Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
21.ALL In,Only ONE

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 朧車の定員は運転席含めて六人だったが、ぎゅうぎゅうに詰めてなんとか全員乗り切った。屋根に誰か乗れればよかったのだが、残念ながらそれは成長した電介の指定席で、振り落とされたいやつ以外は上がろうとは思えない。
 クズ鉄山は、あの世横丁の西の果てにある。
 夕陽に向かって朧車は粉塵を巻き上げて爆走していった。
 いづるは孤后天に、ドアに押し付けられていた。コロポックルだけはかろうじて手の中に入れて守っている。
「痛いです、孤后天さん」
「我慢しろ。私も辛い。おいヤン、おまえどさくさに紛れて何を触っている」
「え? いやちがっ、光明のやつが……いだだだだ!!」
「うわっ! だからってこっち来ないでよヤン! って、コラ河童ァ! おまえはわざとだろおまえは!!」
「いや俺ァロリコンだからアリスの方がいいなあ。なあ煙の」
「金髪幼女は、うむ、いいね」
「さ、寒気がする……助けてキャス子さん!」
「おっけー」どぼどぼどぼ、
「ああーっ!! 頭の皿に醤油なんてかけるんじゃねえよ――っ!!」
「おい、うるさいぞ妖怪ども。俺のように心頭滅却して大人しくしてろ」
「私の上からどいてから言え」
「嫌ですぅー」
「……っ!」
「待ってくれ孤后天さん、いま刀を抜いたら僕が斬れる」
「かまわん」
「本当に抜かないでください孤后天さん」
「あーっ! いづるんから魂貨がーっ!」
「うるせえええええんだよ、おまえら!! 少しは黙ってらんねえのか!!」
 一同、シィンと黙ってから、
「喋れたんだ、朧車……」
 電介が、屋根の上でふわわとあくびをした。





 朧車は、左右を廃棄されたガラクタでできた山に挟まれて、進んでいく。突然、光明が真顔になって言った。
「止めてくれ」
「どうした、光坊」と河童が聞いた。
「野暮用」
「おまえ野暮用って言いたいだけだろ。トイレならトイレってはっきり」
「うるせえな!! そんなわけねーだろうが!!」
「じゃあなんだよ」
「追手だよ追手」
 追手? といづるが聞いた。光明は背後を振り返りながら頷いて、
「ああ、詩織だろうな。たぶん志馬の野郎、牛頭天王を持ち出してきてんだよ。詩織からしたらこの一件にゃ牛頭――首藤を巻き込まないって約束で志馬に手ぇ貸してたんだろうが、出し抜かれたわけだ」
「じゃあ、詩織と一緒に志馬をやっつければいいんじゃない?」と猫町がもっともらしいことを言ったが、いづるは首を振った。
「勝負で志馬から姉さんを取り戻さなくっちゃ、姉さんはずっとあのままだ。邪魔立てされると困る」
「そういうこと」
 光明はドアを蹴り開けて、外に身を乗り出した。
「門倉、俺には博打のことはよくわからん。俺ァ、式札を繰ってなんぼだ。それ以外には何もできねえ。だからおまえも、おまえにならできることをやれよ」
「ああ、それをやりにいくつもりだよ。――みっちゃん」
「ん?」
「負けるなよ」
「誰に言って」
 その時、いづるが光明の手を払った。支えを失った光明はごろごろと地面を転げまわり、咳き込みながら遠ざかっていく朧車に怒鳴った。
「てめえ門倉! 覚えてやがれ!」
 きっといづるは、悪党みたいなセリフだなと車内で思ったことだろう。
 光明はパンパンと袴の汚れを叩いて落とし、夕陽に背を向けた。
 一台のバイクが突っ込んで来る。乗り手は白いロシア帽を被っていた。
 光明の前で、横滑りの急制動をかけて止まった。
 目が血走っている。
 紙島詩織だった。
「どいて、土御門。あいつら殺せない」
「断る」
 詩織はバイクから降りて、右腰のデッキホルダーの留め具をパチンと外した。
「どかないなら、生きていても、殺す」
「そんな風にしたところで、首藤は生き返ったりはしねえぞ」
「そんな正論は聞き飽きた。あたしは諦めない。何一つとして、大切なものを捨て去ったりしない」
 光明は魂を抜かれたように笑った。
「それは無理だよ、紙島」
「無理じゃない、諦めたいやつは勝手にしてろ。おまえなんかに何ができる?」
 詩織は嘲笑を浮かべ、
「大切な人を失って、それきりその人のことを忘れて、平然とした顔で生きてるあんたに何ができるっていうの」
 光明の唇がびきりと歪んだ。
「ああ……そうだな。俺は桔梗を死なせたままにした。あいつはもう生き返らない」
「だからって、その腹いせであたしの邪魔をするのはやめてよ」
「腹いせじゃねえよ」
 光明も、ホルダーの留め具を外した。
「俺ァ、あの時、おまえに勝ってた」
「……は? 何の話?」
「いつでもいいよ。おまえはずっとイカサマをしていたらしいな」
「イカサマじゃない。あたしが編み出した、新しい陰陽術」
「が、俺はそれを知らなかったわけだな」
「……はあ? なにそれ、言いがかりも甚だしい」
「そうかもしれねえ。が、おまえのおかげで、おまえさえいなければ、俺は勝ってた競神があったかもしれねえ。あるいは、あの時、勝っていれば俺は桔梗がいなくなって最初の勝負を勝ちで締めくくれたかもしれねえ」
「しれない、しれないって、終わったことばかりをくどくどと……みっともないと思わない?」
「全然」
 光明は半身に身体を開き、
「俺はあの時、勝っていた。男として、その借りを、貸しっぱなしにはしておけねえ」
 詩織の目に嫌悪の色が宿る。
「男って、本当に下衆な生き物。理解できない。どうかしてる。なんなの、ねえ、なんなの?」
「早く札引けよ」
 光明が笑った。
「待ってんだから」
 少女の白目が怒りで真っ赤に染まった。
 詩織の指が走り、光明は、きっかり彼女が札を引いた刹那ひとつ分を置いて、式を撃――――――――……


     


