Neetel Inside ニートノベル
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 予想を超えた事態が起こっていた。
 門倉いづるが、押している。
 下馬評ではほぼ勝率ゼロ――むしろ賭けは両者の勝敗ではなく、門倉いづるが何分持つか? という内容でなくては成立しないような試合展開になるだろう、と言われていたのだ。
 それがどうだ。花村業斗の突きはさばかれて空を切り、その度に門倉いづるのパワーはないが正確無比の指先が魂貨を宙にばら撒いていく。
 観客たちは顔を見合わせながらも、沸々と沸き起こってきた熱狂に釣られて拳を振り上げ声援を送っていた。普段のけだるさなど感じさせない熱の入りようだった。安全牌で業斗に賭けて、1.1倍の配当を啜ろうとしていた連中の喉からも慌てたように業斗を叱咤する怒鳴り声が弾けた。
 そう、押している。
 キャス子はじっと、最前列の手すりを両手で掴んで、それにしがみつくようにしながら、戦況を見下ろしていた。
 押してはいるが――
「決め手に欠ける、ってところですかい、キャス子のお嬢」
「――誰?」
「おお、こいつァひどい。散々あっしからしぼり取っていった癖に、用が済んだらポイですか。女ってぇのは魔物ですな、まったく」
 そう言ってキャス子ににやっと笑いかけたのは、いつぞやのドリンク屋だった。地下からラジオで競神を中継し、その胴元を受けていた死人だ。洒落者風に下半分を弧型に切り落とした仮面から覗く口元には空腹じみた笑みが浮かんでいる。キャス子はにやにや笑いをするやつが嫌いだった。
「いやらしい言い方しないでくんない?」
「気にしなさんな、あっしたちにとっては慣用句みたいなもんでね。それにあっしは、いづるの兄ィが天下分け目の決戦だっていうから、応援に来たんですよ。といっても、あっしが張っているのは、あの白ランの方ですが」
「なんでもいいから黙っておいてやってよ。今のあいつに一番効くのはあたしの声なんだから」
「ハハハ、そうなんですか?」ドリンク屋はひょいと首を伸ばして眼下を見下ろし、「それにしちゃあ、どうやらあんまり効いちゃいないらしい」
 一切の予備動作なしに、キャス子の右腕が動いた。いきなり高圧の電流を流されて痙攣したかのように跳ね上がった腕はドリンク屋の喉を引き裂いたかに見えたが、ドリンク屋はいつの間にか一歩下がっていて、キャス子が引き裂けたのはドリンク屋の冷や汗くらいのものだった。
「ちょ、ちょっとちょっとお嬢。なにもあっしは敵ってわけじゃありませんよ」
「あたしバカじゃないよ。あんたがあたしをバカだと思ってることがわかるくらいにはバカじゃないもん」
「いやいやいや」ドリンク屋は両手を振って、
「これはとんだ誤解ですよ。あっしはね、ただ事実を言ったまでです。お嬢、あんただってわかっているはずでしょうが」
 ドリンク屋は腕を振って、井戸の底で戦い続ける二人を示す。業斗が貫手を放ち、いづるがそれをマントでさばいて、盗むように魂貨を削り取る。そのパターンがループのように繰り返されていた。
 だが、少しずつ変化が起こっていた。手すりを握るキャス子の掌に、ぎゅっと力が入る。
 業斗の貫手を、いづるはかわす。かわす。かわす。
 かわすだけ。
 いつの間にか、反撃の手が休んでいた。それどころか、宙を舞う数枚の魂貨は、業斗の貫手でいづるから削り落とされたものに見える。
 この段階で、業斗が二つの関門を突破していづるに攻撃を当てていることは明白だった。その関門とは、『迷い家マント』と『背中受け』の二つ。マントについては言うまでもなく、白と黒の色彩とその模様に込められた呪によって、業斗の遠近感を狂わせ、貫手の正確性と命中率を低下させている。
「ですがあのマント、攻略法は実に容易いんですね、これが」
「……」
「迷い家の道を呪に転用するってぇのはいい案です。誰の入れ知恵か知りませんがね。ですが、あれは距離感は狂っていても、方向はそのままなわけです。べつにマントを貫いたら門倉兄ィが背後に回っているわけじゃない。いるんです、そのまま向こうに。ただ狙った位置よりほんのちょっと遠いだけ。それなら果敢に突撃すればいずれゴールへは辿り着ける。容易くね」
 眼下で、また業斗の貫手が功を奏し、いづるの肩口から真っ赤な飛沫が上がった。耳をつんざく歓声と、下世話な口笛が吹き鳴らされた。
「でも」とキャス子はもつれあっては離れるを繰り返す二人から顔を背けずに言った。
「それだけなら、まだ門倉は優位に立っているはず」
 そう、なにもいづるはマントだけを頼って鬼退治に望んだわけではない。しっかりとした下地を敷いてきたのだ。それは守銭において奥義とも言える戦術。基礎中の基礎、ゆえに真髄。
 背中受けだ。
 死人の背中側から、その魂を抜き取ることはできない。ゆえに、通常の守銭では背中は追い詰められた時に見せて距離や時間を稼ぐための保険として使われることが多いが、門倉いづるはそれを実際に魂のやり取りをする最中に組み込んだ。相手の攻撃を受ける際に、身体を捻り、背中を見せ相手の魂貫を防御する。実際には背中というよりも後方の肩の角度を使って捌く。いづるは自分を実験台にして、死人の身体がいったいどこからが前面でどこからが背中なのかを熟知している。一歩間違えればそのまま肩をえぐられているかもしれないギリギリの角度で、業斗の貫手を逸らしている。
