Neetel Inside ニートノベル
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 痛みはなかった。ただ強烈な異物感が襲ってきて、前のめりに倒れこんだ。じゃらじゃらと硬くて小さなものがたくさんぶちまけられた音がしたので見てみると、落ちた自分の左腕が魂貨にどんどん両替されていくところだった。
 それだけならまだよかった。切断面からは蛇口をひねった湯水のごとく魂貨が零れだしている。痛みもない、血も出ない。だが、このまますべて流れ出してしまえば、とても無事で済むとは思えない。
 いづるはなんとか立膝をついて、散らばった自分の左腕の残骸に手を伸ばした。
 それを、闇の中にあっても鈍く輝く金の馬の蹄が押し潰した。ばきばきと硬貨がひしゃげる音。
「往生際が悪いね」紙島が言う。
「死んだ後の世界なんてない――が、門倉くんの信条だったんでしょ? だったらさ、おとなしくさ、しとこうよ」
「まさか同級生に真性のサドがいるとは思わなかったよ……」
「ふふふ、冗談言ってる場合?」
 電介がふしゃあふしゃあ言いながら、いづるの残った右腕を引っかきまくる。早く逃げようと言うのである。そうしたいのは山々だったが、困ったことに腰が上がらない。
 いづるがもたもたしているうちに、詩織が再び札を抜いた。札に描かれた青い炎を背負った麒麟が、嘲笑じみた目つきでいづるを見ていた。
「これで最後だ、門倉くん――」
 詩織が札を振りかぶる。
 いづるは仮面越しにそれを睨む。そのときふと思った。刀を紛失したことを詩織に告げればいいのではないだろうか。詩織に簡略的な事情を説明すれば、ひょっとすると、この死神のような女の子もいづる以外には優しく可憐な天使になってくれるのではなかろうか。そうだ、そうしよう。確かあの刀の柄は蓮の花をあしらってあったはず。それと飛縁魔が封印されていることを合わせれば、たとえ質などに流れていても追跡することはそう難しいことではないはずだ。
 そうすれば。
 自分は晴れて、お役御免。
 飛縁魔とは別れの言葉もロクに交わさず、
 火澄にはロクな言葉も送ってやれず、
 自分は消える。
 そうとも、あの業突く張りの志馬にだって言ってやったではないか。死んだら消える。それが普通のことなんだ、と。
 さあ言え。ちょっと待ってくれ最後の頼みだ、と言うのだ。それでも詩織がこちらの言葉に耳を傾けてくれなかったときは、それは自分のせいではない。そこまで面倒見切れない。そうだろう。さあ言え。うかうかしていると詩織が札を打ってしまうぞ。競神を見ていたんだろう。あんな燃えたり切ったりしてくる魔獣にぶつかられたら自分のひょろっちい身体はきっと爆発した手榴弾のごとく四方八方に硬貨の散弾をぶちまけることになるぞ。さあ言え。終わらせるのだ。
 門倉いづるの生涯を。
 その最後の勤めを。
 おまえの人生が最後に到達する言葉を、言え。
 言うんだ。
「――ちょっと、」
 


「シャ―――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」



 そのときいづるは、猫という生き物が愛玩動物でなくなる瞬間を見た。
 普段はつややかな毛並みを今は逆立て、四つ足で獅子のごとく立った雷の申し子は、自分より何百倍も大きな鋼鉄の巨馬に向かって、吼えた。バチバチと電介の毛先から青白い電撃が迸る。それを見て詩織がハッと息を呑んだ。
「雷獣――? まさか、あんた、」
 詩織の言葉は、電介の放った青光りする稲妻の炸裂で遮られた。電撃が無軌道に暴れ狂い、遠巻きに見ていた野次馬たちが泡を食って逃げ出し、誰も拾わずに転がっていたあたりのゴミが雷に当たって燃え始めた。
 詩織は、黒装束の袖で顔を覆い、稲妻から身を守ったが、その拍子に式札を取り落とした。
 くるくると独楽のごとく回転しながら落ちる札を見て、いづるの耳元で誰かが何かを囁いた。その誰かはこう言っていた。
 逃げろ、と。
 逃げた。
 今度は電介も一緒だった。わざわざいづるが抱えあげるまでもなく、電介はいづるの走る速度に合わせて従ってくれた。短い時間で二度も窮地を助けてくれた相棒にいづるの胸が熱くなる。無事に逃げ延びられたら何か美味いものを一緒に食べよう。
「門倉ァッ!」
 <水鳥>が飛んできたが、間一髪でいづるはよけた。水の鳥は壁に激突して四散した。
 入り組んだ通路を何度も曲がって、ひたすら逃げた。目指すべきは外だった。だが、いくら走っても、あの世を覆い尽くすあの赤い空の下に出ることはできなかった。うかうかしている時間はないというのに。
「――ねえ、そこの君。おい、君だってば」
 いづると電介は同時に振り返った。横道だらけの暗い通路に、キャスケット帽をかぶった少女が立っている。
 顔には、白い仮面をはめていた。
「君は――サンズのことを教えてくれた子? どうしてここに?」
「話はあと。紙島があんたを血眼になって探してるよ。そこら中、あんたを探してる式神だらけ。あんた何したの?」
「特になにも。たぶんだけど」
「そうなの? まァいいや、こっちおいで。あたしが抜け道教えたげる」
「え、なんで?」
 キャスケット帽の少女は肩をすくめ、
「困ったときはお互い様っしょ。ほら、あたしもあのヒステリー女の巻き添え食いたくないしさ」
 そう言ってキャスケット帽は、いづるの手を取った。電介も特に異論はないらしくトトト、とついてくる。それが決め手だった。
「わかった、頼むよ。まだ消えるわけにはいかないんだ、当分は」
「うん、じゃあ、いこっか。走るよ」
 キャスケット帽に手を引かれて、いづるは闇の中へと駆け出した。


(つづく)

       

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