 どれほど走っただろうか。二人と七人と一匹を乗せた朧車は、横滑りにガラクタを跳ね飛ばしながら止まった。がくん、と車体が揺れ、ぼろぼろとあやかしたちが零れだした。一行は目を細めて、顔を上げた。
 夕陽が、大きい。
 西の果てだ。
 そこに、年代物のブラウン管が積み上げられていた。小さなピラミッドのように三角錐を形成している、そこの一番上に夕原志馬が腰を下ろしていた。手には九枚の式札が握られている。
 その目が、血まみれの少年を捉えた。
「よう」
「――姉さんはどこだ、志馬」
 ここ、と言って志馬は手中の式札を軽く振った。
「姉さん、ね。相も変わらず気色の悪いおままごとを続けてるわけだ。どうかしてるな」
「何もかもが、突き詰めて言えば、おままごとだろ。嘘が嘘だから退くというなら、何もする意味がないよ」
「言うね。で、おまえらもこいつの肩を持つわけ?」
「当たり前」とアリスが言った。
「もちろん」とヤンが言った。
「あんたよりはマシだもん」と猫町が言った。
「左に同じく」と孤后天が言った。
「腐れ縁ってやつでね」と河童が言った。
「煙草を吸わないやつは、いいやつだ」と煙々羅が言った。
「むふーっ!!」とコロポックルが志馬を睨んだ。
 クラクション。
 電介が吼える。
「あんたもか、堂島サン」
 キャス子が笑って、帽子を軽くあげた。
「キスまでしちゃいましたんで」
「それはそれは。人気者で羨ましいよ、門倉。もう友達はたくさんいるみたいだし、俺のは見逃してくれないかな? それとも何もかも自分のモノにしなくっちゃ我慢できないか」
「これが、僕のモノに見えるのか」
「見えるねぇ」
「じゃあ、おまえはやっぱり、姉さんをモノ扱いしてるってことだ」
「――――」
「志馬、おまえの気持ちはよくわかる。きっと僕にだけは、わかる。だから――だから僕は、おまえを絶対に許せない。僕は、僕のすべてを賭けて、おまえの見た夢を終わらせる」
 はは。
 志馬は笑って、
「オールイン、成立だな」
 言って、手を眼下の敵へと向けた。それを拳にすると、あやかしたちがふわりと浮き上がった。
「何を――」
「黙って見てろ」
 あやかしたちは回転し始め、そのまま色の奔流となって、中心に吸い込まれていった。後には、式札が残った。九枚の式札は、いづるの前に重なって浮き、手に取られるのを待っている。
 志馬が、足を乗せていたブラウン管のひとつを蹴り落とした。ゴロゴロと転がったブラウン管が、いづるの目の前で止まる。志馬はテレビの山を一段ずつ降りた。
「勝負は、『9』で決める」
 『9』。
 お互いに一から九までの手札を持ち合い、それを同時に出し合って、数字の強弱で勝敗をつける。勝った方が場にある札をさらい、その合計数を得点する。
 すべての札を出し合って、加点された得点の多い方が勝ち。
「志馬、『9』の手札に、式札を使うのか」
「そうだよ。何、ちょっとした趣向だよ」
 志馬は、空を向いたテレビを挟んでいづると向かい合った。
「ただ単にカードだの牌だのぶつけあっても地味だろう。――このテレビの中に式札を入れると」
 いまは砂嵐に包まれているテレビの画面を、志馬は指差した。画面は、まるで水が張っているかのようにたゆたって、風が吹くたびに小さなさざなみが起こった。
「中であやかし同士が守銭をやってくれる。面白いぜ、ばけものが嬲りあう姿は、そうそう生きてるだけじゃお目にかかれない」
「悪趣味だ」といづるは吐き捨てた。
「そう言うなよ。これはおまえのために作ったルールなんだから」
「僕のため?」
「そう。門倉、このテレビの中に二枚の式札を入れた場合、自動的に闘うように設定されている。だから勝敗は、階位を超えて変わることはない。ただの演出ってわけだ。エフェクト、効果、まやかし――下の階位が上の階位に勝つことはない。ところが、ひとつだけランダムに設定されてる要素がある」
「それは?」
「生き死に」
 いづるは声を呑んだ。
「――生き死に」
「そう。出した札が負けたらそいつが死ぬんだ。確率は、俺にもわからん、10%かもしれないし99%かもしれない。それもその時々によって変わるかもしれない。おまえはそれを避けるために勝ち続けるか、あるいは」
 志馬はいづるに、どこから持ってきたのかバターナイフを一本投げ渡した。自分ももう一本持っていて、それを手首に当てた。
 画面の上に手をかざして、切った。
 が、零れだしたのは血ではなく、金。
 砂嵐の画面に、魂貨がばらばらと落ち始めた。魂貨が波紋を作って画面の中の砂嵐へと吸い込まれていく。いづるがそれをしっかり見たのを確かめると、志馬はバターナイフを翻して、傷口を撫でた。すっかり傷は消え去った。
「あやかしたちの守銭が始まった後、こんな風に魂貨を費やすことで、あやかしを援護することができる」
「そうすれば、あやかしを助けることができる?」
「さあ」
「……。さあ?」
「多く、魂を投資してやればそりゃあ助かるように思える。が、いくら注ぎ込めば階位が低いあやかしを助けられるのか? そもそも助かるのか? 俺にもわからん。なにせ拾いもののテレビでな。どんな番組になるのやら」
「引き分けはどうなる」
「それは助かる、らしいぜ」
「投資できる限度は」
「ないよ。いくらでも捨ててくれ。言っておくが、おまえが全部の魂を注ぎ込んだら、その時点でおまえの負けだぜ。事実上のギブアップだな」
「僕は、ギブアップはしない」
「いや? していいぜ、全額投資でもいいし、勝負の合間に頭を下げてくれてもいい――なんでもいいよ、いつでも俺は受け入れる。ここだけの話だが、俺はいま、ここでおまえが諦めてくれたらいいと思ってるんだ。誰も傷つかないうちに――おまえの手に入れたモノがそっくりそのまま、残ってるうちに」
 いづるは、式札を握り締めた。
 その手を、キャス子の手が包んだ。
「仲いいね」志馬は笑って言って、足元に転がっていたパイプ椅子を爪先で蹴り立てて、座った。
「どうぞ座ってくれ。椅子になりそうなものなんて、このクズ山にはいくらでもある」
 二人も、パイプ椅子を立てて座った。
 志馬が画面越しに自分の式札を放ってきた。
「確認しよう。お互いに。どれがどの手駒なのか? 階位は式札の左上に赤文字で書いてあるだろう。よく覚えておくんだな、俺の手持ちにもおまえの知り合いがいるかもしれない」
「そうらしい」
 いづるは広げた手札をキャス子と一緒に見た。



<いづる手札>

9、電介
8、孤后天
7、一つ目小僧
6、煙々羅
5、朧車
4、猫娘
3、河童
2、アリス
1、コロポックル(善)


<志馬手札>

9、牛頭天王
8、飛縁魔
7、羅刹天
6、鉄鼠
5、火車
4、雪女郎
3、舞首
2、ぬらりひょん
1、コロポックル(悪)



 志馬といづるは、札を返し合った。
「どうだった? 誰と知り合いだった?」
「教えてやらない」
「雪女郎は知ってるよな? 舞首はおまえが昔やっつけた妖怪スロットの首連中だし、牛頭天王はおまえの親友だろ、それから飛縁魔は――おまえのなんだっけ?」
「おまえ」
 いづるの目が血走っている。
「姉さんを手持ちに加えるなんて、正気なのか」
「どうして?」
「階位九の電介が姉さんに当たったら、姉さんが、死ぬかもしれないんだろ?」
「じゃあ、電介を出さなければいいだろ」
「最後まで、僕が電介を残して、おまえが姉さんを残したらどうするんだ。絶対にぶつかるぞ」
「その時は」
 志馬は笑った。
「おまえは、『ギブアップ』するだろう?」
 いづるは、二の句が継げなかった。
 椅子を引きかけて、しかし、動かないことに気づいた。
「何をいまさら逃げようとしてるんだ? 俺たちはもうお互い、認め合った仲じゃないか。オールインする、って。すべてを賭けて勝負をする、って。なあ?」
「志馬、おまえ――」
「泣いても喚いても許さない。これが俺の」
 志馬は頬杖を突いて、言う。
「必勝法」





「後出しじゃん」




 言ったのは、キャス子。
「オールインしてから、ルール説明するなんて、後出しもいいとこじゃん」
「気軽に全部賭けるなんて言っちまうやつが悪いのさ」
「そんなのずるい」
「じゃ、どうすればいいんだよ」
 キャス子はぴっと人差し指をひとつ立てた。
「ルール変更は、まだ効くんでしょ。あんたのやり方に添うなら」
「まあ、な。ルール変更? 何を変えるっていうんだ」
「今のルールじゃ、いづるに一方的に不利すぎる。あんたみたいな血みどろの人非人は、お目当ての子以外が残れば他はみんなどうでもいいんだろうけど、いづるは違う。いづるは、人非人じゃない。だから、あんたにもリスクを背負ってもらう」
「どんなリスクを?」
「手持ちの札で死んだあやかしの点数が、13に達したら、負けってことにしよう」
「――へえ」
「これなら、あんたもあやかしを救うために、身銭を切らなくっちゃいけなくなる。そのあやかしが負けて死んだら、13に達するというなら当然全額近く投資するだろうし、そうして助けたとしても、次のピンチに、あんたに残ってる金はないかもしれない――どう?」
 志馬は値踏みするようにキャス子を見た。
「ずいぶん優秀な手駒を持ってるな、門倉」
「手駒じゃないよ。大切な、友達だ」
「友達? おまえからそんな言葉を聞くとはね」
 志馬は背筋を伸ばした。
「ますます、おまえを負かしてやりたくなった。いいぜ、その新ルール、受けてやる。受けても俺は負けんがな」
「どうだか」
「誰が誰に言っているのか、もう一度よく考えてみろよ」
「門倉いづるが、夕原志馬に言ったのさ」
「へえ、おまえが俺にか」
 志馬は胸の前で自分の手札を眺めながら、言った。
「面白い勝負になりそうだ」
 画面の中の、砂嵐が晴れて、海底のような青い水の底が映った。その青さは、あの世のどこにも決してない、青さだ。

