Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 時は遡り、いづるがポリ袋で不貞寝していた頃まで戻る。

 目を覚ましたとき、飛縁魔は知らない部屋の布団に寝かされていた。ちょっとだけ首を持ち上げて、あたりを見回すと、そこが八畳ほどの和室であることがわかった。深山を背景に向かい合う竜虎が描かれた襖はすべて締め切られ、漆喰の壁には足折り式のちゃぶ台が立てかけられている。気難しい作家の居室のようだったが、ペン立ても原稿用紙も見当たらない。枕元には鎧と愛刀がきちっと添えられている。障子越しに降り注ぐ夕陽の光が、室内を赤く染め上げていた。
「――――」
 飛縁魔はちょっと迷って、寝返りを打った。何があったのか思い出そうとしたが、よく思い出せない。睡魔の霧の向こうに薄ぼんやりと最新の記憶が滞っているのはわかるのだが、それを振り払うには顔のひとつでも洗わねばなるまい。が、その労苦を考えるとこの布団の中はなんともぬくぬくしすぎていて――
 ああ。
 めんどい。
「zzz」
「――こらこらひのえん、知らない場所に寝かされてても気にせず二度寝って女子としてどう?」
「うん?」
 首をちょっと持ち上げてみると、部屋の暗がりに青い着物を着た西洋少女が正座して、あきれた顔を飛縁魔に向けていた。
「ア、リス……? え……なんでいんの……?」
「あのねえ、あたしはあんたを看病してあげてたのー。あんたいくら馬鹿でも三桁になるまで<炎>使いこむのはまずいって。あたしの分ちょこっと補充してあげたけど、まだぜんぜん足んないかんね。油断してるとマジで消えるよ」
「……さんきゅ」
「はい、目が覚めたところで――見返りは?」
「ん。ツケで」
 これだよ、とアリスが首を振った。
「――楽しそうなところ悪いけど」
 木戸がするっと開いて、黒巫女姿の紙島詩織が入ってきた。不機嫌を無表情でフタしようとして、三割がたはみ出していた。
「元気になったんなら出て行ってもらえるかな。私もヒマじゃないんで」
「あれ?」
 飛縁魔が小首を傾げる。
「あんた、紙島詩織? 競神の? なんで騎手がこんなとこに?」
 詩織は立てかけてあったちゃぶ台の足を起こしながら、
「ここがあたしの工房だからですけど……?」と飛縁魔を睨んだ。
「いやーごめんね詩織ちゃん」
 アリスは飛縁魔のぴんぴん跳ねた寝癖頭をぐしゃぐしゃかき回した。飛縁魔は首を振って逃げようとするが逃がさない。
「ひのえん馬鹿だからさー。たぶん一眠りしてぜんぶ忘れちゃったっぽい」
「おい誰が馬鹿だよ? やめろよなそういう誤解を招くようなこと言うの」
「1足す1は?」
「3ときどき5」
 アリスは頭痛を覚えたように手でこめかみを揉んだ。そしてこの馬鹿を矯正するのは今は無理だと判断し、
「あのねひのえん、詩織ちゃんはチンピラに絡まれてたあんたを助けてくれたんだよ。で、知り合いのあたしが身元引受人として馳せ参じたわけ。つまりはあんたは恩人に対して今と――っても失礼なひのえんなわけ。おわかり?」
「あー……」
 飛縁魔は口を半開きにしたまま、天井の木目に浮かび上がったドクロ模様を見上げた。記憶の霧がうっすらと晴れ間を覗かせ始める。
「そんなこともあった気がするな。あ、なんか思い出してきた。そうそう、うんうん。花札負けて……いづると逃げて……ぼんやりしてたけど、覚えてる、あたし……」
「ある程度、思い出してきたなら」
 詩織はちゃぶ台の上にばらばらと白紙の式札を袖からばら撒いた。そして慎み深い態度で正座し、その一枚に毛筆ですっすっと線を引き始めた。どうやらそれが、彼女が「ヒマでない理由」らしかった。
「事情を説明して欲しいかな。どうしてあんなことになったの?」
「そーそーわたしも聞きたいな。身元引受人として。ていうか、いづるんはどしたのん?」
 何かの獣の輪郭を描いていた詩織の筆先がぴたりと止まった。
「……いづる? あなたたち、門倉を知ってるの?」
「へ?」と飛縁魔。「あんたも知り合い?」
「クラスメイトよ、遺憾ながら。私のことはいいから。何があったの?」
 詩織の剣幕にひるみつつ、飛縁魔は時々アリスに補填してもらいながら、これまであったことを語った。


