Neetel Inside ニートノベル
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 どういうわけか、この地下闘技場の内郭をうろついていると、そんな音もしないのに、ましてやあるわけもないのに、すぐ外で雨が降っているような心地がする。湿気のせいか。確かにじめじめしている。いかにも死人や、動物まがいの妖怪や、なんにせよよくない不埒なモノどもがなんでもない暗がりを跋扈していそうではあったし、事実そんなようなものだった。
 首筋に張りついてくるしずくを業斗は手の甲で拭った。雪女郎は鬼火のネオンを斜めから浴びながら、あちこちの屋台を冷やかしては知り合いらしい妖怪たちとゲラゲラ笑っている。業斗はそれを少し遠くから見ている。雪女郎は時折連れの方を振り返って手招きしてくるが、業斗は首を振るだけだった。どうにも妖怪は好きになれない。一方的な逆恨みにしか過ぎないと頭ではわかっているのだが、理屈で感情は制御できないし、するべきでもない気がする。
 雪女郎がオレンジ色の巨大なスライムに身振り手振りを交えて別れの文句を置き土産にして、業斗の方にととと、と戻ってきた。不満げに唇をすぼめて言う。
「なんじゃおぬし。来いとゆうたろうが」
「うるせー。俺の趣味じゃねーんだよ、あんなゲル野郎」
「おい、ゲル夫のことを悪く言うでない! あれでいて立派な鍛冶屋なのだ」
「はァ、あれでトンカチ振るうのか……まァいいや、くっちゃべってねえでメシいこうぜ。腹減ったっつったのはあんただろうが」
 あたりには軽食や服飾の屋台がずらっと並んでいる。地下まで来ても地上と同じお祭りムードだ。ゆっくり考え事もできないし、常に誰かが袖を触れ合わせてくるくらいに通りを行き交っているのでおちおち立ち話もできない。とっととどこかへ座りたかった。そんな業斗を見て呆れた表情を浮かべた雪女郎、
「ふん、そわそわしおって。ガキか」とぶうたれながらもすたすた歩き始めた。業斗はため息をついて、妖怪と視線を合わせないようにしながら、死装束の背中にくっついていった。心なしか周囲から刺々しい気配が飛んできている気がする。そしてたぶん、気のせいじゃない。中にはわざとらしく肘をぶつけてくるチンピラっぽい妖怪もいた。イルカの頭を乗せているくせにちっとも優しくなく、豹柄のヤクザ背広に覆われた肘で思い切り業斗を突いてきた。業斗は一瞬、猛烈な耳鳴りに襲われたが、前をのんきに闊歩している雪女郎を見やって、深く息をついた。
「かえりてえ」
「まァ気持ちはわからんでもないな」
 雪女郎が振り返らずに言った。そしてタイミングよく、二人の左手、腕ずもう屋と青空一卓雀屋(じゃんや)の間にある中古家電売りのリヤカーの上に乗ったおんぼろテレビまでもが業斗を非難し始めた。テレビの中には白黒の業斗が映っていた。
 魔王戦四回戦の映像だった。いやおうなしに業斗は立ち止まった。その仮面にテレビの光が水底のように反射した。
 相手は結婚して三日で夫の弟になぶり殺しにされた新妻だった。フレアスカートに、腕をまくったとっくりセーターを着た、髪の長いひとだった。顔は見えなかったが、耳の形が髪のほつれ具合とあいまって絶妙だった。それだけで合格点だった。ただ問題は、業斗の対戦相手だったこと。
 守銭奴に求められるのは生前の筋力ではない。この点を勘違いしている観客がわりと多いのだが、選手である業斗にはよくわかる。確かに自分たちは生前の筋力や体格に支配されている――あの世では痩せることも太ることもない。筋トレしても疲れるだけで、筋力は増加したりしないし、走りこみしたって一炎の利益にもなりはしない。死んだ時の状況で自分たちは完全に固定してしまっている。髪は切っても千切っても元の長さに戻るし、爪は放っておいたっておそろしく伸びたりしない。
 だから、若いうちに死んだ守銭奴、しかも男は賭けでも人気になる。しかも童貞だったりすると(本人は絶対に喋らないだろうにどこからともなくそういう情報が巷に流通してしまうのは本当に謎だった)その恨みたるやかくや――! ということで一挙に人気が跳ね上がったりする。
 だが、守銭奴に求められるのは、優れたボディバランスを維持したままくたばることなんかじゃない。
 どれだけ深い怨念を持っているか、だ。
 あの新妻は強敵だった。ふらっ――とよろけたかと思うと豹でも乗り移ったかのように一気に飛びかかってきて、試合開始十五秒もしないうちに業斗は左腕を肘の上から持っていかれた。あの、他人の指が造作もなく自分の体内に入ってくる魂貫の感触はどれほど闘っても慣れない――だが試合の最中はほとんど意識しない。思い出すのは、いつも試合が終わって、ぼやけていた記憶がまとまりを取り戻す頃になってだ。
 左腕を失っても、右腕があった。そして右腕の肘からもう一本の腕を出して、それで五分五分――とはいかなかった。半身にならなければならなかったし、片方の腕をフェイクにして残されて反対サイドから胸めがけて、若干ブーメランがかった軌道で胸を狙われたときは焦った。それでもなんとか反応して倒れこむようにかわせたのは、ひとえに業斗の培ってきた喧嘩の経験と、「ずるをしているのに負けるわけにはいかない」という気持ちだった。
 そう、業斗はずるをしている。なにを、といまさら考えるまでもない。
 守銭で腕の本数が二倍だなんていうのは、本来勝負にならないのだ。業斗は四本腕を出して、二本で相手の腕に魂貫をしかける。相手はそれを両手で防ぐ。しかし、まだ業斗には二本の腕がある。それで相手の顔を掴んで潰せばおしまいだ。
 童貞であるにも関わらず業斗の人気がいまいち低いのは、結局のところ、彼の試合がおもしろくないからなのだ。勝って当たり前、負けたら赤っ恥。最近では業斗に賭けても掛け金払い戻しにしかならないらしい。
 どうでもいい、と思っていた。業斗は賭けが嫌いだ。どうも性に合わない。だからそんなものに入れ込んでいる物好きなやつらも、守銭奴にならずに賭ける側に回っている死人にも、興味はなかった。ないはずだった。