     



 第一戦。
 キャス子はいづるの肩に顎を乗せて、いづるの手札を覗き込んだ。
 この『9』。
 最も求められるべき勝利の形は、「相手のひとつ上の数を出す」だ。八戦、ひとつ上を出し続けられれば、八勝一敗で終われる。当然勝利。避けられない一敗は、相手の九が出た場合。これは必ず負けてしまうので、一番いい形は、最も弱い一をぶつけること。
 だが、いづるには、それを求めて札を切ることはできないだろう。
 負けた時の死亡に、階位の差がどれほど関係してくるかはわからない。だが、九と一がぶつかって、一が無事で済むとは思えない。 
 できれば、最小限の死者で、いやひとりの死者も出さずに勝負を終えたい。
 そう思っているはず。
 ならば、最初に出す手札は、どれにすべきか。
 はっきり言って、この第一戦、まだ状況がゼロである以上、正しい一手などない。
 志馬が出す手札がわかりでもしない限り、答えは出ない。そして手札は同時にテレビの中に落とすのだし、ましてやガン・カード(しるしのついた札)のような小手先芸を夕原志馬が見逃してくれるはずもない。
 誰を今から交通事故に遭わせるか選ぶようなもの。
 決して他人だなどと口が裂けても言えない連中を選んで、出す。
 キャス子には、見ていることしかできない。
 いづるは、選んだ。
 志馬も、決めたようだ。
 二人は鏡合わせのように式札を振りかぶり、同じ速度で画面の中に打ちつけた。飛沫があがって、札が一直線に砂浜に突き刺さり、その表面からよじった七色の糸のようなものがほとばしって、かたちを取った。
 いづるの側は、煙の妖怪、煙々羅。
 階位は六。
 志馬が出したのは、桑の葉を傘にした小人、コロポックル。ただし、いづるの手持ちよりも目つきがいくらか悪い。
 コロポックルはトコトコと葉っぱの傘を振り回しながら煙々羅に襲いかかった。が、煙々羅の雲状の身体からもこもこと一本の腕が盛り上がり、コロポックルを真正面から殴りつけた。
 パチン、と風船が弾けるようにコロポックルがあっけなさすぎるほどあっけなく四散した。
 え、といづるが呟いたのを、キャス子はその時、確かに聞いた。
「あらら」
 志馬は肩をすくめて、冷たい目で画面を見つめた。
「早速死にやがった。ま、いいか。どうせ一だし。十三まではまだまだ余裕がある。六を潰せたのはそこそこの働きでもあるしな」
「――――」
「どうした? 呆けた顔しちゃって。べつに驚くことはないだろ。死ぬってのは、門倉、ふつうのことだよ。おかしなことじゃない」
「おまえ――だけは、絶対、許さない」
「さっきも聞いたぞ、そのセリフ」
 志馬は次の選手を選ぶために、手札を繰りながら言った。
 画面から、煙々羅の式札だけが回転しながら舞い戻ってきて、いづるの手中に納まった。墨絵の中の煙々羅には、鎖が絡みついている。もうこの勝負には使えない札、というしるしだろう。
 いづるの頭上に、ぼぼぼぼぼぼぼと青白い鬼火が七つ、灯った。加算された得点だ。煙々羅で六、コロポックルで一。
 志馬の方は、赤い鬼火が一つ灯った。これは、死亡したコロポックルの得点だけ。これが十三になれば、志馬の負け。
 まだ、どちらが優勢とも、言いきれない。
 だが、もう一人死んだ。




 第二戦。
 キャス子には案がひとつあった。が、それをいづるには伝えなかった。あまりにもむごいやり方だったから。
 いま、志馬の気持ちを考えてみればわかる。志馬から見れば、いづるはいまショックを受けているように見えるはずだ。表情は、いつもより引きつっているだけで大きな動揺は見られないが、それでもいまのコロポックルの死がいづるに与えた影響は無視できない。
 いづるはきっと、しばらく低い階位のあやかしを出せないだろう。少なくとも、さっきの衝撃が抜け切るまでは。
 その志馬から見た視点を、逆手に取る。
 ここで、あえて、低い階位のあやかしを出しておけば、かなり高位のあやかしとぶつけられるかもしれない。コロポックルなら死んでも一、それで牛頭天王クラスをゲームから除外できれば――
 あまりにも、むごい考え方。
 ただの数字だったら、こんなに苦しまなくて済んだのだ。
 理と順が支配する世界のゲームなら。
 でもこれは、このゲームでは、駒に命がある。
 喋りもすれば、笑いもする、駒を犠牲にしなければ勝てないというのなら、そんなことは、そんなことは――人非人のやることだ。
 いづるは、誰よりも、人非人になりたくないと思っていたのに。
 なのに――志馬は、それをわかっていて、このゲームを選んだのだ。
 自分も人非人だから。
 だからこそ、通じ合うものがあったのだろう。
 あまりにも悲しく、さみしい世界。
 それがこの二人の、心の内側。
 ――いづるは、手札の中から、一番選ぶべき札を取った。
 志馬といづるが札を捨て、画面の中がさざ波を立て、あやかしが式札から解き放たれた。
 いづるは、コロポックル。階位は一。
 志馬は、舞首。
 階位は、たった三。
 キャス子は首根っこを掴まれたように志馬の顔を見た。
 見抜かれていた。
 志馬は、こっちがコロポックルの死を見た動揺を餌にして高位のあやかしを引きずり出すことなど見通していたのだ。出して来るなら一か二、ならば三を出す。裏の裏は表。
 簡単なこと。
 いづるはバターナイフを手に取った。
「いづ――」
 キャス子の声も聞こえていないのか、一気に手首を引き裂いた。じゃらららららと栓を抜いたように魂貨がテレビの中へと吸い込まれていった。
 赤い魂の欠片が、コロポックルの身体に吸い込まれた。そして、桑の葉の傘が少しだけ大きく、みずみずしさを増した。コロポックルは迫りくる舞首たちへ向けて、満身の力を込めて傘を振り回した。
 舞首のうちの一つが、桑の葉の茎を噛んで、それをねじ切った。
 それで、おしまいだった。
 三つの落ち武者の首からなる舞首は執拗にコロポックルを追い詰めた後、大口を開けて小さな妖精に噛み付き、その身体をバラバラにした。
 その間、いづるはぴくりとも動かなかった。ただ、テレビの上に置かれた拳が、砕けんばかりに震えていた。
 悪辣な見世物が終わると、志馬の手元に舞首の札が戻ってきた。
 ぼぼぼぼぼ。
 志馬の頭上に四つ、青い鬼火が灯る。いづるの頭上には、赤い鬼火が一つ。
「もったいないな、百万炎はスッたんじゃないか? 残念だったな、読みが外れて。ま、長く勝負してりゃあそういうこともある。気にするな」
 キャス子は叫び出したくなるのを必死の思いで噛み耐えた。
 わざと、言っているのだ。
 どれもこれも、いづるの心を傷つけるために。
 いづるのもっとも弱い部分を、一番効く言葉で切りつけて、引きずり出そうとしているのだ。
 ギブアップを。
 キャス子はいづるの腕を掴んだ。
「いづる」
 いづるは答えない。
 手札を繰る指が、細かく震えている。


     


