Neetel Inside ニートノベル
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 しこたま怒られた。
「蟻塚」
 キャス子は執事をびしっと指差し、言い放つ。
「あんたクビ」
「えッ」
「あたしのおもちゃ壊そうとするとかマジ駄目な子。お母さん悲しい」
 蟻塚は化粧台に悪戯した子どものようにしょぼくれ返った。そして執事から執事見習いに『再雇用』という形が取られた。それでなにが変わるのかというと、キャス子に用もなく近づける距離が1.5メートルから3メートルに拡大された。好きな女子との距離における1.5メートルは地球と月の間よりも遠い。
「次、門倉」
「え、僕? いいかいキャス子、ちょっと冷静になってみよう。僕は被害者だぞ。悪いのはぜんぶ蟻塚ってやつなんだ。そういうわけで、ここはひとつ無罪放免でよろしく」
「駄目」にべもなかった。
「あんたの左腕、まだ貸しなんだかんね。あんたはあたしが貸した左腕を返せるようになるまで、ずっとあたしのモノなの。おわかり?」
「わん」
 従順な家畜の吼え声にキャス子が満足げに頷く。
「よろしい。あとで脳漿ラーメンおごってくれたらちょっと許す」
「だってよ蟻塚」
 と矛先を逸らそうとしたら債権者に首を絞められたので(あろうことかちょっと魂貨がこぼれた)いづるは彼女の望む返事を戻さざるを得なかった。キャス子はそれで一発でご機嫌になり、
「あれだかんね。闇市通り三番地横の『ラーメン死郎』そこ以外認めないから。あそこ以外はぜんぶ邪道」
「わかったよ」
「野菜マシマシのかびニンニク入りね。あと大盛り」
 注文の多いやつである。だが逆らえば魂がない。いづると蟻塚はフリーの後だったのでとっとと部屋に撤退して休みたかったのだが、キャス子に従えられ渋々闇市通りへ下りていった。
 闘技場の中は多層構造になっており、階ごとに特色がある。上層には券売所や軽食コーナー、売店などがあり、下層にいくほど市場や商店が増えてくる。闘技場はすり鉢状になっているため、余分なスペースは下層にしかないのだ。基本的な構造や店の並び方は、上にある常夜橋スタジアムとさほど変わらない。
 通りをいく妖怪と死人の数は半々、といったところ。みんなローブをまとっているのは、誰か知り合いに見つかりそうになったら顔を隠すためだという。守銭はあまり大手を振って楽しむ博打ではないのだ。
 ラーメン死郎は、潜水艦の中のような入り組んだ路地の途中にあった。通路にまで待ちの客があふれ出している。いづると蟻塚とキャス子はその一番うしろに並んだ。すぐにうしろにも待ち客がついて、長蛇の列の一部になる。
「この待ち時間がたまんないんだよね」キャス子が言う。
「インスタントじゃ味わえないよ、このタメにタメて喰べる感じって。ああ食べたい、でも食べらんない、ううん、どうしてくれよう?」
 キャス子が身もだえしている間に、列はどんどん短くなっていった。軟体動物と化した連れを観察する以外にやることがなく、いづるは退屈していたのだが、ちょうどそのとき後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。振り返ると、いつぞやの河童が立っていた。
「やあ、少年」
「おじさん!」
 顔見知りとの奇遇な再会に、いづるの声が明るくなった。それほど親しくもないのに、なぜかびっくりするほどほっとした。
「どうしたの、こんなところで」
「いや、あれからな、俺も下に降りてな。競神で一発ってのも考えたんだが、どうもウマは性に合わなくてな」
「そうなんだ。僕もそんな感じ」
 河童はちらっとキャス子と蟻塚の方を見て、
「――飛縁魔は? 一緒じゃないのか」
「ああ」思い出すだけで胃が痛む。
「いやね、その、いろいろあって――おじさん、話は変わるんだけど、飛縁魔の刀知らない?」
「刀? ああ、あの柄が蓮になった洒落たやつか。ふうむ、無くしたのか?」
「いや、どうも置き引きされたみたいで」
 河童はなぜか感慨深げに何度も頷いた。
「なるほどな。道理でおかしいと思った。門倉、ちょっとこれ見てみろ」
 河童は背広の腰に手を回して、一冊の雑誌を取り出した。ベルトに挟んでいたらしい。いづるはまだ列がだいぶ残っていることを確認してから、開かれた雑誌を受け取った。先頭のカラーページに、高級そうな品々に混ざって件の刀が載っていた。
「あ、間違いない。これだ。くそお、誰かが盗んで売りに出したんだな」
「いや、違う。これはカタログじゃないんだ。これは景品なんだよ」
「景品? なんの?」
「魔王会」
 いづるは雑誌を閉じてみた。表紙は、仮面をつけた上半身裸の格闘小僧が取っ組み合う戯画で、その上に金色のロゴでタイトルが印字してあった。
 ぎゃんぶる宝典。
「たぶん、誰かが盗んで景品に申請したんだろう。魔王会で勝ち上がると、珍しい品がもらえるんだ。いくらでも米が湧いてくる碗とか、好きな夢を何回でも見られる枕とかな。どれも垂涎ごくりの品ばかりだが、気に入らなければ妖怪連中にオークションして売り払ってもいい。――その雑誌、やるよ。俺はもう読んだ」
 止まっていた列ががやがやと動き出した。河童は変に気を利かして壁を見つめ始め、いづるはキャス子と蟻塚の狭い輪の中に戻った。
「おかえり。あ、それ今週のぎゃんぶる宝典じゃん。ちょうだい」