 ○


 飛縁魔がすべて語り終えると、詩織はみかんの汁が目に入ったような顔をした。
「じゃあ、門倉が牛頭天王を消そうとしたんじゃないんだ……。あなたの方が、首謀者だったのね、飛縁魔?」
「うん」
 詩織はすっと膝をすらせて、飛縁魔を真正面から見据えた。その顔は真剣で、思わず飛縁魔は布団の中で居住まいを正した。が、詩織の言葉を聞いて、そんな必要はなかったと思った。
「悪いことは言わない。牛頭天王に手を出すのはやめなさい」と詩織は言った。
「やだ」
 飛縁魔の顔から朗らかさがさっと消える。
「あいつはあたしの親父を殺った。だからあたしが仇を獲る。絶対にな」
 その目はこの世にもあの世にもないものを見ていた。どこにも存在せず、しかし確かにそこにあるものを見ていた。
 詩織がうんざりしたように首を振る。
「そうやって、全滅するわけ? 勝てもしないとわかっているなら、退くのが親孝行よ」
「別に親父のためじゃない。あたしが納得するために必要なだけだ。何したって親父は戻ってこない。……そんなこと、言われなくても知ってるよ」
「……そ。ならもう止めない。好きにしなさい」
 睨み合う二人の間に、アリスが割って入った。
「まあまあまあ二人とも。眉間に皺が寄ってるよ。それよりさあ、飛縁魔の話だといづるんってボッコボコにされた後に放置されたんでしょ? 迎えにいってあげた方がよくない? 常雨通りだとたぶんずぶぬれになってるし」
「その必要は無いわ」と詩織。
「なんでだよ?」
 詩織は鼻で笑った。
「いまごろ門倉はあなたのことなんて忘れてるわよ。あいつはそういうやつだもの」
 すう――っと息を吸って刀に手を伸ばしかけた飛縁魔をアリスが羽交い絞めにする。
「まずいって、ひのえん。それはまずいよ。どうどう。――詩織ちゃんもさあ、もうちょい言葉選んでくれてもいいんじゃない。こうなることはわかってたでしょ?」
「あら、ごめんね。わかんなかった」絶対嘘だ、と飛縁魔は思った。
「でもあいつはやめておいた方がいいよ」
「やめろやめろってうるさいやつだな、おまえ誰だよ」
「あなたを案じて忠告してるし、あなたを助けたくて助けたの。それはわかって欲しいな」
 飛縁魔はしぶしぶ、刀に伸ばしていた手を引っ込めた。どんなにいけすかなくても、助けてくれたのは彼女なのだ。
「――ホントにおまえの知ってる門倉いづるって、あたしの知ってるいづると同じなのかな」
「どうだろうね。でも、私の知ってる門倉いづるは数日前に、トラックに轢かれて死んだよ。私は見てたし、葬式にもいってきた。ひどい葬儀だったけど」
 あいつはね、と詩織は誰とも目を合わさずに話し始めた。
「心が空っぽな人間なの。なにもないのよ。あいつは何かを綺麗だとか、守りたいとか、思うことなんてないの。あいつにあるのは、ぜんぶ滅茶苦茶になったらいいって破滅的な妄想に満ちた脳みそだけ。それだけならいいけど、そばにいるっていうだけの人にまで悪影響を及ぼすの。どんな善人でも、例外はない。ちょっとした新興宗教みたいなものよ。炎の揺らめきは綺麗に見える、でもそこに飛び込んで生きていられる虫はいない……確かに、門倉にはカリスマみたいなものが、あった。だから星彦は……」
「それが、いづるんと会って変わっちゃったって人?」とアリスが合いの手を入れた。詩織は頷き、