 第三戦。
 戦況は、ほぼ互角。
 ――死者は、コロポックルが二人。
 判明したことは、それだけではない。
 いづるがコロポックルのために費やした百万。
 あれで救えなかった、という事実。見たくもない現実だが勝つためには無視するわけにもいかない。
 なぜ救えなかったのか?
 金額が足りなかった。おそらく、そうだろう。だがそれは、いつでも百万では足りないのか、コロポックルと舞首の間でだけ足りなかったのか。
 仮に、志馬が舞首ではなく階位二のぬらりひょんを出していたとしたら、コロポックルはどうなっただろう。百万で、救えていたのではないだろうか。
 あくまで推測である。だが、暫定的な指針にするには悪くはない。
 階位三と階位一では、百万炎では助けられない。では、階位七と階位五では? 階位が上がるたびに必要金額自体が上昇するのか、それとも階位の差でのみ必要金額は決定されているのか。
 どうすれば助けられるのか。
 この情報を見破らなければ、詰めの詰めで苦しくなる。
 そのためには、今、その種の情報を集められる階位を出すべき――
 いづるは、一枚の札の上で、指を止めた。それを抜き取る。志馬もそうした。
 式を撃った。
 吸い込まれていく式札。
 テレビの底に現れたのは、朧車と――鉄鼠。階位はそれぞれ五と六。
 いづるの負けだ。
 キャス子は思わず声を上げそうになった。惜しい。キャス子も、次は階位四の雪女郎が出てくると思っていた。そして、四なら志馬が救うために金を出す可能性がある。その出し方から、救助金額を見抜ければ――そう思っていたのに。
 これでは、負けた上にいづるが金を出さなくてはならない。だが、前向きに考えれば、一番情報が得やすい階位ではある。五と六の組み合わせというのは。
 問題は、いくら、注ぎ込むか。
 百万炎突っ込んで、救えれば、階位が一ずれているだけの場合の救助は百万で済む、ということがわかる。そうでなければ、階位が高くなればもう少額では救えないと思った方がいい。ここぞという時のために金を温存するか、僅差で負けた低中階位を救うのに専念するか。どちらにせよ行動の指針が定まり、無駄がなくなる。
 いづるがバターナイフを手に取った。
 だが一瞬早く、志馬もそうしていた。
 切り裂かれた手首から、志馬の魂貨が一枚落ちるのが、いづるの大量の百万魂貨の群れよりも速かった。
 じゃらぁぁぁぁん……
 いづるの魂貨は、一枚も、画面の中へと沈み込んでいかなかった。表面を滑って、雨水のように足元へと滴り落ちた。
 クラクションの音が聞こえる。
「な……」
「ふうん」志馬はぺしぺしとバターナイフを掌に打ちつけながら、
「先攻優先らしいな」
「そんなルール聞いてない……!」
 キャス子が叫ぶが、志馬は笑って首を振る。
「誓って言うが、俺も知らなかった。嘘じゃない。知らないものは説明できない」
「そんなの信じられないッ!」
「いいんだ、キャス子」
「でも!」
 いづるは、ぞっとするような目で志馬を見た。
「そんな目をするなよ門倉。おまえだって、こういうペテンで勝ってきたんだろうが。自分はやるが、相手は駄目、そんなの通用するわけねえだろ」
「知ってる」
 テレビの中で、急ブレーキの甲高い音がして、鉄が潰れる音がした。
 志馬の頭上の青い鬼火が十五に増え、いづるの赤い鬼火が六つになった。
 帰る時は、歩きになりそうだ。




 第四戦。
 情報が、集まらなかった。
 その上、志馬がいざとなれば、先攻投資でこちらの救助を妨害することもありうる、というおまけつき。もっともこれはこちらもできるが、かといって、相手の救助を邪魔するということは、相手の持ち金を温存させることになる。投資過多で消滅狙いをするなら援護妨害はするべきではないし、それに、いづるはあやかしが助かる可能性を自ら潰したりはしないだろう。たとえ、敵でも。
 そういういづるでなければ、七人と一匹と一台のあやかしと、一人の陰陽師、そしてキャスケット帽の少女は、ここまでついてきたりしなかった。
 門倉いづるが、門倉いづるだから、みんなここまでやってきたのだ。
 力と恐怖で屈服させる志馬とは、違う。
 たとえいづるがそのやり方を、誰よりも深く理解していたとしても。
 それでも、違うのだ。
 志馬が手札を扇状にして思案しながら、くんくんと鼻をひくつかせた。
「嫌な予感がする。詩織が来そうだ」
「……紙島が?」
「あいつが来ると面倒くせえ。早回しでいこう」
 二人は式札を打った。
 いづるは、河童。志馬はぬらりひょん。
 階位は三と二。
 いづるの勝ちだ。しかも一つ違い。負け目の濃い階位三の河童を勝ち組にできたのは大きい。
 これで志馬がぬらりひょんを助ければ、貴重なデータになるのだが――志馬、動かず。
 画面の中で、河童とぬらりひょんは泥試合を演じていたが、やがて数字通りの結末を迎えた。河童がぬらりひょんの首を締め上げて、その後でぼきりと折った。それが決着だった。河童は、額に汗して、緑色の顔は苦しげにゆがめていた。
 いづるの手の中に河童の式札が戻ってくる。
「どうしても、助けないつもりか、志馬」
「二だからねえ」
 志馬にとって、飛縁魔以外のあやかしは、すべて数字でしかない。くつくつと笑うさまは、楽しげだった。まるで気の利いたゲームに興じているかのように。
 だが、いづるも、キャス子も、これがゲームではない、などとは口に出さない。
 人生はゲームだ。
 ゲームとはルール。
 ゲームに生き、ゲームを愛し、ゲームを超えるものだけがゲームで生き残っていけるし、ゲームを守る唯一の番人なのだ。
 人生がゲームではないというなら、そこには、冷たい野性が残るだけ。
 彼らはそれをよく知っていた。
 だから、ゲームに則って、ゲームを超えて、勝とうとする。
 彼らが知っている、たったひとつの人間らしいやり方。
 それが『勝負』なのだ。

 いづる、青の鬼火、十二。赤の鬼火六。
 志馬、青の鬼火、十五。赤の鬼火三。
 依然として、拮抗。

     



