Neetel Inside ニートノベル
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 九回裏、満塁、残る打者はあと一人、そうここがいわゆる一つの正念場――とばかりに二人の陰陽師が同時に式札を宙に打ち放った。空中に貼りついた式札を中心にしてじわり、と周囲の光と色がねじれ、ゆがみ、そしてフィルムの逆再生のようにそれらが元と同じく収束すると、二枚の札の向こうから式神が召喚された。
 光明の札からはうねる水の筋肉で覆われたしなやかな虎が、天墨の札からはぬらぬらと光る土でできた意思を持つ蛇が現れ、式打たちが瞬きする暇もなく、二頭は真っ向から激突する。
 五行相克。
 光明の<水虎>が薄暗い路地にしぶきを撒き散らして四散し、その向こうから<土蛇>が光明めがけてその土色の口腔内を曝け出して突撃してくる。光明の手が咄嗟にデッキに伸びるが間に合わない。<土蛇>のあぎとが光明の胴体をくわえこみ、そのまま背後の土塀に叩きつけた。光明の喉から空気が漏れ、両目が限界いっぱいまで見開かれる。
 天墨が満足そうに口の端を歪ませた。<土蛇>はしっかりと光明のデッキをもその土顎の間に挟みこみ、光明が新たに式札を取り出すことは叶わない。
 式札を打てなくなれば陰陽戦は終結。あとは煮るなり焼くなり勝者の自由、
 の、
 はずだったが、
「――――」
 光明の手にはしっかりと二枚目の札が握られており、今度は天墨の目が見開かれる番だった。天墨は見たのだ。<土蛇>が土御門をそのあぎとに捉えたとき、やつの指はデッキに触れそうで触れられなかった。確かに見た。だから自分はいま勝ったと思っていられているのだ。だが、やつがいま二枚目の札を手にしているのもまた確かなこと。
 ならば、解答は逆算して一つだけだ。最初から札を二枚抜いていて、あらかじめ手の死角に保険のもう一枚目を隠していたのだ。手品用語で言うところのパームというやつ。
 これだ。これが気に喰わない。このしたたかさ、抜け目のなさが、
 気に喰わないんだ、どうしても。


 天墨が駆け出し、<土蛇>の胴体に足をかけた。動けない光明自身から二枚目を奪ってしまえば問題ない。光明はまだ式札を振りかぶった姿勢だ、振り下ろすまでにどうしても隙ができる。天墨は思い切り踏み込んで最後の距離を詰め、光明の式札に手を伸ばす。だが光明の方がこと一枚上手をいった。
 ぺっ、と。
 恥も外聞もなく光明が吐いた唾が、天墨の右目を直撃した。染みる痛みと屈辱に天墨が声にならない叫びをあげ、<土蛇>の縄文模様の浮いた鱗に膝をつく。
 その一瞬を奪って、光明が式札を自分を捕らえる<土蛇>めがけて式を打つ。瞬間、世界が切り替わったかのような違和感の後に、<土蛇>を食い破って顔を見せた樫の木が高速再生フィルムのように曇天へと主を枝に乗せたまま突き上がった。顔を覆いつつ見上げる天墨と枝から見下ろす光明の視線が再び交錯する。
 今度は光明が早かった。
 五メートルほどに成長した木から飛び降りた光明が空中で式札を抜き放ち、金属のツバメが天墨の脳天めがけて落下する。
 防げたのは、本当に日頃の鍛錬のおかげだけだった。
 光明は二枚目の式を打つことになる状況が、相克される土行の式であることを予測していた。つまり光明が追い詰められたとき、そこには土行があることになる。
 ならばそれを生かさない手はないのだ。
 土から掘り起こされるは金、そしてそれを相克するは炎の気。
 天墨が考える前に打った式札から炎のたてがみ翻す<炎狼>が躍り出て、迫り繰る<金燕>へと喰らいかかった。<金燕>は甲高く鳴きもだえ、どろどろに溶解してついには消え去った。天墨はしてやったりとほくそ笑む。これで、<金燕>を打ち破った<炎狼>はそのまま落下してくるいけ好かない土御門光明を火達磨に
 <金燕>の向こうに、光明はいなかった。
 <炎狼>はそのまま泣きやまない黒い空へと飛んでいく。炎狼が飛び去っていく間際、その熱風に梢がそよいだ。そして樫の木に、一度使われて白紙になった式札がへばりついているのを天墨は見た。
 背後。
 首がねじ切れそうな勢いで振り返る。デッキの縁に指が触れ、四十八枚になった式札のすべてが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。ぐーちょきぱーが五つあるじゃんけんの必勝法を考える。絶対に土御門光明を上回れるとっておきの戦法は、


