。あるいは父親たちに発見されたか。あるいはまだそちらの方がよかったかもしれない。時間さえあれば、光明ならその程度の苦難は軽々と対処しおおせたかもしれない。
問題は根底にあった。
光明は奥多摩くんだりの山奥にひっそりと建てられた倉橋家の蔵にいた。土御門家にあったものとほぼ同一規格のものだ。
同じように<鋼魚>で南京錠を壊し、家人の出払っている昼過ぎに忍び込んだときなど、中で桔梗が待っている幻さえ見た。光明は参っていた。参りながらも突き進んだ。
桔梗を助けなければならない。
その一心で、光明は倉橋家の衛兵三人ほどを戦闘不能に追い込み、自身も左腕に激しい裂傷を負いながら、やっと手に入れたのだ。
光明と同じ顔を持っていたはずの男、安倍晴明の残した生と死と魂に関する文献――魔道鏡(まどうきょう)。
その和綴じの本、一見すると日記かと思うようなあっさりした装丁のそれを手に入れたとき、光明は心の底からこの時代に生まれたことを感謝した。もしまかり間違って六十年前、血の匂いで溢れ返っていた時代であったらこうも容易く一千年もの間保管されていた禁書を盗むことなどできなかっただろう。
――これは運命だ。神か仏かご先祖さまか、誰でもいいがとにかく俺に、あの哀れな桔梗を助けろと仰せのことに違いない。
祈るように、魔道鏡の最初の一頁をめくった。
――魂とはこれ消耗品なり。そして死は、この森羅、その万象において、魂の融解なり。溶け出したものは再びおのが形を思い出すことはなく、ただ流れ、補えども補えども滑落するばかりなり。
――この森羅、その万象において、死者の蘇生、というものを目指し、数多の導師、無数の法師たちが夥しいまでの労を重ねてきた。して、我はここにその結論を記すものである。
――死者、その溶解を止めるすべを持たず、またすべきでもない。
――死を遡る、ということは輪廻に反する。それすなわち、木が金を切り裂き、金が火を溶かし、火が水を消し、水が土を汚し、土が木を吸い取る、五行反転の世界なり。
――その世界ではあらゆるものが逆転し、なにひとつとして未来へ進むことあらず。
――よって、死者を生者へとなさんとすことあるべからず。
光明は震える指でページをくる。
読み進めていく内にその内容が、思わず口をついて零れ出す。
――だが。
――死者を死者にさせ続けることはできる。
――ひとつ目は、魂の補填。死して有から無へと進み続けるその速度を超える速度、浄化されていく量を上回る量の魂を永遠に補填し続けること。しかしこれは日を負うごとに負担する魂の量が無尽蔵に増えていく。所詮、夢物語の術である。
――ふたつ目は、まだ生きている人間の肉体への死者の魂の注入。これは禁忌であり、犯したものを発見し次第、導師は必ずこれを討たねばならない。が、実際にはほぼ生きている側の人間の魂が勝つ。また死者側の魂が辛うじて勝利したとしても、記憶や人格に甚大な障害が残る。実際に行われた事例では、蘇生者はいずれも二晩もたずに狂死した。
――三つ目は、死体への魂の定着。まだ死者の肉体が残存していれば、その身体に死者の魂を注入する。ただしこれは蘇生ではない。あくまで肉体は死亡したまま。死体である。腐りもすれば体液も漏らす。その上、いつ鬼へと変化するか知れたものではない。手軽さからか、この禁忌に手を出すものは多く、自分も何人の術者を始末してきたか知れない。
――鬼について。
――鬼とは、死して後に強い情念に駆られ、おのが消滅を認めることができず、魂が励起状態になり、永遠の存在になったものである。しかし、本人の記憶と人格は完璧に破壊され、その行動は好戦的な昆虫に似たものとなり、陰陽師か、秩序に好意的な妖によって退治されるのが常である。鬼になれば、本人の形をした霊魂が永遠を手に入れはするが、それは決して蘇生でも不滅でもない。輪廻の環からも逸脱するため、鬼となった魂は他の妖たちの手に渡りその一部になることもなく、完全に消滅する。鬼は人の成れの果てであり、妖ではない。一説によれば、妖どもは魂の循環器であって、新たに生れ落ちてくる赤子の魂は彼らを介している、という。真偽のほどは定かではない。
――ある意味で魂だけの存在であり永遠に在り続ける彼ら妖は、ひょっとするとただの自然現象か、あるいは、この森羅万象の円環を支える支柱、のようなものに過ぎないのかもしれない……。
――いずれにせよ、死者の蘇生など試みるものではない。それは理に反する。この美しき統合された環を乱すことはしてはならない。それを壊すのは『我』に他ならない。そんなものひとつ制御できぬのなら、これを読む君よ。
――恥じよ。
