Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
12.きみはペルソナ

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 スタジアムを出ると、生ぬるい風が夕原志馬(ゆうばる しま)の顔を打った。風に乗って漂う線香臭さが鼻につく。辛気臭くてかなわない。
 志馬は手に持ったままだった白仮面を被り直した。
 煉瓦づくりのスタジアムを振り返る。赤茶けた壁の向こうでは。次のレースに向けて妖怪たちがああでもないこうでもないと未来の推理に励んでいるのだろう。妖怪たちに時間の感覚はほとんどないが、それでも競神は一週間に一度、開催される。現実と同じだ。
 七日間。それは神様が天と地を作ったのと同じ時間で、死んだ人間が自分のことを忘れる間の時間でもある。
 だが、後者に関して言えば――稀にいる業突く張りを除いて、だが。
 志馬は赤ブレザーの上から腹をのの字に撫でた。
 やはり門倉いづるは別格だった。魂の量が尋常じゃない。一度の勝負で抜いただけでも、当分の日当てにはなりそうだった。奪った魂がまだ、志馬の中に馴染まずにくすぶっている。吐き気さえした。もしお互いに、すべての魂を一度に賭けていたなら、いったいどれだけの魂が動いたか知れない。
 だが、志馬はオールインを持ち掛けなかった。いづるからもだ。その理由は、認めたくないが、きっとお互いにわかっていただろう。
 ――この敵を前にして、絶対に己が勝つ、と言い切れなかったから。
「ちっ……押しときゃよかったなァ、あん時。そしたら……」
 いまさら言っても仕方ない。
 少し勝った後で「もっと張っておけば……」と悔やむことは誰にでもある。まるで素人。だが、志馬は別にそれを恥とは思わない。
 ああだこうだ言う必要はない、最後に立っていたやつが正しいのだ。いまはまだ途中経過に過ぎない。正しいも間違ってるも糞もない。博打は結果が出て初めて決まる。人生が死ぬまで何も決まっていないのと、同じだ。
 そう。
 生きてさえ、いれば。
「――――」
 線香の匂いから逃げたくて、志馬は、あてもなくあの世横丁を彷徨い歩きだした。

