Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      


 混沌を音に固めたらこんな感じだろうといつも思う。溢れかえった釜の湯気のような雑種多様の気配の中を歩いていると、寂しいとか、恐ろしいとか、そう言った気持ちが火で炙ったように溶けて崩れていく。たとえ周りを行き交っているのが、死人、妖怪、怨霊の類だとしても。
 キャス子は露店通りをてくてくと歩いていた。蟻塚は置いてきた。あいつに相談すると「私がやりましょうお嬢様」の一言で解決してくるから嫌いだ。それじゃなんの解決にもなっていないのだ。さあ貸してごらんなさいじゃないのだ。蟻塚は優しい、けれど、その優しさには毒がある。本人さえも気づいていない致命的な、毒が。
 キャス子は通りをジグザグに放浪した。ゴザを敷いて、本棚を置きその中に古書を突っ込んだだけの古本屋を冷やかす。店主と思しきボロ布をまとった、ただれた肌をした妖怪は勝手に棚を漁るキャス子に何も言ってこない。キャス子もあれこれ世間話など吹っかけずに客に徹して、その中から目当ての本を見繕った。医学書並みの分厚さをした『裁縫大全』に、『猿でもみるみるうちにそれなりになる刺繍手本』に、ちょっと薄めの『草原の女――その作法』を重ねて脇に抱えて、財布から出した赤金を足元の欠けた茶碗に放り込んだ。ちゃりりりん、と碗が鳴って、店主は黙って一礼した。キャス子はちょっと感激する。粋なひとだ。でも少し寂しい。
 手持ちの本を片手抱きにして、中身をちょっと覗いてみる。『裁縫大全』は詳細に書かれているけれどイラストが少なめ。専門用語も多い。でも基礎は『猿みる』でカバーできそうだ。こっちでまず勉強して、ステップを整え、いっぱしになってからこの辞書みたいな本を切り崩しにかかろう。『草原の女』はべつにいらなかった。
 中身を確認し終えたので、キャス子は足元を見渡した。お目当ての連中はすぐに見つかった。大小長短入り混じった足群れの中に、小型のリヤカーを引いたコロポックルたちがいた。アイヌのものらしい民族衣装を着て、額にはねじり鉢巻。ハタから見るとどう見ても裁縫の練習として犠牲となったフェルト製の人形にしか見えないが、もちろん彼らは生きていて、仕事をして魂を稼いでいる。キャス子は声をかけて彼らの注意を引き、手持ちの本を指差して、彼らのリヤカーの荷台にそっと乗せた。仕事柄と言うべきか、彼らは住処を持っているもののねぐらがどこにあるか熟知していて、ちょっと買い物を張り切りすぎた時などに手荷物を持って帰ってくれるのだ。鍵なしでどうやってあの分厚い鉄扉を抜けて品物を届けてくれているのかは神のみぞ知るところだが、便利な上に仕事熱心な彼らに対して文句を言うやつはどこにもいない。お客のプライドがのるかそるかがかかっている荷物を乗せて、えっさほっさと去っていくコロポックルたちに(一台につき2~3人がふつう)小さく手を振って見送りを済ませると、キャス子は腕時計に視線を注いだ。
 帰ろうか、と思ってから、まだ肝心要の用を足していないことに気がつく。マントへ刺繍するその模様が決まっていない。ため息をついて、いづるから手渡されたマントをジャケットのポケットから取り出す。どこからかっぱらってきたのか、いい生地だ。畳みやすいし。
 このマントに求められている模様。それは華やかさでも、優美さでもない。門倉いづるの依頼はただひとつ――遠近感を狂わせること。
 守銭は原則として持ち込み自由。だから武器だけではなく防具だって持ち込んでもいい。ただ、この地下闘技場には武器は売っていても防具はほとんど置いていない。これは守銭において急所とされている頭部と胸部を徹底的にガードして、勝負を味気ないものにさせないための主催者側の配慮。ならば残った手段は、誰かに防具を配達してもらうか、自分で作るか。いづるは第二の選択を取り、さらに我流でアレンジ(他人任せ!)した。その結果がいまキャス子の手の中にある厄介事の正体だ。
 遠近法を狂わせる、というと、騙し絵のようなものが本来は必要なのだろうが、不幸中の幸いなことがひとつある。ここがあの世だということだ。キャス子の周りを見てみれば、この世界でいかに物理法則が軽んじられているかがよくわかる。出所不明の風にいつまでも乗り続けている一反木綿に、ひっくり返ってくるくる回っている中華風の絵皿。キャス子は手を伸ばして羽を生やしたビー玉を掴もうとしたが、するりと指先から逃げてしまった。
 こんな具合であるゆえに、この世の理では不可能なことでも、あの世の理に即してみれば割合簡単なのである。だからもちろん、人間の目を通してみた時にくらっとするような絵柄も探してみるが、原理から手繰るよりも結果から遡った方が速いかもしれない。なにせ死後の世界――あるはずのない、世界。そこで、過去の習慣や常識にしがみついていたって、なんの支えにもなってくれはしない。


