Neetel Inside ニートノベル
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 二柱脱落によって、漁夫の利を得るものもいた。<天空>、<玄武>が潰れたそのとき最下位まで落ち込んでいた土御門光明は、自動的に十位に浮上した。また、自分を相克する水気の<玄武>が脱落したことによってより走りやすくなり、土気の<天空>も<闘蛇>で近寄れば相生してしまうやりづらい五行だったので、つまりいま消えた二柱は光明にとって両方消えてくれて都合のいい五行だったというわけだ。
 とはいえ、まだ先頭集団は遥か彼方。普通の騎手だったなら、べつに競神でなくても、光の中をひた走る一位の背中とその後にうじゃうじゃと群がる後続たちが目に入れればウンザリしているところだったろう。
 仮に、一人抜いたとする。それはいい。天晴れだ。抜かなければ話にならない。レースとは一位を目指すものだ。だが、格下でも相手にしていない限り、一人抜くというのは相当の気力を要する。気焔を上げて身体中のすべてのエネルギーを費やして、抜いたその一人が、振り返ってみればビリッケツの一つ前。その時ふと思うのだ。
 あと何人抜かなければならないのか。
 あと何回気焔を上げなければならないのか。
 人間の情熱もガスや鉱石となんら変わらない天然資源であり、その数と量と質には限りがある。
 最下位とは、つまりそういうことである。奇跡か、それに順ずる好都合が訪れない限りは、まァ勝算はない。何、やる気が足りない。ふむ、頑張ればなんとかなるかもしれない。おっしゃるとおりだ。決着がついていない限り、一位が鼻面をゴールラインに突っ込むまでは、確かに勝負はなにひとつとして確定していない。ひょっとしたらゴール直前に小型隕石が降ってきて先頭集団が軒並みくたばるかもしれない。あるいはコースの土をどこかの頭のおかしい馬鹿が監視員の目を盗んで掘り返して棺桶サイズの落とし穴を作ってくれているかもしれない。そうとも、月にウサギがいるかどうかの確率は二分の一であるし、それに比べれば最下位ぐらいどうってことはない。そうおっしゃりたいか。
 だが、そんなあんなこんなも、走っているやつだけが口にできることだ。べつに勝負師だの陰陽師だのじゃなくてもいい、そこらの鼻水たらして公園で遊んでいるガキのかけっこだろうと同じことだ。外野がいくら勝てる勝てるといったところで、そんなものはどこにも届かない声援なのだ。いつだって真剣なのは走っている本人だし、そして前を行く自分より決して遅くはない連中の背中を見て自分には決して勝ち目がないと悟るのも本人だ。勝つも負けるも本人の問題なのだ。スタジアムで見ている恋人から名前を呼ばれて、たわみかけていた手綱を握り直すと途端に俄然とファイトが湧いてきた――なんてのはちゃんちゃらおかしなことなのだ。そんな程度のことで湧いてくるファイトなら最初から出し惜しみせずに出せというのだ。そんなものは八百長よりもひどく胸糞の悪くなる茶番だ。出来レースだ。
 出せるファイトを全部出して、体中の穴という穴から血を噴き出しそうなほどに祈り念じて、それでも差が詰まらない。奇跡も歓喜も訪れず、まるで負けるために走っているかのよう。なぜ自分がここにいるのかわからなくなる。手綱を握るということを忘れてしまいたくなる。
 おそらくそれは、最下位に限ったことではない。二位以下の選手みなが同じ気持ち、同じ焦燥、同じ苦しみの中にいる。過ぎ去っていく景色が溶け出すほどに粘っこい時間の流れるここで、同じ苦痛に溺れている。
 この、勝者しか認めてはくれない大海原で。




 ○



 未練がましく、光明は腰のホルダーに手をやっていた。が、何度確かめてもそこには一枚の札も残っていない。ホルダーの留め金がかちゃかちゃと空しく光明の腰を叩く。
 まだ終わってない。無論そうだ。だが、式札が一枚もないのはいかんともしがたかった。少なくともこれから先、障害レースのセオリー上、一度は攻性式札を総動員した『合戦場』が待ち受けているのは間違いない。式札を温存しておく時期と、使うべき時期が入れ替わる瞬間。そのとき、式打たちの焦りと我慢が限界を迎え、馬上でめまぐるしく式の札が交錯する。
 そのときに、<闘蛇>をブーストさせて加速させる札も、相克札を相克し返すカウンター札もないのでは話にならない。
 せめて一枚だけでもいい、札が欲しかった。光明は白い歯を噛み締める。こんなことになるなら、たかが天墨ごときに陰陽師同士の白兵戦における奥義を見せてやらなければよかった。ツイてない。狩衣のどこかに余った式札が貼りついていやしないだろうか。おそらくない。陰陽師は競神用の十二天将以外の使い捨てる式神はすべてケースに仕舞っておく。その内訳も木火土金水それぞれ十枚で計五十枚のデッキと相場が決まっている。一千年前からおおよそそういうことになっている。光明もそれに倣っていた。まったくもって慣習というやつはいつも自分の邪魔をする。こんなことならデッキを二つでも三つでも用意しておけばよかった。