 ○

 人気、と言うべきか、妖気、と言うべきか。
 死人も妖怪も寄り付かない界隈の曲がり角を一つ折れると、それまでの民家が立ち並ぶ景色が一変した。まるでどこかから盗んできたように突然、一つの公園が志馬の目の前に現れた。うかつに触れたら健康に悪そうなくらい錆びついたジャングルジム、銀メッキがはがれかかっている滑り台、鎖が馬鹿になっていてちょっと傾いているブランコ、場所によって色の濃さが違う砂場、誰もいない水飲み場、未来の電話ボックスみたいな筒型トイレ。
 その公園に、ひとりぼっちの女の子がいた。肩口で切りそろえた黒髪、刺青を彫りたくなるような白い肌、目元は泣き腫らしたようにぽっと赤く染まって、顔には白粉と紅で古代人のような化粧が施されている。その化粧が乱れた線の悪戯で、なんだかタヌキを模しているようにも見え、少女の印象をいっそう和らげている。
 火澄だった。
 鎖が馬鹿になっていない方のブランコに乗って、楽しくなさそうな速度で漕いでいる。視線はずっと自分の膝前で止まっている。
 志馬がブランコの前には必ずある小さな柵の上に座ると、火澄がはっと顔を上げて、死装束
の白い袖で目元を慌てて拭った。
「えっと、あなたは……」
「志馬だよ」志馬は友達ぶって片手を挙げて、
「こころざしのある馬。縞々模様の方じゃないぜ?」
「わ、わかってます。馬鹿にしないで、漢字ぐらい、読める……」
「はは、そうか。すごいな」
「べ、べつに普通です」
「いや――本当に、すげえよ」
 志馬の声には魂が篭もっていなかった。
「どうか、したんですか」と火澄が聞くと、
「門倉と勝負したよ」
 火澄は息を呑んだ。
「――――それで?」
「勝った」
「どっちが?」
「俺」
「――――」
 志馬はぷいっと横を向いた。
「あいつの読みはよかったよ。何か一つ、いや二つ違ってれば、あいつが当ててたかもしれねえ。俺の読みが、否定されてたかもしれねえ」
「二つって、結構多いですね」
「ん? ああ。一つは、ヒミコの伸びだ。新人で、第壱走ではドンケツのビリだったくせに伸びてたよ。あいつが順位に喰いこんだんだ、泰山府君杯の第弐走は総合的に見て、荒れ場だったと言えるだろうな。……俺は、それを見抜けなかった。ヒミコは二着に食い込みこそしなかったが、食い込める可能性は充分あった。俺はあの買い目をないと言うべきじゃなかった、と思う」
 火澄がぱちぱちと瞬きをした。まつげ長いな、と志馬は思った。
「――殊勝、なんですね。もっと、唯我独尊な人かと思ってました」
「ふん、まあな」
「で、二つ目は?」
「ああ……どうだろな。これはまだ確信ってわけじゃない。ただの違和感みたいなものだから」
「違和感、ですか」
「ああ。おまえも勝負で生きてくなら、自分のカンってのは大事にしとけよ。結局、それがイカれてたら、勝つとか負けるとかの前にまっすぐ歩くこともできねえ世界だからな。もっとも、おまえの義兄さんはこの第二点には気づいてないと思うが」
「はあ? そんなはずない。あなたにわかるなら、兄さんにだってわかるはずです。あの人は、わたしの――」
 火澄が口をつぐんだきり、続きを言わないので、志馬がまた喋り始める。
「やけに、あいつの肩を持つんだな。知り合って、そう長くないんだろ?」
「それは……」
「あいつのこと好きなのか?」
「ち違っ! や、えっと……」
 言葉に詰まって、もじもじ身をくねらせ、
「違うっていうか……まあ……その」
 いつの間にか。
 答えを探して右斜め上の空を見上げる火澄から、目を逸らせなくなっていた。自分が何を考えているか正確に測量しつつ、
「それで?」と志馬は合いの手を入れる。火澄は困ったように黒髪をかきあげた。
「あの人は、家族ってものに憧れみたいのを持ってるらしくて、だ、だからわたしはそれに合わせてあげてて……」
「そんなことをしてなんになる」鼻で笑い、
「あいつとおまえは他人なんだぜ。いや、同じ存在ですらねえ。あいつは人間、おまえは妖怪だ。分かり合えることなんかない」
 火澄がきっと志馬を睨んだ。夕陽を受けて、赤い瞳にゆらめく光と影の炎が点った。
「そんなことない。あなたは、自分ができないことをみんなできないって思ってるだけです」
「へえ――?」
「自信過剰のナルシスト。寂しい人、つまらない人、可哀想な人。自分がいつも一番だと思ってるから、誰のことも認められないし、誰のこともわかってあげられない」
 火澄は、気丈に、それでいてどこか悪戯っぽく志馬を見た。
「兄さんはきっと帰ってきますよ。それで、あなたをやっつけるんです」
「ほお」娘のわがままを聞いてやる父親のように、軽く何度も頷いた。「どうやって?」
「競神で大穴の一つや二つを当てれば――」
 志馬はゆっくりとかぶりを振った。
「次の競神は来週なのに、か?」
 火澄が、あっ、と口を開けた。志馬は追い討ちをかけるように続ける。
「俺とやつの勝負はオールインでこそなかったが、普通のやつだったら粉々になってる程度の魂は動かした。いまのあいつはほとんど空っぽだよ。来週どころか、まともに七日間凌ぎ切れるかも危ういだろうな。わかるか火澄。このあの世で、死人が魂を繋ぐには絶対に競神で大穴を当てなきゃならねえんだ。だが、あいつは今日、そのチャンスをふいにした」
 そうとも、と志馬は笑い声を絡ませて、
「ある意味、一思いに消滅させられるよりキツイかもな。門倉はもう死人窟で揉め事を起こしてるから、死人相手の博打はできない。妖怪連中は小銭張りばかりで話にならない。オールインなんて誰もしない。つまり、あいつは、もう終わってるんだよ」
 己の言葉が向かい合った少女の魂に染み透るのを待つ。火澄は、しばらく目を閉じて、言葉を吟味しているようだった。
 そして、両目を開いて、笑った。