 とりあえず、動いてみよう。
 ドリンク屋にいって競神でもやるか、それとも青空雀屋に顔でも出して、久々に牌でも握っちゃおうか――そう思って足を踏み出しかけた時、誰かが自分を見ていることに気がついた。首筋がかゆくなった方向をチラリと見やる。
 老婆だった。
 車椅子に乗っている。露店同士の間、ちょっとした空間になっているところに車椅子を乗りつけて、左手をホイールに、右手を膝掛けの上に乗せて、じっとこちらを見ている。どこかの森の奥深くに生える大樹のように乾いてささくれ立った顔をして、やはり赤い目を熾き火のように光らせて――
 キャス子は気配の河の真ん中で立ち止まり、同じように微動だにしない老婆と向き合った。
「――なに、おばあさん。あたしに用でもあるの?」
「用があるのは、おまえの方だろ?」
 老婆の声は掠れていて、聞き取りにくかったが、不思議と耳に残った。
「探し物をしているようだな。それも――誰かのための、探し物。おまえは代理というわけか」
「ははあ」キャス子は声でにやにやした。
「それって占い? あたしそういうの信じないクチなんだ、悪いけど。誰にでも当てはまりそうだもんね、探し物、なんて」
「いや、おまえが探しているのはたったひとつだ。それ以外にはないはずだ」
「そりゃあそう言われてしまえば、そうかもしれない。誰でもいつでもどこでもなんでも。あたしの言ってることわかる?」
 老婆はキャス子の挑発を無視して続けた。
「おまえの望むものは私が持っている……ついてこい」
「え?」
「案内しよう……私の『家』へ」
 自分でホイールを回して路地を進み、横道に入ってしまった老婆を追いかけるべきか、キャス子は一瞬だけ迷った。が、結局、動くことだ――と思った。動かなければなにも始まらない。たとえこれが吉なる出会いか、それとも災呼ぶ出会いか、どちらにせよ、引き返せば、それっきり。望むものは持っている? だったら確かめさせてもらおうじゃん……本当か、どうか?
 キャス子は足を踏み出して、軽い地響きさえ感じる露店通りから、闇が溢れる通路へひょいと滑り込んだ。老婆の車椅子が、すぐ目の前を進んでいた。
「あのー、おばあさん」
「…………」
「もしもーし?」
 ちっとも答えてくれない。ムッとして、逆に何か言うまで徹底的に絡んでやろうかとも思ったが、やめておいた。勝てなかった時が泣ける。
 先をゆく老婆の車椅子が、スッと消えた。一瞬ひやっとしたが、なんてことはない、右折しただけだ。キャス子も後を追って角を曲がると、通路が少し広くなっていた。老婆は相変わらず、闇の中にぼうっと浮かび上がって、キコキコとホイールを回していた。かと思うとまたスッといなくなる。今度は左折だ。その時、キャス子はフイに妙な予感に捕らわれて、老婆を見失うまでの時間を使って、周囲を見渡した。完全な闇ではなかった。通路の壁も天井も、見える。
 丁字路だった。右手は壁、老婆が進まなかった直進方向は闇に包まれていて見えない。キャス子は老婆を追った。老婆は十字路を右折するところだった。
「ねえ、まっすぐいったら駄目なの?」
 老婆は答えない。だめだこりゃ、とキャス子は従順に老婆を追った。
 直進、左折、左折、そして右折。
 行き止まりだった。
「おや……」老婆は聳え立つ壁を見上げて、
「歳かね、間違えた」ぶつぶつ言いながら戻る。元の十字路に出ると、そのまま直進。また壁。
「むう……」老婆は黄土色の壁を見上げて、
「いけない、間違えた」またぶつぶつ言いながら戻る。元の十字路に出て、今度は左折。
 車椅子の後を従順にくっついていたキャス子は思った。
 きなくせー。
 超アヤシイ。

       

表紙
Tweet

Neetsha