光明はふうっと息を吸うと、魔道鏡を力いっぱい壁に叩きつけた。和綴じの禁書はばさっと情けない音を立てて、床に落ちた。
傷ついた左腕を、傷が開くほど強く握り締めて、光明は呟いた。
「蘇生の手段が……ない……?」
頭の中で激情が炸裂した。そんなことあってたまるか。いったいなんのための呪い屋家業なのだ。ずるをするためだろうが。理とかいうやつを捻じ曲げるためだろうが。なんだかんだと理屈をつけて、極力ずるを避けはしても、本当に必要になったらちゃんと使える力。
俺が求めているのはそういうもの。
倫理も道徳も超えたもの。
ないじゃ済まされない。いったいなんのために生きてきたのだ。学んできたのだ。一千年後の子孫にまで崇敬されておきながら、いったいどういう体たらくだ。空っぽだ。嘘っぱちだ。てめえらなんぞ偽者だ。いんちき屋ならいんちき屋らしく最後の最後まで騙し抜け。
いくら叫んでも本は答えず、死者は語らず、桔梗を救う手段は見つからない。
暗い蔵の中に光明の荒い呼吸だけが響く。
和綴じの本を拾い上げ、その表紙を穴が開くほど見つめる。その先に広がる一千年前の世界とそれを見たはずの自分と同じ顔をした男のことを思う。
そして、一つの結論に辿り着いた。一千年前の男にできず、今の光明にはできること。
――冷凍保存。
いつか遠い未来で、五行の理を打ち破る呪術師か、それとも科学が不死の領域に踏み入るまでの様子見。
それしかなかった。幸い、土御門家には金は唸るほどある。漫画家の印税のようなものだ。首都東京を建設したときの口ぞえ、そしてその後の発展の裏地主として、土御門家は国からの援助金を受けている。いまどきオカルトマニアしか知らない知識だが、東京は呪の礎の上に建設されたのだ。その効能がどれほどのものだったとしても、栄えている間はたかり続けられる。
光明は魔道鏡を鷲づかみにして、ふらふらと倉橋家の蔵から立ち去った。
○
三日ぶりに故郷の改札を通ると、晩夏のぬるい風に頬を撫でられた。それがなんだか光明の苦闘をあざ笑う、なにかとてつもない、大いなるものの掌のように思えて仕方なく、服の袖で赤くなるまで風の触れた箇所をぬぐった。参っている。それはわかっている。帰ってくる途中で魔道鏡を落として無くしたあたりから、もう心と身体がまともに機能していないことには気づいていた。一睡もせず、食事も取らず、それなのに不思議と苦しくない。死ぬことを身体が求めているようだった。
だが、まだ死ねない。
せめて、桔梗の身体を冷凍施設に運び入れるまでは。
霊験あらたかな反魂酒とていつまでも桔梗の身体を保っていてはくれない。
まずは桔梗の魂を消滅しないように肉体に定着させる。ゾンビ状態になるわけだが、この際、気味の悪さなど言ってはいられない。彼女を凍らせて、送り届けなければならない。
無限の時間の向こう、なにもかもが報われる何万年も先の未来に。
きっとそこは、自分なんか居心地が悪くなってしまうような、綺麗な世界。
桔梗によく似合う、穢れも淀みもない終わらない国。
ああ、そうだ。
桔梗の死はそのための切符なのだ。桔梗は死ぬべくして死んだのだ。その国へいくために。一度いったらもう、戻ってこようなどとは考え付かなくなるような、いいところ。
なんだ、なんてことはないじゃないか。わかってみれば笑ってしまうほど単純な話。
俺も、運命に導かれた、その切符の一部だったのだ。
○
戻ってみると、蔵がなかった。
残っていたのは、何本かの柱と崩れた外壁だけ。中にあったものは根こそぎなくなっているか、黒こげになって放置されている。風が吹くたびに黒い粒子がさらさらと宙を漂った。
光明は、かつて蔵の扉があった場所の前で、神を前にしたように立ち尽くした。何が起こったのか、すぐにわかったが、それを脳が言語化することを拒んでいた。
そばで誰かがすすり泣く声がした。恐怖はなかった。振り返った。
蔵を取り囲む木立の中に、仮面を被った少女が立って、その白い面を両手で覆っていた。
「み、っ、みつあ……き……」
「…………」
「みつ、光明、が、い、行ったあと、に、こ、こげ、焦げ臭いにお、いが、し、し、してき、て……」
「…………」
「ぜん、ぶ、燃え、燃えちゃ……た……」
――呪気だ。
強い気を持つものは、感情が昂ぶることで、時々周囲に電撃のようなものを放つことがある。滅多にいるものではないが、稀にそういう才覚を持つものがある。光明もそうだった。気性が激しい呪術師に多いと聞く。
あの時。
蔵の中で、自分の内なる声に対して怒鳴った時。
ただでさえ、封印されていた呪的な道具が集められていた場所で、自分は心を解き放った。
あの時のあれが、何かの火種を作ったのだ。
そして、蔵は燃えた。
書物も、巻物も、食器も、絵画も、
