Neetel Inside ニートノベル
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(しまった)
 思っても、もう遅い。足元が抜けていくような、不気味な浮遊感がキャス子を襲った。何食わぬ風に前をゆく老婆を睨むが、睨んだってどうしようもない。
 どこかで煙に巻かれたのだ。だが、どこで? 何度も繰り返されたあの不毛な道間違いの時か、それともやはり、老婆が躓いて転んだ時? ああ、考える、時間が、ない――
 老婆が角を曲がろうとしている。決断の時だった。
「――――くっ」
 思考を止めろ。考えるのはよせ。
 これ以上、不確定な情報を増やすな。一歩を踏み出せ。老婆に追いつけ。
 置いていかれるつもりか? この迷路に。
 ――老婆が右に曲がった。ブーツのかかとをヤケクソ気味に叩きつけて、キャス子は車椅子を追った。その次の十字路を直進。右折。行き止まり(死ね!)。戻ってさらに直進。
 丁字路。
 左折。
 丁字路に沿って進むと、ぽっかりと右手に道が開けている場所に出くわして、当然のように老婆は右折。しばらく進むと、通路が下へと続く傾斜路になっていた。しかし、その上には依然として道があり、どこかへ続いているようなのだが、闇が深くて見えない。老婆はスロープを下りていき、キャス子もそれに続いた。スロープは男ひとりと半分ほどで水平を取り戻して、そしてそこがそのまま老婆の部屋になっているようだった。老婆は暗闇の中を勝手知ったるという風に車椅子を操り、ロウソクを刺した燭台にマッチで火を点けた。ぼう、と枯れ果てた顔が闇に浮かび上がる。
「かけなさい」
 老婆に言われて、はじめて、キャス子は自分と相手の間に樫の食卓があることに気づいた。クッションの効いた椅子に座り、老婆と向かい合う。
「おまえが欲しているもの」老婆はキャス子、ではなく壁にかかっている馬の頭部の骸骨(頭部からは、一本の角が生えている)を見上げて言った。
「おまえが否定しないいまの答えは、刺繍の模様の手本――そうだな?」
 老婆は答えを待たずに、
「すでに用意してある――見ろ」
 老婆が手を振ると、いつの間にか(キャス子は瞬きもしていないのに)卓には四枚の羊皮紙が置かれていた。それぞれに、単調とも思われる一本線による図が引かれている。それぞれ似ているが違う模様が、雷文のように循環して、全体として複雑な図と化している。
「わーお」キャス子が両手を挙げてみせるが、老婆はやはり取り合わない。
「もうわかっているとは思うが――これは、我が隠れ家へと続く道の図だ。この図に従って、仮にいま、誰かが正しい地図を見て進めば、我が家――『迷い家(が)』へと辿り着けるというわけだ」
「この四枚のうち、どれかひとつの道筋を選べば――でしょ?」
「そう、そうだ」老婆は沈痛な表情を浮かべて何度も頷いた。
「おまえはそういうやつだ。だからこそ、おまえにはわかっているはずなのだ……」
「えっ? ああ、うん、もちろん! あたしは、答えに辿り着く。着きますとも」
「ちがう。……おまえはもう答えを知っている」
 老婆はまた意味深なことを呟き、どこからともなく取り出したノートと筆記用具をキャス子の方に放った。シャープペンシル、消しゴムに加え、ご丁寧に三色マーカーまである。キャス子は礼を言ってそれに手を伸ばしながら、考える。
 答えはもう、知っている?
「待て」
 キャス子がペンを持ってノートを開き、いままさに書きつけようとした時、老婆が手を挙げてそれを制した。
「まだ聞いていなかった――おまえの決意を」
「ああ。魂? いいよ、どれぐらい? まさかオールインじゃないでしょ」
「いや、全部だ」老婆は頑として言った。
「勝負を決するなら、前へ進むならば、分け隔てすることはできない。なぜならおまえが賭けることのできる魂はひとつだけだからだ。金ではないからだ。たとえできることが同じであろうと、その価値が金よりも低い時が確かに存在していようとも――魂とは、本来ひとつきりのもの。分割など、できない――」
「は――何を言うかと思えば、結局は自分の強欲をポリシーだって言い張りたいだけ? さすが死に損ないだね。でもあたしは嫌だ。オールインなんてしたくない」
「門倉いづるが大切だからか?」
「……は? なんであいつがいま出て来るわけ。ていうか、あのバカと知り合い?」
「おまえは」
 老婆はキャス子を指差して、
「私だ」
「さっきから、なに言って……?」
「おまえに悔いなどないはずだ――思い出せ、堂島アンナ」
 その名が、キャス子の胸を貫いた。
「なんで、あたしの名前を……」
「おまえは私だ」老婆は繰り返した。その目を昏く昏く輝かせて、
「さあ、賭けろ。おまえにはそれができたはずだ。呪われた魂の担ぎ手よ――おまえは、私だ。私も賭けよう! この魂を、一銭残らず……だが、勝負に乗れば、おまえは消える。おまえにもはや道はない――このまま進めば」

 このまま進めば、
 道は、ない――

 どうしてだろう。
 握ったペンが、震える。

「おまえはわかっていたはずだ――アンナ。だから、おまえの取るべき道は、ただひとつ――去ることだ。何もかも捨てて逃げることだ。それだけが、おまえの残存方法なのだ。おまえがそのペンを手に取り、私と闘うことは間違っている。門倉いづるがおまえを誤らせている。もう一度言う」
 頭に響く声で、老婆は言った。
「逃げろ。いまなら見逃してやる。そして私は、おまえの味方だ。私に背いて、何になる? 思い出せ――」

 思い出す。
 思い出す――

       

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