 第五戦。
 手持ちの札も減ってきた。
 いづるの手持ちはアリス(二)、猫町(四)、ヤン(七)、孤后天(八)、電介(九)
 志馬の手持ちは雪女郎(四)、火車(五)、羅刹天(七)、飛縁魔(八)、牛頭天王(九)
 この十枚の果てに、決着が待っている。
 志馬といづるは、今までで一番、長考した。示し合わせたように同時に考え込むのは、相手の心を読むレベルが競り合っているからか、それとも、結局どう足掻こうとも似たもの同士だからか。キャス子にはわからない。
 二人とも、脂汗が浮かんでいる。キャス子はハンカチを取り出して、いづるの顔を助手のように拭いてやった。いづるがふっと笑って、キャス子と目を合わせた。勝負が始まって、初めて。
「ありがと」
 その言葉だけで、キャス子は、すうっと満たされた。
 こんな顔で、こんな風にお礼が言える子になったのなら、やっぱり、幸せにならなくちゃ嘘だ。
 そう、キャス子は思う。
「決めたか」
「もちろん」
 二人は式を打った。
 もう、何十回もそうしてきたかのように、その腕は鈍く重たげだったが、画面で弾けた飛沫は今までで一番大きかった。
 回転する二枚の式札がテレビの底へと達する。
 いづるの式札からは、猫町が飛び出した。くるくると空中で後転しながら、両足で砂へ着地。ぼふっと砂埃が舞い上がった。
 その手には、一振りの刀が握られていた。
 寝子叉虎徹、一尺七寸七分。
 お守り代わりに、孤后天が持たせてくれたものだ。
 志馬の札からぬっと出てきたのは、火車。
 鉄鼠と共に志馬の愛車として飼われていたあやかしだが、今は分離している。階位は五。
 猫町の、ひとつ上。
 いづるの手は素早かった。志馬よりも先手を打って、猫町救助のための魂貨を――
 だが、
 その手が、バターナイフを持ったまま空中で制止した。
 志馬は腕を組んで、いづるを眺めている。
 テレビの中では、突進してきた火車の車輪に轢かれて、猫町が吹っ飛ばされているところだった。虎徹はとっくにへし折れて半分になっている。
 それが見えていても、いづるは、動かない。
「――いづる?」
「賢いいづるくんは気づいたようだな」
「どういうこと、志馬」
「魂貨を使えば使うほど、俺たちはピンチになる。オールインしているとはいえ、相手がこのテレビに捨てた金は戻ってこない。ひょっとすると勝ってもお互いにゼロ近くまでへこんでる可能性もある。そうしたらせっかく飛のを俺から取り戻しても、一緒にいられる時間は夢のように短くなる。鬼として、死人としての消滅が俺らを待ってる、だから猫町を見捨てるのは、正しい」
 それに、と言いかけて、志馬は口をつぐんだ。相変わらず胸糞の悪くなるような微笑をたたえてはいたが。
 キャス子は一瞬、志馬が何を言わんとしたか、わからなかった。が、すぐにぞっとするような悪寒と共に閃いた。
 ――これまで、一度も、死人の出ていない勝負はない。
 つまり、
 これは、
「――確かめてみろよ、門倉。それで猫町は助かるかもしれない。少なくとも全額投資すれば、おまえの残りの手札四枚は、確実に助かる。飛ののママを俺ァ手にかけたくないよ」
 キャス子は、もはや怒りすらなくして、呟いた。
「最低……」
「へえー、で、おまえが俺に何をしてくれる? 俺の心を救ってくれんのか? もしそうなら今すぐそうしてみてくれ。具合がよかったら謝るかどうかその時に考えるよ」
「あんたね……!」
「正義、道徳、倫理。そんなもの、一切合財この俺の心にはなんの味気ももたらしてはくれない。役立たずもいいとこだ。俺が間違っているというのなら、俺を殺して消すほかにない。それ以外に、俺の信念が曲がることはない」
 悲鳴が聞こえた。
 びくっ、といづるの肩が震える。
 画面の中で、猫町が砂地に叩きつけられ、がくんと首を垂れた。
 火車が式札になって、志馬の手元に戻った。
 猫町は――
 けふっ
 と軽く咽て黒い息を吐いてから、式札になっていづるの手元に戻った。いづるは手の中のそれを目を見開いて見下ろした。
「生き、てる……」
「よかったな、おめでとう。なあ? 俺の言ったことは正しかったろ。賭けようが、賭けまいが、助かるかもしれないって、な」
 だが、キャス子はもう志馬の声など耳に入っていなかった。
 いづるの様子が、おかしい。
「…………」
 目が虚ろだった。唇は軽く開いていて、そこからかすかに空気の漏れる音がする。
「いづる……?」
 返事はない。
 どこともいえない宙空を見つめているばかり。
 そのまま、第六戦が始まった。
 が、いづるは、手札をバラバラと零してしまう。キャス子が身を寄せて、持ってやらなければならなかった。
「いづる? ねえ、いづる? どうしたの?」
 いづるは答えない。
 見えている右目はほとんど閉じ、赤い左目だけが、違う人格を宿したように見開かれている。半開きになった唇の端で光っているのは、唾液ではないのか。
 キャス子は怖くなってきた。
「結局、猫町は助かったが」と志馬が言った。
「それでも門倉が、猫町を助けようとしなかったことには変わりない。どうやらそれで、とうとう精神の柱がぽっきり折れちまったらしいな。まあ、今までよく正気でいられたものだと思うがな、そんな歪んだ心で。いや、最初から狂ってたのか。元に戻っただけ……ふふ、そう、戻っただけだな、正しい有様に」
「いづる、ねえ、いづる。起きてよ、いづる……!」
「無理させるなよ、可哀想だろ? もう嫌なんだってさ。やりたくねえんだってさ。つまり、ギブアップ――」
 志馬がそう言った時、いづるの右手がにわかにキャス子の手元に伸びて、一枚の札を握り取った。力の加減さえもわからなくなってきているのか、取った拍子に残った札をすべてあたりにぶちまけてしまった。
「わっ」
 キャス子がパイプ椅子から転がり落ちた。
 いづるは、背中を丸めて、札を握った腕を支えにして、画面の中を覗き込んでいる。
「いづる……」
 キャス子はきっと志馬を睨んだ。
「あんたのせいで、いづるは……!」
「最初に弱ったやつが負けなんだ」
 志馬は取り合わなかった。
「誰も助けちゃくれねえ。すべてを決する土壇場じゃなにもかも自分でなんとかするしかねえ。できねえなら、負けるだけ。それが生きるってことだ。寸分違わぬ、真実なんだよ」
 いづるは、何も言わない。
 キャス子はふらつきながら、立ち上がって、札を持ったいづるの手に自分の手を重ねた。
「頑張って」
 キャス子は、いづるの横顔に囁いた。
「あたしがいるから。あたしが最後まで、いづるの味方をするから。だから――」
 三人の腕が振りかぶられる。
 打った。
 水飛沫。
 いづるが選んだのは、飛縁魔の母、孤后天。
 虚丸に瓜二つの刀をすでに抜いていた。ただし、その刀身は血のように赤い。階位は八。
 志馬側は、羅刹天。階位は七。
 この土壇場で、一つ違い。悪運とも言うべきいづるの強運か、あるいは――
 志馬が人間離れした機敏さでバターナイフに手を伸ばした。が、それよりも速く、孤后天は動いていた。
 草履で砂地に足跡をひとつ残した、ただそれだけで三間の間合いを殺し、羅刹天に緊迫した。同じ天狗同士、知り合いでもあっただろう、その内心はうかがい知れない。
 一風。
 太刀が閃いて、羅刹天の首をうなじから切り飛ばしていた。羅刹天の全身が魂貨の塊に変化し、そして爆裂した。
 志馬は手に持ったバターナイフを振りながら肩をすくめた。
「ひでえな。俺より速く動かれたら、助けようもねえぜ」
 言って、志馬の頭上に赤い鬼火がぼぼぼぼぼぼと灯った。
 合計、十。
 対していづるは青い鬼火が一気に増えた。二十七。志馬の二十四に僅差ではあるが上回った。
 そして何より、今、大きいのは、志馬の死亡点数が十を超えたことだ。
 志馬の残りの手札は雪女郎(四)、飛縁魔(八)、牛頭天王(九)。
 いづるの残りの手札はアリス(二)、ヤン(七)、電介(九)。
 志馬の目論見では、飛縁魔と電介はお互いに最後まで出せないことになっているから、実質、次の第七戦に使える札は、志馬は雪女郎か牛頭天王、対していづるはアリスかヤン。
 もし、ヤンが雪女郎を殺せば、死亡点数は四点。
 志馬は、十三点の死亡点数を超える。
 最終戦まで進むことなく、いづるは勝てる。
 第七戦、次の二択さえ潜り抜けられれば――!
 だがいづるの目は、泥沼のように光を失ったまま揺らぎもしない。




 第七戦。
 志馬は、焦っていた。
 自ら助けなかった、ということもあるが、手持ちの駒があまりにも死にすぎだった。もう少し残ってもいいものだと思ったし、羅刹天を救い損ねたのが痛い。あいつはほぼ全額を投資してでも助けるつもりだった。なのに、孤后天の反則まがいの無影剣で羅刹天は殺されてしまった。
 まさか、新ルールで足が俵にかかるとは。
 悔やんでも悔やみきれない。あの時、低位のあやかしを救っていれば、雪女郎がやられてもギリギリで耐え切れていたのだ。
 甘かった。
 キャス子など、そばに置かせたままにしておいてはいけなかったのだ。この勝負は徹底的にサシで終わらせるべきだったのだ。そうすれば、もういづるは完全の消滅していたはずだ。
 最後の最後で、上手くいかない。
 ここぞという、大事な大事な正念場で、どうして。
 それが博打の醍醐味と言ってしまうのは簡単だが、それで志馬の胸の内を荒れ狂う炎を鎮められるはずもなかった。
 それでも、と志馬は手の中の札を握り締める。鼻を伝う汗越しにおのが敵を睨む。
 飛のだけは渡さない。
 飛のだけは――
 生まれ変わるのだ、と志馬は思う。
 人間として。当たり前の幸福を味わいたいのだ。
 そのために、飛のがどうしても必要だ。ほかの誰かじゃ駄目なのだ。
 だから、勝つ。
 勝たねばならない。
 勝つことがすべてだ。
 勝たなきゃなんの意味もない。
 勝つことだけが、俺にとって、生きることなんだ。
 その生涯に、その幻想に、終わりをくれるとしたら、それはたったひとり、あの子だけだ。
 あの子、だけなんだ。
 志馬は手中の札に目を落とした。
 大きな蓮に乗って、水面を跳ねるカエルに白い仮面を向けている戦装束の少女。
 そうとも――