死体も。
「ああああ……」
おそらく、両親も、祖父も、すべての事情をすでに了解しているのだろう。だから何も言ってこなかったのだ。光明の取るいかなる行動も状況を変化させうるものではなくなった以上、取るべき連絡もまたありえない。
死体はすでに、処分されたはずだ。
桔梗の魂を何かに定着させることは、不可能になった。
「こん、な……」
未来へ希望を投擲することはもう叶わない。
桔梗は一週間後、両替され、鮮やかな硬貨へと変わり果てる。赤、黒、銀、金、その魂の強さと美しさを基準にして。
光明は、その場に膝をついた。もう二度と、立ち上がれる気がしない。
「ち……くしょ……ぉ……」
どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。
どうして桔梗なのか。
どうして、何も知らない愚者でいられなかったのか。
まだ希望があったかもしれない、その可能性を知った上で、それを奪われなければならなかったのか。
持ち上げてから落とすなんて最低だ。なんてひどいやつがこの世界盤を回しているのだろう。八つ当たりとしか思えない。悪意が絶対に介在している確信が持てる。
「光明……」
肩に優しくて冷たい手が載せられる。光明は、奪うようにその手を取った。
「絶対に許さねぇ……こんな、こんな目に……遭わせたヤツを……俺は……」
桔梗の死が事故死だったこと、光明の呪気が無自覚に火災を起こしたこと、そんな事柄はどうでもよかった。
それでも誰かのせいなのだ。絶対に誰かのせいなのだ。それが人でも神でも運命でも。
許しては、おかない。
光明の中で、どす黒い情念が溶解し、そして再び凝結しかけていた。それは恨みであり、憎しみであり、悲しみであり、怒りであり――優しさだった。一度住み着けば、二度と宿主から離れぬ魔物。
光明の両眼に、かすかな火が点り、それがまさに燃え上がろうとしたとき――
ひしっ、と。
桔梗が、光明の背中に抱きついた。
思考が根こそぎ吹っ飛んだ。
「な……ん……」
桔梗は、光明の問いかけには答えずに、
「ねえ、もし、わたしが助かって誰かが死ぬボタンがあったら、押す?」
押すに決まっていた。
連打だ。
首に回された腕が、ぎゅっと力を増す。
「きっと、どこかで別の誰かがそのボタンを押したんだよ。だからね、わたしが生きてると、その誰かが助けたかった人が助からないの」
そんなことは関係ない。
誰が死のうと興味ない。
俺が助けたかったのは。
俺が一緒にいて欲しいのは。
「きっと不可避なんだよ。いつかね、どこかで、起こらなくていいこととか、不幸って、起こっておかないと世界がおかしくなっちゃうんだよ。起こりうることが起こらないのって、たぶん、歪んでるんだ」
やめろ。
おまえは、そんな風に頭使って喋るタイプじゃないだろ。
「でもね、それって、同時に、びっくりするような『奇跡』もいつか『起こる』って証拠なんだと思う。だってそうでしょ。起こりうるから起こる、それで誰かが不幸になるんだったら、幸福にだってならないと、やっぱりそれも、歪んでるってことで――」
「だ、からって、」
いつの間にか、涙声になっていたのは、
「おま、おまえが、死、んでいいことに、な、んか、なら――」
「うん。わたしもやだ。だってまだ、結婚してないもんね、わたしたち。わたし、光明の子ども産みたかったな」
こんなときだというのに、顔が熱くなった。
「な、なに言ってんだよ、桔梗――」
「一姫二太郎がいいっていうけどさ、女の子一人じゃ男の子二人にパワー負けしちゃったら可哀想だし、二姫二太郎がいいね。六人家族。うわあ、賑やかそうだなあ。でも、その分お母さんのわたしはきっと大変で、ね、たまにはスーパーのお惣菜がおかずでもいい?」
いいよ。
そんなん全然いいよ。
そんなの全部、おまえが好きにしたらいいんだよ。
「ねえ光明……わたし……いま、結構幸せだよ? だって、目を瞑って見える、あんなこんなの未来がさ、光明も、一緒に同じものを見てくれてるって、わかるから……」
だから、それだけで、いいんだ――
そんな風に言われたら、もう我慢できるはずもなくて。
胸の前で組まれた許婚の腕を折ってしまいそうなくらいに強く掴んで、
光明は、陽が沈むまで、泣いた。
○
見上げれば、雨が降っている。
常雨通りに晴れ間が覗くことはない。女の髪のような細い雨がしとしとと恨みがましく降り続け、光明はすっかり濡れ鼠になっていた。ふわふわだったおかっぱはぺったりと頭に張り付いて、水を吸った狩衣は怨霊のように身体にまとわりついてくる。
どこをどう走ったのか覚えていない。
ただ、逃げている。
なんのために?