 ○



 十柱の式神が、第一カーブを誘導ミサイルのように曲がっていった。
 トップは引き続き弓削啓二(六号)。
 十二天将はかつて安倍晴明が使役した式神の称号だが、本物の六号は中華服を着た背の低いウサギだったと言われている。その名残なのか、六号の木で出来た馬面に二点輝く両目はウサギのように赤い。
 その少し後ろにつけているのは、竜宮冬葉の<天后>。本当は一思いに<六号>を追い抜いてしまいたいのだろうが、速度を抑えている。水の<天后>が木の<六号>に近づけば相生してしまい、余計にトップを手助けする結果にさせてしまうからだ。
 泰山府君杯に出走するほどの式打ともなれば、先頭集団にいても後続で誰が何をしていたかに気を配るものだ。そして弓削が光明に対して一枚札を使ったことを冬葉含め、先頭集団の面々は知っている。極端な話、まだ一枚も式札を使ってない面子からすれば、弓削は最悪でも「火の式×3」で潰すことができるのだ。無論、そんなことをすれば残り枚数ゼロになって自分が危険になるわけだが、状況次第ではそれも可能。ゆえに先頭集団の面々に焦りはさほど見えない。むしろ弓削の方が嫌そうに時々振り返っているくらいだ。
 弓削は潰せる。それはよろしい。
 問題は、誰が弓削を潰すか、である。
 潰したあと、誰がトップを切るか、である。
 現在、五位までの走行順位は弓削(木)―冬葉(水)―結城(火)―ヒミコセカンド(金)―烈臣(土)。
 なかなか難しい形になっている。二着目の冬葉=天后(水)は一着の弓削=六号(木)を相生してしまってなかなか抜くことができない。三着目の結城=朱雀(火)は一着の六号(木)をこそ相克できるが、自らを相克する冬葉が目の前にいて抜け出せない。
 四着のヒミコセカンド=陽炎(金)もまた三着の朱雀(火)に相克され出れない。五着の烈臣もまったく同じ理由で膠着している。五行相関だけが競神の行く末を決定するものではないが、それが軸であることは間違いない。
 そしてこういう膠着状態が訪れると、だいたいのやつは札を抜くものだ。
 <朱雀>の結城允が腰のホルダーから抜き取った札を右斜め前方一馬身の位置につけていた竜宮冬葉めがけて、打った。結城の朱雀は火、ゆえに札を使わずとも弓削を相克できる。ならば邪魔な二着目を潰してしまおう、という目論見であろう。
 それに冬葉がぴく、と反応した。そして背中で跳ねる長い黒髪を喰らうようにして振り返り、こちらも札を抜き放って式を打ち返す。
 ――ふむ。
 ここで結城允は考える。浅黒く運動焼けした顔を歪めて、
 ――俺が打った式が<土>であることは冬葉は見抜いているし、やつが返してくれるのはこっちの<土>を相克する<木>だ。この時点で未来は二つある。
 ――その1.冬葉の式を俺の式が打ち破る。
 ――万歳万歳。この場合、冬葉はまともに<土>を喰らって大幅なダメージをこうむるだろう。
 ――その2.冬葉の式が俺の式を打ち破ってしまう。
 ――通常なら式を打ち破られるのは望まざる展開だが、冬葉が打ち返してくるのは<木>だ。それは俺の<朱雀>を相生する。相生されていれば、たとえ前方にいるのが苦手な<水>の式だろうと追い抜くことは難しくない。
「五行相関における<先制優越の法則>……お袋にさんざ叩き込まれたっけな。最初は戸惑ったけど、べつにそんな難しいことじゃない」
 結城はにやっと笑って、
「いつの時代も先手は必勝ってこと。そんでもって――」
 第二カーブ前のゲートはもうすぐそこ。
 冬葉を潰して、自分が<ゲート>を通過する。
 もちろん、
「一位で、だ!」
 冬葉と結城の式が展開する。じわり、と周囲の光が歪み、その向こうからやってきた二人の式神は――二柱とも、<土>の式。
「なっ……」
 思わず目を見開く。
 ――<土>? 土だと? そんな馬鹿……いや確かに悪い選択肢じゃない。同じ土行なら式打の実力勝負だ。打ち勝ったときに相手を相生することもない。ついつい有利になる相克を基点に考えてしまいがちだが、なるほど真っ向勝負か。
 ――いいだろう、受けてやる。俺が打ち勝てばおまえは二倍の土行を喰らって再起不能は免れないぜ――!
 式札から召喚された結城の<土蛙>が、そのあぎとを開く前に。
 冬葉の<土蛇>が<土蛙>を丸呑みにした。土くれで出来た蛇の胴体を、丸い膨らみが腹の方へと動いていく。
「くそっ!」
 思わず呻いた。だが、まだだ。サバききればいいだけの話。やってやる。結城一門の名は穢さねぇ。
 しかし、身構える結城のそばを、あっさりと<土蛇>は通過していってしまった。
「えっ?」
 結城は振り返る。結城を無視した<土蛇>は身をくねらせてレースを逆行していき、
「あっ――」
 遅かった。
 想定してしかるべきだったろうか、と結城は思う。無理だったろうな、と自分で悟る。
 <土蛇>は結城の<朱雀>から四馬身差でつけていた四位のヒミコセカンド駆る<陽炎>の鋼鉄のボディに派手に激突した。頭に髪で作ったドーナツを二つくっつけたヒミコセカンドは、目を白黒させ、何が起こったのかわかっていないようで、馬上でパニックに陥りかかり、とっさに手綱をしっかと握り締めて身を硬くした。
 結果的にそれがよかった。
 結城と冬葉、二人分の<土>に相生された<陽炎>が、火の点いたロケット花火みたいに急加速して飛び出した。その加速で馬体が伸びたように見えた。ヒミコは、上半身が馬の背に沿いそうになるほどに身を反らしてやっとのことで手綱にしがみついている有様だった。あぶみからブーツを履いた足が外れかかっていて見ている方が気が気ではない。驚いてわけがわからなくなっていたのと、空気ですれて目が乾燥しているのとで、目尻から涙が少しだけ溢れ、雫が横向きの力に引っ張られて流れていった。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!」
 あれよあれよと言う間に<陽炎>は結城の<朱雀>の相克をモノともせずに追い越した。そのままぐんぐん加速していき、冬葉の<天后>もそうして抜き去るかに思われた。
 冬葉がちらりと振り返る。その目に、いまにも落馬しそうなヒミコの泣き顔が映る。
 寝不足なのか濃い隈の浮かんだ冬葉の目尻に、笑い皺が刻まれた。