「だから、なに?」


 火澄はブランコからひょいっと飛び降りて、志馬の前に立った。
「勝つのは兄さん。それが私の信じていること。あなたの言葉なんて聞こえない」
「なあ」
「あなたにはないものをあの人は持ってる。一緒にいた時間は確かに短いけど、あたしにはわかる」
「なあって」
「惚れてるかって? 惚れてるかもね。あなたなんかに辱められたって、あたしの気持ちは、変わらない――」
 志馬は勢いよく立ち上がって、火澄の胸倉を掴んで引き寄せた。火澄が短い悲鳴をあげる。
 仮面をはぐった。
 夕陽の光を間に挟んで、二人は、唇が触れ合うほどの距離で見詰め合った。
「ひとつ提案があるんだ」
 志馬が言った。
「俺に、乗り換えてみないか?」
 火澄は痴漢されたような顔になった。
「……は?」
「だからさ、おまえがいま感じてるその気持ち全部を、俺にくれって言ったんだよ」
「な、何言って……そんなことできるわけないっ!」
「できるさ。おまえはきっと好きになってくれるよ、俺のこと」
 志馬が、有無を言わさずに火澄の唇を唇で塞いだ。火澄は一瞬大きく目を見開いた後、どん、と力いっぱいに志馬の胸を押した。二度目ともなれば驚きよりも怒りが勝つ。
 志馬はあっけなく後ろによろけて、ブランコのポールに激突した。
「なあ、俺、お前のことが気に入ったんだよ、火澄」
「その名前を呼ばないで」口元を手の甲で拭って、きっと志馬を睨む。
「それは、あの人がくれたものだから」
「――――どうしてもか。どうしても、譲ってはくれないのか」
「当たり前」
「じゃあ、仕方ない、か」
 志馬がゆらり、と一歩踏み出した。口元にさびしげな笑みが浮かぶ。
「奪うしかねえってわけだ」
 一瞬の出来事だった。
 髪についたゴミでも払うかのように火澄に近づいた志馬が、その右腕で彼女の胸を貫いた。電流を受けたように火澄の黒髪が跳ねる。
「がっ……はっ……」
「――――」
 志馬は一思いに腕を引き抜いた。いづるの時と同じように、引き抜かれた手には魂貨がぎっしりと握られていた。火澄は傷一つ無い胸元を押さえて、その場に膝をつく。
「なん、で……あんたは妖怪じゃ……ないのに」
「そう。俺は妖怪じゃない。死人だ。でもどうやら、あんまりにも我が強いもんで、いくらか強引が効くようになったらしくてな。普通はせいぜいできても死人同士でしかできない『魂抜き』が妖怪相手にもできるようになった……これがどういうことか、わかるよな、火澄?」
 志馬はしゃがみこんで、指の節で火澄のおとがいをついっと持ち上げた。火澄の赤い瞳が屈辱に潤む。
「俺はおまえを殺せる」
「う……」
「なあ、大切にされないと思ってるなら、それは間違いだぜ。俺はきっと門倉よりも、おまえを大事にするよ。あいつよりいくらか要領もいいって自負はあるんだ。たぶんあいつも思ってるんじゃねえかな。おまえが誰かと生きるなら、自分よりも志馬の方が向いてるって」
「そんなこと……ないっ……いづるは……あなたとは違う……!」
 その言葉が引き金だった。
 ぴくっ、と。
 志馬の目元が震えた。そして、探るような目で火澄の赤い目を覗き込む。覆いかぶさるように、夕陽から庇うように。火澄も、志馬の雰囲気が変わったことに気づきはしたのだろうが、なにがなにやらわらかず目をぱちくりさせるばかりだった。
「いまなんて言った?」
「あの人は、あなたとは違」
「正確に」
「――いづるは、あなたとは、違う」
 志馬の知性を帯びた目が、すうっと細められる。
 気に喰わない。
 火澄は、志馬の知る限り、一度も門倉を「いづる」とは呼んでいない。記憶違いもありえない。そんなことはしたことがない。
 妙だ。
 夕原志馬は、そういうのは気に喰わない。
「――なに、なんなの?」
 そういう火澄の唇に塗られた紅が、手で拭ったせいで顔に擦り傷のような線を引いていた。それを見て、心臓を直に叩かれたように一つの閃きが魂を駆け巡った。
 志馬はポケットに手を突っ込み、綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出して、何を思ったか火澄の顔に押しつけた。
「うぷぁっ!? や、やめっ」
 やめなかった。そのままごしごしと擦る。抵抗されるたびに左手で腹を小突いて魂貨をいくらか抜いてやり、足元にばらばらと小銭が散らばった。
 たっぷりとハンカチを化粧で汚すと、志馬はそれを後ろに放った。はらはらとハンカチが悲しげに宙を舞う。あーあ、やっちまったな、とでも言いたげに、ふわふわと。
 顔を覆った火澄の両手を無理やり取って、その顔を夕陽に晒させた。
「これはいったいどういうことだよ。おまえ、どっかで見かけたことあるぜ。なあ、ええ、おい」











「――――――――飛縁魔よお」






(つづく)

       

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