胸に手を当て、懐に入っている持ち主のいなくなった白仮面と、袋に包まれた魂貨の形を確かめる。
桔梗は消えた。
つい数時間前のことだ。光明が苦心の末に桔梗が消える一週間の期限ギリギリで考案した、存在継続の術が、とうとう役目を終えたのだ。見ること、嗅ぐこと、聞くこと、味わうこと、感じること。そのどれかを機能不全に陥らせることによって、魂の消費率が低下することを光明は発見したのだ。
だが、五感を失って存在し続けて何になるというのだろう。それは、ひょっとしたら消えることよりも、怖いことなのかもしれないというのに。
結局、桔梗は喋ることのみを封印することを選択した。
稼いだ時間は半年間。
不思議なことに、桔梗が死んでから一緒に過ごした時間の方が、光明の記憶には鮮明に残っている。一緒にアトリエにこもって、なにをするでもなく、ただそばにいただけの時間。燃える暖炉と、揺り椅子に埋もれた桔梗。膝の上で組んだ手が、ゆっくり優しく、組み替えられるのを、光明はただ眺めていた。
それも、もう終わった。
なのに、どうして逃げているのだろう。俺の人生も、ついでに終わってしまえばいいのだ。
桔梗が消える寸前にやってきた飛縁魔と生意気な死人の二人に貸してやったインチキ花札のことが陰陽連盟に嗅ぎつけられ、目下、土御門光明はあの世の指名手配犯なのだ。
捕まれば、少なくとも二度と陰陽道の術を行使することは許されないだろう。指を切断されるか、記憶を奪われるか。
どっちだろうと同じこと。
もう桔梗はいないのだ。
「――見つけたぞ」
目の前で火花が散った。よろめいて壁に手をついてから、殴られたことに気づいた。木造建築の路地は光明がいる場所で袋小路になっていて、振り返った唯一の逃げ道の真ん中に、群青色の狩衣を着た男が立っていた。そのキツネ目には見覚えがあった。
「天墨(あまずみ)……」
「ほう、私の名を忘れていなかったか。……竜宮道場では世話になったな」
天墨は光明の返事を待たずに、
「ああ、同門の士と久方ぶりの再会を喜び合いたいところなのだが、悲しいかな、私はおまえの粛清を命じられていてね。残念だよ、君をこの手で始末しなければならぬとは」
「始末……?」
「ああ。おまえは十二の規約に違反し、二十七の法規を破っている。覚えがあるはずだ」
「裁判はなしか」
「無論、おまえのような人類に対する裏切り者にも司法へ身をゆだねる権利はある。だが、どうせ極刑か忘殺は避けられまい。なら、かつての友である私が処断してやろうというのだ。感謝するがいい。苦しまなくていいように一撃で終わらせてやろう」
「ははは」
光明はぴんときた。自慢のコレクションでも披露するように腕を振り、
「天墨、おまえいまだに肥溜めに突き落としたこと根に持ってるのか? 馬鹿じゃねえのか、小学生の頃の話だぜ」
天墨のキツネ目がぴきき、と震えた。
「……貴様は幼少の頃から社会的不適格者だった。なのに、先生方はみな、おまえがかの安倍晴明と同じ遺伝子を有しているからといって、貴様を特別扱いした。なにが生まれ変わりだ、なにが天才の復活だ。貴様のようなごろつきがそんなものであるわけがあるか!」
「つまり、この事態に乗じてツモりにツモった私怨を晴らそうっていうわけか」
光明は濡れて額にべったり張りついた前髪をかきあげて、にいっと笑った。
「知らなかったな。おまえと気が合うなんて」
「……なんだと?」
「俺もね、俺があのなんとかっていう偉い昔の人の生まれ変わりだなんて、信じてねえんだ。俺は俺さ。そう簡単に他人にされてたまるかよ」
光明の乾いた目が、天墨の手へと注がれる。天墨の指先が、腰に釣られた革製のカードケースにいまにも触れそうだった。やる気だ。
その時。
泣き続ける空の端で、稲光が起こって、二人を取り巻く世界が一瞬、閃光に眩んだ。
白い闇の中で、指が式札を繰る気配がし、先の尖った靴が水溜りを砕き、殺意の篭もった視線が交錯する――。
そんなさなかにあってさえ。
光明は、己がなぜ逆らい続けるのか、答えを出せずにいる……。