 ――よしよし、ちゃんと来たね。
 ――あたしの、蜘蛛の糸。



 一瞬の出来事だった。
 <陽炎>に追い越されるその瞬間、冬葉が<天后>を接触ギリギリにまで寄せた。膝と膝ぐらいなら触れ合ったかもしれない。
 触れれば腕ごと持っていかれそうな速度で走る<陽炎>の金気に、<天后>の水気が相生された。<天后>と<陽炎>が不可視の糸で連結される。
「く――――――――――――――――――――――――――――――――――――はァ」
 大気に首を絞められるような、加速。まともに目を開けていられない。手綱を握っているのが精一杯だ。
 冬葉の背筋を恐怖と興奮が駆け抜ける。どこか冷静な自分が、いま振り落とされたら死ぬな、と考える。たまらない。
 土を身にまとって原石のように純度を増した金属の馬と、その金属の冷たさに惹かれた水の馬が、花と蔓をまとった美しい樹木の馬へと突っ込んでいく。乗り手はなんとか振り切ろうとするが、その動きは追う二体に比べてあまりにも遅すぎた。
 すれ違いざまに、結城と冬葉二人分の呪力で二重相生された<陽炎>に、ゼロ距離で相克された<六号>はその身体を維持していた式を破壊され、無数の無残な木片と化した。薪を割ったときのような音を立てて、夕焼けに散華する。そのときにはもう騎手の弓削は自分と呪で繋がった式神の解呪によって失神しており、空高々へと打ち上げられていた。
 だが、騎手たちの中に、彼の行く末に気を配った者など一人もいなかった。誰もいなくなって土埃だけが散った道に、気絶した騎手と砕けた木片の雨が降った。
 敗者など最初からいなかったかのように、
 式神と陰陽師たちを孕んだ土煙が、どんどん遠ざかっていく――






<リタイア>

<天空>空傘雨月
<玄武>赤石貴斗
<六号>弓削啓二

       

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