 勝つためなら、俺は、
 なんだって、やるのだ。




 いづるとキャス子が札を振りかぶった。志馬も手中にその札を忍ばせる。
 打った。
 札が沈んでいく。キャス子が生唾を飲み込む音が聞こえたほどの、静寂。
 いづるの札から現れたのは、一つ目のヤン。特攻服姿で、蝋鞘に納められたるは黄泉守泰山府君(よみのかみたいざんふくん)。あの世でも蓮獄文字虚丸と一、二を争う、冥府の神の名を冠した業物だ。
 ヤンが泰山府君の白刃を抜いた。その目の前で、もう一枚の式神から光がほとばしった。
 白い仮面に、戦装束。
 黒い髪は切ったばかりで、さらさらと仮面にこすれる音が聞こえてきそうなほどに繊細で。
 ヤンの目が見開かれたのが、テレビ越しにでもわかった。
 もう一人のあやかしが、朱鞘から太刀を抜き放つ。
 跳躍。
 飛縁魔の火澄の仮面に、ヤンの歪曲した顔が、映りこんだ。
 キャス子が何か喚いている。そんなこと、志馬にはどうでもいい。
 笑いが止まらない。
 必勝法?
 そんなものに頼るほどもうろくしちゃいない。
 勝負はすべて、相手が頼りにするものを叩き斬って勝つのだ。
 命を、頭を、腕を、希望を、何もかも切断して奈落の底へと叩き落す。
 そういうものだ。
 勝つためなら、俺はなんでも捨ててやる。
 絶対に負けないとわかっている勝負になら、ああ、出すとも。最愛のひとを戦地に送りもする。なぜなら負けないから。門倉いづるに階位九の電介を出す勇気は、所詮、その薄汚れた心のどこを洗いざらいに探してもありはしないのだ。
 そんないづるだからこそ、夕原志馬は、門倉いづるを自分の敵だと認めたのだ。
 だが、まだ決着が着いたわけではない。
 数字上は間違いなく、志馬の勝ちだ。ヤンと飛縁魔の七と八を二十四に足して三十九。残りの札は雪女郎、牛頭天王。いづるはアリスと電介。
 電介で雪女郎を殺られた時にのみ、志馬の敗北はありうる。
 だが、それも雪女郎がやられた場合にだ。志馬はありったけの魂貨を注ぎ込む。その上で雪女郎が殺されれば志馬は負けるが、それでもこちらの有利は変わらない。
 たとえば、いま飛縁魔にヤンが殺されて、いづるの死亡得点が十三に達するとか。
「く……くく……」
 笑いがどうしても止まらない。
 目に涙さえ滲んで、テレビの中で繰り広げられている惨劇がよく見えないのが残念だ。
 いづるが勝つには、まず、この状況を超えなければならない。
 そして、運命の二択に勝って電介を雪女郎に当て、そして全額投資に近い魂を注ぐ志馬の雪女郎を確実に殺さなければならない。雪女郎が生き残れば、その時点で志馬の勝ちは八戦だろうが九戦だろうが確定する。
 志馬は、それらのどれかでいづるがしくじるだけで勝つ。
 終わらせてやるよ、門倉いづる。
 おまえが見ていた、永い永い悪夢を。



 ○



 いづるの手が、バターナイフを握り締めている。
 キャス子が心配そうにその顔を見る。
 いづるの顔は、苦悶に満ちていた。びっしりと脂汗が浮かんでいて、もうぬぐってもぬぐっても追いつかない。生きていた時の記憶が、死の瞬間の苦痛がその身を刺し貫いているかのような苦しみようだった。噛み締めた歯の隙間から呻き声が漏れ、吐く息は獣のように熱い。
 もうやめていいんだよ、と言ってあげたい、とキャス子は思った。でも、それはできない。彼がそれを、望んでいない。
 だから、今、彼はバターナイフを掴んでいるのだ。
 キャス子には、薄々、わかっている。
 だから、言った。
 がんばれ、と。
 そう言われるのが、苦しかったろうと思う。
 それでも言わないわけにはいかなかった。
 それが正しいと思った。
 いづるを信じているから。
 ――いづるの手が、素人が切腹するようなたどたどしさで、手首に近づき、その皮膚を骨まで届くかと思うほど切った。
 どっと魂貨が溢れ出す。それがテレビの中へと狂風を孕んだ雪のように舞い落ちる。
 飛縁魔がタン、と砂地に草履のあとをひとつ残して五間の距離を殺し、ヤンの首を虚丸の一刀で刎ねかけた時、硬貨が集まってできた赤い壁が現れて太刀を阻んだ。虚丸が上段まで跳ね返る。
 胴も面も篭手も、すべてがら空きになった。
 瞬間、ヤンが魂壁を蹴破った。すでに血みどろで、目もほとんど開いていなかった。が、それでも、残った右腕で逆手に握った泰山府君で面を狙って逆袈裟に切り上げた。
 剣先がかすって、飛縁魔の仮面が割れた。
 ぱっと前髪が花が開いたように乱れる。
 飛縁魔は、目を開けていた。式札に戻ったヤンを見下ろしている。
 泣いていた。
 大粒の涙が、置き去りにされた子供のような泣き顔の両端を流れ落ちていた。
 それを見た時。
 志馬の胸の中の、もうないはずの心臓が止まった。
 飛縁魔はそのまま式札に戻って、志馬の手の中に戻った。が、志馬は、おそろしい顔をしたまま、前を向いている。
 何も言わない。
「これが」
 いづるが言った。
 その顔は、怒りなど微塵もなかった。
 ただ、寂しそうだった。
「おまえの欲しかったものなのかよ、志馬」
「…………」
「志馬、僕たち、間違ってるよ。なあ、こんなの絶対おかしいよ」
「…………」
「こんなことして、どうするんだよ。ただいたずらに、あの子を傷つけてるだけだよ。僕は、僕らは、頼っちゃ駄目なんだ。あの子の優しさに頼っちゃ、一番いけない人間なんだよ」
「…………」
「志馬……」
 志馬は立ち上がった。勝負を放棄する気がないからか、椅子は簡単に動いた。
 どこへいくんだ、という問いに志馬はぼそっと答えた。
「トイレ」




 志馬が、クズ鉄山へ消えていった後。
 キャス子は、ガラクタの上でぎゅうっとハンカチを絞った。びしゃびしゃといづるの汗が搾り取れた。
「うわっはー。すごいねこりゃ。いやー頑張ったねいづる。よく頑張った。あたしが認めてあげよう」
「ありがとう」
「いいってことよ。あたしはあんたのセコンドなんだし」
 だからさ、とキャス子は言った。
「あんたが考えてること、あたし、もうわかってるから」
「…………」
「なあーにめそめそしてんだよ?」
 キャス子はバシンと俯くいづるの背中を叩いた。
「死んでる以上は消えるが道理で、それでようやく自分が生きたことに敬意を払うことになるってお高く語ってたのはどこのだれですかー? 自分で言ったことには最期まで責任を持ちなって」
「…………」
「みんな、あんたに勝って欲しいと思ってる。飛縁魔を助けたくって、覚悟の上でここにいる。あんたはそれを信じてあげなきゃいけない。一点の曇りだって疑うことは許されない。重たいでしょ。疑っちゃえばラクになれるよ。でも、させない。そんな甘えはこのあたしが許さない」
「…………」
「あたしは消えたくない――でも、あんたが消えろっていうならそうしてあげてもいい。でも自分から三つ指突いてさようならなんて絶対にやだ。――だから、あんたが消して、いづる」
「…………」
「その手で終わらせてよ。あたしが見ていた、永い夢」
 キャス子は、仮面をはぐって、いづるの頬に自分の頬を摺り寄せて、笑った。
「あんたがもし幸せになったりしたら――あたしきっとびっくりして、成仏しちゃってもおかしくないよ? だからさ――幸せに、なってね。一瞬でもいいから、あんたが幸せになったら――あたしごと幸せになったんだって、思って」
 いづるは、ぎゅっと目を閉じて、
 右手で貫手を、作った。