「そう……あたしの幼馴染で、たったひとりの友達。本当に、真っ白なやつで、薄暗いところなんてどこにもなかった。明るくって、穏やかで、いつもふざけてるけどたまには真剣になるときもあって、あたしは、そんなあいつが、好きなんだ」
 夕陽を超えて顔を赤くした妖怪童女二人組みに気づかず、詩織は続ける。
「門倉はいつも、どこか遠くを見ていた。教室の窓から、下駄箱の出口から、あたしたちには視えないところを。でも、それはね、あたしたちが知ってはいけない領域、知らなくていい世界だったのよ。なのに、星彦はそれに魅せられてしまった……星彦は優しいから、きっと初めは、ひとりぼっちの門倉に同情したんだと思う」
 アリスが言う。
「本人がそう言ってたの?」
 詩織は首を振る。
「でも、そうでしょ。門倉とつるんだりする理由が、それ以外には思いつかないもの。そして門倉は、あの悪魔は星彦を洗脳したのよ」
「せ、洗脳ぉ? いやそれはちょっといくらなんでも――」
「言い方なんてなんでもいいよ、あいつに会わなければ星彦は死ななかったのは間違いないんだから――」
 詩織の剣呑な言葉に、アリスが目を白黒させる。
「ま、待ってよ。じゃあ、いづるんが催眠術とかでその星彦って人を死なせたってこと? 自殺とかで?」
「そうじゃないけど、自殺だったのは確かよ」
「どうして?」
「だって、本人がそう言ってたから。――ふふふ、それでさ、星彦が死んだ後、門倉のやつ、私になんて言ったと思う?」
 詩織は薄く笑って、
「――どうでもいい、よ。あいつそう言ったの。たったひとりの友達が死んで、出てきた言葉がそれ。私は思った。こいつは死んだ方がいいって。叶ったよ、望み。ふふふ、だからね、あいつはきっと、あなたに会っても誰だかわからないと思うよ、飛縁魔。きっともう忘れてる。そしてあいつは彷徨うの。次の獲物を探してね。消滅する瞬間まで、不幸の種子をばら撒き続ける災厄の男――」
 突然、詩織の右手が閃いた。飛縁魔の胸倉を掴んで、その瞳を唇が触れそうな距離から覗き込む。
「ねえ、わかったでしょ? あいつがあんたの思ってるようなやつじゃないってこと。あんたに吐いた言葉は全部、あいつの甘い嘘なのよ。あいつは何かを懇切丁寧に作り上げてから、ぶち壊すのが好きな変質者。あたしはあんたの何倍もあいつを見てきたからわかる。あんたは間違っている。牛頭天王を倒そうとするのも、門倉に関わるのも、もうやめて、何もかも終わるまで休みなさい、いい?」
 詩織の言葉を否定できる要素が、飛縁魔にはなかった。生きていた頃のいづるを知っている人間に、あいつの言葉はみな嘘だと言われて、どんな理屈でそれを拒めるだろう。詩織が嘘をついているとは思えない。彼女は少なくとも、真実だと思っていることを喋ったのだ。
 だから、飛縁魔も思ったままを口にした。
「――試してみよう」それが一番いいと思った。
「え――?」
「あいつが、本当はどんなやつなのか、本人の口から聞いてみればいい」
「はっ……何を言うかと思ったら。あいつが面を向かって自分の心の内を喋ったりするとは思えない。無駄よ」
「そこに誰もいなければ、あいつだって独り言ぐらい言うかもしれないだろ」
「どういうこと?」
 飛縁魔は、ちらっと鏡台の方を見やって、
「なあ、紙島。ちょっと貸して欲しいものがあるんだけど――」


       

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