 しかしそれも、普通ならば無理な体勢の不利を突かれて、相手からラッシュを喰らってしまったり、足払いを受けてよろめいてしまえば、かえって逆効果となるリスクある戦法。努力に対してリターンが薄い、それが守銭奴たちに『背中受け』が受け入れられていない、実践的ではない戦術として捨て置かれている原因だった、が、いづるはこの点をマントでクリアした。
 いづるは身体をマントでゆったりと覆い、足元も隠して、『背中受け』をしていることを敵の目から欺いた。首を前に向けていれば、業斗はいづるが身を捻っているとは思わない。だから身体めがけて貫手を放っても、背中に弾かれて魂貫できずに逆に反撃を受けてしまう。
 そういう手はず、のはずだった。
 だが、現にいまいづるは攻撃を受けている。攻勢から防戦へと移行しつつある。それでは駄目だ。正面から打ち合えばいづるは勝てない。それは覆せない、歴然としてそこにある魂の総量の差。
 あの世出版刊行『ぎゃんぶる宝典』の編集部一座による調査によれば、《餓鬼》門倉いづるの魂の残高は七月一日づけで三百万超。対して、《破天公》花村業斗の残高は七百五十万炎以上、と推測されている。測定方法は謎だが、どこからともなく真実を発掘してくる腕利き記者たちが書いた記事に誤謬は決してない。ソースは不明なのに怖いくらいに正確無比、それが『ぎゃんぶる宝典』があの世博打渡世人たちに広く親しまれている理由だ。
 そして、魂の残高はそのまま魂貫の攻撃力に直結する。
 まともに打ち合えば、門倉いづるは花村業斗に、勝てない。
 だからこそ、用意した。せめてまともに打ち合えるまでに業斗の残高を削れるだけの策を。
 なのに――
「どうして攻撃が当たるのか、と思うでしょ、お嬢。あっしも上で見ていて謎だったんですがね、確実なのは、業斗が背中受けに気づいてるってことです」
「気づいてる……そう、確かにそうかも。でも、気づけても、対処できるわけがない。いづるは体位を常にマントの下で変え続けていて、業斗が遮二無二飛びかかっても、背中で受けるか、あるいは不安定な姿勢を崩そうとしても、その時は正面を向いていて難なくカウンターを打てるかもしれない。あのマントには自分の姿勢を隠すという意味もある。門倉に抜かりはなかったはずなのに――」
「とっころがどっこい、完璧というやつも魔物でね、だいたいそうではないんです。必ずどこかに縫い目がある。天衣無縫は神様だけの言葉なんですよ。門倉兄ィは見誤った」
「何を」
「花村業斗の夢見る力を、です。――あっしはお嬢や兄ィの博打の世話をさせてもらいました。こういう胴持ちの博打を受け持っているとね、自然と人を見る目ってのが培われてくるんです。お嬢、確かに門倉兄ィは強い。まさに博打をやるために生まれてきたような人間です。ですがね、兄ィには夢がない」
「そんなことない。門倉は、ちゃんと、自分の意思で闘ってる」
「足りないんですよそんなんじゃ。兄ィは強い。でも、それだけです。あの人は競神のラジオを聴いている時、お嬢のように熱狂したりはしなかった。一瞬、最後のゴール間際くらいには熱っぽくなる気配もありましたが、それも時化た煙草みたいなもんで、結局は大した火じゃないんです。兄ィは強い、勝たねばならぬ事情もありましょう、決意もありましょう、ですがそれだけです」
「それだけ、って……そんな」
「それを上回る力。それは夢を見る力です。それが不可能であればあるほど、燃え上がろうとする狂熱。兄ィにはそれがなく、そして花村業斗にはそれがあった。それがいま、業斗に、意識しているかどうかはともかく、目を与えている」
「目……?」
 ドリンク屋は口だけで笑い、
「そう、勝ちの目であり、気づく目です。お嬢にはわかりませんか? 簡単なんですよ。タネをバラしてしまったら二度と使えないくらいに。ねえお嬢、よく見てごらんなさい、門倉兄ィはいまマントの下で、身を捻っていますか? それとも普通に立っていますか?」
「……そんなの、わからないよ。わからないように、訓練したんだし」
「いいえ、おそらく近くで、それこそ白兵戦の最中にある花村業斗には見えているはずですよ。――身をひねっている間、兄ィの身体のシルエットは、少しだけ細くなっているはずです」
「え……? だって、マントはゆったりつけてて、身体の輪郭に沿っているわけじゃ……」
「お嬢、場所が悪かった。ここには冷気がある。風がある。時々マントがそよいでいますね。風が吹いてマントがはためいた時、ねえ、『あるべき場所に肘がなかったら』どうします? ぺたりと、兄ィの胴に沿ってマントがくっついたら、どう思います?」
「――――」
「逆に」ドリンク屋は喜色を隠そうともせずにやりと笑って、
「風が吹いた時に、兄ィの肘がマントを下から突っ返しているでっぱりが見えたら――もうわかるでしょ? かァんたんなんですよ、かァんたん」
 キャス子は唇を噛み締めた。
 門倉。

       

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