 有無を言わさず取り上げられた。蟻塚に苦情の視線を送ったが執事は石像のように沈黙を守っている。
 開きっぱなしのガラス戸にかかったのれんをくぐり、店の中に入った。L字の店内には妖怪と仮面を鼻の上まで引き上げた死人たちでごった返している。中には通路に座り込んでラーメンをすすっている猛者もいた。いづるは券売機に魂の欠片を入れて三人分の食券を買った。悪魔の刺青を触手に施したイカ店主に食券を放り投げて(あ、ひとつ野菜マシマシかびニンニク入りで)、ちょうど空いた席に腰かける。
「奢ってやるよ蟻塚」
「いや、私はいい」蟻塚は入り口のところに立ったまま入ってこない。
「びー……いや、電介が寂しがっている頃だろう。先に部屋に戻る。お嬢様、申し訳ありませんが、門倉の面倒を見てやってください」
 ぴくくっとキャス子の耳が動いた。ぐっと親指を立てて、
「任せとけ、坊やの世話は――」うまく五七五にできなかったらしく、もう一度ぐっと親指を立て直す。身分がお嬢様にもなるとこういう強引さえ許されるらしい。蟻塚は機械にはまねできない柔らかさで一礼して去っていった。
「まったく」いづるはカウンターに頬杖を突いた。
「帰るなら食券買う前に言って欲しいよな」
「いいよあたし二人分食べるし」
「太るぞ」
「あんたさ、よくデリカシーないとか人の気持ちがわからないとか失礼とか言われない?」
「言われる」
「ふっふっふ」キャス子は突然魔王になった。
「安心せい、余は直せなどとは言わん。そちのようなコミュニケーション障害者にもキャス子さまの門戸は開かれておる。感謝するのだな」
「門前払いで結構だ」
 出てきた脳漿ラーメン(一杯は二人の会話をイカ店主が聞いていてくれたのか、鍋のようなどんぶりに二人前入っていた)をカウンターの縁からおろして、二人は同時に割り箸を割った。
「いただきます」
「いただいてやろう」
 ずずっ。
「うまうまー」
「んんんん(そうだね)」
「あ、玉子砕くの? なんで?」
「んーなんでだろ、特に理由はないけど、箸で掴みにくいからかなあ」
「え? ――わっ、ちょっとあんた箸の持ち方ヘン! 貸して貸して」
「あっ、ちょっ」
 止める間もなくキャス子の手がいづるの右手を実験台のモルモットのようにわしづかみにし、持ち方を矯正し始めた。キャス子が、ちょっとまってなんで落ちるわけちゃんと持ってちゃんと、と言っているが少しもいづるの耳には届いていなかった。なんだかとてもイケナイことをしている気がしてきて、熱々の脳みそが溶けたラーメンと肩と肩がぶつかりそうな店内の熱気があいまって、一瞬、キャス子の白い仮面の奥に飛縁魔の顔が透けて見えて死ぬほどびっくりした。
 ――まさか、キャス子が姉さん、ってことはないよな。
 想像してみる。
 ないない。
 いくらなんでも本人を前にして気づかないことがあるだろうか? そこまで自分はぼんやりしていない。はず。
 そういえば火澄は今頃どうしているのだろう、どこかで会ったら彼女にも謝りたい――勝った後だからか、いづるの心は凪いでいた。いつもの刺々しさが消えている。キャス子はいま、いづるの手の悪癖だけでなく心の芯に積み重なっていた歪みもとってくれているのかもしれない。
「――あっ、やば、めん伸びる」
 ぽいっと飽きたおもちゃみたいにいづるの掌をうっちゃり、キャス子はずびずびと麺をすするのに戻った。いづるも割り箸を手にしてムンクの叫びみたいな黒いしみのあるもやしを挟む。箸の持ち方は相変わらずだった。
「あんたさ、よく蟻塚に勝てたよね」ずずー。
「うん、正直魂貨をぶつけるってのはこれから流行ると思う」ずるるっ。
「そういうことじゃなくてさ」ずっ。
 キャス子がこっちを向いた。仮面は鼻の上まで上げている。唇の端からこぼれていた麺をすすって飲み込む。
 脂にまみれててかてかと唇が輝いていた。
「あいつが、あたし守ろうとして負けたことって、いままで一回もないんだよね」
「だろうね。あいつは好きだ。まっすぐで、羨ましい」
「騎士に憧れちゃう年頃なのかな、歩兵くん?」キャス子が楽しそうに言う。いづるは肩をすくめた。
「ああ、憧れるね。僕はああいう風に生きたかったな、できれば。迷わなくて済みそうだ」
「迷ってばかりだと思うよ」
「そうなのかな」
「あたしは、あんたが迷うフリをしているだけにしか、見えないけど」
 いづるは答えなかった。
 キャス子はどんぶりに向き直り、両手でがっしと掴んでごくごくと飲み下し始めた。周りから唖然とした視線が集まる。キャス子は白くてなめらかなのどをこくっこくっと上下させて、
「ぷはっ」
 どんぶりをカウンターに叩きつけるように置いた。
 最後の意地を見せたナルトが縁に貼りついている以外は何も残っていない。
「ごちそうさま――」
 そのとき、外で身も凍るような誰かの雄たけびがあがった。
 店内の時間が止まる。不思議なことに、誰もろくに会話しているわけでもなかったのに、その怒声で店内の気配はぴたりと静かになってしまった。何かが打ちつけられるような音がして、小銭が散らばる音。
 喧嘩だ喧嘩、と誰かが呟いた。キャス子はガタッと立ち上がって、いづるの手を引っ張った。きっと仮面の奥の顔は野次馬根性できらきらしているんだろうな、といづるはなすがままにされながら思った。


       

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