 ない――――。


 読みも糞もない。また馬鹿のひとつ覚えで土に相生される金を打ってくるか、それとも土から生えた木に相生される火か、あるいはこの降り続ける常雨を利用しての木の式か。
 どれを選んでも裏目がある。どれに決めても勝ち目がある。
 だから、どれでも一緒だ。
 何も考えず、天墨は手持ちの中で一番デキのいい式神を選んだ。金の気であしらった<蜂>の式神だ。ここ数年で最高の出来栄え。こいつの鋭い鉄針で土御門光明はその白い首に大穴を開けることになる。天墨にはそれが見える。見えなければ勝負ではない。
 押し切る。
 完全に振り返った。式札を抜き放った。視界に土御門光明が現れた。




 視界いっぱいに、式札がばら撒かれていた。
 時間は、とっくのとうに粘性を帯びていた。
 宙を舞う四十七枚の式札の中心に、光明がいた。
 両手を蛇のように構え、天墨へ突進してくる途中。もはやそれを止める手段はない。それを見る天墨は天墨であって天墨ではない。本物の天墨は、なにも考えずに、<金蜂>を打つその瞬間をゆっくりと進んでいる。そしてそれを俯瞰しているのは、アドレナリンが作り出した一瞬後には消える天墨の無意識でしかない。その無意識は思う。
 俺の負けだ、と。




 光明は、天墨が打つ瞬間に垣間見えた式札、それを相克できる五行を持つ札をばら撒いた四十七枚の中から死神の鎌のように正確無比に選び取って式を打った。五行相関に大きく左右される陰陽戦闘において究極の必勝法。
 あと出しである。
 ほとんど触れ合うほどの距離で二人が打った二枚の式から魔獣が呼び出された。
 <金蜂>が鋼の鉄板を重ね合わせて造られた尻から鉄針を出したときにはもう、<炎狐>がその身の熱で金属製の蜂を溶解させていた。<金蜂>を打ち破った<炎狐>は、まだ負けたことを意識しきっていない天墨の胴体に直撃し、その身体を火達磨にした。一瞬遅れて、灼熱に襲われた天墨が女のような悲鳴をあげてその場をごろごろと転がりまわり、最終的には路地の脇の下水流れる側溝へと転がり落ちた。そしてそれきり静かになった。
 決着は着いた。
 光明の勝ちだった。
 だが、
「うぅ……」
 不運だった。<炎狐>を打つときに、常雨通りの止まない霧雨でぬかるんだ地面を光明の履く乗馬ブーツがわずかに滑ったのだ。そして<金蜂>を構成していた金属は完全に溶解することなく、わずかに残った断片が光明の左顔面を直撃した。
 一瞬の冷たさの後に、猛烈な激痛が襲ってきた。寝ぼけていた神経細胞が無限の小ささまで感覚を拡大させてしまったような鋭く精緻な痛み。脳が起こってしまった事故を受け入れることを拒否して時間を遡行したがっている。だがそんなことはできない。
 触覚が痛覚で暴走していてよくわからないが、幸いなことに溶けた鉄自体はすでに燃え尽きたようだ。顔の脂が燃えているわけでもない。つまり、いまここでどうにかなってしまう事態ではない。ならいい。
 光明は左顔面を直接触れないように手で碗を作って押さえながら、路地を後にした。行かなければならない。まだ間に合うはずだ。
 常雨通りを抜けて、大通りへ。顔を押さえた光明をいぶかしむ妖怪たちの隙間を縫って、目当てのものを探す。すぐに見つけた。
 店先に衣服を山ほど積んだワゴンを出した呉服屋、その前に一台のバイクが停まっていた。灰色のモトクロッサーだ。左の顔で唯一無事だった左目からも、キーが挿しっぱなしなのが見えた。
 乗り手と思しき女子高生は、いまワゴンの服の山に胸まで突っ込んでいる。時々スカートに覆われたケツと、スカートから覗く三毛柄の尻尾がふりふり揺れる。さらにツイてる。女子高生の猫娘なら、この界隈にだってそうそういない、光明の友達だ。
 神様なんぞ信じちゃいないが、役に立つなら相乗りしてやってもいいだろう。
 許可も取らずにシートにまたがると、気配を感じたのかピン! と三毛尻尾が逆立ち、服の山からぼふぁっと茶髪の猫娘が顔を出して、モトクロッサーを振り返った。
「にゃ――にやってんのっ!?」
 べつに彼女は普段からにゃんにゃん語を喋っているわけではない、ただ噛んだだけだ。
「おほん。……おい土御門! 土御門光明! 今度勝手にバイク乗ったら罰として死ぬってあたしと約束したよね!?」
 光明は神妙に頷く。
「ツケで頼む」
「ツケでじゃねーよ! 踏み倒す気満々か! 場末のバーか! あんたねぇ人には人の事情ってもんがあっていくら急いでるからって人のバイク無断で乗ってくとか常識を――」
 モトクロスのフロントを回って、そこで猫娘は光明の左顔面の惨状を見た。
「ちょ……え? なに、怪我してんじゃん……? そ、そうだよあんた追われてるってみんな言ってた……」
「ああ。それより顔、どうなってる? 見えねえんだ、自分じゃ」
「爛れてるよ! ねえやばいって! 病院いきなよ! あんた生きてるんだから身体とか粗末にしたら駄目だよ!」
「猫町……おまえいいやつだな。おまえの優しい言葉で俺は左目から塩水が出そうだよ」
「駄目! 落涙駄目ゼッタイ! 傷にさわるってヤバイヤバイ!」
「ああ、そうだな。じゃ、これ借りてくぞ」
「どこいくの!」
「病院」
 なんだそっかァ気をつけてねーと手を振る馬鹿に笑顔を見せて、光明はハンドルを回した。
 無論、病院になんて用はない。そんなところへ寄っている暇も時間もありはしない。ちらっとはためく狩衣の袖から見え隠れする腕時計に目をやる。
 もうすぐ始まる。
 競神が。
 泰山府君杯の第二レースが。
 一着になれば、競神には賞金が出る。ただそれはあまり知られていないが、魂貨でももらえる。
 いままで出たレースのすべてで一位になっていれば。
 あるいは桔梗を繋ぎ止められる魂を稼げたかもしれない。
 桔梗がいなくなった今となっては、なんの意味もないかもしれないけど。
 桔梗が消えてしまった今となっては、もう取り返しはつかないけれど。
 あいつは、喋れなくなる前に言っていた。




