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あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
10.泰山府君杯

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 うるさすぎてかえって無音だった。スタンドの向こうでは星の数のような群集が自分の未来を握り締めて声高に何かを叫んでいる。まるで強く祈れば結果が屈折すると本気で信じているようだ。熱が出るほど強く、拳が震えるほど強く、願えば、何かが変わると。
 彼らのことを馬鹿にはできない。
 少なくともいまはまだ、彼らのあらゆる未来は確定しておらず、彼らと未来の間には堂々たる「無限の希望」が広がっている。
 心あるものはみな無限に惹かれていく。なにかも予定調和に進んでいくことほど面白くないことはない。そして、ありもしない希望の花に蜜を求めるハチのごとく群がる。誰一人としてその滑稽さに気づかない。
 だから減らないのだ。
 馬鹿が。

 いま。
 鉄の檻のゲートが開き、十二人の馬鹿を乗せた十二柱の式神が弾かれたパチンコ玉のように飛び出した。

 歓声はもう誰にも届かない。木火土金水で形作られた48の蹄が赤茶けた土を蹴り上げて粉塵を巻き起こす。最初は一団となっていた馬群から、何頭かが先行し、また何頭かが遅れていく。ゆっくりとだ。人を轢殺できる速度で走っているとは思えない。均衡した速度の綱引き、そこに五行の糸が絡みつき、その力の相互関係を正確に測り取れる者はいない。式打の呪力、混在する五行が繰り返す相関と相克、常に変動する式神同士の距離と速度。まるで生きているかのように移ろっていく。
 レースが始まったばかりだが、ここで泰山府君杯についての簡単な説明を挟みたい。
 もともと、泰山府君とは道教の神の名であり、それは魂を司る神である。その神に捧げる儀礼として始まった呪術師同士の模擬戦が、現在まで続いてきた競神のはしりだったと伝えられているが、永い時間の流れと共にその正確なルーツは失われている。一説によれば、一千年前に安倍晴明が当時の帝を喜ばせるために部下を集めて適当にでっちあげた見世物が本格化したとも言われているし、また安倍晴明が宿敵だった蘆屋道満とケリをつけるために形式化した競争だという者もいる。陰陽道の名家は現在でも相当数残っているが、どういうわけか一族ごとによって口承された話がすべて食い違っていることから、やはりこれも正確なことはわかっていない。
 レースに戻ろう。
 光明駆る<闘蛇>は現在七着。燃える炎のたてがみに埋没するようにして光明が手綱を握っているのがお分かりだろうか。触れれば切れそうな目で前方の式神たちを睨んでいる。
 七着。
 できれば三着までにはつけていたかった。が、いま悔やんだところで仕方がない。出走できただけで僥倖だ。ただれた顔もいまは不思議と痛みが引いている。かえって怖いくらいだ。
 鉄檻に飛び込み、懐から引き抜いた競神用の式札を打った瞬間に鐘(ジャン)が鳴った。我ながら危ないところだったと光明は思う。ほんの刹那でも遅れていれば、外部からの妨害を防ぐための結界に弾かれて、観客席に叩きつけられていただろう。しかし間に合ってしまえばこっちのものだ。決着が着くまでの数分間、レースは結界に守られ完全不可侵となる。いまごろ客席で泡を食っているだろう陰陽連の連中にだって手出しはできない。もっともそんなことをすれば神券を買っている妖怪どもが黙っちゃいないだろうが。
 手綱を握り締める。式打と式神を呪的に繋ぐそのしなやかな革の綱は、光明から流れ出す力を帯びて熱く、タコのように光明の掌に吸い付いてくる。手綱を通して式神が呪力を求めているのだ。式神を維持できる呪力がなくなれば、式は解呪されてしまう。この速度で走行しているときに解呪したらば結果は無残の一言に尽きる。後続の馬に跳ねられれば運がよくて複雑骨折、悪ければ普通に死ぬ。レース場に寝転がっていると思ったらそばに白仮面が転がっていた、なんて笑い話の一つにはまだなりたくない。
 ちらっと後続を見やる。すぐ後ろに<六号>の弓削啓二がつけていた。
 競神では後続の式神がどう連なっているのか、その位置関係も重要となる。いまは、火の<闘蛇>を相生する木の<六号>が近くにいるので、<闘蛇>の調子はいい、ということになる。もっともそれだけでなく、木の<六号>が<金>によって相克されている場合、<火>への相生効果も減衰するなどの派生効果があるので、あぐらをかいているわけにはいかないのだが。
 それでも、有利であることに変わりはない。まだ全員が平等な位置にいるスタート直後に自分の背後にどの式神がつくかはこれはもうほぼ運だ。ビリヤードでいうところのブレイクショットのようなもので、本番は馬群がほどほどに乱れてから。
 前に向き直りかけると、誰かが自分を見ている気がした。
 上半身をねじって振り返る。
 <六号>の弓削が、腰に下げたケースから掌サイズの式札を引き抜いたところだった。来たか、少し早いが、と光明も応戦すべく腰に手を伸ばす。

 ない。

 額から汗が伝うのがわかる。脳裏を天墨のせせら笑った顔がよぎる。
 顔に火傷したりしたショックですっかり忘れていた。
 式札がないのも当然だ。いまもまだ、あの常雨通りの裏路地には、自分がばら撒いた四十六枚の式札が散らばっているはずなのだから。
 口元に苦い笑いが広がる。笑ってしまうほどのマヌケぶり。
 まずった。

「――――やあっ!」

 気合と共に放たれた弓削の式札から<水鷹>が召喚される。瞬間速度なら競神用の式神をも上回る水の鷹がその青く澄んだ嘴を輝かせて、一直線に光明の<闘蛇>の尻に突き刺さった。<闘蛇>が苦しげにいななき、振り落とされまいと光明は手綱にしがみつく。激突した<水鷹>は一瞬で蒸発し、蒸気となって後方に長く白い尾を引いた。身にまとう炎の勢いを弱めた<闘蛇>は速度を落としていく。その脇を弓削の<六号>があっさりと追い抜いていった。木の幹をくねらせてできた馬の鞍の上で、弓削がにやりと意味ありげに笑っていく。


 泰山府君杯は、競神の代名詞と言ってもいいタイトルで、そのレースでは、式打同士の妨害行為が認められている。障害レースとはそういう意味だ。
 しかしなんでもアリというわけでもない。式打は呪力を十二天将に割いているために、やたらめったらに式札を追加で打つことができない。そんなことをすればガス欠になり十二天将を維持できず後続に轢殺される。
 平均して、泰山府君杯において式打が使用できる式札は三枚が限度、とされている。



 枠:前一 式神:闘蛇
 式打:土御門光明

 現在使用可能式札――ゼロ枚

       

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