 キャス子。

 うん。

 ありがとう。

 ――うん。



     



 志馬が戻ってきた。その赤い目が素早く動いて、状況を察した。
「堂島サンはいくらになった?」
 いづるの手が、ぴくっ、と震えた。志馬は椅子に腰かけながら、なんでもないことのように言う。
「おまえの考えてることはわかるよ。もうわかってんだろ? 俺が全額投入すれば、雪女郎は生き残る。俺がいくら持ってると思う?」
「知らない」
「一億五千七百万炎」
「…………」
「羅刹天がやられた時は焦ったが、まあ結果オーライだな。この状況に至るまでの布石だったと思えば悪くない。それで? おまえはちびちび百万炎ごときにビクついてたようだが、いくら持ってきたんだ? 八百万? 一千万? まあそんなところだろう。そんなはした魂で、なにかができると思ったか?」
「…………」
「ま、いいさ。おまえは諦めてくれたようだし。キャス子から魂を持ってきたのは、アリスだけでも救いたいって腹だからだろ? もちろん俺はいまさらギブアップなんか認めない。そんな勝ちは拒否する。ここまできたら、おまえを徹底的に叩き潰さないと気が済まねえからな」
「…………」
「それにしても、アリスのために堂島サンを犠牲にするなんて――いよいよ筋金入りの人非人だな、人のやることじゃねえよ。好き嫌いでそこまでできるものかとびっくりするぜ。おまえはやっぱり、『人でなし』だな」
「お互い様だ」
「そうだな」
 志馬は胸ポケットから煙草を取り出して、一炎玉をへし折って鬼火を作り、深々と雷雲の紫煙を吐いた。いづるの目が、力なくそれへ向いた。
「美味しいの」
「なに?」
「美味しいの、それ」
「知りたいか」
「うん」
「――教えてやらない」
 志馬がぺっと煙草を吐き捨てて、一枚の札をかざした。
「さあ、終わらせようぜ。俺の夢が続いていくか、あるいは奇跡が起こって? おまえの悪夢が続くのか……二つにひとつだ。白か黒かだ。だが、俺は負けない。必ず勝つ」
「勝つ?」
 いづるは嗤った。
 いつものように、嗤った。
「ちがうよ、志馬。僕たちは勝ち残ってきたんじゃない。――負け越してきたんだ」
「――いくぜ」
 第八戦。
 志馬がかざした札には牛頭天王が描かれている。
 対面でいづるのかざしている札が、電介ならば志馬の勝ちが確定する。
 アリスであったなら、彼女が死のうが生きようが、最終戦、雪女郎と電介がぶつかる。その場合、どこまで賭けることになるかわからないが、投資する羽目になる。
 それは命の金。
 飛縁魔と一緒にいられる、時間のあかし。
 だから、今。
 ここで相打ちを取る。
 必ず。
 俺には、と志馬は思う。
 俺には、欲しいものがあった。
 それを求めて、足掻いただけだ。
 それの何が悪い。
 それの何がおかしい。
 間違っているからといって諦められる夢じゃなかった。
 それだけだ。
 悔いはない。どんな結果になろうとも。
 ただ、わかって欲しかった。
 おまえにだけは。
 二人は同時に式札を打った。




 大渦巻を孕んだテレビの中に二枚の札が吸い込まれていく。
 稲妻と共に、水底に、二身のあやかしが降りた。
 牛頭人身、黒い袈裟を着た、巨大なあやかし。
 思えば、彼もまた輝く闇のようないづるの魅力に引きずられた、被害者のようなものだ。だが、彼はそう呼ばれることを拒むだろう。
 自分の手で、選んだつもりだ。
 そう、思っている。
 そうでなければ、いづるの前に立つ資格はない。
 稲妻の名残が晴れて、いづるの打った式があらわになった。
 金色の体毛、大瀑布の流れを宿したかのような筋肉、触れるだけで骨まで断たれてしまいそうな上下四本の牙、そして青い色をした優しげな瞳。
 電介だった。
「――――ッ!!!」
 真っ向から、二身のあやかしが階位九の力をもって激突した。その衝撃はテレビを超えて、クズ鉄山全体を激震させた。
 その震動に合わせたように、志馬の高笑いが虚空にこだまする。
 相打ち。
 すなわち。
「ハハハハハハハ!! 勝った、俺は、俺は勝ったんだ! これでや――っと報われる! 俺の闘い、俺の流した血、俺の生命、俺の魂は、ただの塵芥じゃなかった! 俺には意味があった! 俺は無駄死になんかじゃなかった!!」
「志馬」
 もう、いづるの声は志馬には届かない。
 いづるには、どうすることもできない。
 ただ、バターナイフを取った。
 手首に当てる。
 死を思わせる行為。
 そうだ、といづるは思う。これは死だ。死者は死んでいるのが似つかわしい。
 返そう、すべて。
 死んだ僕がみんなから少しずつ借りていたものを、全部。
 いづるは、一気にナイフを引いた。
 ぱっくり開いた傷口から、涙のように魂が零れだしてくる。
 いづるは傷口ごと右手を、テレビの中に沈めた。その方が、早く魂が浸透してくれるだろう。
「ハハハハハハ……何してる、門倉」
「リストカット」
「そんなことを聞いてるんじゃねえ、おまえ、何を……?」
 テレビの中で、異変が起きていた。
 牛頭天王の左腕が宙を舞っていた。
 電介がそれをおもちゃにじゃれつくように飛びかかって粉々に噛み砕く。魂貨が溢れるが、その見分けがつかないほどの大量の魂貨が電介に降り注ぎ、そしてその力となっていった。
 牛頭天王が、雄たけびを上げて錫杖を振り回すが、電介はそれこそ稲妻のように幻影を残してあちらこちらへ飛び回り、災厄のように牛頭天王を予期せぬ方角から引き裂きまくった。
 とても引き分けの試合ではなかった。
 志馬はただ、呆然とするしかない。
 いづるはテレビ画面にほとんど頬をくっつけながら、敵の顔を見上げた。
「かつて、このテレビを使った勝負で、一千万以上の魂を費やしたやつが他にいるとは思えない。そんな人非人は僕と志馬だけでたくさんだ。――だから、ここから先は、誰にもわからない領域。誰も踏み込んだことのない境界線の向こう側。僕は、それに賭ける」
 ようやくわかった。志馬の背筋を冷や汗が伝う。
 アリスを救うためなんかじゃない。
 こいつは、勝つために。
 勝つためだけに、魂が必要だったのだ。
「門倉ァ――!!」
「みんな、信じてくれた。こんな僕を。だったら、応えなきゃいけない。そしてみんなのところに返してあげなきゃいけない。僕たちが、横取りしようとしたものを。大切な、たったひとりのあの子を」
「や、やめ――」
 間に合わなかった。
 牛頭天王の首をくわえた電介が、大画面でテレビに映った。牛の頭はもう何も言わず、何も見ず、そのまま噛み砕かれて塵になった。
 縫いとめられたかのように動けない志馬の頭上で、ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼと赤い鬼火が燃え盛った。ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。
「ちがう、嘘だ、こんな、こんな馬鹿なことが……」
「一千万も、こんな実験に――同じ階位同士でぶつけあった場合、魂貨を注ぎ続けたら勝敗が変わるのか、なんて実験に賭けられないよな。確かめられないよな。僕がひょっとしたら、きみと同じくらい魂を抱えていたかもしれないんだから。そう思ったら、百炎でも無駄になんて、できなかったんだろ? それともこんな手は思いつかなかったかい、志馬」
「俺が……俺が負けるはず…………がっ!?」
 志馬が、鳥に啄ばまれていた。
 いや、ちがう。志馬の身体から紙幣が剥がれ落ちている。それが風を受けてはためく様が、鳥のように見えるのだ。
 取立てが始まっていた。
 電介の式札がテレビからはじき出されて、ブラウン管の縁をからからと回って、ぱたりと倒れた。それをいづるの目が追っていた。
「清算(おわり)だよ、志馬」
「ああああああああああああああああああっ!!!!!」
 消える。
 消えていく。
 自分が。
 たったひとつ、この世でたったひとつ、信じてきたものが。
 ほかに頼るものなどなかった。どこへいけばよかったというのだ。あの焦土で。この赤い町で。どこへゆけば受け入れてもらえたというのだ。
 俺は、
 ただ、
 ただ――――
 志馬の赤い眼がぎろりとテレビの縁に乗った、火澄の札を捉えた。
 一瞬の早業だった。
 志馬は火澄の式札を掴むと、まだ腕を突っ込んでいたいづるの顔に掌底を喰らわせてひっくり返し、テレビの中に飛び込んだ。その赤いブレザーの裾を、起き上がったいづるが掴んだ。
 足が浮いた。
 そのまま二人は、水底へと飲み込まれていった。