 ただ、やはり。
 嫌われるというのは、結構クる。

 だからなるべく自分の部屋に引きこもるようにしているのだが、おせっかいなのか新手の復讐鬼なのか、雪女郎はなんやかやと理由をつけて業斗をおもてへ引っ張り出す。一歩外に出れば、いさかいにでもならない限り業斗が霊安室にいるときとは打って変わって沈鬱になると知っていても雪女郎は懲りてくれない。
「おい、なにをぼさっとしておるのだ、この卑怯モン」
「うるせー。いまいくってんだよクソ婆ァ」
 業斗はテレビにもう一度目をやる。足払いをかけて倒れこんだ新妻に、右腕二本と、回復した左腕二本で阿修羅叩きにしている業斗が映っていた。観客は盛り上がるどころか帰っているものもいる。
 誰かのために闘っているわけじゃない。
 自分は地上(うえ)に上がらなければならない。
 すべては夢のため。たとえそれで、ひとつのゲームの基盤も醍醐味もぶち壊してしまったとしても――構わない。
「業の字ぃ」
「わーってるよ」
 業斗は足音を立てずに、その場を離れた。リヤカーにもたれて座っていた売主らしき石地蔵がよっこらしょと立ち上がって、リヤカーを引き引き、時々ゴミを轢いてリヤカーをぐらつかせながら、通りをのんびりと去っていった。



「で、どこいくんだよ、今日は」
「どこにしようかのう」と言いながらも雪女郎は腹の内ではすでに河岸を決めているようで、鬼火のうろつく明るい通りを離れ、わけありっぽい裏路地に入っていった。どこへいっても狭い通路ばかりで、業斗もだいぶ長いことあの世にいるが、いまだに頭の中に地図が出来上がらない。いま雪女郎に見捨てられたら自分の安置室までちゃんと帰れるかすら怪しい。
 えっちらおっちら尻取りしながら二人がたどり着いたのは、なんの変哲もない木戸の前だった。看板は出ていない。どうせ雪女郎にいっても、それがいいとかなんとか言うだけなのでさして尋ねもせずに、業斗はノブを押して中に入った。
 音が消えた。
 風のような気迫が仮面をしたたかにぶっ叩いてきた。

 ――番、ヒミコ伸びる、伸びる、外からぐんぐん突っ込んで来るがしかし風崎譲らないこの道入って二十四年、年季は誰より入っております風崎真吾つかさどるは天一<稀人>、墨のように黒い馬体が風崎の無骨さを表しているかのよう――

「いけえええええええええ!!!!! ぶっ殺せええええええええ!!!!!!!! かぜさきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!!!!」
 カウンターに座っていた女が拳を叩きつけて吼えていた。衝撃でキャスケット帽子が一瞬浮いた。その横で、河童が組んだ両手をぶるぶる震わせて額にくっつけながら、呻く。
「頼むぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅヒミコぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
 ぎゅっと瞑った目から涙が滲む。
「頑張ってぇぇぇぇぇぇぇえええええええええ伸びてええええええええええええ差してえええええええええお願いしますううううううううう!!!!!!!」
「お嬢さま、少し声を――」
「うるっっっっせええええええええ!!!!!!!!!」
 隣に座っていた執事らしき男のわき腹に遠慮容赦呵責なにひとつないエルボーをぶち込んだ女はもはや半狂乱になっていた。
「やれええええええええ!!!!! かぜさきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!! ぶっっっっ殺せぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!! やめたげてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!」
 業斗はただ呆然とするばかり。
 なんだ、これは。