 ――わたし、走ってる時の光明が、一番カッコイイって思うな。




 あっという間に過ぎ去っていく景色の中を驀進しながら光明は思う。
 俺は強くもなければカッコよくもない。優しくもないし、なんだかんだで最後に勝ったりもしない。そんなのはぜんぶありもしないご都合主義の夢物語だってわかってる。
 でも。
 あいつは、そういう夢物語が好きだって言ってて。
 俺はそういうあいつが、嫌いじゃなくって。
 むしろ好きで。
 だから。
 せめて、あいつのために、
 そういう夢に、俺はなりたい。






 ○





 ゆるやかに弧を描いた道の先、赤い空の下、地平線からドーナツ型をした常夜橋スタジアムがじわじわと生えてくる。コンクリで固められた橋を渡ると、もうそこは戦場のエントランス。
 蜂の巣を突いたようなあの喧騒が聞こえてくる。何度も聞いたその音の調子でわかる。
 もうきっと、まともに入っていったんじゃ間に合いやしないのだろう。
 だから、光明はエントランスへ突っ込むぎりぎりでハンドルを切り、その脇にあらかじめ立てかけておいた板にモトクロッサーの前輪を乗せた。ぎしぎしと嫌な軋み方をしながら板橋が揺れるが構わない。アクセルを回してさらに加速。べきべきと後ろから何かが砕ける音。
 構わない。
 板橋を渡りきって、光明を乗せたバイクは、観客席の真上へと跳んだ。気づいたのはすぐそばにいた妖怪たちだけ。緑色の顎鬚を生やした太鼓ほどの大きさをしたおっさんの生首三つが仰天して目を皿にしていたのがなんだかツボに入って、光明は笑い出した。ふはははははと悪役みたいに笑いながら観客席を下っていく。間にいる妖怪たちはみな轢き倒したがその程度で死ぬほど連中はヤワではない。ふははははは! 最前列近辺に陣取っていた妖怪たちが異変に気づいて我先にと逃げ出していく。そうして誰もいなくなった客席を突っ走っている気分はモーゼ。さぞや海を割ったときは愉快痛快だったのだろうなと思う。

 観客席の最下段の向こうに、金属棒で囲まれたグリッドがせり上がっていた。もうすでに陰陽師たちがスタンバイしている。見知った顔もいる。あまり知らない顔もいる。
 紙島詩織と目が合った、気がした。
 が、次の瞬間には光明は最下段の柵にモトクロッサーのフロントを激突させていてそれどころではなかった。猫娘の愛機は無残にもその場でライトと前輪のシャフトを駄目にして、その衝撃の逃げ場として後輪が浮き、乗り手の光明はトラック内へと放り出された。電光掲示板のそばで、雲に乗ってタンバリンを持った小猿がいまにもそれを打ち鳴らそうとしていた。それが鳴った時、式神に騎乗していなければ、問答無用の失格処分。




 待てよ。

 ここまで来て、そりゃないだろ?




 だが、そんな事情など知ったことではない小猿は息を吸って、

 いま、無数の勝

 負の始まりを告げ

 る地獄の鐘



 を




  鳴






   ら








     し――――――――









       待ってろ
        いまいく
         すぐいく 
          勝ちに行く


           だから、

             時よ、





        「止まれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」






                       ――――――――た。





(つづく)

       

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