 どさっ、といづるが両足で着地し、振り返るともう、志馬が火澄を後ろから羽交い絞めにしていた。勝負が終わったため、火澄をもう一度ここへ入れることができたのだろう。
 火澄は、くたっと顔を伏せていた。気を失っている。
 いづるが一歩近づこうとすると、
「くるな」
 志馬が、血走った目でそれを制止した。テレビの中は一種の結界になっているのか、取立てが中断され、身体の端々から紙幣がなびいているだけだった。
 いづるは無視して歩いていく。ざっざっと砂を足が踏むたびに、ゆっくりと砂埃が舞い上がった。
「くるなって言ってんだよぉ!!」
 いづるは、志馬の目の前に立った。志馬の右手は、火澄の首に爪先を埋めている。
「これ以上、近づいたら」
 耳を貸さず、いづるは容赦なく右の貫手を放った。
 火澄の胸を狙って。
 それは、きっと放つ前から志馬にはわかっていたのだろう。
 自分がどうするのか。
 志馬は、火澄を真横に突き飛ばした。
「かっ……」
 いづるの貫手が、志馬の胸を貫いた。
 志馬の身体から力が抜ける。身体が何かを求めるように小刻みに痙攣していた。
「なんっ……で……」
「ばかだな」
 いづるは、右手を貫いたまま、左手で志馬の背中を抱いた。
「誰が誰を人質に取ったんだよ」
「あ……ぁ……」
「もういいんだ。志馬。もう、いいんだ……」
「俺は……お……れ……は……」
 志馬の手が、いづるの背中を掴んだ。強い、強い力でしがみついてくる。
 誰も受け止めてやれなかった手を、いづるは受け止めた。
「もしも来世があったら、今度は、生きてる時に友達になろうな」
「………………」
 最後、志馬は何か呟いたようだったが、口元のそばで聞いていたいづるにも、その言葉がなんだったのか、最後までわからなかった。
 手の中から、誰かに引き抜かれたように重さと肩さが消えた。
 後には、ただ、静かに宙を舞い降りていく紙幣が残った。
「…………」
 いづるは、踵を返した。
 火澄が、横倒しに倒れている。そのそばに跪いて、身体を抱き起こした。
 久しぶりに見る火澄の顔は、涙の跡がうっすらと残っていたけれど、安らかだった。
 綺麗だった。
「…………」
 小さな肩を抱き締める。強く力を込めたら砕けてしまうんじゃないかと思うほど小さなぬくもり。
 いづるは自分の額を彼女の額に、合わせた。
「よかった……無事で、本当によかった……」
 心の底から、そう思った。
 そして、いなくなってしまった者たちの顔が、次から次へといづるの瞼の裏に浮かんできた。
 サンズ、桔梗、吉田、業斗、死人窟の死人たち、倒してきた守銭奴、ドリンク屋、朧車、コロポックル、志馬側のあやかし、首藤、蟻塚、志馬、そして、キャス子。
 みんないなくなってしまった。
 それでも、後悔はない。
 誰一人も欠くことなく、いづるはみんなに感謝している。
 この子を守りきれたことに感謝している。
 志馬だけじゃない、僕という名の災いから、この子を解き放てたことを。
 ――ありがとう。
 火澄の額にかかった、前髪を、指で払った。
 これだ、と思う。
 これが守りたかった。
 これが僕の、すべてを賭けてもいい、
 守りたかった、大切なひと。



 ○



 最初に目を覚ましたのは、ヤンだった。
 空が赤い。いつものことだったが、なぜかその時だけは不思議といつもより、赤い気がした。赤い絵の具ぶちまけたパレットに描き手の鮮血でも足したように。
 がばっと起き上がる。
 あたりには、式札から解き放たれたあやかしたちが眠っていた。ヤンは近場にいた猫町を揺り起こした。
「猫町、おい、起きろ」
「ううん……はっ、いづる!」
 勢いよく起き上がったものだからヤンのこめかみと猫町の石頭が正面衝突した。鈍い音。
「いったぁ……何すんのよ!」
「それはこっちのセリフだ!」ヤンは頭を撫でて、
「それより、おい、どうなったんだよ。志馬もいづるもいないぞ」
 あやかしたちは志馬側のものたちも含めて、あたりを探し始めた。だが見つかるはずもなかった。
「くっそ……どこいっちまったんだ?」
「ふふ、これで羅刹門いったら志馬が踏ん反りかえってたら笑えるな」
「笑えないっすよ師匠。そういうこと言うのやめてください」
 孤后天はくつくつと笑った。ひょっとしたらこのひとは何もかもお見通しで、俺たちにそれを黙っているんじゃ? とヤンがちらと思いかけた時、
 ざばあ、と派手な飛沫があがった。
 みんなが一斉にそちらを向いた。
「ぷはあっ……ん、なんだよみんな。どうしたんだ? お化けでも見たような顔して」
 火澄がテレビから半身を出して、きょとんとしていた。
「火澄っ!!」
「な、なんだよ! うわ、ちょっ」
 一同にあちらこちらを掴まれて火澄はずるっとテレビから引き抜かれた。
「大丈夫か、火澄」
「べつになんともねーよ。まだちょっと頭がふらっふらしてるけど……」
「いやあとにかく無事でよかったぜ」と河童。
「これでまたぶりっ子に戻ってたりしたら笑えたのにねー」とアリス。
 ぶるるっと火澄が、犬のように身震いして身体中の水気を切った。
「そうだ、火澄、お袋さんが――」
 ヤンが振り返るとすでに孤后天の姿は、どこにもなかった。
「あれ? おかしいな」
「なに馬鹿言ってんだよヤン。お母さんがこんなところにいるわけないだろ。それよりさ、聞きたいことがあってさ」
「ん?」
 みんな火澄のために黙った。
「や、なんかこうして黙られるとキンチョーするな」
 火澄がぽりぽりと頬をかいてにやけた。ヤンがイライラして足踏みする。
「早く言えって」
「わ、わかってるよ。あのな――いづる、どこ?」
 え、とみんな、固まった。
 頭の回転の速い何人かはもう察している。火澄だけがテレビから出てきた以上、おそらく志馬は最後の悪あがきでテレビの中に逃げ込んだのだ。そして、いづるはそれを追っていった。
 みんなの視線が、テレビに集まった。
 火澄だけは「え? え?」と状況がわかっていない。なんだよ、どうしたんだよ、と喚くが、みんな火澄が見えていないかのようにテレビの中を覗き込んだ。
「中には誰もいないよ。ただ、ものすごい量の魂貨が散らばってるだけだ」
 火澄が言った。
 みんな、振り返らなかった。
「なん――なんだよ、え、どうしたんだよ? あたしヘンなこと言ったか? なあ、ヤン、猫町、アリス――なあ」








「いづるは――……?」

       

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