 ――さあ最終ストレート、若手の花、果たして裂くか、それとも古刀の刃に散ってしまうのか! ああ、ヒミコ伸びます、一馬身差、半馬身、首――

 金縛りにあったようにその場に業斗は立ち尽くしていた。うしろから雪女郎が何をしておるはよ入れ何も見えんぞでかぶつがとしきりに尻を蹴飛ばして来るのも気にならなかった。なにが起こっているのか見当もつかないが、とにかくその熱気に当てられていたし――なにより目を奪われていた。半狂乱になりとうとう実況を伝えるおんぼろラジオに掴みかかって台に叩きつけ始めた女にでもなく、その女を羽交い絞めにして押さえ込もうとしている執事然とした男にでもなく、ましてやとうとう宗旨変えして胸元で十字を切り始めた絶体絶命の河童であるわけもなく、
 そいつは、ひとつ離れた席で、黙ってラジオを聴いていた。
 業斗が木戸を開けた時から、仮面を覆うようにしていた右手が、とうとうその仮面を引き剥がし始めた。死人が仮面を外そうとするなんて物を食べる時くらいだったが、カウンターには空になったグラスがひとつちょこんと乗っているだけだった。
 門倉いづるは、ほんの少しはずした仮面の隙間から、やけに照っている目をすう――っと細める。
 女がとうとう河童にまで取り押さえられてラジオから引き剥がされた。一同、身を乗り出して、ラジオを頭で取り囲む。

 ――さあ鼻差、鼻差です! ゴールまでもうあとわずかっ、初めて競神に出た時はグリッドの中で札を取り落としましたヒミコセカンド、その顔つきはもうルーキーだなんて呼ばせません、立派ですっ、イロモノとも呼ばれました、女子供と蔑まれもしました、それでも諦めませんでしたなぜなら譲れないものがここにはある魂と言葉と己が腕を持って闘いますそこに女も歳も関係ありません並びました並んだ並んだどっちだどっちだヒミコかっ、風崎かっ、ああいまいまいまいまいま、



 一瞬の沈黙の後、おんぼろラジオは晴れやかな声で宣言した。

 ――若手の花が、







 咲きました――――――――






「うわああーっ!!!!! かっ、かぜさきーっ!!!!!!! 」
 女がキャスケット帽の中に指を突っ込んで絶叫した。
「あたしの、あたしのかぜさきがああああああああああ!!!!!!」
 隣の河童が思い切りカウンターをぶっ叩いてやおらスツールから立ち上がって吼えた。
「いよっしゃああああああああ!!!!! 勝ったあああああああ!!!!!!! ど、どんなもんじゃらば――――――い!!!!!!」
「ふざけんなよお! こんなのってないよお! 嘘だあ絶対うそだあこんなん八百長だ八百長! 責任者でてこいっ!」
「お嬢様、言葉使いが汚」今度のエルボーは目にも止まらなかった。みぞおちをしたたかに打たれた執事は「本望」と一言残してその場に転がった。
 一同の足元で邪魔になっている執事を足で押しのけて、それまでずうっと黙っていた半仮面の少年が立ち上がった。半仮面というのは、あまりなくても困らない仮面の口の部分だけを円形に切り取ったものだ。その少年はパチパチと手を叩いて、
「いやあお強い! かぁーっまさかヒミコのお嬢が来るとはね! ここ一番で勝ち馬を見抜いちまうんだから河童の旦那にゃあ負けますなあ。やれやれこんなんじゃあっしも、ドリンク業を畳む日もそう遠くはなさそうだ」
「僕もだぜ」と門倉がようやく口を開いた。おみくじの棒のようなものをぴっぴと振ってみせる。「配当おくれ」
「おっ」半仮面の少年は嬉しそうに、「いづるの旦那はいつものことだね。よう当てますな、ひょっとして神様ですかい? 博打の神様、へへへ、どうかあっしのことはお目こぼしくださいな」
「もうろくしたらね。――ん?」と、ここでいづるは、戸口に突っ立ったままの業斗に気づいたらしかった。片手をあげて、
「やあ、ゴーくんじゃないか! ご無沙汰だねぇ」
 業斗は、どうしたものかと一瞬悩んだ。が、痺れを切らした雪女郎にケツをドロップキックされてつんのめり、渋々ラジオ一座の方へ歩み寄っていった。


(つづく)

       

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